鬼追師参る

漆目 人鳥

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襲撃

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「女性専用ぉ?」

 リビングのソファーに腰掛けた北條が声を上げた。

 マンション、『ジャンヌ・ボウ』707号室。
 綾子の部屋に上がった北條は、一番奥のリビングルームにとおされた。
 部屋に入って正面が、南向きのテラスになっており、今は連なる夜景の建物達を大きなガラス戸一杯に映し出しているが、夜が明ければサンルームとして、一杯の日光を部屋に取り入れることになるのだろう。

「ええ、そうなんですよ。ここに住んでいるのは独身の女性だけなんです」

 白地にイルカのプリントがされたTシャツに、白のロングパンツ姿の綾子が、北條の前にコーヒーカップを置きながら答えた。

「だから……、そのう……。霊査所から来る方は、私……、女性の方だとばかり思っていたので、管理人さんにもそう話していたんです。何か気に障るような事がありましたか?」

 なるほど、それで当初の綾子が戸惑うような態度を取っていたことも、管理人の「話が違う」の意味も北條には合点がいった。

「いや、非常に話のわかる管理人さんでしたし、申し訳ないほどすんなり入れましたし、特に困ったことはありませんでしたよ」

 そう言って、北條は軽く会釈し、コーヒーカップを手に取ると口に運んだ。

「でも、それじゃあ俺がここに泊まるのは不味いんじゃないですか?」

「ああ……、それは……」

 綾子はそう言ってくすくすと笑うと、わざとらしい真顔を作って言った。

「紳士協定です」

「は?」

 北條が怪訝な表情を返す。

「確かに、ホントは男の方を泊めるのは禁止なんです。ただ、やはり独身の女性ばかりですから……。今の管理人さんはその辺を良くしてくださっていて、なにも問題を起こさないと言う暗黙の了解のうちに、特に住人のプライベートには口を出さないと言う協定が……」

 綾子はそう言って、感じの良い笑顔でくすくすと笑った。

 『ここではそう言う規則だ』

 北條は管理人の言葉を思い出していた。なるほど、あの言葉は『プライベートな面倒はごめんだ』と言う意味合いがあったわけだと理解した。

「私が規則を破ったのはこれが初めてなんですけどね」

 綾子はそう言ってくるりと踵を返すと、そのまま部屋から出ていった。後に残された北條は、何故か自分の頬が熱くなるのを感じ、誰に聞かせるでもなく、一つ、乾咳をして体裁を整える。
 可愛らしい娘さんだった。素直そうだし、会話も声も心地よかった。悪い気はしない。

「案外いい仕事かも知んないな……」

 そんな言葉が自然と口をついて出る。引き受けて良かったかも知れない……。心からそう思い始めていた。

 時計を見ると19時を少し回った所だ。留守番の約束は明日の朝まで……。あと、2、3時間こうして他愛ない会話をした後、彼女が寝床に入ってしまえば、明日起きて身支度を整えているうちに鬼追師の仲間が交代に来るのだろう。腹でも痛いと言って一日仕事を休んでしまえば、午後からは久しぶりにゆっくりする事も出来る。臨時収入も入る事だし映画でも見に行くのもいいかも知れない。

 アワヨクバ……。

 ふと、或いはこのまま綾子と気が合えば、などと言う不埒な考えが過ぎったが、これはすぐに思い直した。理由がどうあれ、『あやかし』に関わりのある娘である。不幸な可能性は間違いなくついて回る。触らぬ神に祟りなしである。
 そんなことを考えながら、自分が無意識のうちにタバコの箱をワイシャツの胸ポケットから探り当てているのに気づいた。100円ライターをズボンのポケットから取り出し、タバコを箱から直接くわえると、火を付けようとして手を止めた。
 テーブルの上に眼を泳がせ灰皿を探す。目当ての物が見あたらない。次いで部屋の中を見渡してみる。灰皿の影すら見つけられ無かったが、自分の後ろに、バルコニーへ出る掃き出し窓があった。初夏の夜風に当たるのもおつな物かも知れないと自分に言い訳する。これだけ眺めが良く高い場所ならなおさらだろう。何よりタバコを吸いたいと思う気持ちは最早限界に近い。
 北條はゆっくりと立ち上がるとバルコニーに出る窓を開けた。

「あっ!」

 丁度その時、部屋に戻ってきた綾子が、北條の後ろから驚いたように大きな声を上げた。 北條は舌打ちして振り返ると、くわえていたタバコを左手で口から外し、愛想笑いを浮かべながら口を開いた。

「いや、申し訳ない。すぐ済みますから……」

 そう言って綾子を見た北條は、彼女の表情がただならぬ様子なのに少々戸惑う。

「あの……。何か?」

 北條が尋ねると、綾子の戸惑いの表情は、まるで彼を尊敬するような表情にかわり、小さく首を振って言った。

「あの、バルコニーへ出るのですか?」

「え、ええ……」

 北條はそう答えながら、一連の綾子の行動の意味を考えていた。
 タバコを吸う人間を尊敬している。
 綾子の戸惑いながらの言動はそんな印象を北條に与えた。聞けば長いこと姉と二人暮らしだったらしいし、擦れた様子も無いことを思えば、男友達も少ないのだろう。
 きっと喫煙する男性が珍しいのだ。北條はそう解釈した。それ以外には考えつかなかった。

「お気をつけて……」

 綾子が北條を気遣うように言う。

「?」

 何か釈然としない物を感じながらも、北條は外へと出ると、後ろ手に窓を閉め、手すりに近づきタバコに火を点けた。
 大きくひと息、煙を吸い込むと、ゆったりと燻らせて人心地着く。心地よいひんやりとした風が渡って行く。周りにこの建物の他に高い建造物が無いせいか、思った以上に強い風が、時折タバコの煙を吹き払う。遠くの空に映える街の赤い明かりが不気味なようでもあり、美しくもあった。
 不意に、部屋の中にいる綾子の視線が気になって振り返る。ガラスを挟んだ向こう側では、綾子が窓から距離をとって立ちつくし、心配そうな面もちで真っ直ぐこちらを見ていた。違和感。と言うようなハッキリした物ではない、ぼんやりとした不安を感じて、視線をまわりに巡らせてみる。すると、バルコニーが隣の部屋の前に繋がっていることに気づいた。部屋の窓にかかる、やわらかい黄色のカーテンは、左右から窓を覆うタイプの物だったが、左右とも中側から三分の一ほどが開かれて、中を覗き込むことが出来た。
 ほんのチョット意識を隣の部屋の中に集中する。そして、納得した。其処は寝室だった。
 部屋の中こそ片づいているようではあったが、窓際に置かれたベッド上の寝具は、乱雑に乱れている。この時間にこの状態と言うことは、ベッドは朝からずっとこの有様と言うことだろう。北條は綾子がこの寝室を見せたくなかったのだと言う結論に達し、思わず苦笑いした。

「悪いコトしちまったなぁ」

 彼はそう呟くと火の点いたままのタバコを、親指と人差し指を使って弾き、手すりの外へ放り投げ、そそくさと部屋の中に戻った。
 愛想笑いを浮かべながら綾子と目をあわせる。
 意外にも綾子の反応は、恥じ入るとか、気分を害するというような類の物ではなく、相変わらず尊敬の眼差しと呼べるような真摯な色を浮かべていた。
 そして、彼女の口から出た言葉はもっと意外な物だった。

「怖くないんですか?」

「怖い?何故?」

 北條がそう答えると、綾子はフーっと大きく息をつき、目を輝かせながら口を開いた。

「凄いですね。やっぱり本職の人は。私、もう、怖くて怖くて。今朝からバルコニーはおろか、寝室にさえ近づけないんですよ」

 そう言ってぎこちなく微笑んで見せる。
 『怖い』『本職』『寝室』幾つかのキーワードにより、北條の思考が一つの結論を導き出そうとしていた。

「ちょっとまて。バルコニーで何かあったのか?」

 反射的に尋ねていた。

「えっ?」

 綾子は小さく叫ぶと、オズオズと言葉を繋ぐ。

「今朝、姫緒さんにはお話ししたんですが……」

 『姫緒』という新たなキーワードを受けて、北條の思考は急激に収束していった。
 つまりそれは『鬼追師』と言う人種。その行き着く結論は……。
 北條は全身に鳥肌がたつのを感じた。寒い感覚と裏腹に、大粒の汗が額にじわじわと噴き出して来る。

