僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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五章

清浄な空、1

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「ふはあ、今日は楽しかったなあ」
 湯船の心地よさに身を沈め、僕は一日を振り返った。二階堂家を初めて訪れ、京馬の御家族とプロレスをした事。秋葉原の新忍道ショップを三人で訪れ、鬼王と戦った事。そのお蔭で、紫柳子さんとエイミィに出会えた事。二階堂家で夕ご飯を頂いた事。そしてAICAの中で、京馬から長い長い打ち明け話を聴かせてもらえた事。湯に浸かりながらこうして振り返ると、今日は素敵な出来事がてんこ盛りの、豪華すぎる一日だった。そのたった一つだけでも生涯忘れ得ぬ記憶になっただろうに、それをいっぺんに体験できたのだから、僕は幸せ者なのである。僕は飽きもせず、今日一日を振り返っていた。
 そうこうしているうち、さすがに来たので場所を変え、水風呂を楽しむ。と言っても、これは水道水を溜めただけの普通の水風呂。クーラーに頼り過ぎないようウチでは毎年、夏は水風呂に入るのが習慣になっていた。特に母屋の水風呂は子供用ビニールプールほどの大きさがあり、幼稚園のころまではまさしくプールとして使われていた。水着を着て、浮き輪や水中眼鏡を用意し、昴や美鈴と一緒に水遊びしたのは僕の大切な思い出だ。ただ、途中から水着が煩わしくなり、いつも決まって三人で素っ裸になるのが恒例だったのは、恥ずかしい記憶だけどね。
 それはさておき、風呂場の隅に作られたこの水風呂を、僕は大層気に入っていた。医学的知識が豊富な猛によると、冷たすぎない水に浸かることは、速筋の疲労回復に多大な効果をもたらすと言う。冷たすぎる水風呂を長期間利用すると稀に聴覚障害を招くらしいが、生ぬるい夏の水道水に夏場だけ浸かる程度ならまったく問題ないだろうと猛は言っていた。それ以降、速筋比率の異様に高い僕は、水風呂が以前に増して好きになっていった。
 その水風呂の中で、手足をゆっくり動かしてみる。滑らかな水の感触が全身から伝わってきて、とても気持ち良い。それに身を任せ目を閉じ、心を無にする。するとついさっきの、北斗と京馬との別れ際の光景が瞼に浮かんで来た。
 僕は心の赴くまま、あの時のことを思い出していった。

