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ダイブ4 古代オリンピックの巻 〜 ソクラテス・プラトン 編 〜
第16話 要引き揚げ者タルディス発見
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あのソクラテスが弁論において言い負かされた——。
ある意味、これはこれで歴史がひっくりかえされた瞬間だった。セイは無性にわくわくしている自分があることに気づいた。
セイはスピロのほうに目をむけた。
いまの今、哲学の巨人を完膚無きまで叩き伏せたというのに、泰然自若としている。スピロという人物は、世界遺産級に空気が読めないという話を聞いていたが、セイのなかでは『キレ者』という評価のほうが今は勝っている。トランスジェンダーで、やたら華美な格好を好むという見た目からは計り知れない『能力』の持ち主なのかもしれない。
だがおかげで、東棟へむかう一行の雰囲気は『怒り』が支配していた。プラトンに肩をおされて最後尾からついてくるソクラテスはしょげ返って、初対面のときのような『知』の塊のような圧力はすっかり抜け落ちてしまっている。
「それでもぼくらについてくるのですね」
ソクラテスに寄り添っているプラトンに、セイは質問を投げかけた。
「えぇ。申し訳ないが……」
「なぜです?」
「わたしは『驚きは知ることの始まりである』とふだんから説いています。わたしはあなたたちの言っていること、いや存在に驚きを感じた。いろいろ知りたいと純粋に思った……」
「本当に『純粋』か?、プラトン。さっきまで『不純』が混じっていたみたいだが?」
前を歩いていたマリアが振り向きもせず、プラトンに皮肉を投げかけた。
「マリアさん、ご勘弁を。今はただあなたがたが、老師の言う神的なお告げをもたらす『神霊』かどうかを見極めたいだけです」
東側の柱廊に足を踏み入れると、なにかを叩くような音が聞こえてきた。セイにはすぐにそれがサンドバッグを叩く音であるとすぐにわかった。部屋に足を踏み入れると、充満した熱気が人々を圧倒した。
素っ裸の選手たちが、天井から吊り下がったサンドバッグに渾身のパンチを打ち込んでいるのが見えた。そのすぐ近くではレスリングの時のように、プロの専属コーチが声を荒げ、選手たちに鼓舞とも威嚇ともとれることばを投げつけていた。
セイはその光景にたちまち心を奪われた。曲がりなりにもボクシングをたしなんでいる身としては、2400年も前のボクシングという競技がどんなものであったか、興味が湧かないわけがない。
「いましたわ、セイさん。あなたがたが捜しにきた『要引揚者』のジョー・デレクの前世の人物、アテナイのタルディスさんです」
そう言いながらスピロが手で指し示した。セイがそちらに目をむける。
ひとりの男が部屋の隅のベンチに腰かけたまま、うつむいていた。
------------------------------------------------------------
その男、タルディスは遠目に見ても、深い悲しみにくれているように見えた。近くによってみると、その表情はもっと複雑な感情に彩られていることがわかった。
エヴァが前に進みでてタルディスに訊ねた。
「タルディスさん。なぜそんなに沈みこんでられるのですか?」
男の裸体に慣れたようで、素っ裸で座っているタルディスを前にしても、恥じらいひとつない口調だった。
タルディスはとまどった表情で顔をあげた。
「なぜ私の名前を?」
「そ、それは……、まぁ……」
エヴァはしどろもどろになりかかったが、スピロがそれを救った。
「それは当然です。アテナイのタルディスと言えば有名ですもの」
「それは前回大会でみっともない成績で負けたからかね?」
「もちろん、それもありますわね」
「スピ口さん。失礼じゃないですか。我らアテナイの代表選手ですよ」
プラトンが前に進み出てタルディスをかばった。そこではじめてソクラテスとプラトンの存在に気づいたのか、タルディスがおもわず立ちあがった。
「あぁ。大変失礼しました。ソクラテス様、プラトン様、気づきませんで」
ソクラテスは軽く手を持ちあげて、タルディスを制した。
「いや、タルディス、かまわんよ。明日の試合にむけて精神を集中しておったのじゃろう。こちらこそ、そちらの練習を邪魔してすまなかった」
「あ、いえ……、残念ですが……、練習どころではなくなってしまったのです」
「どうされたのかな?」
「コーチが失踪したんですわ」
スピ口が思わず先んじて言うと、タルディスの目は驚きで大きくひろがった。
「なぜ、それを?」
あきらかに口を滑らせたはずだったが、スピロはまったく悪びれることなく言った。
「すでにほかの国の選手やコーチの間では噂になっていましてよ」
タルディスは深いため息をついた。
「そうですか……」
「コーチがいなくなったとはどういうことです?」
プラトンがタルディスに尋ねた。
「それが……、それがわからないから困っているのです。この四年間、前回の汚名挽回のために二人三脚で努力してきたのです。だから本番前日にいなくなるなどありえない」
「でも本番前ならコーチの出番はほとんどねぇんじゃ?」
ゾーイが遠慮がちに自分の疑問をタルディスにぶつけた。
「オリンピックは、ほかの大会とちがってプレッシャーが半端ではありません。脇で支えてくれる信頼できるコーチなしで、ひとりで戦うなど私には……。アテナイからわざわざ応援にきていただいた市民の方々には申し訳ないが、とてもまともに戦えそうもない」
意気消沈したタルディスのネガティブな発言に、だれも声をかけられずにいると、うしろでなりゆきを見ていたマリアが皮肉まじりに言った。
「は、オレたちはこの男が勝とうが負けようが何の興味がねぇ。さっさと任務を済ませて、帰りたいだけだ」
「そうはいかないんです」
スピロがマリアの皮肉を一喝した。
