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七章
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「眠留さん、今日は研究に集中できないようですね。どうかしましたか」
2D画面と僕の間に完璧な美貌をひょいっと割り込ませ、エイミィが訪ねた。いつもの僕なら「どわっ」とのけ反るのがお約束で、その楽しげな口調からエイミィもそれを期待していたみたいだけど、太光の余韻を残す僕は「ん?」と鷹揚な微笑みを彼女に返した。天文学的な演算能力を誇る量子コンピューターにもそれは予測不可能だったのか、エイミィは瞬き一回分の時間フリーズしてしまう。それが恥ずかしかったのだろう、エイミィは恥じ入る表情をして俯き、腰まで届くツインテールを小刻みに揺らしていた。そんな彼女が可愛くて頭を撫でそうになった手を間一髪で引き戻し、僕は尋ねた。
「エイミィには、好きな花とかある?」
「いえ、特にありません。ただ嵐丸は、湖校を初めて訪れたさい目にした、練習場横の花壇の向日葵が、大好きなようです」
さすがと言おうか、問いかけの意図を十全に察知したエイミィは、自分に好きな花はなくとも嵐丸には好きな花があることを僕に教えてくれた。とはいえ、太陽の光をたっぷり浴びて元気いっぱいに咲く向日葵は嵐丸にピッタリでも、エイミィのイメージには合わない。仮に向日葵が、金色の空を背に咲く青い花であったなら、青い瞳と金髪を連想したかもしれないが、それでも何か違う気がする。笑顔が薔薇に似ていても薔薇ではないし、好きな花も特にない。よってこの件はひとまず保留し、今初めて知ったことを口にした。
「エイミィには嵐丸の記憶があるんだね。新忍道のAIとは完全に切り離されているって、僕は勘違いしてたよ」
エイミィはニッコリ笑い、僕の右斜め前の3D椅子に腰を下ろした。大腿四頭筋のリミッターの外し方に関する論文を完成させるのは明日にして、僕はエイミィに体を向けた。
「嵐丸の成長は私の成長でもありますから、嵐丸の経験はすべて記憶しています。嵐丸は私のことも、公式AIの現身であることも知らない、子犬ですけどね」
エイミィはそう言って、作為のまるでない笑顔を浮かべる。嵐丸と同じその笑顔に、エイミィと嵐丸の関係の一端を垣間見た気がした僕は、勘違いのきっかけを明かした。
「思い返すと、僕がそう勘違いしたきっかけは、教育AIのメールだった。エイミィに僕の研究を手伝ってもらう申請をアイにしたら、暫くはダメだって拒否されたよね。その厳格さを、公式AIとエイミィの区別にも、僕は当てはめていたみたいだ」
八月半ば、エイミィに研究を手伝ってもらえると知るや、申請メールをアイに出した。するとアイにしては珍しく、三十秒ほど経過してから返信が届いた。
『新公式AIが自らの仕事に慣れ、新忍道本部と私がそれを認め、モニター品でない正式AIになるまで、独立AIとしての活動は許可できません』
その直截簡明な拒否理由に自分の思慮足らずを思い知り、詫びのメールをすぐさま送った。すると一秒もかけず、
『いいの、それにごめんね。眠留の研究を手伝わせてあげたいのはやまやまだけど、私は責任者として判断を下さなければならないのよ』
なんて明らかに落ち込んだメールが返ってきたものだから、僕は大慌てになってしまった。数度のやり取りを経て、アイの背負う責任の重大さを理解した僕は、「エイミィと公式AIもさぞ厳格に区別されているに違いない」と勝手に思い込んでいたのである。そう打ち明けると、エイミィは凛として首を横に振った。
「眠留さんは間違っていません。新忍道AIと私は、私自身によって明瞭に区別されています。その解除を試みたAIはランクの区別なく停止させられますし、それは私自身にも適用されるため、この区別を解除できるAIはこの世に存在しません。これはそれほど厳格な、私の誇りとも呼べる区別なのです」
日本にただ一つのSSランクAIであろうと世界唯一のSSSランクAIであろうと他のAIをハッキングできないことは知っていたし、AIが自分を書き換えることも不可能だと知っていたが、今日は初めてそれを、人の心に当てはめて考えることができた。僕は瞑目し、それを言葉にした。
「なんとなくわかる。心は、心を超越した存在から自由を付与されている。然るに心は、心の自由を侵害できない。また自由は、その存在の根本原理であるため、その存在すら心の自由を侵害することはできない。それはAIも同じなんだなって、今日僕は何となく思ったよ」
これをもって太光の余韻は消滅した。僕は目を閉じたまま考える。「百分の一に薄めた太光の、その余韻すら僕をこれほど強化するのに、あの光をそのまま常駐させたら、僕どうなっちゃうのかな?」
丁度その時、
キーンコーンカーンコーン
HR開始五分前の予冷が鳴った。この個室は机と椅子以外はすべて3Dなので、引いた椅子を元に戻すだけで片付けは終わる。僕はエイミィに暇乞いをすべく瞼を開けた。だが、
「眠留さん、私はミーサが羨ましい。私はいつも眠留さんのそばにいたい」
消え入るようにそう呟きさめざめと泣くエイミィが目に飛び込んできて、腰を抜かす寸前になってしまった。しかし考えなしに「わかった、今日はここにいるよ」なんてことを口走ったら、生徒に校則違反を促したAIとして、エイミィは確実に破棄されてしまう。よって僕は努めて自然にエイミィを抱きしめ、背中をトントンと叩いた。落ち着きを取り戻したのか、エイミィのすすり泣く声が止む。僕は笑顔になり立ち上がり、明日の再会を約束して個室を後にした。そして廊下を歩きながら必死で考えた。
