僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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 それは、日の出まで十数分を残すのみとなったころ起こった。
「緊急依頼受信!」
 末吉が急停止して叫んだ。僕も急停止し、はるか東を凝視した。翔化視力でも朧げにしか捉えられないがあそこに何かがあるのを、いや、あそこに誰かがいるのを僕ははっきり感じる。あれは、あれは誰だ!
「練馬区大泉学園駅上空に、闇油悲想一体出現。現在、初級翔人一名が応戦中。可能な者は、至急応援請う!」
 応援請うの言葉が耳に届くや、僕は十六圧で東へ翔た。ここは東久留米市上空だから、依頼地まで7キロしか離れていない。ここからなら、間に合うはずだ!
「出現した闇油悲想は第三段階直前の最終形態。直径2メートル半、攻撃速度秒速200メートルの追尾攻撃型。強敵すぎにゃ。眠留、ここはジジ様とババ様を待つにゃ」
 翔人より速く駆ける末吉が、僕に追いつき追加報告する。確かに今の僕らには強すぎる敵だ。だが僕は、祖父母を待つわけにはいかなかった。あの翔人を、僕は知っている気がする。いや、僕の直感が叫んでいる。僕はあの翔人を知っている。あの翔人は!
 前方に、闇色に蠢く球体を捉える。その球体は濃密な粘度を持つ、まさに油だ。突然、闇油が蠕動を止め、触手を大針に変え高速で突きだした。僕は大針の向かう先を目で追う。
 そこに、薙刀を構える一人の少女がいた。
 僕はバカだ。最低最悪の大バカ者だ。彼女の動きを見て、なぜ気づかなかった。あれは翔人だからこそ可能な動きだとなぜ判らなかった。あの人は、あの人は僕の!
 少女は迫り来る大針を見事な体捌きで躱し下方へ逃げた。通常の闇油なら、それで攻撃を回避できただろう。しかし少女がいま対峙しているのは闇油の最終形態。奴には、追尾攻撃が可能なのだ。その躱しかたでは、逃げ切れない!
 少女が躱した大針から、少女へ向けて新たな大針が突き出される。それをなんとか躱した少女へ、再度新たな大針が突き出される。それを間一髪でさばくも、バランスを崩した少女は大きくよろめいた。闇油は歓喜に震え、とどめとばかりに極太の針を放った。それは未だ体勢を整えられない少女を確実に捉え、今まさに刺し貫かんとしていた。僕の中で何かが爆発した。
 させるものか!
 彼女は僕の、かけがえのない人なんだ!
 僕は生命力消費量を百倍に圧縮し、白銀さんを貫こうとする極太針を叩き斬った。

 肉体での百圧は意識速度と神経伝達速度を十倍にするが、だからといって肉体を十倍の速さで動かせるわけではない。骨や筋肉の物理強度を無視する事は、不可能だからだ。
 しかし物理の制約に縛られない翔体なら、それが可能となる。意識速度と翔体操作速度を十倍にすれば、翔体を十倍の速さで動かせるようになる。言い換えれば翔化中の百圧は、時間速度を十分の一にするのと同義なのだ。
 闇油と戦う薙刀の少女が白銀さんだと判明するや、僕は二十五圧を発動し、救援に向かうスピードを五倍に上げた。しかし五倍速でも間に合わないと悟った瞬間、僕は圧縮百倍の十倍速に加速し、白銀さんを貫こうとする触手になんとか追いつき、それを叩き斬ったのだ。
 その僕へ、闇油が驚愕の意識を向ける。最終形態とはいえ魔想の第二段階に留まる闇油は、複数箇所への同時集中がまだできない。よろめく翔人を己の触手で貫けると信じ切っていた闇油は、僕の存在にまったく気づいていなかったのである。僕は見せつけるように、猫丸を振りかぶった。
 そうだ、お前の敵は彼女じゃない。
 お前の敵は、この僕だ! 
