僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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七章

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 その後、二人並んで台所へ行った。美鈴はいなかったが、テーブルの上に用意された山盛りのサンドイッチを見るなり、「美鈴ちゃんありがとう」と輝夜さんは手を合わせた。輝夜さんによると、昴と美鈴の料理は光を放っており、そして昴は自宅にいるのだから、美鈴がこのサンドイッチを作ったとすぐ判ったのだと言う。僕は輝夜さんとサンドイッチの両方へ、一回ずつ心を込めて手を合わせた。
 野菜を主体にハム、卵、そしてポテトサラダを挟んだ三種類のサンドイッチは、作ってから多少時間が経っていても文句なしに美味しかった。いつもの台所ではなく、僕の部屋のコタツで食べたからか楽しすぎて時間を忘れてしまい、気づくと休憩に一時間を費やしていた。これはいかんと大急ぎで食器を洗い、身だしなみを整え、僕らは会話を再開した。

 第一発言者は僕だった。心と体の栄養補給を終えた僕の頭はいつもより冴えているのか、先ほどの理屈に感じた嫌悪感を、輝夜さんに落ち着いて伝えられた。
「眠留くんの意見に私も全面的に賛成。幅を持たない線や厚みのない面といった理論上の存在ならいざ知らず、身近に接してきた物体となると、あれは屁理屈のように感じるの。だからあれに類する無限を、私は個人的に『理屈無限』って呼んでいるんだ」
 そのネーミングセンスの良さに拍手すると、輝夜さんは照れ照れになった。僕はピンと来て、アキレスと亀の話をした。
「走るのが世界一速かったアキレスは、亀に1メートルのハンディキャップをあげて競走した。アキレスが1メートル走った時、亀はアキレスの少し先を歩いていた。その場所まで走った時、歩みは遅くとも足を動かし続けている亀は、やっぱりアキレスの少し先にいた。その場所までアキレスが走った時も亀は先にいて、そこまで走った時もそれは同じだった。つまりアキレスは、亀を永遠に追い抜くことが出来なかったのでした」
 この話の製作者である古代ギリシャ人のゼノンは、同種の話を複数作っていて、その一つを次は輝夜さんが披露してくれた。
「自分の部屋から出ようと、私はドアに向かった。まず私は、ドアまで半分の距離を移動した。次に私は、残された距離の半分を移動した。その次も残された半分を移動し、その次も私はそうした。半分の距離を移動し続けた私は、永遠に部屋から出られませんでした」
 輝夜さんによるとゼノンはこの話を、「よって空間を無限に分割する事はできない」という証明のために用いたから、厳密には理屈無限ではないらしい。でも、と輝夜さんはほんわかと言った。
「でも理屈をこねて不可解な無限を作ったことに変わりは無いから、とりあえず今は理屈無限にしておこうって考えているの。この先どうなるかは、わからないけどね」
 僕はこれまで輝夜さんへ、頑固者に類する感想を抱いたことはない。けど今回、それを一部訂正せねばならないことを知った。心底納得できない事があるなら、輝夜さんはそれを納得できないまま残す。今の自分には納得できなくても未来の自分は納得できるかもしれないから、それを大切に保管して時の判断にゆだねる。輝夜さんはそんな、一徹さと柔軟さを併せ持つ人だったのだ。
 いや違う、と僕は胸の中で首を横に振った。輝夜さんから聴いた話を、思い出したのである。
『納得できない家訓が実家には山ほどあったけど、私は納得した振りをして生きてきたの』
 輝夜さんは小学校時代まで、ものわかりの良い子供を演じて生きてきた。けど小学校卒業間近、それは限界を迎えた。輝夜さんは学校と家の双方で孤立し、母方の祖父母の家で暮らすことを余儀なくされた。そして湖校入学を機に過去の自分と決別し、新しい自分になる決意をし、輝夜さんはそれを実行し続けていた。だからこそ今の、一徹さと柔軟さを併せ持つ輝夜さんがいるのだと、僕は思い返したのである。僕は胸の中で祈った。
 どうか輝夜さんが、理想とする自分に近づいて行けますように。
 そして僕も理想の自分を追い続けることで、輝夜さんと共に歩んで行けますように。

