僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十四章

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 もちろんそれは時間にしたら数秒の、閑散とした駐車場の隅に限ったことであり、一般旅行客のいる場所では全員静かに歩を進めた。座席に長時間拘束されていた運動部所属の若者がバスを降りるなりハッチャケるのは容易に予測可能ゆえ、駐車場の隅にあえて停車しストレス発散の機会を与えても、その代わり旅行客のいる場所では節度ある行動を要求する。現代日本がこのような自主自律社会であることをDNAレベルで理解しているのが、我ら研究学校生なのだ。
 とまあそれはさておき、横川サービスエリアはとても魅力的な場所だった。赤レンガ造りの建物の向こうに深緑から群青へと変わる夏の山々が続き、そして彼方の高峰の上空に、高原特有の澄んだ青空が広がっている。それだけでも都心育ちの部員達は旅行気分を掻き立てられたのに、
「名物だるま弁当いかがですか~」
「特別に、峠の釜めしもご用意していますよ~」
 てな具合にとびきり美味しそうな匂いが立ち込めていると来れば、その魅力は天井知らずだった。空腹を覚え始める午前十一時過ぎ、運動部所属の十代男子にとって、山の幸の旨味が凝縮した炊き込みご飯以上に胃袋を鷲掴みにする食べ物が果たしてあるのだろうか?
「「「そんなもの、ありはしないのだ!」」」
 と腹ペコ男子全員で特設お弁当コーナーに突撃したかったけど、それは諦めざるを得なかった。出発前の部室で、三枝木さんと約束していたからである。正確には加藤さんと京馬が敬礼しただけなのだがそれでも「間食は控えます」と誓った手前、ここでお弁当を貪るわけにはいかない。僕らは拷問に等しい苦痛に耐えつつお弁当売り場を振り切り、用事を可及的速やかに済ませてバスに逃げ帰った。
 が、
「はいは~い、皆さんよくぞ約束を忘れないでいてくれました。ご褒美に名物『玉こんにゃく』を購入しておきましたので、堪能してくださいね~」
 三枝木さんは誓いを守った僕らに、食べごたえはあってもカロリーは低いことで有名な名物B級グルメを、なんと二本ずつ用意してくれていたのである。加藤さんと京馬は言うに及ばず三巨頭までもが、芯まで出汁の染みた熱々の玉こんにゃくを、目に涙を浮かべて頬張ったのだった。

 遥か前方に屹立する飛騨山脈を目指し進んでいた高速道路は、彼我を遮る山々をまだ残すうちに、山塊の懐へたどり着くことを諦め左右に分かれた。僕らの乗ったバスは左へ向かった高速道路と運命を共にするも、十数分ののち独り立ちを選んだらしい。のどかな住宅街を抜けたバスが、山々へ続く道に再度分け入ったところで窓を開けてみる。白樺の森の空気に、肺を清めてもらえた気がした。
 急な下り坂を走行中、背中に感じていた重みがふと消え、尻を経てつま先へ移って行った。僕はちょっとした気づきを得て、瞼を降ろしてみる。減速したバスの先にあるのは右カーブなのか左カーブなのかを、つま先と腰で事前に察知できるのが、なんとも楽しかった。
 遠くからかすかに聞こえていた水の音が、間近で鼓膜を打つようになった。高原の空気に清らかな水の香りが加わるとかくも美味になることを、僕は生まれて初めて知った。
 渓流の水しぶきが不意に遠くなった。つま先にかかる重みが弱まり、頬に日の光を感じた。ある期待を込め、瞼を開けてみる。川の両側に平地が開けた谷の、その最も奥まった場所をバスは走っていた。
「この谷に作られた四つの運動場の、一番奥の運動場から歩いて五分の旅館が宿泊先で、合ってるよなあ・・・」
 万が一にも迷子にならぬよう僕はハイ子を取り出し、周囲の地形を今一度、頭に叩き入れたのだった。
 
 宿泊先の旅館は、想像よりちょっぴり小さかった。けど皆さん、
「「「いらっしゃいませ!!」」」
 一列に並んで元気のよい声を掛けてくれた、仲の良さげな六人家族の営む宿に泊まれるなんて幸先いいな、との想いが胸に広がってゆく。全国大会に臨む先輩方が心身を休めるのは、固い絆で結ばれた人達によって守り育まれてきた場所で、あって欲しいからね。
「湖校新忍道部十五名、四日間お世話になります。どうぞよろしくお願いします」
「「「よろしくお願いします!」」」
 真田さんに続き十四人で声を合わせ、頭を下げた。それを若さ漲る火とするなら、
「「「こちらこそよろしくお願いします」」」
 六人家族は一陣の風のように挨拶を返してくれた。その風に勢いを増した湖校新忍道部が力強い炎となる様子を、僕はありありと幻視したのだった。
 旅館の主人と女将に促され、玄関に入る。そのとたん鏡のごとく磨き上げられた檜の床に目を射られ、この宿に泊まれる幸運を再び感じた。道場の板張りが好きで時間を忘れて磨くことの多い僕は、真心こめて手入れされた床とそうでない床の区別が、実は一瞬でつく。礼儀としてスリッパを履かねばならぬことは解っていても、この床の感触を足の裏で直に味わってみたいと、僕は胸中秘かに思っていた。すると、
「どうぞご自由にお歩きください」
 満面に笑みを浮かべた老夫婦にそう言われてしまった。モジモジ性格のあがり症を未だ引きずる僕は本来ならここで、「初対面の人に見透かされるほど顔に気持ちが出ちゃってるのか!」と頭を抱えたはずなのに、今回はそうならなかった。老夫婦の背後に、身を粉にして働いてきた半世紀の歴史が、まざまざと感じられたからである。無数の宿泊客と心を通わせてきた接客の達人にとって、たかだか十四歳の若造の想いなぞ、掌を指すようなものなのだろう。ならば僕にできるのは、兜を脱ぐことだけ。僕は胸の内をそのまま口にした。
「僕の家には、先祖から受け継いだ武道場があります。その道場の床が大好きで、僕はちょくちょく時間を忘れて磨いてしまいます。この旅館の床も、愛情を注ぎ長い歳月をかけ手入れされてきた床だと直感し、ここに泊まれて幸せだと僕は思いました」
「どんなに磨き上げても、床は時間が経つと輝きを失います。その時間が短いほど、私達は誇りを抱きます。輝きを失う時間の短さは、大勢のお客様がここを利用してくださった、証だからです」
「ここに嫁いできたころは、先代女将をただ真似て床を拭いておりました。一日保たないのが分かっているのにこれほど手間を掛けねばならないのかと、内心グチを零していました。でも今は、床を磨くその一つ一つが、私の誇りなのです」
 ふと気づくと、玄関にいた十八人全員が足を止め、僕と老夫婦の会話に耳を傾けていた。半世紀に渡り研鑽を重ねてきた接客の達人ならいざ知らず、僕ごときが皆の足を止めてしまったことに恐縮していると、
「コイツはいつもこうして、新しい世界に目を向けさせてくれるんです」
「誇り高き旅館に泊まれて、俺達も幸せです。改めて、よろしくお願いします」
 真田さんと荒海さんが僕を挟んで立ち、老夫婦へ恭しく腰を折った。
 その時、つくづく思った。
 真田さんと荒海さんは、後輩の手本となる先輩の達人に、すでになっているのだと。
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