僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

文字の大きさ
上 下
535 / 934
十五章

10

しおりを挟む
「脚の操作が間に合わず、シューズを地面に引っかけて転倒する人も多いね。けど僕は、引っかけて転倒する方がまだましな気がするんだよ」
 智樹は首を傾げるも、腰の位置が低い状態でバランスを崩し足を踏みしめることを繰り返しているうち、合点がいったようだった。
「低重心で走っている人がバランスを崩し、足の裏を急いで地面に着けると、足を大きく開いた姿勢になる。これは、急制動をかけやすい姿勢ではあるのだろう。だが、全力疾走から急制動をかけるなんて無茶を長年続けていると・・・」
「体が悲鳴を上げて、靭帯や関節に深刻な怪我を負うだろうね」
「俺は大丈夫かな」
 不安げにそう呟き、智樹は膝をさすった。「智樹の重心はさほど低くないけど心配なら猛が検査してくれるよ」と言うと、助力を請うメールをすぐさま猛に出していた。その横顔にふと思い立ち、確認を取る。
「智樹は今日、夕ご飯を食べていくよね」
「いや、お昼に続いて夕飯も御馳走になるのは流石にな。明後日の豪華夕食会にも、招いてもらってるんだし」
 僕はゲラゲラ笑って言った。
「そんなの気にするなって。どうしても気になるなら、今年はお盆休みに大石段の大掃除をする予定だから、手伝ってくれるかな」
 任せろと即答するも、それを手伝ったらまた夕飯食ってけって事にならないかと、智樹は身を小さくした。これは腹を割るしかないと智樹を床に座らせ、僕も正面に座った。
「智樹以外の夕食会メンバーは、親御さん達がお金を払ってくれてるって、智樹は知ってるんだな」
「ああ、知ってる。眠留の家で手作り夕ご飯を毎週頂いていることを、香取さんと那須さんの御両親がとても感謝しているって、偶然聞いたんだよ」
 五月の連休以降、二年二十組の友人三人も、週一で開かれる夕食会のメンバーになっていた。那須さんと香取さんは輝夜さん達にお金の相談をすぐしたらしく、頻度が同じ芹沢さんと同額を、親御さん達が神社に寄進してくれていた。祖父母はそれを親御さんの気持ちとして有難く受け取り、それは僕も同じだったのだけど、懸念が一つあった。それは智樹には、それをする親がいないという事だった。
「盗み聞きしたことを香取さん達に詫び、できれば金額を教えてほしいと俺は頼んだ。二人から聞いた額は、食費や光熱費にかかる額より明らかに多かった。二人はそれについて、茶道と華道と礼法の謝礼も含まれていると説明していたが、ご両親の感謝の気持ちを加えた額なんだって、俺にもすぐわかったよ」
 祖母と貴子さんの熟練の技に感銘を受けた那須さんと香取さんは、芹沢さんと共に茶室で過ごすことが多かった。親というものは、愛娘がお嬢様教育を受けることを大層喜ぶらしく、双方のご両親は四人連れ立って神社を訪れ、祖父母と貴子さんに謝意を示してくれた。
「俺は茶道等を習ってないが、女の子より沢山食べるから同額を払おうとした。だが教育AIに止められてな。子務放棄権行使者が研究学校生になると、在学中は教育AIが仮の親になる。教育AIには返済不要奨学金の給付権があるからそれを使うと、アイに言われたんだよ。俺は腹が立ち、それを突っぱねた。するとアイも怒ってケンカになったが、俺の気持ちを無視するなって、俺は自分の意見を押し通した。あのケンカが無ければ、俺は眠留の家で頂く食事に、これほど負い目を感じなかったはずだ。なあ眠留、アイはなぜあんなケンカを俺としたのかな」
 僕はまず、貴子さんとのケンカの日々を話した。中吉については明かせなくとも、反抗する親が近くにいない僕の反抗心を貴子さんが受け止めてくれていたのは事実なので、それを正直に話したのだ。
 続いて、負い目を感じているのは僕も同じだと打ち明けた。智樹は、貴子さんとのケンカは感覚的に理解できるようだったが、僕の負い目については首を捻っていた。そんな智樹へ、昴の家で頂いたお昼ご飯の話をする。
「僕の母と昴の母親は友達で、母はおばさんに料理を習っていた。だからおばさんの料理を食べると、母の料理をどうしても思い出して、僕は今でも何も言えなくなってさ。それはおばさんも同じで、料理を作っている間は凄く楽しそうなのに食事の時間が始まると、泣きだしてしまうんだよ」
 僕は智樹に、おじさんがいつも送ってくれるメールを見せた。肩の触れ合う場所に今でも友人を感じるという個所は智樹の心を揺さぶったらしく、僕らはしばらく明後日の方角を向き、瞳を乾かしていた。
「おばさんが料理に込める真心は、お金に換えられない。でも、僕がもっと大人になれば変わって来る。金銭的謝意をスマートに示せるようになって、そしてそれを、おじさんとおばさんは僕の成長として喜んでくれるはずなんだ。けど、今の僕にそれはできない。僕にできるのは、きちんとしたお返しができない子供でごめんなさいって、心の中で詫びることだけなんだよ」
 智樹は下を向き、早く大人になりたいなと呟いた。下を向かざるを得なかった智樹の胸中を思うと僕は何も言えなくなってしまったのだけど、なら俺に任せろとばかりに智樹は顔を上げ、負い目の詳細を明かしてくれた。
「親と決別し、施設で暮らすようになって初めて俺は、無機質に感じない料理を食べた。だが眠留の家で頂く食事は、そんなものじゃなかった。女の子たちが作ってくれる料理も、今日眠留が食わせてくれた炒飯と野菜炒めも、素晴らし過ぎて俺は負い目を感じていた。心の傷を癒してくれるあの料理のお返しを、俺は何一つできないからだ」
 やっと解ったよ、と智樹は淡く笑った。
「香取さんの御両親は、お金には決して換えられない感謝の気持ちを、お金として表現することができる。だがガキの俺にはそれがまだできず、だから香取さんの御両親と同額を払っても、それは俺が小学校時代に家で食べてきた無機質な料理と同じなんだ。それを気づかせるために教育AIは俺とケンカしてくれたのに、ガキ過ぎる俺はそれを理解できなかった。あのケンカが無ければ負い目は少なかったはずなのになんて、的外れな八つ当たりを俺はしていたんだな」
 この家を取り仕切る美夜さんを介して、咲耶さんが智樹の今の話を聞いていた気が、僕は何となくした。
 なら、どうすべきなのか。
 僕は智樹と、そして咲耶さんのために何ができるのだろうか。
 それを考えていた心に、とりあえずの回答がやって来た。僕はそれを口にした。
「今の僕がどんなに背伸びしても、おじさんとおばさんに感謝を伝えられない。智樹もそう感じているなら、提案が一つあるんだけど、どうかな」
「それは譬えるなら、女の子たちの真心のこもった料理を腹ペコの眠留の前に置き、『これ食べる?』って訊いているようなものだぞ」
「なんだよその巧い譬えは」「できる男は隠喩が巧みなものなのだよ」「そのセリフ、中二病っぽいんだけど」「テメエが中二病漫画を散々読ませたせいじゃねえか!」
 なんて照れ隠しをワイワイやったのち、提案した。
「サッカー談義を終わらせて、研究に一段落つけようか」
 研究者の卵として、研究を第一に考えた行動をしようと呼びかけたのである。すると、
「寂しいけどそうするか」
 智樹は寂しさの欠片もない笑顔で、同意してくれたのだった。