「ひょっとして、何も聞かされていないとか……」

 前にも増しておずおずとした口調で、綾子が北條に尋ねた。
 自分の正気を保つために、ブレーカーが落ちるようにして停止した北條の思考が、のろのろと再起動し、ひとつの単語を浮上させる。つまり、それは……。『あやかし』。

「何があった?何があったんだ!話してくれ、ここで起こったこと、すべて!」

 泣き出さんばかりの勢いで声を裏返し、北條が叫んだ。


姫緒の家から戻った綾子は、その日、早めに休もうとしていた。

 そうはしたいと思ったのだが、なまじ店に人気があった為、予約されていたケーキ作りのスケジュールを無理矢理に調節したツケは山のようにあり。
 加えて、後に回さざるをえなかった事柄や、明日の為の新しい段取りが、かなりの量で残っていた。
 そんな状態であるにもかかわらず。
 姫緒のところでシャワーを借りた際、何故か温水が沁みてひりひりと痛んだ両頬。
 その、理由も解らず未だに続く、責めるように疼く痛みがイライラを誘っている。
 気のせいか、腫れて来たような気がする事が、追い打ちをかけて彼女の気を滅入らせ、仕事の効率を低下させる。
 結局、綾子が全ての段取りをこなし、パジャマに着替え、寝室の化粧台の前に座って髪にブラシをかけることが出来たのは、深夜と言われる時間と、早朝と言われる時間の境が溶け合う頃の事だった。

 酷い虚脱感。

 倒れ込むようにベットに入ったが、今度はあれこれとまとまりのない思考が交差し、軽い興奮状態に陥り、目が冴えて眠れない。
 うとうととしては目を覚ます。
 実際に経過した時間以上に長い時間そうしていたような気がしていた。

 ふと、何かの気配を感じる……。

 初め、それは短い夢の続きのような感覚で綾子を襲った。

 だから、彼女がその感覚に襲われながらも、次の行動を起こさなかったのは、無視したというよりは、現実で無いから関わり合わなかったと言うような次第だった。

 だが、夢とうつつを往復するうちに、徐々に綾子はその感覚を現実のものと認識し始め、ゆっくりとベットから起きあがり、部屋を見渡してみた。

 特に変わった様子は認められない。

 なのに、ざわざわとした気配も変わらずにずっと続いている。

 空気が重い……。

 綾子はベットから降りると、部屋に風を入れようと、バルコニー側の窓へと近づき、左右から引かれている柔らかな黄色のカーテンに手を掛け、少しだけ両側に開いた。

 正面のガラスに自分の目が映っている。

 違和感。

 遠くに見えるはずの街の明かりが見えない。ガラスの向こうは漆黒の闇の中の闇。
 そこに、ぽっかりと浮かぶ一対の綾子の瞳。

 いや……。『それ』は瞳と言うよりは目玉?

 窓の外の闇がゴソゴソと蠢き出す。

 そして綾子は気がついた。闇ではない。

 サッシのガラス一面にヤモリのように張り付く、日本猿ほどの大きさの、たくさんの黒い獣の群れ。
 それが一斉に、閉じていた目をグリリと開けた。
 グロテスクな、焦点の定まらぬ、死んだ魚のようなたくさんの目玉が綾子を囲むようにガラス一面に出現した。

 綾子は。

 叫ぶ事も出来ずに。

 気を失った。



「気づいてみたら朝でした。あの獣たち……。姫緒さんはあやかしと言っていましたが。あれは中に入ることは出来なかったようです。それでも、ただもう怖くて怖くて。起きたとたんに錯乱してしまい、部屋の中を転げ回るようにして、這々の体で寝室を逃げ出したんです」

 話し終えた綾子は一呼吸置いて続けた。

「今でも、一晩中、あの、あやかし達に見つめられながら倒れていたとかと思うと……」

 そう言ってふるふると身体を震わせる。
 綾子のそんな姿に同情する余裕など、今の北條には皆無だった。
 心ここにアラズの表情をした顔色から、急激に血の気と意識が引いていく。
 そのまま消え入りそうになった意識を、すんでの所で踏みとどめ、おもむろに携帯電話をベルトのホルダーから取り外すと、予め登録してあった姫緒のアドレスを呼び出した。
 長めの呼び出し音。北條の意識が再び遠くへ落ち込みそうになったとき、電話口から声した。

「こんにちは、北條さん。何かご用ですか?」

「ふざけるな鬼追師!」

 もはや北條には綾子は見えていない。外でもはばかれるような大声で怒鳴り散らす。
 姫緒は知っていたのだ。その事が北條の怒りを加速させた。

「俺は降りるぞ!」

 もはや一刻の猶予もない。怒りと余裕の無さがストレートな言葉となって吐き出される。

「落ち着いてください北條さん。綾子さんの話は良く聞いて下さいましたか?」

 取り繕う気配もなく、妙に落ち着き払った口調で姫緒が言った。

「ふざけるな鬼追師!聞いたからこそ電話してるんだ!出てるじゃないか!しっかりあやかし、おいでになってますじゃないかぁ!」

「あやかしが居ないなどとは一言も言ってませんよ、北條さん。私は今すぐに危険な状態になると言うことは無いと言ったのです。それに、あやかしに狙われていると言うことは話してあったはずです。狙われているという確証が無ければ、玄人としてそんな風に口に出したりはしません」

「詭弁を言うなぁ!お前の屁理屈につき合っている暇は無い!俺は怒った!止めるぞ!止めて帰るぞ!絶対帰る」

 常人にしてみれば、あやかしが居る事自体で、もはや最上級の『危険な状態』である。姫緒に玄人の意見だと言われても、素人の北條がハイそうですかと言えるはずが無かった。

「そうですか。非常に残念ですが……。それではこの話は無かったことにいたしましょう」

 意外な姫緒の言葉に、北條の緊張と怒りがふっと緩む。
 あまりに、あっけなさ過ぎる。その事が北條に新たな警戒感を呼び起こさせ、たじろぐように沈黙する。

「残念です、北條さん。貴方を解放すると言うことは、たった今から喚ビの荒石の印を解くと言うことです。風小を召還出来なくなりますが、よろしいのですね」

 北條の頭で鳴り響いていた警報が止んだ。『残念』とはそう言うことだったのだと理解する。

「かまうもんか!」

 姫緒は、自分が風小に対して少なからず好感を持っているのに気づいているのだろう、と北條は思った。確かにそのとおりだが、命がかかっているとすれば、それとこれとは全く別だ。
 脅しにしては余りに陳腐な切り札に、北條は、姫緒を心の底であざ笑っていた。

「結構です。北條さん。時に、綾子さんにお聞きになったお話の中に、あやかしは何匹出てきましたか?」

「はぁ?」

 脈絡のない、安っぽいクイズ番組のような突然の質問。

「綾子さんに確認してご覧なさい。あやかしは一匹でしたか?それとも二匹?」

 一抹だった不安が大きく広がり出す。北條はゆっくりと振り返ると、後ろにたたずむ綾子を見た。彼女は今の事態を飲み込めず、不安げな表情で北條を見ている。
 北條が口を開く。

「あのー。綾子さん……」

「はい!」

 北條の声に弾かれるように綾子が返事を返す。

「あやかしは……」

 北條は先ほどの綾子の話を思い出していた。たしか。

「何匹ぐらい居たので……?」

 さっきの話によれば。

「えーと……」

 綾子はそう言って、北條の肩越しにバルコニーの方に視線を移す。その視線に従って、北條もそろそろと振り返る。そこには、となりの寝室にあるそれと同型と思われる、2メートルほどの高さと間口の吐き出し窓。その窓ガラスに……。

