僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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三章

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「うん、それと?」
 催促がましくせず、水を向けるよう問いかける。女性受けの断然良いこの問いかけ方もれっきとしたマナーですよと力説するHAIに従い、僕はこれをここ数週間ずっと練習してきたのだ。文字のみのやり取りであっても、この幼馴染には僕の気持ちが通じたのだろう。昴の返信には、どことなく丸みが感じられた。
「眠留とは、向い合せて座るより、隣あって座りたい。最近、特にそう思うようになったの。それも前と違って・・・」
「以前とは逆の、僕が右で昴が左、でいいかな」
「うん、お願い」
 つい先日、これに関連する事柄を僕は北斗に聞いていた。前期委員がらみで交渉ごとをする際、北斗は状況に応じて座る位置を変えているそうなのだ。
『上下関係を印象付けたい場合は向かい側に座り、対等でいたい場合は横に座る。これを基本に、会議室の二つのテーブルを俺は使い分けているんだ』
 そう確かあれは、一昨日の休み時間。北斗は僕に、こんな話をしてくれたのだ。ふと、ある推測が心に浮かぶ。以前の昴は僕にとって、圧倒的に格上の存在だった。でもそれが変化してきたとしたら、どうなるだろうか? 差が詰まってきたとしたらどうなるだろうか? 二人の座る位置も、おのずと変わってくるのではないか・・・
「お~い眠留、もしも~し」
 すぐ耳元でそう呼びかけられ、僕は椅子から転げ落ちそうになった。くすくす笑いながら昴は種明かしをした。
「何度も書き込んだのに返信が全然ないから、眠留んちのHAIに頼んで3D音響にしてもらったの。びっくりした?」
 3D映像の進歩の歴史は、そのまま3D音響の進歩の歴史でもある。どんなに優れた3D映像を作っても、明らかに別の場所からその音が聞こえて来るんじゃ、興ざめだからね。
 また3D音響は、消音技術も大いに進歩させた。音を打ち消す音の壁、通称「相殺音壁」を適切な場所に展開し、音漏れを激減できるようになったのである。これは北斗によると、量子AIの助けなしには成立しない凄い技術らしい。会議棟の相殺音壁は特に素晴らしく、大会議室で10のグループが個別に議論しても、だだっぴろい大会議室に自分達のグループしかいない錯覚をしばしば覚えると言う。相殺音壁とは真逆の効果をもたらす増幅音壁というものもあり、これを展開すると小さな音を大きくすることができる。増幅音壁は六年生校舎の大会議室に一つだけ設置されていて・・・ん? 会議室?
「昴、あのさあ」
「うん、なあに」
 思わず口にした呼びかけに昴はすぐさま応えた。物思いにふける僕を邪魔せぬよう、静かに待ってくれていたのだ。その優しさに癒されつつ、続きを話した。
「湖校の会議室で話し合うってのは、どうかな?」
 一拍置いて、昴は叫ぶように言った。
「会議室、最高だよ! 眠留、ありがとう!!」
 それ以降ははやてのごとく事が進んだ。先ず決まったのは、会議室の使用目的。
【発案者である猫将軍眠留より高度な高速ストライド走法を、天川昴は体育祭で披露した。そのことについて、二人で話し合うため】
 これは嘘ではない。あの走法を僕以上に使いこなした昴に訊きたいことが、僕にはそれこそ山ほどあったのである。よってこれなら良心の呵責を覚えず皆に話せると、僕らは胸をなで下ろした。
 立て続けに次の二つも決まった。
【六年生体育祭が開かれる明日は学校に皆が集まるので、会議室を使いたいと告げ、助力を請う事】
【明日中に会議室の使用申請書を完成できるよう、下準備を可能な限り進めておく事】
 以上三つを決めた僕らは、間髪入れず準備に取りかかろうとした。だがまたしても僕はここで、睡魔に勝てなくなってしまう。
「会合場所に会議室を思い付いてくれただけで、お釣りがたっぷり出るわ。だから後は私に任せてね。眠留、お休みなさい」
 昴はそう言って通信を切った。申し訳ない気持ちを抱えつつベッドに倒れ込み、気絶するように眠った。情けないが、前日に増す安眠を僕は得たのだった。
 明けて土曜、つまり昨日の午後十二時二十分、六年生体育祭が昼休みに突入するや、昴は皆に手を合わせた。
「みんなごめん。どうかみんなの力で、私と眠留を助けてください」
