僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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六章

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 先週、湖校撫子部が全国大会を制したと夕飯の席で美鈴に教えてもらった約一時間後、ベッドに横たわる僕に、芹沢さんから相談事のメールが届いた。すぐチャットルームへ招待し、お祝いの言葉と相談可能の旨を伝えた数分後、僕は相談内容を把握した。『撫子部は八月下旬、家族や友人を招き感謝会を開くのを常としている。ただそれは小規模な催しでしかなく、招待できるのは部員一人につきたった二名しかいない。よって多くの一年生部員は両親を招くのだが、芹沢さんには妹を溺愛する兄がいるため、三人のうち二人を選ぶと家族に不和が生じてしまう。故に三人を招待するのは文化祭にして、今回は猛と僕を招待したいのだが、猛は頑なに首を横に振り続けている。どうにかならないだろうか』 要約すると、こんな感じの相談だったのだ。
 とはいえこれには僕も難色を示した。他ならぬ芹沢さんの頼みであっても、僕より美鈴の方が適切に思えたからだ。しかし美鈴は撫子部の枠で招待済みですから安心して下さいと言われると、断る理由がなくなる。新忍道サークルに自由日を一日使えば参加できると判明したことが決定打となり、猛の説得を僕は承諾した。
 予想したとおり説得は難航した。だが音声のみ電話から3D電話に切り替えたとたん、猛はただちに招待を受け入れた。首を捻る僕へ「いいから早く寝ろ、睡眠時間を削らせて悪かった、清良には俺から連絡しておく」と文字付きで素早く言って猛は通信を切った。自覚は無かったが僕はその時、きっと眠そうな顔をしていたのだろう。それについて翌日、芹沢さんからメールで謝罪されるも、猛の優しさが嬉しくて熟睡できたから睡眠不足にならなかったと事実を伝えたら、安堵のメールがすぐ返信された。僕らは猛の話題に関しては、以心伝心になるからね。
 感謝会は、湖校中央図書館で開催された。講堂や展示室を併設する中央図書館は撫子部の所在地であると共に活動拠点でもあることは小耳に挟んでいたが、その全館を挙げての協力体制に、研究学校生が撫子部をどれほど誇りに思っているかを改めて教えられた気がした。
 感謝会はエントランスホールでのお茶の接待に始まり、全展示室を貸し切った生け花体験、大講堂での書道鑑賞、そして最後に琴の合奏という順で行われた。野暮ったい僕と猛も、美鈴が一緒にいてくれたお蔭で茶道と華道を楽しめたが、書道と琴は違った。この二つは、ずぶ素人の僕と猛にも問答無用でその素晴らしさを訴えてくる、卓越した芸術だったのである。
 大講堂の最も音響の良い場所に座った百人余りの招待客へ、撫子部部長である東雲の椿が書道を披露した。とんでもなく高価なことなら僕にも一目で分かる加賀友禅を着た東雲の椿が、手に持つ巻紙まきがみに和歌を綴ってゆく。時に素早く時にゆるやかに、しなやかかつ豊かな東雲の椿の筆遣いに、僕らは悶えた。銀の粉をまぶしたような輝きを放つ特製の和紙に、漆黒の墨が妙なる文字を雅やかに綴ってゆく様子を、様々な角度から3Dで見せてもらった僕らは、失礼と思いつつも身をよじらずにはいられなかったのだ。現代の書道展では、筆遣いも併せて披露するものが多い。書は完成品だけでなく、文字をしたためる過程も、負けないほど優れた芸術だったのである。それを世に初めて知らしめたのが研究学校の撫子部員であったことは、僕ら研究学校生にとって、不動の誇りの一つとなっていたのだった。
