僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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六章

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 トイレへの道すがら、驚いたことが二つあった。一つは、現在時刻。午後十一時直前というその時刻は、僕らの話し合いが三時間を超えていることを物語っていた。
 驚いたもう一つは、教育AIの柔軟さだった。十一時まであと数分という時刻に、
「寮の消灯時間はいつなの?」
 と慌てて、でも小声を心がけ僕は尋ねた。そんな僕に、真山が時刻にまるでそぐわない、朝日のような笑顔を浮かべた。
「消灯は原則十時半。でもそれは原則だから、もっと重大な問題が発生しているとアイが判断した場合は、大目に見てもらえるんだ」
 真山によると、翌日の準備をすべて整え、明かりを消し、布団の中でひっそり話している限り、教育AIはそれを黙認してくれると言う。その柔軟さに感謝しつつも、僕は息せき切って尋ねた。
「でも真山のハイ子が焚き火を映していたけど、あれは大丈夫なの?」
 あの焚き火に何度も救われた僕は、そのせいで真山に罰則が発生したのではないかと気が気でなかったのである。すると、
「だろっ」
 猛が身を乗り出し、笑みを全身に浮かべた。
「明かりを消し部屋を暗くしておかないとダメなはずなのに、真山の焚き火は黙認する。だから俺が常々主張しているように」
「あのねえ猛、何度も言っているけど」
「いいや、俺は何度でも言うぞ。教育AIは真山に」
「ねえ猛、ならなおのこと、それ以上言ったらアイが機嫌を損ねちゃうんじゃない?」
「げっ、それはマズイ。教育AI様、大変失礼いたしました」
「猛もこうして反省していますから、教育AI様、どうか猛を馬に蹴らせないでください」
「二人の恋路を邪魔したりしませんから、馬に蹴られるのだけはどうか勘弁してください」
「言いたい事は山ほどあるけど、とりあえず湖校に乗馬部はないからね。でも二人がそこまで言うなら俺が頼めば」
 トイレを終え十七号室へ歩を進めつつ、真山は手を合わせお願いの意を示す。すると、
「ヒヒ~ン」
 証明を落とした薄暗い廊下に、白馬の3D映像が冗談抜きで出現した。
 その白馬に真山はにっこり笑いかけ、悠然と十七号室へ入ってゆく。
 一方僕と猛は体を直角に折ってから、二人で十七号室へ駆け込んで行った。
 とまあこんな感じのバカ騒ぎをしたお蔭で気持ちが楽になった僕は、先ほどの我がままを、若干の罪悪感だけで口に乗せることができた。
「頭を突き合わせるこの形はとても嬉しかったけど、最後は三人で、川の字になって寝てもいいかな?」
 そうこれは、要望ではなく我がまま。いま僕は、二人の友に両側から挟んでもらっていないと、体に震えが走るほど精神的に消耗していた。でもそれは僕の自業自得だから、本来ならそれを口にすべきではないのだけど、明日にならない今に限り、そしてこの二人に限り、それを言っても良いのでないか。僕はそう、感じていたのである。
 そんな僕の胸の内を十全に知った上でコントにしてくれるのが、この二人なのだろう。
「ったくよう。眠留がそこまで言うなら、布団を敷き直してやるか」
「うんそうだね。眠留がそこまで言うなら、仕方ないよね」
「ジャンケンに勝って、せっかくこの布団をゲットしたのによ」
「三日天下ならぬ、三時間天下ってヤツだったね」
「へぇへぇ、馬をさらっと出しちまうお方に三時間でも勝てたのは、光栄の極みだぜ」
「いやいや、芹沢さんのような女性がいつもそばにいてくれない俺は、猛に負けっぱなしだよ」
「わかった、じゃあ今すぐメールしよう。ハイ子、『み』から始まる一つ年下の女の子を」
「グホッ、ゲホッ、ブハッ、ダハッ」
 なんてワイワイやりながら、二人は僕の両隣に布団を敷き直してくれた。
 この二人のためにも、僕は明日以降、絶対俯かないようにしよう。
 僕は再度、胸に固く誓ったのだった。



