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ダイブ4 古代オリンピックの巻 〜 ソクラテス・プラトン 編 〜
第25話 本気でペンタスロンで勝てるとでも?
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今大会の槍投げの最高記録を叩き出し、この種目の優勝の筆頭に踊りでたことで、待機場所に戻ってくるなり、タルディスにはほかの選手たちの厳しい目がむけられた。
最後の一投を残すのみのこの状況で、ヒッポステネスの記録を抜いてきたのだ。これで自分たちにこの種目での勝ちはなくなった。彼らの険しい表情にはそういう恨み節が浮かびあがっているように見えた。
だがタルディスは気にせずゆっくりと地面に腰をおろした。
「やけに調子がいいじゃないか、タルディス」
背後から声をかけられた瞬間、タルディスの体がびくりと震えた。オリュンピアに来てからほかの選手との接触を極力避けていたが、この声はもっとも聞きたくない声だった。この四年間、屈辱を味わうたびに、悔しさに涙するたびに、このしゃがれたぶ厚い声が頭の中でリフレインした。いや責め立てたといってもいい。
ヒッポステネスだった——。
「おまえどんなことを神に祈ったんだ」
その目にタルディスはあっという間に射竦められた。からだが小刻みに震えはじめる。
「おれが失敗するように祈ったんだろ」
「そ、そんなことをするわけないだろう」
「本気で勝てるとでも?。おまえのような体つきの男が、五種競技で勝利して、万能を証明することなどできやしないさ」
「ぼ、ぼくは勝つためにここにき……」
「ひとりでか?」
ヒッポステネスのその威圧感のある声に、周りにいた選手たちも顔をむけた。だれもが恐ろしいほどの目つきでこちらをにらんでいる。タルディスはとたんに、自分を追い込もうとしているのが、目の前のヒッポステネスだけでないことに改めて気づかされた。
「あの優秀なコーチどのは競技がはじまる前に帰られたようだが?」
ヒッポステネスがそう揶揄すると、ほかの国の選手も囃し立ててきた。観客に気づかれないよう、静かな口調で、そしてなにか含みを持たせながら……。
「おまえがあまり優秀すぎて、もうコーチなんていらないんだよな」
「いや、みじめな負けがわかってるから、もう先に田舎に帰って引きこもってるさ」
タルディスはゾッとした。
もしかしたら、コーチが大会前日に行方不明になったのは、あの未来から来た子供たちが言うように、何者かの見えない力が働いているのではないか、と思えてきた。
「まぁ、いいさ。あの程度の記録はすぐに抜いてやる」
ヒッポステネスは槍のシャフトをぐっと握りしめ、唾棄するような口調で言った。タルディスは顔を上げられないまま、その『威嚇』の唾をおとなしく浴び続けているしかなかった。
ヒッポステネスの名前が呼ばれた。
彼はそれまでの間、タルディスのすぐ脇にいてずっと威圧感のある視線をむけ続けていた。目線すらむけられなかったので、本当に見ていたかはわからない。だが、タルディスのからだからは、さきほどの高揚感などは消えうせ、気概や意欲はこれ以上ないほど萎えてしまっていた。
ヒッポステネスが投擲の準備に入るのが見えた。
さきほどまでの威圧感そのままの目を遥か彼方にまで向けていた。まるでそこに立ちはだかっている見えない何者かを睨みつけているかのようだった。
力強く地面を踏みしめながら、助走にはいる。その走りは、短距離走を得意と自負するヒッポステネスらしい、疾走感あふれるものだった。そのあいだも肩口に持ち上げた槍をもった手はぶれることがない。
これ以上ないというタイミングで、ヒッポステネスが槍を放った。怒りにたけったゼウス神のような顔で、力をこめる。
シャフトがしゅるしゅると回転しながら、放物線を描いていく。
地を揺らさんばかりのドンという音をたてて、槍が地面に穴を穿つ。
タルディスにはそこがヒッポステネスが睨みつけていた場所なのかは見当はつかなかったが、あきらかにさきほどタルディスの記録を越えていることはわかった。
『170キュービット(約85メートル)!』
ヒッポステネスが腕をつきあげて、勝利の雄叫びをあげる。まだタルディスをはじめ数人の競技者が残っていることも、全員あと一回の試技が残っていることなども、歯牙にかける必要もない、という自信に満ちたパフォーマンスだった。
ヒッポステネスはこれ以上ないほどに胸をはって戻ってくると、四回目の試技の準備をしようとしていたタルディスにむかって、小さな声で、だがぞっとするほどの脅しをこめた囁いた。
「まさか、この記録を越えようと、あがくつもりか、タルディス」
「あぁ。なんとかしてみせるさ」
タルディスはなんとかヒッポステネスに言い返したが、声はひっくりかえって、すこし震えていた。おかげで、自分がヒッポステネスを恐れていることを公言してしまったようになった。
「なんだ。タルディス、びびってンのかぁ」
「さっきのはまぐれだったからな。二回は無理だよな」
ほかの選手たちがまるでヒッポステネスに加勢するように言ってきた。
