僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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六章

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 十分後。
 僕は薬湯で、いつも以上の夢見心地を味わっていた。訓練後の薬湯はただでさえ気持ち良いのに、それに加え、嬉しくて堪らないことが二つあったからだ。
 一つ目は、たった一本とはいえ、精霊猫の鞭を爆渦軸閃の最中に叩き斬れた事。限定解除した足腰の筋肉を「爆発」させ「うず」となし「軸」に集め、それを一方向へ「閃光」の如く放出し高速移動を成す技術、それが爆渦軸閃だ。袋小路を察知した時はこれまでも爆閃を用いてきたけど、攻撃に転用できたのは今日が初めてだったので、喜びもひとしおだったのである。
 嬉しくて堪らないもう一つは、水晶の優しさだった。輝夜さんと昴は明日も早朝稽古をするから、今夜僕が寮に泊まりそのまま登校することを、今朝の内に伝えておかねばならない。しかしそれをすると、二人の心に影が差す。よってその影を取り払い鍛錬に奮起させるべく、鞭を斬ったことを二人に話して欲しいと、水晶は僕に頼んだのだ。美鈴には水晶が直接話すと言ったのも、昨日の美鈴を労うためなのだろう。僕は改めて、湯船の中で手を合わせた。

 その約二十分後の、午前五時三十分。
 僕は後ろから、世界銀鈴声選手権日本代表の如き声を掛けられた。
「おはよう眠留くん。境内のお掃除、今日もお疲れさまです」
「おはよう輝夜さん。翔薙刀術の稽古、今日も励んでください」
 先月二十一日から始まったこのやり取りは、来月以降も続いてゆくと輝夜さんに聞いている。それでも今日は、夏休み二日目から一日も欠かすことなく続いたこのやり取りの、節目となる日。「午前六時から十一時までが翔薙刀術の稽古で、午後一時から四時までは部活に出る。これが私の、夏休みの予定」と輝夜さんに聞いた当初、鍛え過ぎじゃないかと気をもんだが、輝夜さんは部活に自由日を適時設けることで、健やかさを損なうことなくこの四十二日間を駆け抜けて行った。それどころか彼女は、その輝きを日増しに強めていった。朝の挨拶を重ねるごとに直視するのが難しくなってゆくこの女性にどう接すれば良いか、僕は四十二日間悩み通しだったのである。
 けれどもそれは、輝夜さんにとっても同じだったらしい。
「今朝の眠留くん、一段と眩しく感じるね。何か良いことあったのかな?」
 手を後ろに組み前かがみになり、輝夜さんは僕を見上げた。人跡未踏の高峰を彩る花園のような、その圧倒的な清浄さとほのかな花の香りに、僕は一歩体を寄せる。目と鼻の先の輝夜さんの瞳が、僕の瞳を映している。その二組の双眸が、どちらも相手を眩しそうに見つめていると同時に気づいた僕らは、顔を真っ赤にして悟った。
 この一瞬は、僕らを今後何度も赤面させることになる、長い長い一瞬になるのだと。
 
 紅潮した頬に両手を添えたまま輝夜さんが小走りに去ってしまい、項垂れ続けて数分が経過したころ、
「お早う眠留、いいことって何!」
 世界溌剌声選手権日本代表の如き声が後ろから掛けられた。昴も、朝の挨拶を重ねるごとに直視するのが難しくなっていった存在だった。この幼馴染の前でどうすれば豆柴にならず済ませられるかを、僕は四十二日間悩み通しだったのである。だが幾ら悩もうと、この女性と差し向かいになった時の僕の本性は、一夏ごときでは変えられなかったらしい。
「あることを二人に話して欲しいって、水晶に頼まれたのだけど」 
 昴を喜ばせたいという豆柴の本能に勝てず、僕は水晶の名を口にしてしまった。その途端、
「なになに早く話して。ほら早く話しなさいよ話しなさいったら!」
 僕は昴に詰め寄られるハメになった。リップクリームなどいらぬ鮮やかな唇と、きめ細かな透きとおる肌と、そして夜空に輝く天の川を写し取った黒髪から、星の雫がこぼれ落ち僕を包む。このままじゃ、この話を後にするって約束を果たせなくなっちゃうよと、僕は涙目になった。
「昴、落ち着いて。眠留くん、涙目になっちゃってるよ」
 僕を心底案じながらも、ころころ笑う輝夜さんの声が届いた。涙目を見られてしまった羞恥心を苦労してねじ伏せ、僕は口を動かす。
「えっとですね、それは二つ目にして、昨日伝え忘れちゃった話を先にしたいのだけど、いいかな?」
「そう言えばあなたさっきも、頼まれた『のだけど』って言ってたわね」
 バツ悪げな顔をして、昴は頭を掻いている。一層楽しげにころころ笑い、輝夜さんが場を収めてくれた。
「そういう時は、お師匠様の名前を先に出しちゃだめだよ、眠留くん」
「はい、身に沁みましてございます」
 へいこら頭を下げる僕に、娘達は華やかな笑い声をあげた。和んだ空気に助けられ、僕は一つ目を口にする。
「真山と猛に誘われて、僕は今夜、寮に泊まることになった。そのまま学校に行くから、明日の朝の挨拶はお休みだね」
 この話は、予想していなかった変化を二人にもたらした。影が差すのではなく、二人はより強く光を放ったのである。
「その話を先にしなさいって眠留に頼んだのは、お師匠様ね」
 頷く僕に輝きを一層増した二人は、幸せを織り込むように言葉を紡いで行った。
「お師匠様の技は、計り知れないほど高みにある。でも同時に、いつもすぐそばに感じられるものもあるの」 
「それは、優しさ。翔人の道を歩み始めた私を、お師匠様はいつも優しさで包んでくれた」
「生まれ変わって翔薙刀術を学ぶ私を、お師匠様はいつも優しさで包んでくれた」
「だから私達は、翔人の道を究めるためには二つの要素が必要だと、肌で学べた」
「それは、技術と優しさ。人を想い人へ優しくする心なしに、翔人の道は究められない」 
「だから私達にはわかる」
「その話を先にしなさいって眠留くんに頼んだのは、お師匠様だって」
 その時、一陣の涼風が虚空から舞い降りた。
 いと高き場所に御座おわす方の、首肯の代わりを担う清らかな風が、真円を描く葉擦れとなり四方へ消えてゆく。
 石畳も建物も、そして木々たちも涼やかさを楽しんだ数瞬の後、 
「「あはははは~~~!!!」」
 呆け顔が三つ並んでいることに気づいた僕らはそれから暫く、三人で底抜けに笑ったのだった。
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