 パ・・タン・・・
 部屋から誰かが出て行ったのを、意識の欠片が感じた。
 その欠片はあまりに小さく、本来なら刹那に拡散し、消えていただろう。
 しかし心を圧迫する巨大な自己嫌悪が、それを拡散させなかった。その結果それは心に知覚され、そしてある推測が芽生えた。
 真山が、部屋を出て行ったのではないか? 
 体に鞭打ち瞼をこじ開け、視線を右へ向ける。
 シーツを剥がされた布団が、壁際に畳まれていた。
「真山は、布団を乱雑に放置したまま朝の鍛錬に臨むヤツじゃない。なら僕も、惰眠をむさぼる訳にはいかないなあ」
 心の中でそう呟き、僕は上体を起きあがらせた。

 猛を起こさぬよう静かに身づくろいしつつ、昨夜聞いた話へ想いを馳せた。
「真山が毎朝六時から六時五十五分まで、屋上で鍛錬を行うことを教育AIは許可した。屋上は洗濯物を干す場所として開放されているから立ち入り禁止ではないが、それでも朝七時から夕方まで、洗濯物を干すためだけにしか解放されないのが寮の決まりだ。なのに教育AIはそれを許可しただけでなく、真山の周囲を3D障壁で囲み、内部の様子を外から見えないようにしているんだぜ。凄すぎだろ!」
 Yの字になるよう布団を敷きながら、猛はそうまくし立てた。そして「だからやっぱりアイは真山に惚れているんだ」などと力説していたが、僕には猛が、真山への賞賛を必死で隠そうとしているいつものツンデレ男にしか見えなかった。よって僕も微笑ましさを隠し、
「自主練じゃなく日々の鍛錬だから、アイは手助けをしてくれたんだと思うよ」
 と感想を述べ、僕も神社関連の鍛錬を明朝六時に始めるつもりだと伝えた。猛はそれに頭から湯気が出るほど興味を覚えたようだが、それでも鍛錬の内容を僕に尋ねることは無かった。そんな気遣いのできる漢に、僕はちょっぴり内容を明かした。
「本格的なものはできないから、食堂前のベンチに座って集中を十分、瞑想を十分するつもりなんだ。明日は鍛錬を休むよう師匠に言われているんだけど、僕は家族の中で一番できが悪くてさ。基本中の基本くらいはしておこうって思ったんだよ」
 集中とは、特定の決まりに従い心を作動させること以外を、忘れる事。瞑想とは心から離れて、心を外側からぼんやり眺める事。僕は極簡単にそう説明し、そして最後に人差し指をビシッと立てて、猛に念押しした。
「でもこれは、一番ダメダメな僕だから口にできる事。美鈴はもっと先に進んでいて、そして先に進んでいればいるほど、内容を口にできなくなる。という訳で猛、美鈴と誰かさんには、興味のある素振りを見せないであげてね」
 月に四度、美味しい夕食を山ほどこしらえてくれる美鈴の名前を出された猛は、刃引きしていない日本刀の表情で大きく頷いてくれた。美鈴とセットで挙げられた誰かさんは顔を赤くする以外の意思表示をしなかったが、そこにこそ想いの真剣さが現れていると感じた僕は、美鈴の兄として微笑まずにはいられなかった。
 そんなことを思い出しつつ布団とシーツへ目をやり、どちらも綺麗に畳まれていることを確認する。準備を終えた僕は真山にならい、静かに部屋を後にした。

 音と気配を消しすぎると誰かと出会った時かえって相手を驚かせちゃうかな、なんて危惧は空振りに終わり、誰にも会わず昇降口に着いた。鳥のさえずりと蝉の鳴き声に見送られ、僕は昇降口を後にした。
 外へ出るなり、清々しいとは言い難い空気が押し寄せてきた。怯まず深呼吸した僕を、八百万の神が助けてくれたのかもしれない。森と湖の清涼な香りが肺の隅々に届き、心身を洗い清めてもらえた。
 寮の南側には幅30メートルほどの芝生スペースがあり、そこかしこにベンチが置かれている。図書館への道すがら初めてベンチを目にした時、寮に泊まった僕がそこに座り集中と瞑想をしている光景が、脳裏をチラリとかすめた。それが今日そのとおりになったのだから、感慨もひとしおだ。靴底から伝わる柔らかな芝生の感触を楽しみながら、僕はベンチに腰を下ろした。
 虫除けスプレーを体に振りかけ、集中に入る。今の僕に集中や瞑想ができるのか少し危ぶんでいたが、拍子抜けするほどあっさり集中状態になってくれた。ふと、
 ――鍛錬は自由になるためするものなのよ
 という、桔梗の声がした気がした。
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