「10匹か、20匹くらい。多分……」

 びっしり。

「だ、だからどうしたってんだ!おい!鬼追師!」

 その状況を想像して、ひびりながら北條が電話に向かってがなった。

「身をもってご存じとは思いますが」

 再び穏やかな姫緒の声が電話口から流れる。

「あやかしには敵を敵と認識するチカラがあります。ところで北條さん。あなたはそこに何をしに行ったのでしたっけ?」

 姫緒はそう言うとわざと会話に間を持たせ、北條に考える時間を与えているようだった。

 「あっ!」

 だが、そんなことは考えるまでもない。北條が小さく叫ぶ。

「北條さん。あなたはそこに綾子さんを助けに行ったのですよね。つまり、あなたはあやかしにとって何なのでしょう?」

 自分は、『鬼追師の代理人』。『あやかしの敵』

 だらだらと、冷や汗が流れ落ちる。意識が状況を確認する事を拒絶して思考出来ない。

「あやかしは何匹でしたか?北條さん。10匹ですか?20匹?その内の一匹が、お帰りの際に貴方についていってもおかしくは無いですよねぇ。北條さん。『敵』の家を発見したら、あやかし達はどうするでしょうね?」

「き……、キおいしぃ……」

 ゆっくりと状況を把握しだした北條が、恨めしそうに言葉を絞り出す。

「ほんとうに風小は必要ありませんか?」

 もはやどんな奇跡もこの状況を救ってはくれない。北條は電話を耳に当てたまま、額から脂汗をダラダラと流し、硬直して押し黙っていた。

「ほんとうに残念です。『さようなら』北條さん」

「まってくれ!切るな!」

 間髪入れずに北條が叫ぶ。

「留守番を続けてください」

 力のある声で、静かに姫緒が言う。もはやそれは命令だった。

「案ずることはありませんよ北條さん。報酬は差し上げますし、お約束は全て守ります。あなたは2、3日そこに泊まり込んで……」

「2、3にちぃー!?」

 いきなり約束が違う。北條が再び切れた。

「約束では明日の朝までのハズだ!」

「おや?」

「『おや?』じゃねぇ!何が約束は守るだ!説得力なさすぎだろ!」

「いずれにせよ」

 姫緒が北條の追撃を振り切る。

「いずれにせよ。私が帰ってくるまでの間、あなたはそこで留守番を続けるしか生き残る術は無いのですよ」

「き……、きったねぇ……」

 完璧に絡め取られた。全ては姫緒の手の内だったのだ。

「それでは、失礼します。北條さん、ご武運を」

 そう言って姫緒の電話が切られた。

 北條は、ほんのしばらくの間、携帯電話を握りしめたまま、何かを考えていたようだったが、突然、綾子に詰め寄ると口を開いた。

「綾子さん!何か、無いか?」

「えっ?」

「ほら!こう、太くて!硬くて!長い」

 綾子の顔が見る見る困惑の表情に変わっていく。

「俺には武器が、武器が必要なんだぁ!」

 北條が声を裏返して叫喚した。



数時間後。

 綾子は寝室で眠るのを嫌い、リビングの壁際にある長椅子で眠っていた。
 北條はそんな綾子に背を向ける格好で、一人がけのソファーに座り、常夜灯のみの薄暗い部屋の中、まんじりともせずにバルコニー側の掃き出し窓を見つめている。
 右手にしっかりと握られているものは、ぱっと目には木刀のようにも見えたが、それよりはかなり太めの、ケーキの生地をこねる麺棒だった。
 どれくらいの間、そうしていただろうか。時刻はとうに夜半をすぎている。
 継続する恐怖と緊張感。それがストレスとなって、精神をガリガリと削って行く。手持ちのタバコが切れて久しい。コンビニがあるのは心得ていたが、恐怖で部屋を出ることが出来ない。
 イライラが募る。溜まる。渦巻いている。
 北條の精神と身体、全てが悲鳴を上げていた。その結果、気絶に近い睡魔が繰り返し襲い出していた。
 辛うじて意識を取り戻し続けていられるのは、精神力とかそう言った、彼の意識出来るレベルの葛藤ではなく。
 もっと原始的な、恐怖に対する自衛の本能、生への執着、といった最後の砦とでも呼べるようなあさましい業によるものだった。
 気絶しては起きる。起きては気絶する。本人が気づかぬ内にその間隔が段々と短くなっていく。
 今、自分は気絶しようとしているのか?それとも気絶していて気がついたのか?そんな事すらあやふやになりかけてた、そのとき。
 麺棒を握っていた手からチカラが消え、棒はフローリングの床に転がり、北條の心臓を止めようとするが如く、がらがらと大きな音を立てて転がった。

「やべぇ……」

 彼はあわてて麺棒を拾い、椅子に座り直すと、チラリと後ろの綾子に目をやる。
 そして、長椅子に横になる彼女に変化が無いことをぼんやりと確認して前に向き直る。
 目の前のローテーブルの上に置かれた、コーヒーの入った白いマグカップに手を伸ばし、カップに三分の一ほど残る、すっかり冷めてすっぱさの増したコーヒーを一気に飲み干す。皮肉なことに、インスタントコーヒーの、そのあまりの不味さに意識が少しだけハッキリした。
 新しいコーヒーを入れようとインスタントの瓶の蓋を開け、大きなスプーンにたっぷりと一杯すくい、今飲み干したマグカップに開ける。
 お湯を注ごうと、電気湯沸かし器式のポットの「注ぐ」のボタンを押した。
 ほんの2~3秒、ポットの注ぎ口からお湯が噴き出したが、すぐにごぼごぼという不快な音と共にエアーと熱い飛沫だけが吹き出し始めると、北條は顔をしかめて舌打ちした。
 マグカップの底に1㎝に満たないお湯がたまり、コーヒーの粉末をどろどろの黒いペースト状に変えていた。スプーンでぐるぐるとこね回し、さらに液状に近づけて、試しに少しだけ口に含んでみる。

「ぐはぁあ!!」

 人の口にする物ではなかった。眠気は飛びそうだったが、これでは拷問である。

「水……。持って来るしかないな……」

 諦めて、ポットを手に取りると立ち上がり、台所へ向かおうと踵を返す。
 ドアの前まで行って武器を持っていないことに気づき、あわててソファーまで戻ると、床に転がる麺棒を拾い上げようと手をかけた、その時……。

「あのう……」

 北條は、予期せぬ突然の声に仰天し、途中まで持ち上げていた麺棒から手を外してしまった。
 棒は部屋の隅に放り投げられた格好になり、壁にぶつかった後、がらがらと音を立てながら怒り狂ったようにフローリングを転げ回る。
 北條は、ただ耳を塞いで暴れ回る麺棒が収まるのを見守るしかなかった。

「ごめんなさい」

 綾子がそう言いながら、ソファーに横になっていた身体を起こして座り直した。

「びっ、びっくりさせるな!」

 部屋が静けさを取り戻し、北條はさっきの声の主が綾子であったことを悟った。

「起きてたのか?」

 北條がそう言って脇に立つと、綾子は彼を見上げてはにかんだ。

「あっ……えーと、さっき……。北條さんが麺棒を落とした時……」

 目を覚ましたが気をつかって寝ているふりをしていたと言うことらしい。

「ああ……。悪かったな……」

 北條がそう言うと、綾子は小さく首を横に振る。

「いいえ、もうすぐいつも起きる時間なんです。だから。多分、起きたのはそのせいです」

 綾子がそう言って、何とも純粋で、楽しげな子供のような微笑みを浮かべた。
 その笑みは、本当に彼女の魅力を余すところ無く表していた。北條には何の下心も無かったのだが、少したじろいてしまっていた。

「ケーキ屋さんの朝は早いんですよ。もうあと1時間もしないうちに仕込みを始めなければいけないんです」

 綾子はそう言って今度は小さな声を出して笑った。なんと楽しそうに笑うのだろう。この魅力的な笑顔のために自分は何かしてあげられないのか。自分の置かれた状況も忘れて、ついそんなことを考えてしまう。