 
 三人揃ってのしゃくり上げが一区切り付いた処で、僕らは「どうしても話しておきたいことコーナー」に突入した。と言ってもそれは方便にすぎず、宝物のようなひと時を少しでも引き延ばしたかっただけなのだが、蓋を開けてみると、それは非常に有意義な時間となったのである。先陣を切ったのは北斗だった。
「眠留の家のHAIとハイ子は紫柳子さんのショップのエイミィ同様、眠留に好意を寄せている。だから、落ち込むなよ」
「ええっと北斗、嬉しいやら意味不明やらで、僕リアクションに困るんだけど」
「そう返されても手短にせねばならんから、困るのだが」
 と眉を寄せるも、北斗は必要最小限のことを最短時間で話してくれた。
「エイミィのようなAIは、知られている以上にいると俺は考えている。例えば眠留は、エイミィの特殊性に気づかなかった。なぜなら眠留にとってエイミィは、HAIやハイ子となんら変わらない、普通のAIだったからだ。よって眠留のような人が世界中にいれば、報告されていない特殊AIも、世界中に大勢いることになる。眠留は間違いなく奇人だが、世界最高の奇人ってほどでもないから、似たような人は世界中にいるだろう。然るにエイミィのようなAIも大勢いるというのが、俺の推測だな」 
 間違いなく奇人と断言され、どうリアクションをとればいいか更に判らなくなったのに、京馬だけは「奇人に違いねぇ」とゲラゲラ笑っていた。こいつめ、明後日はマジで覚悟しろよ!
「俺は以上だ。眠留は何かないか?」
「えっ、なんだか性急なんですけど?」
 いきなりこっちのターンになったので困惑の表情のまま脳を働かせた。強いていうなら紫柳子さんのデジタル名刺が気になったが、いかに北斗と言えどそれを話す時間はないだろう。僕は困惑顔を一掃し、首を横に振った。
「うん、なにも無いかな。京馬はどう?」
「超手短に話すから、いいかな?」
 もちろんいいよと即答すると、京馬はほっとした表情で問いかけてきた。
「眠留が紫柳子さんに初対面の挨拶をしたとき、大した少年だって感心されていたよな。ああいう礼儀作法を、眠留は神社で習ったのか?」
 北斗の話は無理だったが京馬の話には道筋が見えたので、僕は正直に答えた。輝夜さんもこれくらいなら、許してくれると思うしね。
「ううん、全然違うんだ。輝夜さんとの初めての食事で、マナーに関する自分の無学っぷりが怖くなっちゃってさ。HAIにお願いして、マナーの勉強を少しずつしていたんだよ」
 輝夜さんの英国式茶会について僕はかいつまんで話した。その折の、『マナーの本質は互いを束縛しあう決まりではなく、互いが自由になるための手順である』という説明に、京馬はいたく感心したようだった。
「紫柳子さんは、俺の両親に礼を尽くして感謝してくれたのに、俺は相応しい返礼ができなかった。先週、眠留のおじいさんとおばあさんにお会いした時も同じで、俺は申し訳ない気持ちで一杯だった。今なら理解できるよ。俺は、不自由だったんだな」
 それでも精一杯気持ちを伝えようとする京馬を大吉はとても気に入っていたよ、と言葉をかける訳にもいかずまごついていると、北斗がいつもどおり助け舟を出してくれた。
「マナーの本質については、プロトコールの授業で習ったから俺も知っている。だがそれは単なる知識でしかなく、実感という尺度では、俺は京馬に完敗しているだろう。なあ京馬、もし興味があるなら、後期は俺と一緒にプロトコールの選択授業を受けてみないか。鉄は熱いうちに打てって、昔から言うしな」
 顔を輝かせ「いいのかな」と訊く京馬へ、「いいに決まってるだろ」と北斗が太鼓判を押した。「家庭料理の選択授業を受けようと決めた時の、僕の気持ちがわかったんじゃない」なんて上から目線で問いかけると、「俺は机に突っ伏さなかったから、悪いが半分しかわからん」と反撃をくらってしまった。車内に笑いが溢れる。この笑いをもって、どうしても話しておきたいことコーナーは終了した。そしてそれは同時に、三人で過ごした今日が終わった瞬間でも、あったのだった。
 最初に降車する僕が帰宅の指示を出した。車内の四隅から、モーターに電力を供給する甲高い音が聞こえてきて、夜の気配を押しのけてゆく。これまでとは真逆の機械的活気に包まれ、僕はゆっくり息を吐いた。
 後部ライトが点き、AICAが右斜め後ろにバックする。そこで一旦停止し、180度ターン。鎮守の森の暗がりが視界の右へ去って行き、代わりに月の差す世界が左から広がってゆく。月光の意外な明るさが、ここで過ごした時間の長さを教えてくれた。
 ヘッドライトが点き、AICAは前進を開始する。それを感知し、駐車場南西のライトが光を灯した。僕らは誰一人、声を発しようとしなかった。
 母屋に通じる小道の前でAICAは停車した。リクライニングモードになっていた座席が自動的に通常モードへ移行し、上体が強制的に持ち上げられていく。その際ほんの一瞬、僕は生まれて初めて、人工知能に恨みを抱いた。でも、ハイ子の謝罪の声を耳にした気がして、お約束の自己嫌悪に陥る。心の中でハイ子に詫び、僕は体を右へ向けた。
「二人がいてくれたお蔭で、今日は最高に楽しかったよ。じゃあ僕、行くね」
 いつもより高めの声で、なるべく明るく言った。
「ああ、今日は最高だった。じゃあまたな、眠留」
「最高過ぎて睡眠時間を削らせちまって悪かったな。お休み、眠留」
 二人も、いつもより高い声で応えた。
 そして僕ら三人は、普段より何倍も普段っぽく振る舞って、それぞれの場所へ帰って行ったのだった。

 
 両手で水をすくい、顔を激しく洗う。別れ際に流せなかった涙を大量の水でごまかし、僕は水風呂を出た。
 すすぎのシャワーを浴び、風呂を終える。脱衣場でシャツとパンツを身に付け、離れのドアをそっと開けて廊下を伺う。僕は最近、美鈴に下着姿をさらさぬよう注意していた。近ごろ急に大人びてきて、以前に増して綺麗になった妹に下品な姿を見せないことは、兄である僕の務めのような気がしていたのだ。廊下と、その先の台所に美鈴の気配がないことを確認し、僕は離れを後にした。
 母屋と離れを結ぶ廊下を忍び足で歩く。台所と玄関を経て僕と美鈴の部屋が並んでいる場所に近づくにつれ、僕は忍び足を高性能化させていく。相殺音壁で守られているとはいえ、討伐を明日に控えた妹の部屋の付近でドスドス歩くなど、言語道断にも程があるからだ。翔人の技を駆使し足音を極限まで消し去り、僕は自室のドアをそろりと開けた。
 しかしその一秒後、離れからここに至るまでの配慮がすべて無駄だったことを僕は知る。なぜなら僕の部屋の床に、妹がちょこんと座っていたからだ。
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