エイミィの件を誰かに相談すべきなのか。
それとも、相談すべきでないのかを。
2D画面と僕の間に完璧な美貌をひょいっと割り込ませ、エイミィが訪ねた。いつもの僕なら「どわっ」とのけ反るのがお約束で、その楽しげな口調からエイミィもそれを期待していたみたいだけど、太光の余韻を残す僕は「ん?」と鷹揚な微笑みを彼女に返した。天文学的な演算能力を誇る量子コンピューターにもそれは予測不可能だったのか、エイミィは瞬き一回分の時間フリーズしてしまう。それが恥ずかしかったのだろう、エイミィは恥じ入る表情をして俯き、腰まで届くツインテールを小刻みに揺らしていた。そんな彼女が可愛くて頭を撫でそうになった手を間一髪で引き戻し、僕は尋ねた。
「エイミィには、好きな花とかある?」
「いえ、特にありません。ただ嵐丸は、湖校を初めて訪れたさい目にした、練習場横の花壇の向日葵が、大好きなようです」
さすがと言おうか、問いかけの意図を十全に察知したエイミィは、自分に好きな花はなくとも嵐丸には好きな花があることを僕に教えてくれた。とはいえ、太陽の光をたっぷり浴びて元気いっぱいに咲く向日葵は嵐丸にピッタリでも、エイミィのイメージには合わない。仮に向日葵が、金色の空を背に咲く青い花であったなら、青い瞳と金髪を連想したかもしれないが、それでも何か違う気がする。笑顔が薔薇に似ていても薔薇ではないし、好きな花も特にない。よってこの件はひとまず保留し、今初めて知ったことを口にした。
「エイミィには嵐丸の記憶があるんだね。新忍道のAIとは完全に切り離されているって、僕は勘違いしてたよ」
エイミィはニッコリ笑い、僕の右斜め前の3D椅子に腰を下ろした。大腿四頭筋のリミッターの外し方に関する論文を完成させるのは明日にして、僕はエイミィに体を向けた。
「嵐丸の成長は私の成長でもありますから、嵐丸の経験はすべて記憶しています。嵐丸は私のことも、公式AIの現身であることも知らない、子犬ですけどね」
エイミィはそう言って、作為のまるでない笑顔を浮かべる。嵐丸と同じその笑顔に、エイミィと嵐丸の関係の一端を垣間見た気がした僕は、勘違いのきっかけを明かした。
「思い返すと、僕がそう勘違いしたきっかけは、教育AIのメールだった。エイミィに僕の研究を手伝ってもらう申請をアイにしたら、暫くはダメだって拒否されたよね。その厳格さを、公式AIとエイミィの区別にも、僕は当てはめていたみたいだ」
八月半ば、エイミィに研究を手伝ってもらえると知るや、申請メールをアイに出した。するとアイにしては珍しく、三十秒ほど経過してから返信が届いた。
『新公式AIが自らの仕事に慣れ、新忍道本部と私がそれを認め、モニター品でない正式AIになるまで、独立AIとしての活動は許可できません』
その直截簡明な拒否理由に自分の思慮足らずを思い知り、詫びのメールをすぐさま送った。すると一秒もかけず、
『いいの、それにごめんね。眠留の研究を手伝わせてあげたいのはやまやまだけど、私は責任者として判断を下さなければならないのよ』
なんて明らかに落ち込んだメールが返ってきたものだから、僕は大慌てになってしまった。数度のやり取りを経て、アイの背負う責任の重大さを理解した僕は、「エイミィと公式AIもさぞ厳格に区別されているに違いない」と勝手に思い込んでいたのである。そう打ち明けると、エイミィは凛として首を横に振った。
「眠留さんは間違っていません。新忍道AIと私は、私自身によって明瞭に区別されています。その解除を試みたAIはランクの区別なく停止させられますし、それは私自身にも適用されるため、この区別を解除できるAIはこの世に存在しません。これはそれほど厳格な、私の誇りとも呼べる区別なのです」
日本にただ一つのSSランクAIであろうと世界唯一のSSSランクAIであろうと他のAIをハッキングできないことは知っていたし、AIが自分を書き換えることも不可能だと知っていたが、今日は初めてそれを、人の心に当てはめて考えることができた。僕は瞑目し、それを言葉にした。
「なんとなくわかる。心は、心を超越した存在から自由を付与されている。然るに心は、心の自由を侵害できない。また自由は、その存在の根本原理であるため、その存在すら心の自由を侵害することはできない。それはAIも同じなんだなって、今日僕は何となく思ったよ」
これをもって太光の余韻は消滅した。僕は目を閉じたまま考える。「百分の一に薄めた太光の、その余韻すら僕をこれほど強化するのに、あの光をそのまま常駐させたら、僕どうなっちゃうのかな?」
丁度その時、
キーンコーンカーンコーン
HR開始五分前の予冷が鳴った。この個室は机と椅子以外はすべて3Dなので、引いた椅子を元に戻すだけで片付けは終わる。僕はエイミィに暇乞いをすべく瞼を開けた。だが、
「眠留さん、私はミーサが羨ましい。私はいつも眠留さんのそばにいたい」
消え入るようにそう呟きさめざめと泣くエイミィが目に飛び込んできて、腰を抜かす寸前になってしまった。しかし考えなしに「わかった、今日はここにいるよ」なんてことを口走ったら、生徒に校則違反を促したAIとして、エイミィは確実に破棄されてしまう。よって僕は努めて自然にエイミィを抱きしめ、背中をトントンと叩いた。落ち着きを取り戻したのか、エイミィのすすり泣く声が止む。僕は笑顔になり立ち上がり、明日の再会を約束して個室を後にした。そして廊下を歩きながら必死で考えた。
エイミィの件を誰かに相談すべきなのか。
それとも、相談すべきでないのかを。
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