「すこし……」

 小さく伸びをしながら綾子が続けた。

「すこし、お話ししませんか?私、もう寝るわけにはいかないし。北條さんさえ良ければですけど」

 戸惑うように北條を見上げる綾子の申し出を、断わる理由は全く無かった。いや、むしろそれこそが自分の望んでいたことだと北條は確信した。

「ああ。そ、そうするか」

 そう言って、北條は長椅子に崩れるように座り込む。入れ違いに綾子が立ち上がった。

「じゃあ、私、お茶の用意をしてきますね。おいしい紅茶が有るんです。それと、うちの店の人気商品のリンゴのシブースト!鬼追師さんに食べて貰おうと思って作っておいたんです。ぜひどうぞ!」

 そこまで言って、綾子は「あっ」と声を上げて、神妙な顔つきになった。

「甘いモノ……。お嫌いですか……?」

「いや」

 今度は、北條が綾子を見上げて答える。

「いや、嫌いと言うことはない。むしろ……」

 彼は自分の精神と体がぼろぼろになりかけているのを感じた。

「今はありがたい」

 北條が、やつれた顔でそう言うが早いか、綾子は軽い足取りでドアに向う。

「すぐ用意しますね。待ってて下さい」

 ドアを開けようとして、ふと動きを止めて再び振り向いた。

「あっ、明かり。点けますね」

 そう言って壁にある室内の照明のスイッチを操作し、そのまま部屋の外へと出ていった。
 不意を突かれた北條が、照明のまばゆさに目を閉じる。 
 彼が再び目を開いたとき、部屋の中の様相が一変していた。
 疲労と焦燥と恐怖の対象だったその空間が、今は柔らかな彩りの、人をもてなす為の快適な演出がなされた空間に戻っていた。
 ただ一点。バルコニーに続く大きな窓の、外に広がる漆黒の闇を除いては。
 北條は、惑わされるように、しばらくその闇を眺めていたが、我に返ると身の毛立ち、一度大きく身を震わせてから、ソファーに深くかけ直した。
 話し相手がほしかった。睡魔が少しずつ、再び自分を襲い始めているのが感じられる。広い空間、柔らかな色づかい。人をもてなす空間。ここは居心地が良すぎるのだ。北條は、ぼんやりと綾子が来るのを待った。
 そろそろ見飽きた部屋の中をゆっくりと見渡した北條の視界の隅に、違和感のあるモノが写る。
 窓側、部屋の右隅。高さが一メートルほどの黒い影。
 初めそれは熊か猿の縫いぐるみかと思われた。しかし、半日ほどこの部屋に入り浸っていた北條だが、そんなモノを見た記憶がない。

「何だ?」

 立ち上がって半歩ほど近づく。明かりは点いているのに何故か輪郭がハッキリと確認できない。思わず掛けていた眼鏡を外し、目を擦って掛け直し、もう一度目を凝らしてみる。
 黒い。大きな。コケシ?
いや、よく見ると『こけし』の顔に当たる部分は『塗料で描かれた』ものではなく、彫像のように彫られたモノのように見えた。その姿は、こけしと言うより地蔵に近い。そのモノは、何故か段々と細部がハッキリしてくるように北條には思えた。潰れた鼻、固く閉じた瞼の皺。
 黒くゴツゴツとした、石で出来ていると思われた身体は、じつは短い黒々とした剛毛に覆われている事も見て取れる様になった。

 『剛毛』?

 前に出ようとしていた北條の足が一歩後ろに引かれた。

「ま、まさか……」

 気づくのが遅かった。
 黒い地蔵は、部屋のあちこちにぼんやりと出現し、実体化を始めていた。
 その数は、確認できるだけで10体は居る。
 恐怖の余り声も出ない。握っている麺棒に無意味にチカラが入っていく。
 やがて、最初に実体化を始めた地蔵の目が、ゆっくりと開いていった。その様は、瞼が開くと言うよりは、巨大な眼球がせり出してくると言う表現の方が適切で、瞼そのものは人のそれと変わらぬ比率で顔に付いていたのに、開ききった目の比率は顔の三分の二以上を占めていた。迫り出した眼球に押される格好で、小さくて潰れた鼻は尚も顔にめり込み、左右に引きつった薄い唇は、悪意のある笑いを浮かべているように見えた。
 北條には、この地蔵達が手足が無いように見えていたが、そうではなかった。それらは、身体にピッタリと張り付くように折って畳み込まれており、今まさに、ぱきぱきと生木が裂けるような音を立てながら伸ばし始めているではないか。
 身体の比率にしては異様なほど長い腕。だが足はガニマタで短かく、すべて伸ばしきった後でも身長は一メートル程度しかない。その姿は地蔵ではなくて、とことんふざけた、落書きの猿だった。
 あちこちで、手足を伸ばしきった猿が、千鳥足で踊るようによたよたと立ち上がる。その内の一匹が、定まらぬ焦点の目を北條に向けた。
 そして、何事か伺うように、離れて覗き込んでいたかと思うと、鋭いノコギリのような歯の並んだ口を大きく開け、体勢を低く構えて威嚇するように吠えだした。

「ヴェッ、ヴェッ、ヴェッ!」

 一匹が騒ぎ出すと、それに答えるように、短く、耳障りな叫びがあちこちの猿から上がり出す。
 猿たちは目の焦点を合わせる事が出来ないらしく、各々は有らぬ方向を向いていたが、その威嚇が北條に向けられているのは間違いなかった。

「ああああ……アアア……」

 恐怖で、見る見る北條の身体が固まっていく。
 やがて、また猿たちに変化が見られた。折り畳んでいた、両手の人差し指と中指をゆっくりと伸ばしだす。手の形状は、まさにシワクチャ剛毛の猿そのものだったのだが、その二本の指だけは違っていた。伸ばした二本の指の、根本から一センチほどの所から、ギラギラと輝く刃渡り三十センチほどの刃物状に変わっているのが見て取れた。
 一センチほどしかない短い指に、三十センチほどの、幅の広い刃物のような爪が生えている。
 刃物を持った猿。
 そして多分、自分を敵として認識し、憎しみの感情を抱いている猿。
 始末に負えない畜生どもが部屋を埋め尽くそうとしている。
 北條の足がすくむ。尚も下がろうとしたが腰が重くなり、その場にへたり込みそうになった、その時……。

「北條さん、どうかしましたか?」

 綾子の声がして、部屋に近づいてくる気配がした。

『だめだ!来ちゃ駄目だ!逃げるんだ!』

 北條はそう叫んだつもりだった。
 が……。実際には、ひゅー、ひゅーと言う声帯を震わせない呼吸音が口から漏れただけだった。

「ひぇひゅへへへへへひゅうへふひへ」

 猿どもの奇声よりも奇怪な叫びが、北條の口から漂い出る。
 そのあまりの不気味さに猿たちは、あやかしに対する鬼追師の対抗呪文とでも思っているようで、思い思いに首を傾げたり、その場ではね回ったりと、多彩いな形で警戒し、北條との間合いを縮めるのを躊躇っているようだった。
 実際、今の北條の姿は、中腰と立ち姿勢の中間の物腰で尻を斜め上に突き出して、腰がふらふらと泳ぎ、呼吸のような言葉を絞り出しては、長い麺棒にやたらぶるぶると無駄な力を込めるという不気味なものだった。

「何ですか?北條さん」

 カチャリというドアノブを回す音と共に、綾子の声がした。
 直後。猿共の戸惑いが消え、一気に場の空気が張りつめた。

「うああああ嗚呼ああああアアア!」

 北條の精神が緊張に潰され、叫びが声になる。ドアを開け、そこにお茶の支度を乗せたトレイを持ったまま呆然と立ちつくす綾子を見て取ると、麺棒を握りしめ、大声を張り上げたまま一気に駆けだし、綾子をはじき飛ばすような格好で部屋の外へ飛び出す。
 綾子が持っていたトレーは床に放り出され、乗っていた茶器がガシャガシャと廊下に散らばってしまったが、彼女は辛うじて倒れることなく廊下に立ちつくしていた。