 東雲の椿がうつしめる芸術に身もだえしている最中は見落としていたが、和歌が完成すると同時に、それは無音の世界における芸術だったことに僕は気づいた。なぜなら時を同じくして、琴のが大講堂に響いたからだ。日本庭園を映していた3Dの一部が光の粒となって消え、そこに控えていた琴の名手による独奏が始まる。典雅の極みたる琴の音色にまたもや悶えていると、庭園のそこかしこがゆるやかに消えてゆき、独奏は連奏に変わった。そして映像が庭園から、夏の海辺、秋の紅葉、冬の雪山を経て春の桜吹雪へと変わり選手総出の合奏となるころには、招待客らは皆、涙も鼻水も出っぱなしというとんでもない状態になっていた。しかもそれは、最も親しい友人や家族が集まっているからこその現象なのだと、そこにいる人達全員が胸の奥深くで感じていたため、鼻水も涙も流れ出るままになっていた。そしてその深い場所にある想いが演奏終了時、感動と割れんばかりの拍手となって、講堂を満たしたのだった。
「芹沢さん、あの感謝会の感動は言葉では到底語れない。家に帰ってからも泣きっぱなしの美鈴に、祖父母も貰い泣きしてね。来年の感謝会を、今から首を長くして待っているよ。僕は今年経験できたから、来年からは祖父母や、美鈴とゆかりの深かった人達にあの感動を味わってもらうことができる。芹沢さん、本当にありがとう」
 その言葉を、涙腺と鼻粘膜が決壊する寸前で伝えた僕に、芹沢さんは「こちらこそ」とだけ応えた。それ以上言ったら芹沢さんも決壊しかねないのだと、言葉にせずとも二人とも承知していたから、僕らにはそれで充分だったのだ。
 僕としてはこれで感謝会の話題を終えたつもりだったのだけど、芹沢さんは美鈴の話題を振ってきた。第六校舎が投げかける影の推移からまだ時間はあると即断した僕は、それに喜んで飛び付く。バカ兄と呼ばれても芹沢さんが話してくれる美鈴の話題に、僕が抵抗できる訳ないのである。
「美鈴さんは茶道、華道、書道、そして箏曲そうきょくのどれにも長じているわ。中でも書道が素晴らしいと、私達は思っているの。いにしえの剣豪に能筆家が大勢いたのも美鈴さんを見れば頷けるって、幹部の先輩方はいつも仰っているわね」
 僕は盛大に照れた。僕の話でなくても美鈴がこれほど褒められているのだから、僕が照れて当然なのだ。妹を溺愛する兄を持つ芹沢さんはそんな僕に、機嫌のよい声を更に良くして先を続けた。
「だから幹部の先輩方は会議を開き、美鈴さんを筆鋒ひっぽうとして育てる決定をしたの。感謝会で部長が務めたのが、その筆鋒ね。撫子大会の書道部門は選手全員が提出した書と、琴の合奏とセットになった筆鋒の筆遣いの両方で採点されるけど、筆鋒は合奏の出来を左右するほど重要な役職。撫子部のかなめの存在と言われているわ」
 筆鋒とは筆先の意味で、筆の勢いという意味も持つことから、「筆鋒鋭く」のように論調の勢いという意味で用いられている。どちらかというと否定的な意味合いを持つことが多いが、撫子部では最終審査の琴の合奏を左右する筆致担当の部員を、筆鋒と呼んでいるのだそうだ。
「湖校撫子部には面白い伝統があって、小学生の内に見学に訪れた部員の中から筆鋒がしばしば育つの。部長もそうだし、五年生以下の筆鋒候補部員も過半数がそうね。美鈴さんは今の時点で、一年生どころか二年生や三年生の候補部員より筆遣いが巧いから、伝説的な筆鋒になるはずだと幹部の方々は私に話してくれたわ。でもこれは幹部と、美鈴さんを連れてきた私しか知らない事だから、秘密にしててねお兄さん」
 美鈴をどうかよろしくお願いしますと、芹沢さんにひざまずきたかった。しかし寮の前庭で跪くわけにはいかなかったため、僕は心の中でそれを行った。それを受け芹沢さんは、かしこまりましたと最高の所作で礼を返してくれた。その姿に、僕を跪かせないため芹沢さんは今ここでこの話を切り出したのだと悟った僕は、美鈴にこれほどの先輩ができた幸運に、胸中再び跪いたのだった。
 その僕が上体を起こしたまさにその瞬間、芹沢さんは告げた。
「それでは、私がここに来た経緯と理由を説明します」
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