僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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二章

怪我の経緯

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「私が猛に初めて出会ったのは、小学校の入学式の前日だった」
 その日、一人で通学路の下見をしていた芹沢さんは、同じように一人で通学路の下見をしている男の子と出会い、仲良くなった。男らしくて優しくて、一緒にいると楽しいその男の子を、芹沢さんはすぐ好きになったと言う。そして次の日の入学式、その男の子は隣の席から芹沢さんに、元気一杯挨拶した。昨日仲良くなった龍造寺猛だ、今日からヨロシクな!
「猛はそう言って、ニカッと笑ったわ。それから小学五年生の終わりまで、私達はずっと同じクラスだったの」
 男らしくて優しくて一緒にいると楽しいというくだりで猛の脇腹を無意識に肘でつつきそうになった僕は、自分の子供っぽさを恥じた。そして気持ちを改め、芹沢さんの話に意識を集中した。
 一年生の頃からデタラメ級に脚の速かった猛に「置いていかれたくない」という想いを抱いた芹沢さんは、ある行動にでた。それは、弟子入り。宮崎の研究学校を卒業し、仕事のかたわら自宅で撫子教室を開いていた近所のお姉さんを単身訪れ、弟子入りしたのだと言う。
「弟子入り、さすがだね!」
 集中していたのが災いし、僕はそう口走ってしまった。小学一年生であっても芹沢さんなら、弟子入りという言葉がふさわしいと感じたのである。慌ててそう説明する僕に、猛が深々と頷いた。
「清良には、豊かな素質が元々あったのだろう。初めて会った時も淑やかな子だと思ったが、お弟子さんになってからの清良は、それはそれは・・・」
 猛はここで我に返り、バツ悪げにそっぽを向いた。芹沢さんはそんな猛に、目もとを潤ませ微笑んでいる。僕は胸が、じんわり温かくなっていった。
 小学五年生の終わり、親の都合で東京へ引っ越すことになった芹沢さんは当初、小学校を卒業したら帰郷し、師匠の母校である宮崎の研究学校で寮生活をするつもりだったと言う。しかし師匠の紹介で湖校撫子部を見学し、次期部長と目される女性に出会った芹沢さんは、湖校への進学を強く希望するようになる。その女性こそは現撫子部部長である、東雲の椿。湖校では毎年一人ないし二人の六年生女子へ、二つ名が献呈される。今年は二つ名を冠する生徒が五年振りに二人現れた年で、一人は言わずと知れた朝露の白薔薇。そしてもう一人が芹沢さんの所属する撫子部部長の、東雲の椿なのだ。
「師匠もそれを熱心に勧めてくださった。二年前、撫子全国大会が福岡で開催されたおり、四年生ながら準レギュラー選手として福岡へやって来ていた部長に、審査委員を勤められていた師匠は惚れ込んだそうなの。『私の初弟子であるあなたが、あの子のいる学校に入学を望むなら、こんなに嬉しいことはありません』 私のことを第一に考え、師匠は私の希望を後押ししてくださったわ。だから私、舞い上がってしまって‥‥」
 芹沢さんは、面持ちに後悔の色を浮かべて俯いた。猛からも同じ気配を感じた僕はなるべく自然に、湖校に入学した頃の話をした。
「入学時のオリエンテーションで遠くからお見かけしただけだけど、撫子部部長の着物姿に、僕は見とれちゃってさ。そういう時はいつも必ず昴に小突かれていたんだけど、今日はなんで小突かれないのかなって隣を向いたら、昴も同じようにウットリ見とれていた。というか周囲の一年生全員が見とれて、溜息をもらしていたよ。ホント凄い人だと、僕も思うよ」
 芹沢さんは顔を上げ、にっこり笑ってくれた。猛に髪をもみくちゃにされたのは、閉口したけどね。
 撫子部は研究学校のみにある、研究学校を代表する部活の一つ。華道、茶道、書道、そして筝曲そうきょくの四つの伝統芸能を身に付けることを目的とするこの部は、普通の学校だと部費がかかり過ぎてしまう。しかし生徒数五千を誇る研究学校なら、四つとも選択授業にあるため、指導員と備品を学校運営予算で賄うことができるのだ。撫子部は研究学校のみにある、研究学校を代表する部活なのである。
 その撫子部の一年エースと名高い芹沢さんが、僕の髪をもみくちゃにし終えた猛に、花の笑みで言った。
「猛に聞いていた通り、猫将軍君は優しい人なのね」
 芹沢さんから後悔の気配が消えて、よほど嬉しかったのだろう。猛は自信満々に「もちろんさ」と胸を叩いた。僕と芹沢さんは顔を見合わせ、ププっと笑った。
「猫将軍君には妹さんがいらっしゃるのよね。私にも兄がいて、私にとても優しくしてくれるの。猫将軍君もきっと、優しいお兄さんなのでしょうね」
「うん、僕にはもったいない妹なんだ。そうだ今度、猛と二人でうちの神社に遊びにきてよ。校門から歩いて十分とかからない場所にあるから、いつでも気軽にどうぞ」
「そう言えば北斗から聞いた。なんでも、巫女姿の神々しい妹さんだとか」
「私も天川さんから聞いた。巫女のアルバイトに誘われても、比べられるのが恥ずかしくて、お断りするしかない妹さんだとか」
 僕は盛大に照れた。そしてこの二人を、美鈴に紹介したくてたまらなくなってしまった。
「妹は来年、湖校に入りたがっているんだ。だから二人が来てくれたら、凄く喜ぶと思う。二人ともぜひ、遊びに来てね!」