「鍵は?」

 北條がドアを押さえて中の猿達を閉じこめるようにしながら叫んだ。

「?」

 綾子はまだ状況がはっきり把握できないようだった。戸惑う表情が大きくなっていく。

「鍵だよ!この部屋の鍵!中にあやかしがいるんだ!閉じこめるんだ!早く!」

 部屋の中から無数の猿の叫び声がする。その内の何匹かはドアや壁に体当たりしているらしく、大きな音と共に廊下に振動が伝わってくる。綾子は、やっと状況が飲み込め始めた様子だった。

「鍵は、寝室です!」

 綾子は、慌てて寝室に鍵を取りに向かおうとする。

「まて!寝室はヤバイ!ちょっとまて!」

 寝室は最初にあやかしの現われた場所だ。しかも、応接間の隣に位置する場所ではないか。
 もし、あやかしが……。
 そこまで考えて、北條はふと、あることを思いつき自問した。あやかしはどうやって自分の居た部屋に入ってきたのだったか……。
 思い出すのもおぞましい、あの、猿共の出現シーンを彼は思いだしていた。
 何もない場所に、段々と出現していく黒い地蔵たち。
 次々に実体化していくふざけた落書きの様な猿ども。

「外だ……」

 力無く北條が呟く。

「中は駄目だ!外へ逃げるんだ!早く!」

 北條がそう叫んだ時、大きな振動と共に無数の鋭い刃物が、壁を突き破って飛び出した。それが合図で有ったかのように、壁のあちこちから、まるでモグラ叩きのモグラのように、何本もの鋭い刃が突き出てくる。紛れもない、あの猿たちの指の先に付いていた刃だ。途方もないチカラなのか、それとも切れ味なのか。もしくはその両方か。

「きゃー!」

 少し遅れて綾子の悲鳴が響き渡る。その叫びが固まっていた北條を正気に返した。

「逃げるぞ!」

 そう言うと、すっかりすくんでしまっている綾子の手を取り、引きずるようにして玄関に向かって走り始める。
 猿たちは、ドアの前に北條達が居なくなったことにはすぐ気づか無かったようで、尚も壁やドアに刃を突き立てている。綾子を気遣い後ろを振り返った北條の目に、ぐずぐずに破壊されたドアが崩れていくのが見えた。後少しタイミングが悪ければ自分もああなっていたであろう事は容易に想像ができる。
 ぞっとしながら前に向き直った北條の目の前に、一番あってほしくない光景が広がっていた。目と鼻の先の玄関で、うずくまる『黒い地蔵』達がぱきぱきと言う生木が裂けるような音を立てて、覚醒の真っ最中だったのだ。

「死にたくネェェェェェェェぇー!」

 魂の叫びと共に、手近なドアを開けて綾子を押し込むようにして逃げ込む。
 そこは、キッチンだった。
 ケーキ屋と言うだけあって、普通の一部屋分を丸々改造した物らしく、きちんと整理整頓されたキッチン内は、がらんとして広く、大きな作業台がある以外は、隠れるような場所は皆無だった。

 立ちすくむ北條を退かすようにして、綾子がドアノブの鍵のつまみをカチリと回す。
 北條と綾子は顔を見合わせたが、そこに安堵は無かった。
 二人とも知っていた。これでは駄目なのだということを。
 二人がほぼ同時に胸騒ぎを感じ、急いでドアから離れたその時。
 再び、今度はドアに集中して、無数の刃が飛び出した。
 繰り返し、繰り返し……、飛び出してくるあやかし達の刃!あっという間にドアは網の目のように穴だらけとなり、その隙間から猿たちの顔が覗き込む。
 気が早る輩は、完全にドアを崩す前に、僅かな隙間に顔や身体を突っ込んで侵入しようと試みていた。そして、その試みがもうじき達成されそうなのを、北條と綾子はキッチンの一番奥で、身を寄せ合いながら、ただ傍観するしかなかった。
 壮絶な光景の中で、正気を失い、叫び出しそうになっていた北條は、自分が握っている綾子の手が小さく震えているのに気付いた。

 『この子の為に何が出来ないか……』

 ついさっき、心を過ぎったのそのくすぐったい想いが、悲鳴と共に飛びそうになった北條の正気をつなぎ止めた。

「そうだ」

 まだ、手はあった。
 彼は綾子の震える手を強く握り返す。ハッとしたように綾子が北條を見つめる。

「とっておきを見せてやる」

 北條がそう言うと、彼女も震える手で北條の手を握り返し、すがるような目で見つめた。
 北條は、右手で、首に下げていたペンダントのトップに付いた飾りを握りしめ、高くかざした。それは純金の駕籠に封じられた、霊力を持つと言う赤と蒼の二つの石。姫緒より託された『喚ビの荒石』。
 何が起こるのかは良く理解していない。だが紛れもなくこれは最後の希望。そして、事態は一刻の猶予も無い。

 ついに、何匹かのあやかしが、こちら側に侵入することを成功させようとしている。

「風小!助けてくれ!風小!フウコぉー!」

 北條の絶叫。


リーン。


 澄んだ鈴の音が部屋に響き渡った。
 北條の持つ、鈴の形状をしていない、鳴るはずのない荒石を中心として、広がるように鈴の音が鳴り響いた。その音自体、何かのチカラを持つものだったらしく、鈴の音によって、部屋へ入りかけていた数匹のあやかしが廊下にはじき飛ばされていた!
 だが、それっきりだった。
 再び進撃を開始したあやかしは、前にも増した猛攻で、ついに扉を完全に破壊する!

「これで……。終わり?」

 焦点の定まりきらないあやかしの目と北條の目が合う。あやかしの薄い唇が、細かいギザギザの歯をみせながらニタリと笑ったようなような気がした。

「ウソダロォォォッ!」

 ドアから覗き込む無数のあやかしが一斉に、今度は間違いなくニタリとわらった。

「フウコォホー!」

 北條が吼える。


リーン。 


 再び、荒石が反応をした。


リーン。リーン。りーん……。


 己の出す音に共鳴するかのように、鈴の音が連鎖する。そのたびに、空間に荒石を中心とした光輪状の波紋が起こり、波紋は新たな波紋を創り、同時に音も繰り返す。音が、また新たな音を連鎖し、音は波紋を作り出す。永遠に続くような相乗連鎖。部屋の中は光輪状の波紋と、鈴の音の輪唱で満たされた。
 戸惑うあやかし達。もはや口元に人を食ったような笑いはない。奇声を上げて騒ぎ散らし、身体を揺すり、威嚇するかのように大騒ぎをしていたが、やがて、音と光が舞うたびに、あやかし達は部屋の壁に向かってはじき飛ばされ、叩きつけられた。
 そうして、あらかたのあやかし達が、部屋の隅で身動き出来ない状態となると、荒石を中心として出現と消滅を繰り返していた光の波紋は、急速に部屋の中心に向かって収束しだし、目が眩むような光の柱がそこに出現する。

 それは人の形をとって空間に固定されると、次の瞬間、全ての光と音が一斉に消え去った。

 光のハレーションによって眩んでいた北條達の目が元に戻り始めると、部屋の中央にショートカットの娘が立つ影が見えた。
 娘は黒いエナメル系の服に身を包んでいた。
 大きな襟の付いたおへその見えるビスチェ。ハイレグ気味のホットパンツ。
 ガーター付きの網タイツに膝の上までの長いブーツ。
 両の腕には肘の上まで隠れるエナメルの手袋。首には大型犬の首輪のようなチョーカー。
 ブーツと手袋にはたくさんの小さなベルトがついていた。
 そして、彼女の左腕に装着されている風水板のような物は。
 北條にとってはおなじみの、鬼追師の必殺兵器。風水銃。

