僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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二章

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 明日は部長が直に稽古を付けてくれる日だと、彼女は期待と興奮に全身を輝かせて答えた。明後日から始まる湖校体育祭に向け気合いを入れるべく、一年生から三年生までの各道場を部長が訪れ、指導を直接ほどこしてくれるそうなのだ。ショッピングモールの件を伏せて正解だったと胸の中で安堵しつつ、僕は彼女の言葉に耳を傾けた。
「前回の直接指導は連絡無しに行われたから、部長に稽古を付けてもらえなかった一年生部員が十人ほどいたの。その子たちの、今回の張り切りようと言ったらないわ。もちろん稽古を付けてもらえた子たちも負けないくらい張り切っているから、昨日までの七日間は凄まじかった。意識が途切れるまで稽古して、気付いたら道場の隅に寝かされていましたって部員が続出したの。だから今日は年に一度あるか無いかの、強制休日になっちゃった」
 僕は驚いた。これは、運動に縁のなかった人が急に運動したせいで気を失いましたという話ではない。東日本随一の薙刀強豪校である湖校薙刀部に所属するほどの薙刀使いが、稽古の激しさに気絶するという話なのだ。僕には想像つかな過ぎて、至極ありきたりの感想を述べる事しかできなかった。
「す、凄いね」
「うん、凄い。一説に私達女は、肉体の限界を避ける本能が男性より強いそうなの。でもそれを超えないと辿り付けない領域があるのも、稽古をしていると直感的に解る。けど解っていても本能が邪魔をして、自分の限界を超える事がなかなかできない。だから私と昴は昨日までの五日間、一心不乱に稽古したわ。そして昨日とうとう、気付いたら道場の隅に二人並んで寝かされていたの。私達はなぜかそのあと、涙が止まらなくなっちゃって」
 信じ難い話だった。昴は薙刀も半端なく強いが持久力もべらぼうで、小学校時代の長距離走では全国レベルのタイムを叩き出していた。その昴と、涙を拭きながらエヘヘとはにかむこの少女は、二人一緒にぶっ倒れるまで猛稽古を繰り広げたそうなのだ。もし今朝、昴からメールを受け取っていなかったら、隣に座るこの美少女に様々な意味で尻込みしてしまい、僕は何も言うことができなかっただろう。僕は心の中で幼馴染みに、平身低頭したのだった。
「じゃあ輝夜さんと昴は明日の稽古を、万全の状態で臨めるんだね」
「そうなの! 今朝電話したら疲れは残ってないって昴は言ってたから、明日の部長の稽古に二人とも万全な状態で臨める。それが私、嬉しくて嬉しくてたまらないんだ」
 僕は今朝、「栗羊羹と紫芋羊羹を半分ずつ食べたら部活の疲れが一晩で消し飛んだ。ありがとう眠留」というメールを昴から受け取っていた。その時も嬉しかったが経緯を知った今は、あの時以上の嬉しさが胸にせり上がってくる。輝夜さんにとってだけでなく僕にとっても、ショッピングモールの件を伏せておいて正解だったと僕は思った。
 そうこうしている内に、彼女のAICAが駐車場に現れ、僕らの目の前に止まる。
「眠留くん、ちょっと待っててね」
 弾む口調で彼女はそう告げ、ほんの数歩前に止まるAICAへ駆け寄って行った。僕はハッとし、急いで立ち上がる。その直後、後部座席から紙袋を取り出した輝夜さんが、こちらへ振り返った。ぼへ~っとベンチに座り続ける醜態をさらさず済んだ事を、僕は神に感謝した。
「眠留くん、十日もお待たせしちゃいました。お誕生日、おめでとう!」
「ありがとう輝夜さん。開けてみていいかな」
「・・・はい、どうぞ」
 目の端に一瞬、恥じらいに染まった彼女が映った。その姿へ視線が行かぬよう、僕はプレゼントを紙袋から丁寧に取りだし、包みを開けた。
 パジャマだった。
 それは、純白のパジャマだった。
 初めて目にしたはずなのに、僕はそのパジャマに強い既視感を覚えた。
 見るからに高級そうな、実際そう確信せずにはいられない素晴らしい肌触りのこのパジャマに、なぜこうも既視感を覚えるのだろう?
 僕は何気なく、本当に何気なく、パジャマを顔に近づけてみた。
 謎が解けた。
 パジャマからほのかに、輝夜さんの香りがしていたのだ。
「眠留くん、顔を近づけるのは、なぜかとても恥ずかしいのですが」
 パジャマと同じ香りの、パジャマと同じ生地でできた純白のワンピースに身を包み、輝夜さんは恥ずかしそうに頬を赤らめていた。ふと我に返り、驚愕した。なんと僕は無意識に、パジャマへ顔をうずめようとしていたのである。パニックになった僕は言うに事欠いて、おバカ丸出しの質問をしてしまった。
「うわわわわ、決してそのような破廉恥なことをしようとしたのではなく、ええっとあのつまり、輝夜さんはこのパジャマをいつから部屋に置いていたの?」
「ひゃっ、ひゃいっ!」
 と噛みまくった彼女は顔を小刻みに横へ振り、深呼吸してから言い直した。
「はい、先週の土曜日、実家に帰った際そのパジャマを購入しましたから、一週間ほど包みを机の上に置いておりましたが、そ、それがどうか致しましたか?」
 まるで小動物をイジメているかのような気持ちに僕は陥った。以前から気付いていたことだが彼女は緊張すると、言葉遣いが丁寧になる。それが可愛く、そして愛おしかった僕は彼女の敬語にさほど注意を払ってこなかったが、ここまで畏まらせるのは罪悪なのではないかと感じたのだ。しかしここで謝罪すると残り香についても話さねばならなくなり、すると彼女の恥じらいを天井知らずに肥大化させるおそれがあったので、謝罪は却下し、僕はもう一方の危惧を口にすることにした。
「学校でいつも顔を合わせている僕に一週間も秘密にしていて、つらい想いをさせちゃったかな。かえって負担だったとか?」
 どうやら僕は正解を引いたらしい。彼女は緊張をみるみるとき答えた。
「ううん、負担だなんて一度も思わなかったよ。その生地の心地良さを私はよく知っているから、机の上の包みを見るたび思ったの。眠留くんも気に入ってくれるかな、このパジャマを着て気持ちよく眠ってくれるかなって。だからかえって、私は幸せでした」
 輝夜さんはそう言って、幸せいっぱいに笑った。僕は涙を必死に堪えて言った。
「輝夜さん、ありがとう。僕こそ、僕の方こそ幸せだよ。早速今夜から、このパジャマを使わせてもらうね」
 
 太陽がまだ世界を明るく照らす、五月十五日の午後五時半。
 僕と輝夜さんは、初めてのデートを終えたのだった。
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