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ダイブ4 古代オリンピックの巻 〜 ソクラテス・プラトン 編 〜
第31話 近代式の円盤投げに挑戦するしかない
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セイは円盤を抱えると、投擲場の狭いエリアの一番うしろ端に立った。それに見た観客たちのあいだからたちまち野次が飛ぶ。
「タルディス。怖くなって逃げ出したくなったかぁ」
「前に出ねぇと、ヒッポステネスの半分も飛ばねぇぞぉぉ」
セイがエリア内でおおきくからだを沈み込ませると、競技場にどよめきと笑い声がひろがった。
セイはふと、右側のスタンドの一番前に陣取っている観客のひとりと目があった。その男はきらびやかな刺繍がほどこされたキトン(ゆったりとした袖のないチュニカ)を着ていて、しかもとても清潔感があった。ほかの観衆が顔は脂ぎって髪の毛はべっとりしているのとは比べるまでもなかった。よく見ると、その両隣には使用人とおぼしき者たちが寄り添い、その男に水か酒らしきものを手渡していた。
だがその男は使用人には目もくれず、こちらを指さしながら大笑いをしていた。
ふん、笑わば、笑え。
ギリシアの様式美も形式美も知ったことではない。なりふり構っている場合ではないのだ。この円盤投げで勝てなければ、タルディスに優勝をもたらすことはかなり厳しくなる。『未練の力』のスーパーパワーが使えない、いち高校生であったとしても、このオリンピックで優勝しなければならないのだ。
セイは目を閉じると、前に一度、陸上部の友人に連れられて、体験入部で教えてもらった時のことを思いだした。
「ちがうよ、聖」
「なにが?」
「今投げたきみの円盤は反時計周りにまわってる。円盤投げでは時計回りに円盤を回転させるんだ」
「無理だろ。だってあの有名な円盤投げの彫刻みたいなポーズしたら、そうはならない」
聖は円盤を掴んで、ミスコスのギリシア彫刻『円盤を投げる人』のポーズを真似してみせた。
「あぁ。あれは有名だけど、実はあの投げ方じゃあ円盤は飛ばないんだ」
「本当かい」
「これは有名な話でね。第一回近代オリンピックが開かれたとき、ギリシアは自国独自の競技の円盤投げに、国家の威信をかけて臨んだんだけど、なんの練習もしていなかった他国のチームに惨敗したんだ。それもこれも、あの彫像の投げ方を忠実に真似したからなんだ」
「じゃあ、今はどうやるんだ?」
セイは腕をおおきく水平に広げると、からだをめいっぱい捻りながら前傾させた。
『両腕はかかしのように真横にひろげて、それより約10センチほど前に肩を固定して、からだをおおきく捻って——』
セイがぐぅんと捻った上半身をねじり戻しながら、からだを回転させていく。
『円盤投げは初速が大事で、角運動量っていう回転の勢いをため込むことが大事なんだ。速ければ速いほどいい。できるだけ腕を広げて回転半径を大きくする」
セイのからだが一回転する。そのまま踏み出した左足が地面を力強く踏みしめる。
『軸足で力いっぱい地面を押す『地面反力』で、この回転の力を今度は下半身につたえるんだ。そこが一番のパワーポジションになる』
セイの下半身に、上半身のねじりの力と回転のパワーが伝わる。
『ここで下半身をひねって、もう一度上半身に戻す。でもすぐに解放しちゃいけない。下半身の捻りを先行させて、先行させて、ぎりぎりのところで一気に上半身を戻すんだ』
セイは歯を食いしばった。下半身にため込まれた回転の力が、上半身、右腕、右手、そして指先にまで伝わっていく。
『正面をむいたあとに、最後に円盤から離れるひとさし指でスナップをかけて、円盤を時計周りに回転させる』
セイがバチンと指ではじいて円盤を送り出した。盤に回転が加わる。
だが、最後の両足が地面から浮いた瞬間、セイのからだはぐらりと傾いだ。そのままの姿勢で投げ出された円盤が、自分のすぐ真横の方向に飛んでいく。円盤はすぐに地面に落ちたが勢いがとまらず、まるで水切りのように、砂地を跳ね、観客席のほうへ飛込んでいった。
突然、地面を滑るように円盤が飛んできて、観客たちはあわてて、フィールドのほうへ飛び出すようにして逃げまどった。円盤がとんでいくそのまさにその先に、豪華な衣服をきて、召使いに傅かれたあの生意気な金持ちがいた。
地をはねた円盤は容赦なく、その金持ちのほうへ飛込んでいく。
自分に襲いかかる円盤を目にしながらも、その男は目を見開いたまま、身じろぎひとつできずにいた。ただただおおきく開いた口からは、あぁぁぁ、という悲鳴だけが漏れていた。横の召使いたちはとっくに逃げており、あれだけ密集していた観客席が、その男のいる一角は、彼だけがポツンと取り残されている異様な光景になっていた。
観客席からは予想される惨事に、悲鳴とも歓声ともつかない声がもりあがった。
が、円盤は急に勢いをうしない、金持ちの男のすぐ足元に滑るようにして止まった。
場内からは、安堵のため息と同時に、落胆の舌打ちらしきものが聞こえてきた。
