僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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五章

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 大欅の下での即席ピクニックは十一時五分から始まった。今日は水晶の稽古が二十分早く終わり、床のモップ掛けも三人で行ったので、ここに腰を下ろしたのは通常なら稽古の仕上げをしている時間だった。しかも朝食の時点で「今日のお昼は四人でピクニックになるかもしれんの」と水晶にほのめかされていた美鈴が、十一時を目処にお弁当を作ってくれていたから、輝夜さんと昴は普段より早くお昼ご飯にありつく事ができたのである。
「美鈴、この塩むすび飛び切り美味しいよ。なんだか急に、腕を上げたみたいだね」
 真夏の真昼の直射日光がギラギラ照りつける中、四人と一匹分のお弁当と大量の飲み物を抱えて坂道を昇って来てくれた妹を労う意味も込め、僕はかぶり付いた塩むすびの出来映えを手放しで褒めた。実際、これは素晴らしいおむすびだったから、僕としては素直な気持ちを口にしただけだったのだが、そのせいで二人と一匹から非難の集中砲火を浴びせられる事となった。おむすび以外にも、美鈴には褒められるべき要素が、それこそ山ほどあったのである。
「あのねえ眠留、あんたが知らないだけで、美鈴ちゃんは私達のお昼ご飯を毎日作ってくれているの」
「眠留くん、私達がお昼用のお弁当を持ってきたのは夏休み初日だけで、次の日から今日まで美鈴ちゃんはずっと、作り立てのご飯を私達に食べさせてくれているのよ」
「ホントそうにゃ。眠留は学校に行きっぱなしだから、知らないのにゃ」
「そう、あんたが知らないだけなの。なんだか急にだなんて、頼むから言わないで頂戴。それに美鈴ちゃんの料理は、美味しいだけじゃないんだからね」
「うん、それだけじゃない。美鈴ちゃんは、稽古を終えた私達に必要な栄養と栄養素を考え、しかもそれを、午後の練習に支障のない消化の良い調理法で食べさせてくれるの。私達は美鈴ちゃんに、お師匠様に負けない感謝の気持ちを抱いているのよ」
「眠留は家を空けっ放し、おいら達をほったらかしっぱなしで、色々知らな過ぎにゃ。おいら達がいつもこうしてお昼を楽しんでいるのだって、思いもよらないのにゃ」
「そうよね末吉。私達はいつも、とっても楽しいのよね。末吉のお蔭だもんね」
「末吉くんがいてくれると、お昼が一層和やかで楽しくなるの。いつもありがとうね、末吉くん」
 僕への集中砲火が一転し急遽自分へ向けられた感謝の言葉に、末吉は専用お皿から慌てて顔をあげた。そして前足の白足袋をきちんと揃えて座り、
「こ、こちらこそ、いつも優しい撫で撫でをありがとうなのにゃ。おいらは二人が毎日来てくれて、凄く嬉しいのにゃ」
 と言って、ぺこりと頭を下げた。
「きゃ~末吉~」
「にゃにを」
「きゃ~~」
「するのにゃ」
 という、前回を倍する黄色い歓声と口だけ抗議が広大な木陰に響き渡った。僕への集中砲火を身を挺して防いでくれたと言えなくもない末吉へ胸中謝意を告げ、僕は美鈴に向き直り、深々と頭を下げた。
「美鈴すまない。僕は今回も、美鈴一人に負担をかけてしまった。ダメ兄で、ごめんな」
 そんなダメ兄に、美鈴は僕を躍り上がらせる懐かしい気配をまとい、言った。
「お兄ちゃん。もし私が大好きなことに打ち込んでお腹ぺこぺこになって帰ってきたら、お兄ちゃんは私に、ご飯を食べさせてくれる?」
「当然だよ、幾らでも食べさせてあげるよ!」
 僕は息せき切って答えた。それは考える余地がないどころか条件反射ですらない、本能の更に奥から噴出してくる、僕の核心とも呼べる願いだったからだ。纏った気配を具現化させ、美鈴は微笑んだ。