「それでは今度は私の番ね」
 サンドイッチで栄養補給が叶ったのは、輝夜さんも同じだったらしい。ハイ子のお絵かき機能を使い、輝夜さんは踊る指先でコタツの上に単純な割り算を書いてゆく。1÷0というその数式に、僕の喉仏がゴクンと上下した。それが目に入らないギリギリのタイミングで顔を上げたのだけど、
「眠留くん、気分が悪いの?」
 僕の顔色の変化を輝夜さんに気づかれてしまったようだ。僕は首を、ゆっくり横に振った。
「輝夜さんがコタツの上に書いた割り算には、ちょっと嫌な思い出があるんだ。小学三年生の二学期の、算数の授業でね・・・」
 思いやり深いこの女性から不安を取り除くには、正直に話すしかない。そう思い定め、僕は小学校時代の体験を明かした。
 
 小学三年生の初秋の、算数の授業。小数点の割り算を粗方習い終えた僕らに、先生がこんな問題を出した。
「1割る0.1 は、幾つかな?」
「10で~す」
 頭脳的にも精神的にも残念な子供だった僕を除き、大半の生徒が声を揃えて答えた。先生は満足げに頷き、再び問題を出す。
「なら、1割る0.01は?」
「100で~す」
 簡単な問題だったので前回より元気な声が教室に響いた。先生は大きく頷き、黒板に次の問題を書いてゆく。するとこんな僕にも法則が見えてきて、
「なら、1割る0.001は?」
 三回目の問いかけの時は、皆と一緒に「千で~す」と答える事ができた。言うまでもなく、小声だったけどね。
 それ以降も先生は、百万、千万、一億、と答が十倍ずつ増えていく問題を黒板に書いていった。算数が嫌いな子供でも、大きな数は大概好きなもの。僕らは言葉遊びをするように、皆で声を合わせていった。そしてその最後、先生が例の問題を出した。
「じゃあ、1割る0は?」
「無限大です!」
 全員が口ごもる中、ある生徒が自信を持って答えた。周囲を見渡すと、大勢の生徒が同意の仕草をしている。僕自身そう思ったから、先生が「無限大だと思う人」と問いかけたとき皆と一緒に手を挙げようとしたのだけど、親友へ目をやるなり僕は無意識に手を引っ込めてしまった。僕は知っていたのである。北斗が先週から教育ソフトで、高校一年の数学の授業を受けている事を。
「ふむ、手を挙げていない生徒が二人いるな。おっ、一人は猫将軍じゃないか!」
 先生の上げた声に教室中から視線が集まった。その、驚きの声でコーティングされた嘲笑の声に、まんまと罠に嵌ったのだとやっと気づくも、時すでに遅し。兄貴的先生を隠れ蓑に生徒を操作しようとするその若い男性教師は、集団心理の行きつく場所をあざけりに彩られた声で示唆した。
「猫将軍、どうして無限大じゃないと思ったのか、立って発表しなさい」
 僕が覚えているのは、立ち上がっても何も言えなかった事と、北斗の方をチラリと見て手を引っ込めたと誰かが証言した事と、涙が止まらなかった事の三つだけだ。北斗は下校中、助け舟を出さなかったことを詫びたが、北斗を貶める計画が頓挫したことだけが救いだと僕は本心を告げた。北斗は西方に霞む校舎を指さし、言った。
 お山の大将にならないと気が済まないあんな大人のいない湖校に、絶対行こうな、と。

「今でもたまに思うんだ。能力的にも性格的にも湖校に入学できるなんてまったく考えていなかった僕が、湖校に行きたいと初めて願ったのは、あの時だったなってね」
 輝夜さんの笑顔を取り戻すべく、僕は過去を正直に打ち明けた。それは功を奏し、不安げな表情をしていた輝夜さんは気配を一新して、煌めく笑みを僕に投げかけてくれた。
「眠留くん、私にとってそれは、嬉しい話なの。どうか、覚えていてね」
 だがその直後、輝夜さんはこれで精一杯ですとハンカチを目に当て、押し黙ってしまった。
 世界一好きな人を泣かせるなんて、最低だと思う。
 でも、その人がそれをうれし涙だと言うなら、それを信じよう。
 そして、うれし涙を流したこの時間が二人の良い想い出となるよう、努めよう。
 泣く事しかできなかった小学三年生の初秋とは違う僕を、この人に見てもらうんだ。
 僕は気配を一新し、頭を掻き掻き軽いノリで言った。
「ええっとあの、脱線ばかりしてしまい、すみませんです」
 どうやら僕は正解を引いたらしく、輝夜さんはハンカチを畳み、おどけた可愛らしい笑みを浮かべてくれた。
 するとそのとたん、脳が高速で回転し始めた。
 訳は解らずとも僕はハイ子を取り出し、松果体から放たれた文字を急いでコタツに書きとめた。

 1対1対応における座標は、
 量子力学の観測機に相当する。
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