「いぇーい!北條さん!お待たせしましたデスよ!」

 くりくりとした緑の目、亜麻色の髪のあやかし娘。
 風小が、鈴を転がすような声でそう言うと、高々と両手を上げてアピールした。

「おせーよ、馬鹿野郎!」

 泣き笑い顔でそう言いながらも、北條の顔に見る見る精気が戻る。

「いえいえ!北條さんの私に対する愛が足りないのがいけないのデス!」

 ぴんと立てた人差し指をフリながら、くりくりした目を北條に向けて風小が言った。

「風小さん……。なんてかっこう……」

 綾子が、驚愕の面もちで彼女を見つめながら呟く。
 あまりに姿形は変わっているが、そこに立つのは、紛れもなく霊査所で会った、あのメイド娘の風小だった。

「なんでもいいや!行ったれー!風小ぉー!」

 北條の檄が飛ぶ。

「いぇーす!北條さん!」

 部屋の中央から脱兎の勢いであやかし達の前に移動する。
 何が起こったのかが理解できずに唖然と立ちつくすあやかし達。
 しかし、一瞬後には本能によって風小を敵と認識。群れを成して襲いかかる。

「トォうりゃりゃりゃりゃりゃりゃぁぁぁぁ!」

 電撃の連蹴り!迫り来るあやかしを、風小は次から次へと会心のタイミングで蹴り飛ばしていく。

「ケェ、下下下、解ェ!」

 あやかし達は、いままで聞いたことも無いような醜い野獣の叫びを上げて転げ回る。
 だが、風小の一撃は、あやかし達を怯ませはしたが致命的なものではなかった。
 猿たちの長いリーチで振り回される刃(やいば)を避けながらの攻撃のために、充分な間合いに入れないのだ。
 それでも風小は、自分のその長い足の間合いを利用し、あやかしの刃攻撃を紙一重でかわしながら、確実に蹴りをヒットさせ続けた。
 蹴り飛ばされたあやかしは、壁にぶち当てられたり廊下に押し返されたりして混乱はしていたが、その圧倒的な数のせいもあってか、攻撃は風小が一方的なハズなのにジリジリと間合いを詰められていき、ついにはあやかしが風小を取り囲みだす。

「げひょっ、牛、ひょきゅ魚!」

 あやかしは、身体を上下に揺さぶり小刻みに跳ね上がり、奇声を発して風小を威嚇する。ギザギザの歯をむき出して見せたり、ぎりぎりと歯ぎしりのような音を出すモノもいた。

「ふふぅーん」

 風小は、そんなあやかし達を、腕組みした姿勢で見下すように微笑み、挑発する。
 そして、そのままの姿勢で、すーっと右足を宙に上げると、2、3度素早く宙を蹴り、風を裂いた。

「いらっしゃいませデス。もれなく蹴り壊してあげますデスよ」

 不敵に笑う。
 風小めがけて刃を突き立てようと、数匹がいきなり天井近くまで跳ね上がった。
 猿達の動きは極めて敏捷だった。短い足は、しかし、チカラが強いらしく、瞬発力に優れていた。
 別の猿達は、上に気をとられた風小の隙をつくかのように、一斉に刃を振るい斬りつける。
 その一連の動きの早さは、北條や綾子では目で追うことすら難しい。だが、風小の動きはそれを数倍上回っていた。
 頭上から振り下ろされた、あやかしの刃はそのまま床材を裂き、風小を斬りつけようと突き出された別の刃は目標を失い、対向する味方の胸板をえぐった。
 それが合図であったかのように、あやかしの攻撃が激しさを増す!風小への攻撃が間髪入れずに入り乱れる。
 次々と繰り出される、機敏で多勢なあやかしの攻撃。
 それでも風小の、まさに、目にも止まらぬ電光石火は、あやかし達の攻撃をただの一撃も身体にかすらせることすらなく、そして、宣言どおりに徐々にではあったがあやかしを蹴り壊していった。
 と、突然。
 風小が、取り囲む猿たちの頭上に跳ね上がる。
 降りてくる彼女を串刺しにしようとあやかしの刃が一斉に上を向き、針山のようになった。 風小がまさにその針山の餌食になろうとしたその瞬間。彼女は空中でつま先立ちするような姿勢になり両腕を横に広げると、独楽のようにくるくると回り出し、一瞬、空中に停止したかと思うと、猿たちの作る針の群れから離れた場所にふわりと着地した。
 事態が飲み込めず戸惑い、体勢を崩したあやかしの群れに、彼女は再び、自ら躍り込む。

「テェりゃゃゃゃゃゃゃゃゃややや!」

 風小はあやかしを踏み台にして飛び回り、次々に繰り出される針山のような刃を物ともせずに、頭を、或いは顔面を、肩を、両足でばきばきと踏み砕いていく。風小の頭上からの強襲にあやかしは逃げ場を失っていた。

「風小さん!凄い!スゴイ!」

 綾子が小躍りして声援を送る。

「キャー!風ちゃんてよんでぇー!」

 余裕で両手を上げて風小が答えた。
 風小の一撃は確実にあやかし達の部位を破砕していき、もはや、五体満足なあやかしは一体もいない。しかし、それでもあやかし達には致命傷では無いらしく、砕かれた頭や、折られた手、足を引きずりながら風小にまとわりつこうとする。やはり絶対的な一撃一撃の破壊力が足りないのだ。
 あやかし達の動きが遅くなったのを見定めた風小は、群れの中から飛び出すと、立ち尽くす北條と綾子の前に、二人を庇うように降り立った。

「霊査(サーチ)、開始します」

 風小はそう言って左手の風水銃をあやかし達へ突きだした。銃の定盤に取り付けられた回転板が回り出す。

「おい、まて、相手が多すぎるぞ!」

 風小が風水銃によってあやかしを倒そうとしているのを見た北條が叫ぶ。
 あやかしは属性を持っており、その属性の相反する属性をぶつける事によって相殺して退治する。
 この風水銃はその相殺の属性を発生させ打ち出すことが出来る。
 自分の助けて貰った経験から、北條もこれは理解出来ていた。
 しかし、このあやかし達は余りに数が多く、広範囲。しかも、鈍くなったとはいえ十分に動けるのだ。とても一度の攻撃で倒せるとは思えなかった。

「大丈夫ですよ、北條さん」

 風小がそう言うか終わらないうちに、霊査を完了した風水銃は、定盤の回転板をキンキンと鳴らしながら停止していた。

「霊査完了。『鉄の属性』」

 不穏な雰囲気に気づいたあやかし達が、一斉に地団駄を踏むような動作をして騒ぎ始めた。ダンダンという床を踏み鳴らす音が、徐々に大きくなっていく。

「属性石(キャラクタル)『ルビー』。『火の属性』召還!」

 風小が言うと、彼女の額が輝き出した。
 その光の圧力が、風小の額を隠していた前髪をさわさわとわき上げる。 額の中心に光が集中しだし、やがて小指の爪ほどの大きさの深紅の輝石となってそこに固定された。

「北條さん。お見せします。これが風水銃の新しいチカラデス」

 そう言って再び左腕の風水銃をあやかしに向ける。

 風水銃の回転板が高速で回りだすと、あやかし達の地団駄と奇声が入り交じった騒ぎが最高潮に達した。幾重にも同心円を描いている回転板は各々板の回転速度の違いから、火花を散らし、やがて銃そのものが火の粉で包まれる。

 そして……。

「百花繚乱!」

 風小のそのかけ声と共に、そのまま発射されるハズだった相殺の波動が、閃光を纏う複数の波動の弾となって、彗星のような光の尾を引き、あやかし達に襲いかかった。

 地団駄が消え、奇声が消えた。

 代わりに鳴り響いたのは、雷鳴のような轟音と、地獄の底で身体中の生皮を生きたまま剥がれたような叫びを上げる、あやかし達の号哭!
 風水銃からは、轟音とともに次から次へといくつもの閃光が咲き乱れ、執拗に放出され続けている。
 波動弾は、散らばるあやかしに襲いかかり、逃げるあやかしを追い詰めて、足に、腕に、頭に、胸に、腹に、次々に命中し、あやかしの体を火の粉に変えて消滅させていった。断末魔の叫びと共に、一体、又一体と花火のように弾けて消えていく。それでもなお、風水銃の攻撃は止むことなく続くかに見え。
 やがて、部屋の中に動くあやかしの姿が消え去ると、閃光の放出は静かに消えていき、風水盤がカラカラという音を立てて、僅かに回転するだけとなっていたが、やがて……。
 それも止まって銃は完全に停止した。 
 大半のあやかしは消滅していたが、それでもまだ消滅し切らずに、シュウシュウという不気味な音を立てながら消滅中の骸が、累々と転がってる。 

