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ダイブ4 古代オリンピックの巻 〜 ソクラテス・プラトン 編 〜
第36話 ヒッポステネス、大跳躍!
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「テッサリアのキオニス!」
おおきな声で、一番手の選手の名前がコールされた。
それだけでたちまち、競技場内の空気がピーンと張りつめた。
スタートラインにキオニスが歩み出る。両手にはハルテレをしっかり握りしめ、笛の音に合わせるように、ゆらりゆらりと身体を揺らしながら構えたかと思うと、だっと前に駆け出した。
短い助走。歩数は十歩もない。
勢いをつけるというより、タイミングを調整するという間合い。たたたたと小刻みな歩幅から、キオニスが踏切板を踏み込み、大きくジャンプした。踏み切った瞬間、前に突き出した両手を、うしろにぎゅっと力いっぱい引き戻す。手に持ったハルテレの重みで加わった遠心力を使って前へ飛び出そうとする。うしろ側に手をふり抜きながら、ハルテレは背後に投げ捨てられる。
数メートルの跳躍。
着地には絶体的なバランスが必要だった。キオニスは着地場に着地するや、跳躍の勢いそのままに前のめりに倒れそうになるのを、足を踏んばってこらえる。
すぐさま係員が歩みより足痕を確認し、カノンと呼ばれる棒で計測した。
「13ブート(約4メートル)!」
その記録のコールに観衆たちからは拍手と賞賛の声が投げかけられていた。
それも当然で、この記録はオリンピックの記録に迫る大跳躍だった。一番手のキオニスが好記録をたたき出したおかげで、後続の選手もみな勢いに乗った。キオニスの記録こそ抜けなかったが、だれもがそれに迫る大跳躍を次々と跳んでのけた。
切れ目無く続く好記録の跳躍に、観衆たちはみな興奮しっぱなしだった。この勢いならまたもや新記録がでるのではないか、という暗黙の期待が、人々のこころにふつふつと湧き始めていた。
そして、ヒッポステネスの番が回ってくると、その思いは頂点に達した。タルディスに主役の座を奪われたとはいえ、80年前のレコードを塗り替えた最高レベルのアスリートに、よせられる期待は否が応にも高まる。
左耳側からスピロがやんわりと警告をしてきた。
「セイ様。ヒッポステネスはこの競技と単距離走も得意としてますので、充分お気をつけください」
「スピロ。何をどう気をつけるんだよ」
「いいから、セイ。なんでもいいから気をつけろだ」
マリアが耳元で大声で叫んで、セイを鼓舞してきた。
ヒッポステネスは自分のハルテレを持ちあげると、ぶんぶんと振ってみて、手のなじみや重さを確認していた。が、ふいに手をとめると、背後を振り向いてセイをにらみつけて言った。
「タルディス。この種目はオレ様の得意種目だ。オマエに勝ち目はねぇよ」
ひとつ勝っている同士なのだから、タルディス、つまりセイはヒッポステネスにとって、一番蹴落したい相手なのは確かだ。意識するのは当然だとしても、直接威嚇してくるのはルール違反なのではないか。おそらく前回大会、タルディスが勝てなかったのは、こういうあからさまの脅しに、萎縮したせいかもしれない。
スポーツマン・シップということばが、この時代にあるかはわからなかったが、セイはヒッポステネスの態度がどうにも気に入らなかった。
「あれぇ。ヒッポステネスさん。さっきの『円盤投げ』も得意種目だったんじゃなかったっけ?」
セイはおどけるような仕草でヒッポステネスに反撃を見舞った。前回王者に軽口を叩いたことで、背後で順番を待つ選手たちのあいだに緊張が走ったのがわかった。ヒッポステネスも怒りを目に滾らせ、こちらを睨みつけた。黙してなにも語っていないのに、その圧力は相当なものだった。これなら誰だって、縮みあがるに決まっている。
セイはさきほどのマリアのことばを思い出した。
『たしかに……。なんでもいいから気をつけろ、ね』
が、跳躍をうながすような笛の音に気づいて、ヒッポステネスはなにかを呟きながらスカンマのほうへ向き直るとハルテレを身構えた。
ヒッポステネスのハルテレは他の選手のものより、やや大きく重たいように見えた。それに若干だが形状も違っている。腕を前に振ったときに勢いがつきやすいということだろうか、前の方がやや大きく膨らんだ造りになっている。