思いがけない脅威に晒される羽目になった金持ちは、足元に転がっている円盤をおそるおそる見おろした。そこにはいつのまにか、乾いた地面を潤すような水溜まりがひろがっていた。
それをみた観客のひとりが叫んだ。
「そこの貴族様、お漏しされるのでしたら、せめてアルフェイオス川かクラデオス川でお願いしますよ」
「タルディス。怖くなって逃げ出したくなったかぁ」
「前に出ねぇと、ヒッポステネスの半分も飛ばねぇぞぉぉ」
セイがエリア内でおおきくからだを沈み込ませると、競技場にどよめきと笑い声がひろがった。
セイはふと、右側のスタンドの一番前に陣取っている観客のひとりと目があった。その男はきらびやかな刺繍がほどこされたキトン(ゆったりとした袖のないチュニカ)を着ていて、しかもとても清潔感があった。ほかの観衆が顔は脂ぎって髪の毛はべっとりしているのとは比べるまでもなかった。よく見ると、その両隣には使用人とおぼしき者たちが寄り添い、その男に水か酒らしきものを手渡していた。
だがその男は使用人には目もくれず、こちらを指さしながら大笑いをしていた。
ふん、笑わば、笑え。
ギリシアの様式美も形式美も知ったことではない。なりふり構っている場合ではないのだ。この円盤投げで勝てなければ、タルディスに優勝をもたらすことはかなり厳しくなる。『未練の力』のスーパーパワーが使えない、いち高校生であったとしても、このオリンピックで優勝しなければならないのだ。
セイは目を閉じると、前に一度、陸上部の友人に連れられて、体験入部で教えてもらった時のことを思いだした。
「ちがうよ、聖」
「なにが?」
「今投げたきみの円盤は反時計周りにまわってる。円盤投げでは時計回りに円盤を回転させるんだ」
「無理だろ。だってあの有名な円盤投げの彫刻みたいなポーズしたら、そうはならない」
聖は円盤を掴んで、ミスコスのギリシア彫刻『円盤を投げる人』のポーズを真似してみせた。
「あぁ。あれは有名だけど、実はあの投げ方じゃあ円盤は飛ばないんだ」
「本当かい」
「これは有名な話でね。第一回近代オリンピックが開かれたとき、ギリシアは自国独自の競技の円盤投げに、国家の威信をかけて臨んだんだけど、なんの練習もしていなかった他国のチームに惨敗したんだ。それもこれも、あの彫像の投げ方を忠実に真似したからなんだ」
「じゃあ、今はどうやるんだ?」
セイは腕をおおきく水平に広げると、からだをめいっぱい捻りながら前傾させた。
『両腕はかかしのように真横にひろげて、それより約10センチほど前に肩を固定して、からだをおおきく捻って——』
セイがぐぅんと捻った上半身をねじり戻しながら、からだを回転させていく。
『円盤投げは初速が大事で、角運動量っていう回転の勢いをため込むことが大事なんだ。速ければ速いほどいい。できるだけ腕を広げて回転半径を大きくする」
セイのからだが一回転する。そのまま踏み出した左足が地面を力強く踏みしめる。
『軸足で力いっぱい地面を押す『地面反力』で、この回転の力を今度は下半身につたえるんだ。そこが一番のパワーポジションになる』
セイの下半身に、上半身のねじりの力と回転のパワーが伝わる。
『ここで下半身をひねって、もう一度上半身に戻す。でもすぐに解放しちゃいけない。下半身の捻りを先行させて、先行させて、ぎりぎりのところで一気に上半身を戻すんだ』
セイは歯を食いしばった。下半身にため込まれた回転の力が、上半身、右腕、右手、そして指先にまで伝わっていく。
『正面をむいたあとに、最後に円盤から離れるひとさし指でスナップをかけて、円盤を時計周りに回転させる』
セイがバチンと指ではじいて円盤を送り出した。盤に回転が加わる。
だが、最後の両足が地面から浮いた瞬間、セイのからだはぐらりと傾いだ。そのままの姿勢で投げ出された円盤が、自分のすぐ真横の方向に飛んでいく。円盤はすぐに地面に落ちたが勢いがとまらず、まるで水切りのように、砂地を跳ね、観客席のほうへ飛込んでいった。
突然、地面を滑るように円盤が飛んできて、観客たちはあわてて、フィールドのほうへ飛び出すようにして逃げまどった。円盤がとんでいくそのまさにその先に、豪華な衣服をきて、召使いに傅かれたあの生意気な金持ちがいた。
地をはねた円盤は容赦なく、その金持ちのほうへ飛込んでいく。
自分に襲いかかる円盤を目にしながらも、その男は目を見開いたまま、身じろぎひとつできずにいた。ただただおおきく開いた口からは、あぁぁぁ、という悲鳴だけが漏れていた。横の召使いたちはとっくに逃げており、あれだけ密集していた観客席が、その男のいる一角は、彼だけがポツンと取り残されている異様な光景になっていた。
観客席からは予想される惨事に、悲鳴とも歓声ともつかない声がもりあがった。
が、円盤は急に勢いをうしない、金持ちの男のすぐ足元に滑るようにして止まった。
場内からは、安堵のため息と同時に、落胆の舌打ちらしきものが聞こえてきた。
思いがけない脅威に晒される羽目になった金持ちは、足元に転がっている円盤をおそるおそる見おろした。そこにはいつのまにか、乾いた地面を潤すような水溜まりがひろがっていた。
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