 僕は正面から闇油に斬りかかって行った。
 百圧の十倍速で斬りかかる僕を敵と認識したのだろう、闇油は僕に意識を集中し、大針を打ちこんできた。それを予期していた僕は大針を余裕で捌き、右後方へ螺旋軌道をとる。直線運動しかできない闇油は追尾攻撃も多角形で行うため、螺旋の回避軌道が非常に有効なのだ。一本調子ではない複雑な螺旋を描くことで追尾攻撃を難なく躱し、僕は再び正面から闇油に斬りかかっていった。
 その後しばらく、同じパターンで闇油と戦った。攻撃は真正面からの斬撃、大針を余裕で躱した時は右への螺旋回避、焦って躱した時は左への螺旋回避、この三つを僕の時間感覚で一分半ほど続けた。実際に経過した時間は九秒だが、移動で消費した生命力も考慮すると、僕に残された時間はもうあまり無いはず。ギリギリの戦いは翔体から計算以上に生命力をもぎ取っているらしく、疲労もピーク直前になっていた。僕は覚悟を決め勝負に出る。そう、僕はこれから、命の瀬戸際に立つのだ。
 表情に出すまいと必死で隠していた疲労を一瞬あらわにし、意を決して闇油に斬り込む。その一瞬の表情を見逃さなかった闇油は攻撃をあえて遅らせ、疲労した僕を充分引きつけてから極太の針を放った。渾身の体捌きで極太針をなんとか躱すも僕は大いにバランスを崩し、よろめきながら左へ螺旋回避する。顔の無いはずの闇油がその時、ニヤリと笑った。左へ避けるのはお見通しだとばかりに、闇油は四本の大針を一斉に放ち僕にとどめを刺そうとした。螺旋でも回避不可能な四本の大針に僕の顔が絶望に染まる、と闇油は信じた。が、僕が見せたのは、罠にまんまとかかった闇油への嘲笑だった。僕は生命力消費量を四百倍に上げ、二十倍のスピードで攻撃を躱し、闇油に斬りかかっていった。
 闇油が驚愕して僕を見つめる。二十倍のスピードで真っ向から斬りかかってくる僕を見つめる。それを見計らい、僕は猫丸を刃渡り3メートルの大太刀に変化させる。自分を両断できる巨大な太刀に震え上がった闇油は、無我夢中で剣筋から逃れようとした。お構いなしに僕は大太刀を一気に斬り下げ、闇油を両断する。だが二十倍の剣速をもってしても、僕の大太刀は、悲想の中心核の1ミリ隣を切り裂いただけだった。燃やせる生命力は、もうこれっぽっちも残っていない。僕は、闇油を倒せなかった。絶望に膝を付く僕へ、闇油が復讐の炎を爆発させようとした、その瞬間、
「にゃ―――!」
 上空から急降下してきた末吉が、両断された闇油の片方へ正真正銘の全力攻撃をぶちかました。僕は心の中で末吉に語りかけた。
「命の瀬戸際でそこに仲間がいるなら、敵を一撃で倒そうとするな」
 だよな、末吉。

 僕はずっと、闇油が僕に注目するよう戦ってきた。焦ったときは左へ避けるパターンを印象づけ、タイミングを計り猫丸を十尺に変化させ、絶望と疲労に膝を付く様子を見せつける。これらは全て、闇油が僕だけに注目するための作戦。複数箇所への同時集中ができない闇油に、末吉の存在を気づかせないための作戦だったのだ。
 だから僕も、末吉の存在を忘れ去った。僕が末吉を気にかける素振りを少しでも見せたら、闇油はそれを察知し、体当たりを狙う末吉の存在に気づくかもしれない。体当たりは敵への大ダメージを期待できる反面、気づかれると回避困難な至近距離攻撃を受けてしまう諸刃の剣だ。それを避けるため、僕は末吉を忘れ去った。末吉もそんな僕を信じて、危険を恐れず体当たりをぶちかました。言葉を交わさずとも合図を送らずとも、命の瀬戸際でそれができる仲間。それが、僕と末吉なのだ。
 ドガ―――ン! 
 闇油の虚を突く末吉の全力攻撃は見事成功した。高速体当たり四本足キックに不意打ちされた闇油の右側が、ハンマーで殴られたように真下へ吹き飛んでゆく。すると、残された左側の生命力と意志力が、急激に低下していった。
 巨大化することで強さを増していく魔想は、両断され片方を吹き飛ばされると一体性を保てなくなり、それぞれが小さな個体となり弱体化する。悲想はそれが特に顕著で、真下へ吹き飛ばされた中心核を持たない右側は、瞬く間に干からび消滅していった。核を持つ左側も知力の急激な低下により、「弱点の核をさらしている自分」に気づかず、空中で硬直している。そうこれこそが、僕と末吉が目指した状態。僕ら初級翔人にとって直径2メートル半の悲想の中心核は、表面から遠すぎ直接攻撃がほぼ不可能と言える。だが、核をさらけ出し硬直している今なら、僕ら初級翔人でも核を攻撃することができる。刺し貫き、破壊することができる。そうだよね、白銀さん!
「ヤ―――!!」
 裂帛の気合いをほとばしらせ、薙刀を構えた白銀さんが翔ぶ。九百圧の生命力をまとう白銀さんが、白く輝く彗星のように夜空を切り裂いて翔ぶ。「白銀さん、行け!」 薄れゆく意識を奮い立たせ僕は叫んだ。その直後、
 ガキ―――ン!!
 強敵、闇油悲想の中心核の砕け散る音が周囲に轟く。
 それを聞き届け、僕は底なしの闇のなかへ沈んでいった。
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