「お兄ちゃんは私にご飯を作ってくれているうち、どんどん腕が上がっていくの。自分でもそれが解るし、お兄ちゃんの料理を食べる私の様子からも、胸の深い場所でそれがはっきり解る。だから更に、腕に磨きがかかってゆくの。お兄ちゃん、それ負担?」
 負担なものかと僕はまたもや訴えた。美鈴は頷き、シートの上に並べられたお弁当へ目を向けた。
「以前の私は、塩加減はこれ位かな、火加減はこれ位かなって、最後に疑問符を付けながら料理していた。でも今は」
 美鈴は惣菜の入ったお弁当を、慈しむように両手で包み、膝に乗せた。
「でも今は一つ一つの工程の最後に、よし、を付けて料理している。『よし、これが一番の塩加減』『よし、これが一番の火加減』みたいに、一つ一つ確信しながら料理しているの。そしてそれを」 
 美鈴は体の向きを変えた。そこには、いつの間にか美鈴に体を向け話を聴いていた、輝夜さんと昴がいた。
「そしてそれを、私より遥かに料理上手な昴お姉ちゃんと、無数の超一流料理を舌で覚えている輝夜さんが、きちんと気づいてくれるの。一人密かに感じた技術の向上と、一人密かに噛みしめた達成感を、昴お姉ちゃんと輝夜さんは毎回ちゃんと理解してくれるの。お兄ちゃん、わかってくれたかな。これが今の、私達なんだ」
 その時、半径600メートルの鎮守の森の蝉たちが一斉に鳴き始めた。そのとたん僕は三年前の夏に飛び、そして美鈴が伝えようとしていた想いを、理解したのだった。
 小学四年生になるまで重度の運動音痴だった僕は、翔人になるための訓練のうち、刺突の訓練をとりわけ苦手としていた。美鈴が初日で満点を出した最も簡単な課題さえ、一年以上かけやっと及第したくらいだったから、基礎刺突の卒業試験に合格したとき僕は躍り上がって喜んだ。三年前のその出来事を思い出し、僕はやっと理解したのだ。美鈴は、あの時の僕と同じ喜びを今、味わっているのだと。
 美鈴は天才だ。いや、天才というありふれた言葉では到底収まり切れない巨大な天分を与えられこの世に生を受けた、年齢を超越した存在、それが美鈴なのだ。然るに美鈴にとって料理は、おそらく人生で初めて出会った、迷路だったのだろう。曲がりくねっていて先が見えず、振り返っても足跡が見えず、自分がどこにいるかも覚束おぼつかない巨大迷路。眼前の分岐のどちらを選ぶのが正しいのか、それ以前に先ほど選んだ分岐は正しかったのか、それどころか自分は袋小路に突き進んでいるだけではないのか、何もかも定かでない巨大迷路。料理を作る際、美鈴はそんな場所を、ずっとさまよい続けてきたのである。
 しかし今は違う。上空から俯瞰するという新たな視点を獲得した美鈴は、分岐の一つ一つを確信しながら進んでいる。そしてその先に、ゴールをしっかり見据えている。そうそれは、まさに三年前の僕と同じ。霞むほど遠くにあろうとゴールをはっきり知覚し、そこに自分が進んでいることを初めて信じられた、あの瞬間。今までの努力が無駄ではなく、くじけなかった自分へありがとうと言えたあの瞬間に、美鈴はいる。僕はそれを、三年前と同じ蝉の大合唱で、はっきり悟ったのだ。
「美鈴、長いあいだ努力を重ね、よくぞここまで料理が上手くなったね。兄ちゃんにとって料理は未知の領域だけど、美鈴の努力と踏ん張りと、そして今抱いている喜びの大きさなら、兄ちゃんにも理解できる。美鈴、おめでとう。くじけず歩み続けここまでたどり着いた美鈴を、兄ちゃんは心から誇りに思うよ」
「お兄ちゃん・・・」
 感極まる妹を、輝夜さんと昴が両側から支えた。末吉も美鈴の膝に昇り、ごろごろ鳴いて美鈴に頬ずりしていた。三人と一匹のその姿に、基礎刺突の卒業試験に合格した時の自分を改めて思い出した僕は、過去の傷の一つが今、完治したことを知った。
 あの過去のお蔭で、今こうして美鈴と心を一つにできたのだから、運動音痴にも意味と価値がちゃんとあったんだな、と。
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