「いえーい!バッチリちり助!」

 部屋の中にまったく動く影が無くなると、風小は綾子や北條の方を振り返り、そう言って右手でブイサインを作り突き出した。

 突然……。サクっ。と言う軽い音とともに、風小の左胸から長く伸びた刃が真っ直ぐに出現した。

「がはっ……」

 苦しげな声とともに風小の口から蘇芳色の液体がどろどろとしたたり落ちる。

 折り重なる死体の下敷きになってジッとしていた一匹のあやかしが、突然飛び出し、背中から風小の胸を貫いた事を、暫くの間、誰もが理解出来ずにいた。

「き……、いやあぁー!!」

 事態を理解した綾子が絶叫し、みるみる蝋燭のような白い顔色になりその場に崩れ落ちた。
 北條は、一言も発する事が出来ないまま、その場に腰を抜かしてへたり込んでしまっていた。
 風小は、即座に反撃に出ようと身体をひねろうとしたが、あやかしは、貫いた刃をそのまま左の肩口まで振り上げる。
 風小の身体が刃で貫かれたまま胸から肩まで切り裂かれ、ばっくりと口を開ける。そこまでやると、手負いのあやかしは、身体を引きずりながら風小から一旦離れた。

「オフザケがすぎますデスよ……」

 風小の額の紅玉石が再び輝きを取り戻し、額の髪をさわさわと巻き上げ出す。辛そうに風水銃をあやかしに向けようとしたが、切り裂かれた左肩はもう、銃を支える力が無かった。風水銃は……いや、風小の左腕は、だらりと下を向いたまま彼女の意志を受け付けない。

「解ッ解ッ解ッ解ェ」

 事態を見て取ったあやかしは、勝ち誇ったように叫ぶと渾身の一撃を風小に食らわす。
 避けきれない。あやかしの攻撃をあっさりと右の太ももに受ける。ざくっと言う鈍い音とパキンという骨を砕かれる音がして、風小の右足は切断された。バランスを保てなくなり顔面から床に倒れる。

「ぎいぃぃ!」

 風小が悔しそうな声を上げ、身体を動かそうとするが、傷口からどくどくと流れ出す真っ赤な液体の中でぬらぬらと這いずる事しか適わない。
 あやかしはそんな風小にゆっくりと近づいていくと、腕組みした姿勢で見下すように微笑んだ。

「!!……ちっくしょうぅ……」

 風小が歯ぎしりする。
 あやかしは、風小の背に馬乗りになり、おもむろにのど笛に食らいついた。

「ガアァァァ!」

 あやかしの叫びかと思い間違うほどの、禍々しい風小の絶叫が響き渡る。首もとから、不気味なバキバキと言う

音が聞こえてくる。

「ふうこお!」

 北條が腰を抜かしたまま絶叫した。
 何をすべきか、何が出来るのか。北條には思い浮かばない。じりじりとにじりながら、後ろへ下がるのが精一杯だった。
 そのとき。

「ホウジョウサん、にげテ……」

 確かに聞こえる。風小の声。

「にげテ……」

 いったい彼女は何を言っているのか?

「おまもりしないと・・・・・・姫さまに・・・・・・シカラレるから・・・・・・」

「うおお!うおおお-!」

 自分の叫び声にはじかれて、北條は立ち上がっていた。
 手に持った麺棒には今まで込められたことの無いほどの力が加わっていた。
 いつ、どうやって、どんな早さでそこへ行ったのか。
 北條が気づいた時、彼は風小に食らいつくあやかしの背後にしっかりとした足取りで立っていた。
 イツ、ドウヤッテ、ドンナハヤサデソコヘイッタノカ……。
 彼は全く解らなかったが、成すべき事は解っていた。
 棒を大きく振りかぶると、あやかしの後頭部めがけ、チカライッパイ振り下ろした。
 ほんの一瞬、堅い感触を感じ、手応えが棒から伝わり手がしびれる。
 ぐしゃりと言う音とともに、麺棒があやかしの頭蓋骨を粉砕し、頭中に食い込んだ。
 それでもなお、北條は渾身のチカラをバットに込め続けると、貪るように風小に食らいついていたあやかしの動きが、止まった。

(終わり?これで?)

 ぼんやりと北條はそんな事を考えていた。

(おわれ、たのむ……)

 少しずつ、少しずつ、自分の取った行動への意識が覚醒して行き、恐怖が心に戻ってくるのが解る。
 と、あやかしが北條に背を向けたまま、右腕で麺棒を振り払うしぐさをした。
 ぱきっと言う乾いた音がして、ほんのちょっと、北條の腕に手ごたえが加わったかと思った直後。麺棒はあやかしの刃によって、中央から横真っ二つに切断されていた。

「ひぇっ!」

 北條が声を上げる。
 足が強張ってしまい、そのまま半分になった麺棒を構えて立ち尽くす。
 その間にあやかしは、とん!と床を蹴り、風小を超えて前に跳ぶと、北條の方へ振り向いた。粉砕されぐしゃぐしゃに潰れた顔を北條に向けて、恨めしそうに睨みつけている。
 北條の一撃の破壊力は、思った以上に強力だったようで、あやかしの頭頂部は完全に潰され、割れた頭からは脳漿のようなものがだらだらと流れ出していた。左の眼球がこぼれ出しそうなほど飛び出している。部屋の中にはあやかしの、腐った膿のような匂いが充満し始めた。
 ずたずたに引き裂かれた風小を中央に挟むようにして北條とあやかしが対峙する。

「うう……」

 向かい合う双方の口から、同時にうめき声が上がった。
 風小はピクリとも動かない。
 あやかしが動いた。
 襲いかかろうと床を蹴る。
 北條が小さく叫び声をあげ、目を見開くと同時に、あやかしは足をもつれさせ、前のめりに倒れ込み、床に脳漿をぶちまけた。
 あやかしにもさすがにダメージはあるようだった。が、すぐに立ち上がると、のろのろと北條に向かって刃を突きつける格好で近づいて行く。ゆっくりとした足取り。だがそれは決して弱々しい足取りではない。むしろチカラを溜めながら、そのまま近づければその場で、もし万が一、少しでも逃げようとするならば、今、即刻一撃を食ら

わす。そんな威圧。自信というより確信。
 絶対に殺される。北條にそれ以外の考えは浮かばなかった。

「た……」

 北條の唇が見る見る真っ青になり、ぶるぶると震え出す。

「た、たす、たすけてくれぇ……」

 叫び出したいが叫びにならない。
 独り言のような、陰にこもった弱々しいつぶやき。一歩、また一歩とあやかしは距離を縮める。

「たすけてくれー!」

 腹の裂けるような金切り声。北條自身が驚くような奇跡に近い叫び声。その声は、あやかしさえも一瞬たじろがせた。
 そのとき……。
 

リーン


 召ビの荒石が再び共鳴し出した。
 光の波動があやかしを襲い、体勢を整える間もなく部屋の壁に叩き付ける。


リーン


 床に転がるあやかしの残骸や、そして風小の身体まで……。
 光の無い目を見開いたままの風小の身体が、糸の切れた操り人形のように部屋の隅に飛ばされ、仰向けになりって、だらりと転がった。
 光の波紋は、今、北條の目の前にある脅威のすべてを弾き飛ばした。
 間を置かず。
 バチン、と言う、一際大きな放電音が2、3度したかと思うと、部屋が真っ白になるほどの光で満たされる。
 フラッシュバック。
 光の晴れた部屋の中に浮かび上がる巨大な影は……。

「お、お前は……」

 自分の目の前に現れた異形のモノに北條は目を見張った。
 ぬめぬめと、浅黒い水飴状の身体は2メートルほど伸び上がり、蛇が鎌首を持ち上げたようだった。鎌首の脇一面に、十数個の、縦長の瞳孔をした金色の目が一斉に開いて、ぶよぶよと泳ぎ出し、頭頂に集まり出す。
 丁度、胸の位置あたりから、女性の腕ほどの太さの触手が二本、獲物を求めるように空をのたうった。