「蹴りの練習等々が効果を発揮し、僕の腸腰筋は少しずつ強くなっていった。なのにボールを蹴っても、飛距離はほとんど変わらなくてさ。球技の苦手意識ばかりが肥大していったよ」
 僕は立ち上がり、床に3Dのサッカーボールを映し出した。
「腸腰筋の強さが反映されなかった理由は、拮抗筋きっこうきんのハムストリングスを巧く使えなかったことにある。運動音痴だから巧く使えなくて、当然なんだけどね」
 僕は3Dボールをゆっくり蹴り、蹴った後も動きを止めず、脚を腰の位置まで持ち上げて行った。
「腸腰筋は脚の前側に連結していて、ハムストリングスは脚の後ろ側に連結している。つまり人は、腸腰筋を縮ませてボールを蹴り、続いてハムストリングスをりきませて、上昇する脚にブレーキをかけているんだね。運動神経の良い人は、ハムストリングスを適度に力ませ、適切なブレーキをいとも容易くかけるんだけど、運動音痴にそれは不可能。僕はボールを蹴る前から、必要以上にハムストリングスを力ませ、脚に無意味なブレーキをかけていたんだよ。腸腰筋を強くしても、ボールの飛距離があまり変わらなかった理由はそれだね」 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

あやかしが漫画家を目指すのはおかしいですか?

雪月花
キャラ文芸
売れない漫画家の田村佳祐。 彼が引っ越したマンションはあやかしが住まうとんでもマンションであった。 そこで出会ったのはあやかし『刑部姫』。 彼女は佳祐が描いた漫画を見て、一目でその面白さの虜になる。 「わらわもお主と同じ漫画家になるぞ!」 その一言と共にあやかしは、売れない漫画家と共に雑誌掲載への道を目指す。 原作は人間、漫画はあやかし。 二人の異なる種族による世間を騒がす漫画が今ここに始まる。 ※カクヨムとアルファポリスにて掲載しております。

可愛すぎるクラスメイトがやたら俺の部屋を訪れる件 ~事故から助けたボクっ娘が存在感空気な俺に熱い視線を送ってきている~

蒼田
青春
 人よりも十倍以上存在感が薄い高校一年生、宇治原簾 (うじはられん)は、ある日買い物へ行く。  目的のプリンを買った夜の帰り道、簾はクラスメイトの人気者、重原愛莉 (えはらあいり)を見つける。  しかしいつも教室でみる活発な表情はなくどんよりとしていた。只事ではないと目線で追っていると彼女が信号に差し掛かり、トラックに引かれそうな所を簾が助ける。  事故から助けることで始まる活発少女との関係。  愛莉が簾の家にあがり看病したり、勉強したり、時には二人でデートに行ったりと。  愛莉は簾の事が好きで、廉も愛莉のことを気にし始める。  故障で陸上が出来なくなった愛莉は目標新たにし、簾はそんな彼女を補佐し自分の目標を見つけるお話。 *本作はフィクションです。実在する人物・団体・組織名等とは関係ございません。