笛の音がリズムを刻みはじめる。
ヒッポステネスが鍛え抜かれた腕をおおきくりながら助走をはじめた。その上腕二頭筋の隆起を見る限り、ヒッポステネスは上半身を使う競技のほうを得意とする選手であることがわかる。その前の『槍投げ』と『円盤投げ』でも証明したように、その剛腕でものを投げることこそが、彼の持ち味なのだ。
だから『円盤投げ』を落としたのは、ヒッポステネスにとっては痛恨であったに違いない。
ヒッポステネスが踏切板を踏み切る。と空中で身体をおおきくしならせ、同時にハルテレを前に投げつけるような勢いで突き出した。ハルテレの重みに振られて、ヒッポステネスの身体が前へとひっぱられていく。
ヒッポステネスがスカンマに着地を決めた。が、勢いのあまり、砂地を踏みしめた身体が前に倒れそうになる。
会場全体がどよめく。
が、持ちこたえた。ヒッポステネスはぎりぎり踏ん張りきった。
「15ブート(約4・8メートル)!」
係員が飛距離をコールするやいなや。熱風のような歓声がスタディオンのなかを吹き抜けた。
「新記録だぁぁぁぁ」
誰かが狂気したように叫んだ。歴代の記録を破る瞬間を、続けざまに見せつけられたのだから、狂乱に近い歓喜がその場を支配するのも当然のことだった。ヒッポステネスは腕をつきあげて、観衆にこたえた。トップに居続けてたキオニスががっくりと膝をつくのが見える。
「参ったな。本当に得意種目なんだ……」
あまりにも見事な記録に、さすがのセイも競技をわすれておもわず感嘆をくちにした。
「セイ様、感心している場合じゃありませんわよ」
スピロはやさしくセイの態度をたしなめる程度だったが、マリアの怒鳴りつける声が鼓膜をゆらしてきた。
「セイ、てめぇ、この記録、抜けんのかよ。いや、抜けよな」
「マリア様。またそんなにプレッシャーをかけて。うまくいかなかったらどうするおつもりですか?」
「スピロ、うまくいかなかったらじゃねぇ。絶対に勝たなきゃならねぇ戦いだろ」
不安げな声でエヴァがおそるおそる尋ねてきた。
「セイさん、さっきヒッポステネスに睨みつけられていましたが大丈夫ですか?」
「エヴァ。ヒッポステネスに、すごい形相でにらまれたけど、まぁ、大丈夫。心配ないさ。あれくらいなら信長さんのほうが、よっぽど怖かったよ」
すると、耳元でマリアが鼻を鳴らす音が聞こえた。
「ふん、セイ。あのうつけ者のどこが怖かったんだ?」
おおきな声で、一番手の選手の名前がコールされた。
それだけでたちまち、競技場内の空気がピーンと張りつめた。
スタートラインにキオニスが歩み出る。両手にはハルテレをしっかり握りしめ、笛の音に合わせるように、ゆらりゆらりと身体を揺らしながら構えたかと思うと、だっと前に駆け出した。
短い助走。歩数は十歩もない。
勢いをつけるというより、タイミングを調整するという間合い。たたたたと小刻みな歩幅から、キオニスが踏切板を踏み込み、大きくジャンプした。踏み切った瞬間、前に突き出した両手を、うしろにぎゅっと力いっぱい引き戻す。手に持ったハルテレの重みで加わった遠心力を使って前へ飛び出そうとする。うしろ側に手をふり抜きながら、ハルテレは背後に投げ捨てられる。
数メートルの跳躍。
着地には絶体的なバランスが必要だった。キオニスは着地場に着地するや、跳躍の勢いそのままに前のめりに倒れそうになるのを、足を踏んばってこらえる。
すぐさま係員が歩みより足痕を確認し、カノンと呼ばれる棒で計測した。
「13ブート(約4メートル)!」
その記録のコールに観衆たちからは拍手と賞賛の声が投げかけられていた。
それも当然で、この記録はオリンピックの記録に迫る大跳躍だった。一番手のキオニスが好記録をたたき出したおかげで、後続の選手もみな勢いに乗った。キオニスの記録こそ抜けなかったが、だれもがそれに迫る大跳躍を次々と跳んでのけた。
切れ目無く続く好記録の跳躍に、観衆たちはみな興奮しっぱなしだった。この勢いならまたもや新記録がでるのではないか、という暗黙の期待が、人々のこころにふつふつと湧き始めていた。
そして、ヒッポステネスの番が回ってくると、その思いは頂点に達した。タルディスに主役の座を奪われたとはいえ、80年前のレコードを塗り替えた最高レベルのアスリートに、よせられる期待は否が応にも高まる。
左耳側からスピロがやんわりと警告をしてきた。
「セイ様。ヒッポステネスはこの競技と単距離走も得意としてますので、充分お気をつけください」