「言霊のあやかし……」

 間違いない、間違えるわけが無い。偶発的な呪詛により、北條の携帯電話を憑代として発生し、彼の命を狙い、風小によって葬られたはずのあやかし。
 あの時、憑代として使われていた携帯電話は、風小によって粉々に破壊された。
 とすれば……。

「あなたの日頃の行いが、人々の呪詛を誘い、その結果、必然と言ってもよい呪いを完成させたのです。あなたが

自分の本質を改め無い限り、またあやかしが現れることは充分考えられるのです」

 北條は姫緒のそんな言葉を思い出していた。

「北條さん……、あなた悪い人ですか?」

 風小の言葉を思い出す。

「また、育ってやがったのか……」

 北條の脳裏に、絶望の文字が浮かぶ。

「カオオオおおおおぉぉぉん!」

 風の巻く音のような叫びを上げて、言霊のあやかしは身体をぶるぶると震わせると、吹き飛ばされた猿のあやかしに向き直り、その触手を振るう。

「亜ガアァァァ!」

 猿のあやかしは、威嚇するように一声吼えてよろよろと立ち上がり、向かってくる触手に刃を振るい、これをあっさりと切断する。しかし、切断された言霊の触手は根元から再び伸び出し、なおもあやかしを絡め捕ろうというように執拗に襲いかかった。

「ま、まさか……」

 北條が呟く。

「まさか、お前、助けてくれようとしているのか?」

 北條の言葉に答えるように、言霊のあやかしは再び咆哮した。
 身体をぶるりと震わせると、二本の触手の生え際から、数十本の細い鞭のような触手が湧き出して、次々に伸びていき、猿のあやかしを襲い出す。
 最初の数本を軽く切断して払いのけた猿のあやかしも、無限方向からの、矢継ぎ早の触手の攻撃に、ついにその手足を絡めとられる。
 猿のあやかしは、腕を拘束する触手を噛み千切ろうとするが、まるで歯が立たず、なおもしつこく引き千切ろうとするうちに歯が根元から折れ、血で赤黒く染まった歯茎を剥き出しにしてもなお、歯茎だけとなった顎でぐしゃぐしゃと、触手を噛み千切ろうと無駄な攻撃を繰り返す。
 触手に赤黒くどろどろとしたあやかしの血が塗りつけられ、その血は床にしたたり落ちていく。
 その時。
 バキッ、と言う鈍く大きな音がしたかと思うと、猿のあやかしの身体は、雑巾が絞られるように、触手によって締め上げられた。
 触手に喰らいついていたあやかしの口が喘ぎ、大きく開くと、声にならない叫びを上げる。
 口の中で血糊が糸を引き、吐血する。
 次の瞬間、猿のあやかしの全身から大量の血が噴き出し、滝のように床に滴った。



ぶちぶちぶバキバキばき……。


 ついに猿のあやかしの全身から、硬さを持った場所が消滅する。
 そして、絶命。
 しかし、あやかしの身体は尚も締め付けられ、触手の力によって八つに引き裂かれた。頭、両腕、胸、腹、腰、両足。引きちぎられた各々の部位が言霊のあやかしの触手から滑り落ち、ぼたぼたと床に転がる。
 あまりに不気味なあやかし同士の戦いに、声も無く立ち尽くしていた北條の口の中に、酸っぱいものがこみ上げて来た。

「ウウ……」

 両手で口を強く塞ぎ、吐瀉寸前でようやっと堪えると、目の前にたたずむ言霊のあやかしを見上げた。
 あやかしは、鎌首を、ユラユラと揺らしながら北條の方へ向けていた。
 あやかしの身体を泳ぐ目玉が、一斉に彼の方を見つめる。たくさんの触手は静かにゆっくりと宙を漂っていた。

 攻撃の意思は……、微塵も感じられない。

「ほんとうに、たすけてくれたのか?」

 あやかしに問いかける。ただ静かに佇(たたず)むあやかし。

「なんで……」

 ふと、北條は自分の手に握られている召ビの荒石を見つめた。
 これのせいか?
 確かにあやかしの出現前、召ビの荒石は発現していた。
 詳しい効力は知らないが、風小をここに召還したアイテムである。このあやかしを召還したとしても不思議では無い。

「あ!」

 そして思い出した。

「風小!」

 北條が部屋を見回す。
 言霊のあやかしが背にする壁。猿たちの残骸の吹き溜まりの中に、風小は仰向けのまま目を見開き転がっていた。
 肩から裂かれた左腕は、かろうじて身体に付いていたが、切断された右足は離れたところに転がっている。言霊のあやかしが襲ってくるかも知れないという恐怖は払いきれなかったが、それでも北條は風小のそばに駆け寄っていた。
 その様子を、言霊のあやかしが、身じろぎすることなく複数の視線で静かに追いかける。

「ふうこぉ」

 あやかしと風小自身の血や体液の中を転げ回り、どろどろになった彼女を、かまわず抱き起こす。
 風小の視線は焦点をまったく失い、空(くう)を見ている。左腕が、風水銃の重みに耐え切れず、だらりと垂れ下がった。
 北條は風小の身体を静かに床に下ろすと、風水銃のベルトを一本ずつはずし始めた。

「重いか?……。いま……、はずしてやるからな……」

 返事は無い。

「ふうこぉ……。お前馬鹿だよ……。最後になって逃げろって言うなら、何で最初から逃げろって言わないんだよ」

 なかなか外れない3本の固定されたベルトを淡々と外していく。

「俺たちがいなけりゃ、もっと違う戦い方もあっただろうよ……。いいとこ見せようとするからこんな事に……」

 北條の脳裏に、あやかしの刃に貫かれる寸前の、誇らしげにVサインを掲げる風小の姿が蘇る。

「こんなことに……」

 最後のベルトを外し終えると、風水銃がゴトリと重い音をたてて床に転がった。
 沈黙が流れる。
 誰かがすすり泣いているのが聞こえる。
 驚いたことに自分が泣いている。
 何かを失う悲しみ……。
 失ったことを知ってしまった後悔。
 嗚咽がとまらない。初めての悲しみに、抵抗できない。見開いたままの風小の目を閉じてやる。

「ふう、こぉ」


チリ……。


 微かな異音。
 北條がその音に気づいた次の瞬間。風小の身体から黒い陽炎が立ち上った。
 やがて、その黒い陽炎は、ごうごうと言う音を立てて炎のように舞い上がる。

「ああ!」

 慌てた北條が自分の身も省みず、風小の身体に手をかざし炎を払いのけようとする。
 熱さは無い。それどころか手応えさえ感じられない。
 確かに炎はそこにある。風小を焼き尽くすかのように渦巻いている。
 実際、風小の身体は黒い炎によって、燃やし尽くされるかのように少しずつ消滅を始めていた。だが、北條には触れることすら出来ない。

「おい!よせ!やめろ!」

 必死に払いのけようと手を振り続ける。

「やめろ!やめてくれぇえ!」

 そうしているうちに炎は、伸びる影のように床を這い出し、あちこちに転がるあやかしの残骸に燃え移り出した。次々に消滅し出すあやかしの残骸。

「やめてくれ!頼むから、もうやめてくれ!……燃やすな……、風小を燃やすな!」

 北條の絶望をあざ笑うかのように、取り巻く黒い炎はその勢いを増していく。

「もういやだ……。もう……」

 空を切る北條の手では何も出来ない。

「かおおおおおぉぉぉぉん」 

 絶望が塗り固まった、悪夢のようなありさまの中で、言霊のあやかしが咆哮を上げた。
 はっ、として北條が後ろを振り向く。あやかしの顔が北條の顔から数センチの空間にユラユラと浮かんでいた。
 猫目の瞳孔が一斉に膨れ上がり、一本の太い触手が高々と掲げられる。
 目交ぜし間。あやかしの触手が槍のように、北條の額を貫いた!

「ヴぅが嗚呼アアああアアア!!」

 悪夢の中に、北條の絶叫が響き渡った。
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