僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十章

悲しくなんかない、1

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 しかし、
「ううん、私はただ、ダメな子になっていただけなの」
 輝夜さんは華奢な肩をすぼめ、消え入るように呟いたのだった。

 太陽が揺らぎ消えかけているような原始的な不安を、僕は輝夜さんに感じた。だが僕は奥歯を噛みしめ、輝夜さんはダメなんかじゃないという叫びを封じ込めた。輝夜さんは今、真情を吐露しようとしている。自分ではどうする事もできなかった暗い感情を、吐き出そうとしている。ならば僕にできるのは、それを傾聴することのみ。そのためなら顎の筋肉がつろうが奥歯にヒビが入ろうが、そんなの知ったこっちゃない。僕は決死の覚悟で、これから吐露される真情を受け止めようとした。
 のだけど、
「エプロン姿の眠留くんが、エプロン姿の白鳥さんと二人三脚で料理を作る様子に、私はやきもきしていたの。白鳥さん達のプレゼン制作を助けるために出かけて行ったっきりの、誰も座っていない眠留くんの席が目に入るたび、私は焼き餅をやいていたの。そんなことを考える私はダメな子だって頭では分かっていても、胸が苦しくて苦しくて仕方なかったの!」
 決死の覚悟も悲鳴を上げていた顎の筋肉もどこへやら、僕は身も心もふやけまくったデレデレ状態になってしまった。だってあの輝夜さんが、やきもきしてくれたのだ。その必要はないと頭では分かっていて、事実その通りなのに、女神様に等しい輝夜さんが焼き餅をやいてくれたのである。これにデレずして、何にデレるというのか。デレデレ顔世界大会に日本代表として臨む勢いでふやけまくる自分を、僕は包み隠さず放置していた。
 ふと気づくと、台所に明るさが戻っていた。最近の輝夜さんは比喩ではなく本当に光を放っていて、輝夜さんがいるのといないのとでは部屋の明るさが明確に違う。それは昴も同様なことから、ツートップ美少女に新たな称号を献上してはどうかという議論が、一年男子の秘密掲示板で近ごろ盛んに交わされている。ただその新称号案は、お流れになると予想されていた。理由は、輝夜さんがお姫様の気配を纏っているのに対し、昴は女王様の気配を纏っている事にあった。仮に二人の気配が同じだったなら、「暁の姫皇子」や「旭の皇后」といった案もあったのだが、姫と女王ではそうもいかない。「明星王家」案に一時期脚光が集まるも、これを採用すると自動的に女王の昴が格上になってしまうため、かぐや姫親衛隊が異議を申し立てた。その直後、僕はかぐや姫親衛隊の匿名後援者になった。輝夜さんに決して近づかず陰ながら守り続けるその心意気に、感謝と感動を覚えずにはいられなかったのである。
 なんて事を、輝夜さんの光に照らされながらデレデレ顔で考えていた僕を、かぐや姫は不思議そうに見つめて言った。
「ほんと、これほど想いが顔に出る人に、なぜ私は焼き餅をやいていたのかしら。この顔を一目見れば、眠留くんがどれほど私を・・・」
 輝夜さんは途中で肩をすぼめ、再度言葉を消え入らせてしまう。けど今回は前回に反し、世界が一層明るくなったと感じられたので、その光の中に胸中を解き放った。
「うん、僕は輝夜さんが、世界いち好きなんだ」
 それからの記憶が、僕にはあまりない。一つだけ覚えているのは、口いっぱいに詰め込まれた激辛オカキに、舌の味覚神経が悲鳴を上げていた事だけだった。