タルディスは手に持った槍をぎゅっと握りしめたが、なにも言い返せなかった。
------------------------------------------------------------
「ちっ。やっぱり抜かされたか」
マリアはヒッポステネスの一投にほんのすこしだけ気持ちをこめて舌打ちをした。だが、本心から腹を立てたわけではない。あの程度のアドバンテージならなんとでもなる。
「セイ、次の投擲に刮目しろ。もちっと自然に飛ばしてやるから」
マリアはプラトンの上から、下にいるみんなを見おろしながら自信のほどを吹聴した。
それはほんとうに一瞬の出来事だった。
ヒッポステネスがタルディスを抜き返し、再びトップにたったことで、会場が盛りあがってきた矢先にそれは起きた。マリアは投擲場の後方で次の順番を待っているタルディスを注視していた
先ほどの成績ですんなりと勝たせてくれないことに、マリア的にはちょっとした苛立ちがあった。とはいえ、それでもすぐに挽回できる距離だったので、タルディスが最後の一投を投げ損ねないでいてくれさえすれば良かった。
バルビスにタルディスの前の順番の選手が入った。タトスのテアガネスと名を呼ばれるまだ若々しい選手だった。彼は槍の持ち手をやたら気にしているようだったが、審判が目で促しているのに気づいて、すこしまごついた様子のまま助走をはじめた。
マリアはそこまでの流れを目の端でなんとなく捉えていた。が、タルディスからはけっして目を離さなかった。テアガネスがアンキュレをしならせ、槍を投げようとする。
「タルディス!」
引きつったような叫び声にマリアはハッとした。
セイだった。
信じられないことに、テアガネスの投げた槍がうしろに振りかぶった時、そのままうしろにすっぽ抜けた。いや、そんな生やさしい勢いではない。うしろに投擲したと言っていいほどの威力で槍は飛んでいた。
革紐の反動が誤って反対側に作用したように見えた。
いや、物理的にありえない軌跡——。
なにが起きたか把握するのが、ほんの0・数秒遅れた。
マリアの頭のなかに瞬時にさまざまな思いが通り抜けた。
またもや固定観念で物を見ていた、という後悔——。
自分の策がうまく行ったことによる慢心——。
今この競技を操っているのは自分だという矜持——。
だから間に合わなかった。
マリアはタルディスの槍を飛ばすために用意していた『ささやかな神風』の力をあわてて押し出して、飛んでくる槍にむけた。やわらかな風が槍をかすかに揺らしたが、槍はその勢いをほとんど削がれることなかった。そのまま槍の柄の終端、石突き部分が、後方で準備をしていたタルディスを喉元を直撃した。
まるでスローモーションのように、ゆっくりとタルディスが倒れていく。タルディスは受身をとるような素振りもみせず、どうと地面に横たわった。
最後の一投を残すのみのこの状況で、ヒッポステネスの記録を抜いてきたのだ。これで自分たちにこの種目での勝ちはなくなった。彼らの険しい表情にはそういう恨み節が浮かびあがっているように見えた。
だがタルディスは気にせずゆっくりと地面に腰をおろした。
「やけに調子がいいじゃないか、タルディス」
背後から声をかけられた瞬間、タルディスの体がびくりと震えた。オリュンピアに来てからほかの選手との接触を極力避けていたが、この声はもっとも聞きたくない声だった。この四年間、屈辱を味わうたびに、悔しさに涙するたびに、このしゃがれたぶ厚い声が頭の中でリフレインした。いや責め立てたといってもいい。
ヒッポステネスだった——。
「おまえどんなことを神に祈ったんだ」
その目にタルディスはあっという間に射竦められた。からだが小刻みに震えはじめる。
「おれが失敗するように祈ったんだろ」
「そ、そんなことをするわけないだろう」
「本気で勝てるとでも?。おまえのような体つきの男が、五種競技で勝利して、万能を証明することなどできやしないさ」
「ぼ、ぼくは勝つためにここにき……」
「ひとりでか?」
ヒッポステネスのその威圧感のある声に、周りにいた選手たちも顔をむけた。だれもが恐ろしいほどの目つきでこちらをにらんでいる。タルディスはとたんに、自分を追い込もうとしているのが、目の前のヒッポステネスだけでないことに改めて気づかされた。
「あの優秀なコーチどのは競技がはじまる前に帰られたようだが?」
ヒッポステネスがそう揶揄すると、ほかの国の選手も囃し立ててきた。観客に気づかれないよう、静かな口調で、そしてなにか含みを持たせながら……。
「おまえがあまり優秀すぎて、もうコーチなんていらないんだよな」
「いや、みじめな負けがわかってるから、もう先に田舎に帰って引きこもってるさ」
タルディスはゾッとした。
もしかしたら、コーチが大会前日に行方不明になったのは、あの未来から来た子供たちが言うように、何者かの見えない力が働いているのではないか、と思えてきた。
「まぁ、いいさ。あの程度の記録はすぐに抜いてやる」
ヒッポステネスは槍のシャフトをぐっと握りしめ、唾棄するような口調で言った。タルディスは顔を上げられないまま、その『威嚇』の唾をおとなしく浴び続けているしかなかった。
ヒッポステネスの名前が呼ばれた。
