僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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六章

嵐の前、1

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 芹沢さんの姿が視界から消え、僕は再度ベンチに腰を下ろし、空を見あげた。
 自己嫌悪はまだある。昨夜と変わらぬ巨大さで、心の中に居座っている。
 でも僕は知っている。
 僕がそれに負けまいと踏ん張っている限り、それを応援し支えてくれる人達は時間を追うにつれ増えて行くのだと、僕は知っているのだ。
 僕は大きく伸びをして立ち上がり、ベンチを後にした。

 昇降口で靴を履き替え、階段へ足を向けた。すると、
「よう眠留、丁度良かったな」
 階段を下りてくる猛に声を掛けられた。たまらず吹き出しそうになるも、猛の後ろで手を合わせ苦笑している真山に免じ、ツンデレ男の三文芝居に乗ってやることにした。
「おはよう二人とも。丁度良かったね」
 実を言うと、僕と芹沢さんの様子を猛が昇降口から窺っていることに、僕は気付いていた。芹沢さんが図書館へ去って行くころそれに真山が加わったのも、最後に大きく伸びをすると同時に真山が猛の腕を取り昇降口から姿を消したことも、どちらもちゃんと気づいていた。というか二人が姿を消したからこそ僕は立ち上がり、昇降口にやって来たのである。たとえ80メートル以上離れていようと、僕を心底案じる二人の友の視線に、僕が気づかないわけ無いのだ。
 とはいえ、寮の決まりについてはその限りでない。真山が両手でかかえ持つ、おそらく三人分のシーツに僕は詫びを入れた。
「ごめん真山、僕の分のシーツも、持ってきてくれたんだね」
 一時間前には無かった備品が、今の昇降口にはある。使用済みシーツを入れる大きな籠が四つ、邪魔にならない壁際に置かれていたのだ。
「シーツなんて軽いから気にしないで。そうそう、それこそ丁度いい機会だから、このシステムを説明しておくね」
 他の寮生の邪魔にならぬよう、籠から離れた場所で真山は話した。
「夏は二日に一度、冬は週二回のシーツ交換が寮生には義務付けられている。ただ毎日替えても追加料金は取られないから、女子は毎日、男子も二日毎にシーツを交換しているみたいだね。洗って欲しいシーツは朝食を食べにくるとき、こうして持ってくる。階段に近い三つの籠は布団用シーツ、枕と書かれた一番遠くの籠は枕カバー専用だから、そこだけ注意してね」
 寮に泊まった人と畳部屋を使った人は必ず替える決まりになっているから、眠留は毎回替えなきゃいけないね、と追加説明しながら真山は六枚のシーツを籠に入れた。続いて猛が少々バツ悪げに、三枚の枕カバーを枕カバー専用籠に入れる。僕と芹沢さんの様子を窺うことに夢中だった猛はシーツ交換をすっかり忘れていて、シーツを抱えた真山を目にするなり、自分にも半分よこせと慌てて言った。けど時間がなかったため、真山は枕カバーだけを猛に渡した。そんな二人のやり取りがありありと脳裏に浮かんできて今度こそ吹き出しそうになるも、そこは武士の情け。僕は笑い声を堪え、笑顔だけを残し猛に尋ねた。
「ねえ猛、食堂から美味しそうな匂いがしてきて、僕は腹が鳴って仕方ないんだ。今日の朝食の献立は、何なのかな?」
「おっ、おう、いいとも教えてやろう。寮の朝食は、和食と洋食が交互に出てくる。今日は和食の日でこの匂いから、あじの干物とヒジキと・・・」
 予想どおりの献立に唾が出っぱなしの僕は微塵の演技もなく、目を輝かせて猛の説明を聴いたのだった。

 食堂に足を踏み入れるなり、
「お早う、ここに座れよ」
 大勢の一年男子に声を掛けられた。お早うサンキュー、と皆に挨拶し腰を下ろす。周囲を見渡すとどうやら、出入り口に近く一番埃っぽいここが一年生の場所で、ここから離れるに従い、上級生の場所になっていくらしい。まあ、順当だね。
 今日から学校が始まるな、かったるいような嬉しいようなだなあ、なんて皆とワイワイやっていると、長テーブルの南端に座っていた六年生達が立ち上がり、配膳スペースへの移動を開始した。そして六年生の先頭が配膳台に着いたまさにその時、
 ピンポンパンポ~ン♪
 朝食の始まり告げるチャイムが鳴る。寮で六年間生活することはこういう事なのだと、教えられた気がした。
 配膳を待つ六年生が半数になったくらいで五年生が立ち上がり、その後ろに並ぶ。それを順々に繰り返し、僕ら一年生の番になった。僕は同級生の一番後ろに並んだ。
 といっても、それは僕が男子寮生の最後尾という意味ではなく、僕の後ろにも上級生は並んでいた。遅れて食堂にやって来た上級生は下級生の列に割り込むことをせず、こうして一年生の後ろに並ぶのが湖校の恒例らしい。しかも学年制は撤廃され、みんな自由気ままに並んでいるようだった。規律と柔軟さを併せ持つその光景に「皆さんさすがだなあ」なんてしきりに感心していると、
「おはよう、猫将軍君」
 左側から声をかけられた。顔を向けると丁度僕の横に、那須さんが並んでいた。那須さんに挨拶すると、その前にいる子も「おはよう」と声を掛けてくれた。その子はぐるぐるバットリレーで僕と一緒にゴールを割った子だったから元気よく挨拶したのだけど、いかんせん名前がわからない。それが顔に出ていたのだろう、二人はクスクス笑い、那須さんがその子を紹介してくれた。
「この子は大和さきさん。昨日あのあと一緒に帰ったら、仲良くなっちゃって」
 那須さんはさも嬉しげにそう言った。那須さんが抱えていた諸事情を猛と真山に教えてもらっていた事もあり、那須さんの浮かべたその笑顔が、僕ははち切れんばかりに嬉しかった。そんな僕に二人は再度クスクス笑い、大和さんが口を開いた。
「きちんと言葉を交わすのは初めてですね、大和幸です。幸福の幸と書くから『さち』と読まれることが多いけど、『さき』なので覚えてね、猫将軍君」
 驚きがそのまま口を突いてしまった。
「凄い、柿本人麻呂だね!」