 皆にどう切り出すかをまったく聞いていなかった僕は、子細を説明する昴の隣で、大慌てで体を直角に折った。それが、かえって良かったのだと思う。頭の上から、北斗、猛、輝夜さん、芹沢さんの四人の笑い声が一斉に降り注いだのだ。顔を上げる僕の目に、ハイ子を操作し終えた北斗と猛の姿が飛び込んできた。
「私事での会議室使用申請は申請書のできが悪いと即却下だから、気を抜けん。前期委員一年代表の権限で、実技棟の教室を一つ確保した。すぐ向かおう」
「二人の許可をもらい次第、100メートル走と混合リレーの映像をダウンロードできるよう、教育AIに申請した。実際の映像を組み込んだほうが、絶対いいからな」
 輝夜さんと芹沢さんも、口々に協力を申し出てくれた。
「教育ソフト開発の研究をしている私のPCスキルが、眠留くんと昴の役に立つと思う」
「これでも私、去年の西東京プレゼン大会で優勝したの。文書作成なら助けになるかな」
「みんな、ありがとう。じゃあ、さっそく行こう!」
 僕は六人の先頭に立ち、足早に一年生校舎を目指した。目頭に込み上げてくる熱いものを、皆に見られたくなかったからだ。
 それからは怒濤の勢いだった。北斗が申請書のフォーマットを空中に映し出し、猛が僕と昴の映像をダウンロードし、芹沢さんが草稿をたちどころに書き上げ、輝夜さんがそれらをフォーマットに落とし込んでゆく。人体工学に基づく複雑な計算式を添えた映像を分かりやすく編集した猛は、映像監督。僕と昴の意見を取り入れ文章を作成した芹沢さんは、台本作家。細部を詰め品質向上に尽力した輝夜さんは、演出家。そんなみんなの能力を統括し全体を淀みなく牽引した北斗は、総監督。そうまさに、一人一人がその道のプロフェッショナルとして活躍し、協力し合って、超高品質の申請書を瞬く間に作りあげてしまったのである。これが研究学校の教育理念であることを理解し共感したからこそこの学校に入学したとは言え、それでも皆の働き振りに僕は興奮と、そして焦りを覚えずにはいられなかった。僕は誓った。皆と肩を並べられる僕に、僕もなるぞと。
「よし、一応これで完成だ。眠留、昴、目を通してくれ」
 北斗に促され二人で目を通す。身贔屓みびいきではなく、僕はこの人生でこれ以上の申請書を見たことが無かった。そう伝えると、四人は揃って満面の笑みを浮かべてくれた。そんなみんなに僕は改めて、体を直角に折ったのだった。

 そして今日。
 皆の助力によって獲得した、第一小会議室。
「昨日みんなが協力してくれた申請書、あれは素晴らしかった」
 長い回想の末、僕は独りごちた。テーブルの角を挟んで座る幼馴染はしかし、会話の続きのように淀みなく応えてくれた。
「ええ、素晴らしかったわ。10秒以内に教育AIから許可が下りたのは一年生ではあれが初めてだったのも、頷けるわね」
「しかもあれ、三十分ちょっとで作っちゃったんだよね。皆の能力の高さに、僕は驚くと同時に焦っちゃってさ。僕も、負けてはいられないなって」
 暫く経っても返事がないので隣へ目をやる。昴は顔を左に向け、窓の外を眺めているようだった。なんとはなしに、僕も同じ方角へ視線を向けた。
 西に面する小会議室の窓はほぼ、隣接する体育館によって視界を塞がれている。だが窓枠の左端の僅かなスペースだけは体育館に塞がれておらず、向こう側の景色を伺うことができた。上半分に広々とした青空が広がり、下半分に狭山湖の堤防が壁となって立ちはだかるその景色を、僕らは透明なガラス越しに見つめていた。不意に、昴が呟いた。
「あの壁を乗り越えれば自由な空が広がっていると思っていたのに、私が見ていたのは、ガラス越しの景色でしかなかった。私はガラスを打ち破れるのかしら。いいえ、打ち破れたとしても・・・」
 昴はかぶりを振り、溜息を洩らした。僕はなぜか、航路を見失い闇夜を彷徨う小舟に乗っているかのような不安に駆られた。
「打ち破れたとしても、私はあの巨大な壁を乗り越えられるのかしら。いえ乗り越えたとしても私に出来るのは、壁の上に佇み空を仰ぐことだけではないかしら。でも、たとえそうだとしても・・・」
 彼女は目を閉じ、少し顔を伏せてから、目を開け僕に向き直った。そして、
「眠留の言うとおり、私も負けていられないもんね」
 昴は進むべき針路を指し示す、輝く星々の笑みを浮かべた。
「さあ、話し合いに移りましょう。眠留、私から始めていいかしら?」
 道標みちしるべがそう言うのだから、異存などあろうはずがない。僕は深く頷いた。
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