紹嘉後宮百花譚 鬼神と天女の花の庭

響 蒼華
キャラ文芸
 始まりの皇帝が四人の天仙の助力を得て開いたとされる、その威光は遍く大陸を照らすと言われる紹嘉帝国。  当代の皇帝は血も涙もない、冷酷非情な『鬼神』と畏怖されていた。  ある時、辺境の小国である瑞の王女が後宮に妃嬪として迎えられた。  しかし、麗しき天女と称される王女に突きつけられたのは、寵愛は期待するなという拒絶の言葉。  人々が騒めく中、王女は心の中でこう思っていた――ああ、よかった、と……。  鬼神と恐れられた皇帝と、天女と讃えられた妃嬪が、花の庭で紡ぐ物語。

これは校閲の仕事に含まれますか?

白野よつは(白詰よつは)
キャラ文芸
 大手出版社・幻泉社の校閲部で働く斎藤ちひろは、いじらしくも数多の校閲の目をかいくぐって世に出てきた誤字脱字を愛でるのが大好きな偏愛の持ち主。  ある日、有名なミステリー賞を十九歳の若さで受賞した作家・早峰カズキの新作の校閲中、明らかに多すぎる誤字脱字を発見して――?  お騒がせ編集×〝あるもの〟に目がない校閲×作家、ときどき部長がくれる美味しいもの。  今日も校閲部は静かに騒がしいようです。

校長からの課題が娘の処女を守れ…だと!?

明石龍之介
キャラ文芸
落葉武帝(らくようぶてい)高校、通称ラブ高に通う二年生 桜庭快斗(さくらばかいと)は、突然校長に課題を押し付けられる。 その課題とは、娘の落葉カレンの処女を守り抜けというものだった。 課題をクリアすれば1億円やると言われ安易に受けてしまったが最後、守れなかったら退学という条件を課せられ、カレンの天然な性格にも振り回されて快斗の高校生活は無茶苦茶になっていく。 更に課題はエスカレートしていき、様々な難題を課せられる中、果たして快斗は見事にカレンの処女を守り抜くことができるのか!?

俺だけ毎日チュートリアルで報酬無双だけどもしかしたら世界の敵になったかもしれない

亮亮
ファンタジー
朝起きたら『チュートリアル 起床』という謎の画面が出現。怪訝に思いながらもチュートリアルをクリアしていき、報酬を貰う。そして近い未来、世界が一新する出来事が起こり、主人公・花房 萌(はなぶさ はじめ)の人生の歯車が狂いだす。 不意に開かれるダンジョンへのゲート。その奥には常人では決して踏破できない存在が待ち受け、萌の体は凶刃によって裂かれた。 そしてチュートリアルが発動し、復活。殺される。復活。殺される。気が狂いそうになる輪廻の果て、萌は光明を見出し、存在を継承する事になった。 帰還した後、急速に馴染んでいく新世界。新しい学園への編入。試験。新たなダンジョン。 そして邂逅する謎の組織。 萌の物語が始まる。

あの日咲かせた緋色の花は

棺ノア
キャラ文芸
「私、負けるのキライなの」 「そんなのでボクに勝とうとしたの?」 荒れ果てた世界の片隅で、今日も彼女たちは暴れ狂う。 一見何の変哲もない高校生の上城 芽愚(わいじょう めぐ)と中学生の裕璃(ゆり)は、特殊な性質を持ちあわせた敏腕な殺し屋である。殺伐とした過去を持つ2人の未来で待つのは希望か、絶望か。 "赤を認識できない"少女と"殺しに抵抗を感じない"少女が描く、非日常的日常の、悲惨で残忍な物語。 ※何やら平和そうなタイトルですが、流血表現多めです。苦手な方は注意してください

便利屋リックと贄の刑事

不来方しい
キャラ文芸
便利屋と刑事がタッグを組む!事件を解決!謎の男を追う! 家に届く花や手紙。愛を語る恋人もおらず、誰かも分からないXからだった。エスカレートしていく一方的な愛は、いつしか怨恨へと変わっていく。 リックは警察に相談するが、近くで空き巣もあり疑われてしまう。ウィリアム・ギルバートと名乗る刑事は、訝しげな目で全力で疑ってくるのだった。警察はアテにならない、自分で動かなければ──。 だが動けば動くほど、リックの周りは災難が降りかかる。自動車爆発、親友の死、同じ空気を吸っただけの人間のタイミングの悪い病死。 ストーカーと空き巣は同一人物なのか。手紙や花を送ってくる人間は誰なのか。 刑事としてではない、全力でリックのために動こうとするウィリアム・ギルバートは何を考えているのか。

処理中です...