スピロはセイ、マリア、エヴァの三人のほうをふりむいて言った。
「今回、要引揚者を助けるためのわたくしたちのミッション——
それは、このタルディスさんをこのオリンピックで優勝させることなのです」
ある意味、これはこれで歴史がひっくりかえされた瞬間だった。セイは無性にわくわくしている自分があることに気づいた。
セイはスピロのほうに目をむけた。
いまの今、哲学の巨人を完膚無きまで叩き伏せたというのに、泰然自若としている。スピロという人物は、世界遺産級に空気が読めないという話を聞いていたが、セイのなかでは『キレ者』という評価のほうが今は勝っている。トランスジェンダーで、やたら華美な格好を好むという見た目からは計り知れない『能力』の持ち主なのかもしれない。
だがおかげで、東棟へむかう一行の雰囲気は『怒り』が支配していた。プラトンに肩をおされて最後尾からついてくるソクラテスはしょげ返って、初対面のときのような『知』の塊のような圧力はすっかり抜け落ちてしまっている。
「それでもぼくらについてくるのですね」
ソクラテスに寄り添っているプラトンに、セイは質問を投げかけた。
「えぇ。申し訳ないが……」
「なぜです?」
「わたしは『驚きは知ることの始まりである』とふだんから説いています。わたしはあなたたちの言っていること、いや存在に驚きを感じた。いろいろ知りたいと純粋に思った……」
「本当に『純粋』か?、プラトン。さっきまで『不純』が混じっていたみたいだが?」
前を歩いていたマリアが振り向きもせず、プラトンに皮肉を投げかけた。
「マリアさん、ご勘弁を。今はただあなたがたが、老師の言う神的なお告げをもたらす『神霊』かどうかを見極めたいだけです」
東側の柱廊に足を踏み入れると、なにかを叩くような音が聞こえてきた。セイにはすぐにそれがサンドバッグを叩く音であるとすぐにわかった。部屋に足を踏み入れると、充満した熱気が人々を圧倒した。
素っ裸の選手たちが、天井から吊り下がったサンドバッグに渾身のパンチを打ち込んでいるのが見えた。そのすぐ近くではレスリングの時のように、プロの専属コーチが声を荒げ、選手たちに鼓舞とも威嚇ともとれることばを投げつけていた。
セイはその光景にたちまち心を奪われた。曲がりなりにもボクシングをたしなんでいる身としては、2400年も前のボクシングという競技がどんなものであったか、興味が湧かないわけがない。
「いましたわ、セイさん。あなたがたが捜しにきた『要引揚者』のジョー・デレクの前世の人物、アテナイのタルディスさんです」
そう言いながらスピロが手で指し示した。セイがそちらに目をむける。
ひとりの男が部屋の隅のベンチに腰かけたまま、うつむいていた。
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その男、タルディスは遠目に見ても、深い悲しみにくれているように見えた。近くによってみると、その表情はもっと複雑な感情に彩られていることがわかった。
エヴァが前に進みでてタルディスに訊ねた。
「タルディスさん。なぜそんなに沈みこんでられるのですか?」
男の裸体に慣れたようで、素っ裸で座っているタルディスを前にしても、恥じらいひとつない口調だった。
タルディスはとまどった表情で顔をあげた。
「なぜ私の名前を?」
「そ、それは……、まぁ……」
エヴァはしどろもどろになりかかったが、スピロがそれを救った。
「それは当然です。アテナイのタルディスと言えば有名ですもの」
「それは前回大会でみっともない成績で負けたからかね?」
「もちろん、それもありますわね」
「スピ口さん。失礼じゃないですか。我らアテナイの代表選手ですよ」
プラトンが前に進み出てタルディスをかばった。そこではじめてソクラテスとプラトンの存在に気づいたのか、タルディスがおもわず立ちあがった。
「あぁ。大変失礼しました。ソクラテス様、プラトン様、気づきませんで」
ソクラテスは軽く手を持ちあげて、タルディスを制した。
「いや、タルディス、かまわんよ。明日の試合にむけて精神を集中しておったのじゃろう。こちらこそ、そちらの練習を邪魔してすまなかった」
「あ、いえ……、残念ですが……、練習どころではなくなってしまったのです」
「どうされたのかな?」
「コーチが失踪したんですわ」
スピ口が思わず先んじて言うと、タルディスの目は驚きで大きくひろがった。
「なぜ、それを?」
あきらかに口を滑らせたはずだったが、スピロはまったく悪びれることなく言った。
「すでにほかの国の選手やコーチの間では噂になっていましてよ」
タルディスは深いため息をついた。
「そうですか……」
「コーチがいなくなったとはどういうことです?」
プラトンがタルディスに尋ねた。
「それが……、それがわからないから困っているのです。この四年間、前回の汚名挽回のために二人三脚で努力してきたのです。だから本番前日にいなくなるなどありえない」
「でも本番前ならコーチの出番はほとんどねぇんじゃ?」
ゾーイが遠慮がちに自分の疑問をタルディスにぶつけた。
「オリンピックは、ほかの大会とちがってプレッシャーが半端ではありません。脇で支えてくれる信頼できるコーチなしで、ひとりで戦うなど私には……。アテナイからわざわざ応援にきていただいた市民の方々には申し訳ないが、とてもまともに戦えそうもない」
意気消沈したタルディスのネガティブな発言に、だれも声をかけられずにいると、うしろでなりゆきを見ていたマリアが皮肉まじりに言った。
「は、オレたちはこの男が勝とうが負けようが何の興味がねぇ。さっさと任務を済ませて、帰りたいだけだ」
「そうはいかないんです」
スピロがマリアの皮肉を一喝した。
スピロはセイ、マリア、エヴァの三人のほうをふりむいて言った。
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