「スピロ。何をどう気をつけるんだよ」
「いいから、セイ。なんでもいいから気をつけろだ」
マリアが耳元で大声で叫んで、セイを鼓舞してきた。
ヒッポステネスは自分のハルテレを持ちあげると、ぶんぶんと振ってみて、手のなじみや重さを確認していた。が、ふいに手をとめると、背後を振り向いてセイをにらみつけて言った。
「タルディス。この種目はオレ様の得意種目だ。オマエに勝ち目はねぇよ」
ひとつ勝っている同士なのだから、タルディス、つまりセイはヒッポステネスにとって、一番蹴落したい相手なのは確かだ。意識するのは当然だとしても、直接威嚇してくるのはルール違反なのではないか。おそらく前回大会、タルディスが勝てなかったのは、こういうあからさまの脅しに、萎縮したせいかもしれない。
スポーツマン・シップということばが、この時代にあるかはわからなかったが、セイはヒッポステネスの態度がどうにも気に入らなかった。
「あれぇ。ヒッポステネスさん。さっきの『円盤投げ』も得意種目だったんじゃなかったっけ?」
セイはおどけるような仕草でヒッポステネスに反撃を見舞った。前回王者に軽口を叩いたことで、背後で順番を待つ選手たちのあいだに緊張が走ったのがわかった。ヒッポステネスも怒りを目に滾らせ、こちらを睨みつけた。黙してなにも語っていないのに、その圧力は相当なものだった。これなら誰だって、縮みあがるに決まっている。
セイはさきほどのマリアのことばを思い出した。
『たしかに……。なんでもいいから気をつけろ、ね』
が、跳躍をうながすような笛の音に気づいて、ヒッポステネスはなにかを呟きながらスカンマのほうへ向き直るとハルテレを身構えた。
ヒッポステネスのハルテレは他の選手のものより、やや大きく重たいように見えた。それに若干だが形状も違っている。腕を前に振ったときに勢いがつきやすいということだろうか、前の方がやや大きく膨らんだ造りになっている。
笛の音がリズムを刻みはじめる。
ヒッポステネスが鍛え抜かれた腕をおおきくりながら助走をはじめた。その上腕二頭筋の隆起を見る限り、ヒッポステネスは上半身を使う競技のほうを得意とする選手であることがわかる。その前の『槍投げ』と『円盤投げ』でも証明したように、その剛腕でものを投げることこそが、彼の持ち味なのだ。
だから『円盤投げ』を落としたのは、ヒッポステネスにとっては痛恨であったに違いない。
ヒッポステネスが踏切板を踏み切る。と空中で身体をおおきくしならせ、同時にハルテレを前に投げつけるような勢いで突き出した。ハルテレの重みに振られて、ヒッポステネスの身体が前へとひっぱられていく。
ヒッポステネスがスカンマに着地を決めた。が、勢いのあまり、砂地を踏みしめた身体が前に倒れそうになる。
会場全体がどよめく。
が、持ちこたえた。ヒッポステネスはぎりぎり踏ん張りきった。
「15ブート(約4・8メートル)!」
係員が飛距離をコールするやいなや。熱風のような歓声がスタディオンのなかを吹き抜けた。
「新記録だぁぁぁぁ」
誰かが狂気したように叫んだ。歴代の記録を破る瞬間を、続けざまに見せつけられたのだから、狂乱に近い歓喜がその場を支配するのも当然のことだった。ヒッポステネスは腕をつきあげて、観衆にこたえた。トップに居続けてたキオニスががっくりと膝をつくのが見える。
「参ったな。本当に得意種目なんだ……」
あまりにも見事な記録に、さすがのセイも競技をわすれておもわず感嘆をくちにした。
「セイ様、感心している場合じゃありませんわよ」
スピロはやさしくセイの態度をたしなめる程度だったが、マリアの怒鳴りつける声が鼓膜をゆらしてきた。
「セイ、てめぇ、この記録、抜けんのかよ。いや、抜けよな」
「マリア様。またそんなにプレッシャーをかけて。うまくいかなかったらどうするおつもりですか?」
「スピロ、うまくいかなかったらじゃねぇ。絶対に勝たなきゃならねぇ戦いだろ」
不安げな声でエヴァがおそるおそる尋ねてきた。
「セイさん、さっきヒッポステネスに睨みつけられていましたが大丈夫ですか?」
「エヴァ。ヒッポステネスに、すごい形相でにらまれたけど、まぁ、大丈夫。心配ないさ。あれくらいなら信長さんのほうが、よっぽど怖かったよ」
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