「眠留くん、黒糖牛乳をどうぞ」
 焼けつく舌と喉のせいで声を発することができなかった僕は、両手を合わせてそれを頂く。黒糖の深い甘味と牛乳の濃厚な脂肪分が、辛みを粗方洗い流してくれた。
「輝夜さんありがとう、ひと心地ついたよ」
「私の時も眠留くんが黒糖牛乳を飲ませてくれたから、これでお相子ね」
 確かにそのとおりだった。茶箪笥から取り出した激辛オカキをテーブルに置くや輝夜さんはそれを次々口へ放り込んでいたが、鍛冶の親方と哲学者の回想あたりから徐々に頻度が減ってゆき、刀研ぎの箇所でそれはピタリと止まった。僕は輝夜さんを促しキッチンに行き、自分専用の砥石を彼女の手の中に置いた。白銀家も刀研ぎの技法を継承しているらしく、僕とまったく同じ京都の天然砥石を使っていた輝夜さんは、顔を輝かせてこの砥石の素晴らしさを語った。研磨剤を練り込んだ人工砥石では、刃に縦の溝がどうしてもできる。横へ滑らせて使う包丁に縦の溝がついていると電子顕微鏡レベルでは鋸として働くだけでなく、その溝が傷となり金属原子が剥がれ落ちてゆくから、刃がすぐ鈍ってしまう。それらのデメリットが、この天然砥石にはない。刀研ぎの達人の手にかかれば、刃を原子レベルで平らにすることが可能になるのだ。『水で濡らした海苔を蒟蒻こんにゃくに乗せ、海苔をずらさず蒟蒻を切り分ける』という料理人の基礎を昴が初めて会得した時その手にあったのも、祖父が昴のために週一で研いでいた包丁だった。その話を昴から聞いていた輝夜さんは、僕の場所の二つ右に置かれている祖父専用の最高級砥石をうっとり見つめていた。その隙に僕は黒糖牛乳を作りテーブルに運び、輝夜さんを促し、二人でそれを楽しんだ。というさきほどの一幕を、今回は輝夜さんが僕にしてくれたのである。僕はマグカップを両手で包み、輝夜さんの話に耳を傾けた。
「選択授業に料理を選ぶ予感は、入学前からあったの。だから昴が料理の達人だと知ったとき、私はなんて幸運なのかしらって思った。でも私の幸運はそんなものではなかった。家庭料理教室で過ごした時間、先生やパートナーから得た学び、そして昴や美鈴ちゃんが料理に込める想いを知れた事。そのどれもが予想を遥かに超える、幸運な出来事だったの。眠留くん、私はあの場所にいられて、幸せだったんだ」
 輝夜さんはペアになった女の子たちとすぐ仲良くなり、いつも楽しげに授業を受けていた。前期のパートナーも後期のパートナーも小柄な可愛い子で、お揃いのエプロンを着た美少女二人が活き活き料理を作る姿は、教室に活気をもたらしていた。特に男子の上達ぶりは目覚ましく、負けてなるものかと女子の腕もグングン上がり、そんな教室の様子を先生がさも楽しげに眺める光景は、皆のやる気を天井知らずに高めて行った。あれは本当に、幸せな時間だったのである。
「二年生になっても家庭料理教室を私は続けるつもり。六年の先輩方に勧められ、救命救急三級の授業も受けることになったらからスケジュール的に少し大変だけど、わたし頑張るんだ」
 僕は身を乗り出し、料理教室を続けるのも救命救急の授業を取るのも同じだと話した。輝夜さんの喜びようと言ったらなく、僕らはテーブルに座ったまま両手をつなぎダンスをした。そうでもして嬉しさを消費しないと、溢れだす想いに居ても立ってもいられなかったのである。
「僕は初め、北斗や京馬と一緒にプロトコールの授業を取るつもりでいた。猛と真山も俺もいいかって言ってくれたから、クラスが変わっても選択授業は並んで受けられるって思っていた。けど救命救急が気になりだして、それを皆に話したら、僕以外全員がすでにその予定を立てていた。将来部長や副部長になることを期待されているみんなは自発的にそれを決めたらしく、そのせいでそのとき初めて全員が同じ授業を希望していることを知ったから、僕らは弾けちゃってさ」
「あああの、眠留くん達がいきなり教室でプロレスを始めた日ね」
「うん、それそれ。全員が全員に技をかけるバトルロイヤル状態だったから次の日はみんな全身筋肉痛になっていて、互いの武勲を称えあったよ」
 日々ハードトレーニングをこなす僕らにとって、全身筋肉痛は勲章と言える。なぜなら限界を超え、己が肉体を酷使した証だからだ。
「眠留くんたちがよくするあれ、女子の間で人気が高いの。子犬が元気いっぱいにじゃれあう様子を眺めているような、ほのぼのした気分になるんだ」
 子犬に譬えられ苦笑するも、僕らは実際まだ子供。ならば子供時代にしかできない付き合いを、あいつらとして行こう。そう意気込む僕に全面賛同した輝夜さんは、ふと目を伏せ、全面賛同を躊躇わせる話をした。
「幼稚園入園前から、私は自分の体が小さいことに気付いていた。背の低い自分を悲しむ気持ちより、諦めの気持ちの方が強かった。あれは、自己防衛本能の一種だったのかもしれない。これから続く子供時代を悲しみで過ごすより、いっそ諦めて、明るく過ごして行こう。本能がそう、私の心を誘導したのかもしれない。私は、そんなふうに考えていたの」
 背の小ささへの悲しみより諦めが勝っていたのは、僕も同じだった。自己防衛本能に関する推測も、僕の実体験と合致していた。よって賛同の意を輝夜さんに伝えたかったのに、何かが引っかかり、僕はそれを躊躇ったのである。
 その何かを特定すべく、僕は瞑目し心の中へ潜って行った。輝夜さんは話を中断し、そんな僕を助けてくれた。行く手の暗がりを照らすこの光は、輝夜さんの放つ光なのだと気づいたとき、心の奥底にあった引っかかりを視野に収めることができた。それは、梅の花だった。大雪の降った翌朝に一度だけ見たことのある、朝日に輝く雪を抱いた、梅の花だったのである。僕は知るはずのない和歌を、無意識に口ずさんでいた。

  梅の花 降り覆う雪を
  包み持ち 君に見せむと
  取れば消につつ
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