彼はそれまでの間、タルディスのすぐ脇にいてずっと威圧感のある視線をむけ続けていた。目線すらむけられなかったので、本当に見ていたかはわからない。だが、タルディスのからだからは、さきほどの高揚感などは消えうせ、気概や意欲はこれ以上ないほど萎えてしまっていた。
ヒッポステネスが投擲の準備に入るのが見えた。
さきほどまでの威圧感そのままの目を遥か彼方にまで向けていた。まるでそこに立ちはだかっている見えない何者かを睨みつけているかのようだった。
力強く地面を踏みしめながら、助走にはいる。その走りは、短距離走を得意と自負するヒッポステネスらしい、疾走感あふれるものだった。そのあいだも肩口に持ち上げた槍をもった手はぶれることがない。
これ以上ないというタイミングで、ヒッポステネスが槍を放った。怒りにたけったゼウス神のような顔で、力をこめる。
シャフトがしゅるしゅると回転しながら、放物線を描いていく。
地を揺らさんばかりのドンという音をたてて、槍が地面に穴を穿つ。
タルディスにはそこがヒッポステネスが睨みつけていた場所なのかは見当はつかなかったが、あきらかにさきほどタルディスの記録を越えていることはわかった。
『170キュービット(約85メートル)!』
ヒッポステネスが腕をつきあげて、勝利の雄叫びをあげる。まだタルディスをはじめ数人の競技者が残っていることも、全員あと一回の試技が残っていることなども、歯牙にかける必要もない、という自信に満ちたパフォーマンスだった。
ヒッポステネスはこれ以上ないほどに胸をはって戻ってくると、四回目の試技の準備をしようとしていたタルディスにむかって、小さな声で、だがぞっとするほどの脅しをこめた囁いた。
「まさか、この記録を越えようと、あがくつもりか、タルディス」
「あぁ。なんとかしてみせるさ」
タルディスはなんとかヒッポステネスに言い返したが、声はひっくりかえって、すこし震えていた。おかげで、自分がヒッポステネスを恐れていることを公言してしまったようになった。
「なんだ。タルディス、びびってンのかぁ」
「さっきのはまぐれだったからな。二回は無理だよな」
ほかの選手たちがまるでヒッポステネスに加勢するように言ってきた。
タルディスは手に持った槍をぎゅっと握りしめたが、なにも言い返せなかった。
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「ちっ。やっぱり抜かされたか」
マリアはヒッポステネスの一投にほんのすこしだけ気持ちをこめて舌打ちをした。だが、本心から腹を立てたわけではない。あの程度のアドバンテージならなんとでもなる。
「セイ、次の投擲に刮目しろ。もちっと自然に飛ばしてやるから」
マリアはプラトンの上から、下にいるみんなを見おろしながら自信のほどを吹聴した。
それはほんとうに一瞬の出来事だった。
ヒッポステネスがタルディスを抜き返し、再びトップにたったことで、会場が盛りあがってきた矢先にそれは起きた。マリアは投擲場の後方で次の順番を待っているタルディスを注視していた
先ほどの成績ですんなりと勝たせてくれないことに、マリア的にはちょっとした苛立ちがあった。とはいえ、それでもすぐに挽回できる距離だったので、タルディスが最後の一投を投げ損ねないでいてくれさえすれば良かった。
バルビスにタルディスの前の順番の選手が入った。タトスのテアガネスと名を呼ばれるまだ若々しい選手だった。彼は槍の持ち手をやたら気にしているようだったが、審判が目で促しているのに気づいて、すこしまごついた様子のまま助走をはじめた。
マリアはそこまでの流れを目の端でなんとなく捉えていた。が、タルディスからはけっして目を離さなかった。テアガネスがアンキュレをしならせ、槍を投げようとする。
「タルディス!」
引きつったような叫び声にマリアはハッとした。
セイだった。
信じられないことに、テアガネスの投げた槍がうしろに振りかぶった時、そのままうしろにすっぽ抜けた。いや、そんな生やさしい勢いではない。うしろに投擲したと言っていいほどの威力で槍は飛んでいた。
革紐の反動が誤って反対側に作用したように見えた。
いや、物理的にありえない軌跡——。
なにが起きたか把握するのが、ほんの0・数秒遅れた。
マリアの頭のなかに瞬時にさまざまな思いが通り抜けた。
またもや固定観念で物を見ていた、という後悔——。
自分の策がうまく行ったことによる慢心——。
今この競技を操っているのは自分だという矜持——。
だから間に合わなかった。
マリアはタルディスの槍を飛ばすために用意していた『ささやかな神風』の力をあわてて押し出して、飛んでくる槍にむけた。やわらかな風が槍をかすかに揺らしたが、槍はその勢いをほとんど削がれることなかった。そのまま槍の柄の終端、石突き部分が、後方で準備をしていたタルディスを喉元を直撃した。
まるでスローモーションのように、ゆっくりとタルディスが倒れていく。タルディスは受身をとるような素振りもみせず、どうと地面に横たわった。
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