 それから暫く、僕らは家族の話題で盛り上がった。中でも一番楽しかったのは猛の六つ下の弟、みつるくんの話。悪戯っ子でありながらも正義感の人一倍強い満くんには楽しいエピソードが山ほどあり、僕は腹筋がつるほど笑いまくった。満くんは芹沢さんにとっても可愛くて仕方ない弟みたいな存在らしく、猛と競うように笑い話を提供していたが、ふと悲しい顔をして、こう呟いた。
「私が考え無しに舞い上がってしまったせいで、満から大好きなお兄さんを引き離してしまった。満、寂しがっているだろうな」
「清良」
 そう声を掛けるも猛は拳を握りしめ、口を固く結んだ。多分二人はそれについて、数え切れぬほど話し合ってきたのだろう。そしてその都度、二人は食い違う意見をぶつけ合ってきたのだろう。
 だが今回、猛はそれを選ばなかった。
 猛は理解しているのだ。
 二人が先へ進むためには、芹沢さんに想いの全てを吐き出させねばならないのだと。
 そしてそれは、今なのだと。
 然るに僕も何も言わず待った。芹沢さんが自らの意志で、次の一歩を踏み出す瞬間を待った。芹沢さんは顔を上げ、空を見つめつつ話を再開した。
「私は夢見た。湖校で素晴らしい学校生活を送る私を、私は夢見た。でも舞い上がっていた私は、それ以上を夢見てしまった。猛も一緒に、同じ学校へ行くことを私は望んだ。猛、一緒に湖校へ行こう。湖校陸上部は中距離も強いから、私と一緒に湖校へ行こう。じゃないと私、寂しくてたまらないよ。私はまるで呪文のように、毎日毎日猛にそう言い続けたの」
 芹沢さんは目線を下げ、山々へ目をやる。だが芹沢さんの目に山々が映っていない事を、僕は自分の経験から知っていた。
「私は研究学校に入学するための準備を始めた。明確な入学基準を公開していなくとも、自主的で自発的な生徒に入学案内が届きやすいことは知られていたから、私は自主的で自発的な生徒になった。そして舞い上がっていた私は猛にこう言った。『猛の脚がもっと速くなったら自主性と自発性で認めてもらえるはずだから、もっともっと速くなって』 根拠も何もない、無責任極まりないことを、私は猛に言い続けたの」
 芹沢さんは更に目線を下げ俯き、きつく握りしめられた自分の手を見つめた。
「ある日、宮崎で仲の良かった子から、体育の授業で猛が脚を痛そうに引きずっていたことを知らされた。私はすぐ猛に電話した。猛は大丈夫だ心配するなと言った。私は一瞬でわかった。大丈夫でもないし心配しなければならないと、私は瞬時に確信した。でも、でも舞い上がっていた私は・・・」
 芹沢さんは目を閉じ身を固くした。僕には芹沢さんの気持ちが痛いほどわかった。これは、泣くことを自分に許さない人の姿だ。泣き崩れ己の非から逃げだすことを自分に許さない人の、姿なのだ。
「私は言った。猛、頑張って。頑張って陸上大会でいつも以上の成績を出して、私と同じ学校に来て。それは絶対言ってはならないことだと分かっていたのに、私はそれを言った。それを言えば、無理に無理を重ねてでも猛が頑張ることを知っていたのに、私はそれを毎日毎日呪いのように言い続けた。猛はそれに応え、無理に無理を重ねて、九州陸上大会で優勝した。そして、脚を壊した。昔なら選手生命を諦めなければならないほど、猛の脚は傷ついていた。そう全て、全て私のせいなの!」
 心の中に、二人の僕がいた。一方の僕は、猛を罵倒していた。世界一好きな人をこんなに苦しめやがってこの超絶大バカ野郎と、思いつく限りの罵詈雑言で僕は猛を罵っていた。
 しかしもう一方の僕は、猛を称え共感していた。男には、我が身がどうなろうと知ったこっちゃ無いときがある。世界一好きな人のために、命を平気で投げ出せるときがある。身をもってそれを経験している僕は心の一方で猛を心底称え、そして共感したのだ。
 僕はそう、二人に話した。何もかもは話せずとも、芹沢さんの話に僕が感じたことだけは包み隠さず話した。二人は何か言いたげだったけど、何も言わず僕の話を聴いてくれた。話し終えた僕に、猛が万感の想いを込めた表情で尋ねた。
「ゴールデンウイーク明けに眠留がゲッソリやつれていた、あれか?」
「ああ、猛にマジ世話になった、あれだ。そうだ芹沢さん、話の腰を折って悪いんだけど、僕が猛にどれだけ感謝しているかを知ってもらうため、僕の話をしていいかな」
「もちろんです。それに、話の腰を折るなんて事はありません。猫将軍君、さっき言ってくれたよね。『芹沢さんだからこそ、猛は限界を超えて頑張れた。けどそれが芹沢さんを深く苦しめていることを知っているから、猛は更に頑張って、何でもない演技をしているのだと思う』 私はそれを、一度も考えたことが無かった。猛を頑張らせ過ぎた自分を責めることが、猛を更に頑張らせてしまっているなんて、私一人では到底辿り付けなかったと思うの。それを話してもらえただけで、心がどれだけ軽くなったことか。だって私が願うのは、何よりも一番願うのは、私のせいで猛にこれ以上・・・」
 堪えきれなくなった芹沢さんが大粒の涙を零した。猛はハンカチを渡し、芹沢さんを胸に抱き寄せる。芹沢さんはそれから暫く、猛の胸に顔をうずめ、全てを吐き出すように泣いた。
 僕は二人の邪魔をしないよう、一人静かに空を見上げた。そしてゴールデンウイークが明けてからの、僕と猛の共同研究を思い出していた。
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