  しきしまの 大和の国は
  言霊の さきわふ国ぞ 
  まさきくありこそ

 お盆休み前に開いた夕食会の食休み中、輝夜さんの読んだこの和歌がとても気に入った僕は、この歌の由来と意味を輝夜さんに教えてもらっていた。すると神社の敷庭に似ている気がしてますます好きになり、心の中でしばしば口ずさんでいるうち、そらんじられるようになっていたのだ。
 そのせいで思わず柿本人麻呂の名前を出してから、ようやく気づいた。僕にとっては滅多にないことでも、大和さんにとっては「またか」とうんざりする事を、僕はしてしまったのかもしれない。それにやっと気づいた僕は、顔から血が引いて行くのを感じた。
 けど幸い、それは大和さんにとって喜ばしいことだったらしい。今日初めて言葉を交わしたので確信は持てないけど、それでも演技とは思えない驚きの笑顔を、大和さんは浮かべていた。
「凄い、そのとおりなの。湖校に来てそう言われたのは、一年生ではこれが二人目。猫将軍君は、教養も豊かな人なのね」
「それはそうよ。だってあの白銀さんが選んだ人なのよ」
「そうだった。それにあの芹沢さんとも仲が良いのだから、それくらい当然よね」
「うん、当然よ。ところで幸、どうして柿本人麻呂なの?」
「それはね夏菜・・・」
 一瞬、話が途轍もなく危険な気配をまとったが、別の方角へ逸れてくれたみたいだ。それに加え、配膳が僕の前の前まで来ており、僕が二人とそれ以上言葉を交わすことは無かった。そのせいで、兜さんが那須さんと一緒にいない光景を、僕は心に留めることができなかった。
 けどそれは、仕方ない事だったのかもしれない。猛と真山に前もって知らされていたが、これほど早く僕の順番が回って来たのは、やはり驚くべき事だったからである。
 配膳は、トレーを手に取ることから始まる。そして寮生はそれを、二秒半でしてのける。つまり僕の前にいた二人の同級生は、たった五秒で消えてしまったのだ。あわわと焦る暇もなく山盛りご飯、お味噌汁、鯵の干物とサラダの大皿、そしてお箸の乗ったトレーを手に取り、前の男子にならい右へ歩を進めた。
 数歩進んだ先は小鉢エリアになっていた。今日の献立のヒジキ、たことワカメの酢の物、茄子とピーマンの胡麻味噌炒め、そして薬味たっぷり冷奴、の四品の中から好きな物を二品選び、トレーに乗せる事ができる。どれも好物だったので、追加料金を払い全部食べようかと逡巡したのが運の尽き。選択時間のなくなった僕は、右側二品を慌ててトレーに乗せた。
 その先は、惣菜をもっと欲しい人だけが立ち寄る場所になっていた。もちろん向かうと、生卵二個と海苔二パックと納豆一パックまでは無料という、腹ペコ男子には夢のようなシステムになっていた。僕はニコニコ顔で五品すべてをトレーに乗せた。
 前の男子が配膳台から離れた。最小限の安全確認をして、僕も彼の後に続く。こういうとき学年制はありがたい。僕は同級生の彼の後にくっついて、一年生が座るテーブルに辿り着いた。腰を下ろした瞬間、寮での初配膳をそつなくこなした自分に、僕は胸中拍手を贈った。その直後、
「おっ、眠留はやっぱセンスあるな」
「慌てていたから心配したけど、俺らとまるで同じなのは流石だね」
 右隣の猛が麦茶を、左隣の真山がお茶を差し出しつつそう言った。両隣へ目をやるとピッタリ同じ献立が並んでいたので、思わず「にぱっ」と笑ってしまった。勘弁してくれと肩を震わせる二人に代わり、僕が音頭を取る。
「手を合わせたら、せ~ので頂きますにしよう。じゃあいくよ、せ~のっ」
「「いただきます!」」
 僕ら三人は竜巻のように朝ごはんを食べ始めたのだった。
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