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第二章 第一節 四解文書争奪

第168話 知ってしまったんだ。四解文書の一節を……

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 ありえない!。
 ブライトが休職願いを提出したというニュースは、春日リンにとっても寝耳に水の話だった。
 ありえない……。
 ブライトとはここ数日、行動を共にして各所に出向く機会も増え、ふだんの何倍もことばを交すことも多くなった。それだけではない。数日前には別れて以来、ひさしぶりにお互いを求めあったばかりなのだ。それからほんの一日二日でこんなに事態が急転するのは信じられようもない。
 ブライトは一緒に帯同しているときに、ネガティブな様子をおくびにも出さなかったし、その徴候すらなかった。なにより、あれだけの濃密な時間を共有しておきながら、私に対して何の相談もないというのは失礼きわまりない。
 実家に戻ったと聞いていたので、リンはゴーストを使ってブライトの自宅を訪問することにした。リンがブライトに許可を申請すると、すぐさまブライト自身が許諾のサインを送ってきた。
 リンはブライトの家を訪れるのは久しぶりだったが、以前とほとんど変わっていないことだけはわかった。質のよい材質で作られ、華美を極力抑えたシンプルな内装に、部屋が寂しくならない最小限の調度品が配置されていた。気品を重んじるブライト家の家風がかいま見える。
 ブライトは広いダイニングテーブルに座っていた。テーブルの上に肘をついて頭をかかえたままみじろぎもしなかった。
「ヒカル、何があったの?」
 ブライトはうなだれた頭を重たそうに起こして、リンの方へ虚ろな視線をむけた。
「リン、君か……」
「あなた、休職願いを出したって聞いたわ。どうしたの?」
「すまない。私はもうあそこで指揮はとれない……」
「とれないって。どうしたの?。あんなにも大変な局面をのりきったのよ。軍内部でもあなたを評価する声は多いわ。知ってるでしょ。日本国防軍のシン・フィールズ……」
「もう嫌なんだ!」
 ブライトは癇癪をおこしたかのように、リンの励ましを怒声で断ち切った。
 あまりの剣幕にリンが声をうしなった。
「もう私はまともな神経であの場所に立って指揮などできない」
「なぜ?」
 リンはそれでも食い下がった。一時の気の迷いごときで、降りてよい役職ではないのだ。
 ブライトは目元を手でおおって、おおきなため息をついた。その顔にはありありと奥悩が刻まれていた。なにかを打ち明けようとしているのか、ぶつぶつとなにかを呟いていた。リンはじれったかったが、彼を追いこんでは駄目だと自分に言いきかせ、無言のまま様子を見守った。
 数分経ったところで、ようやくブライトが口を開いた。
「昨晩、リョウマが……、リョウマの幻影があらわれた……」
「リョウマが今さら……?。夢でも見たんじゃあ……」
「本物のリョウマだ。間違いない」
 また癇癪をおこすものと身構えていたが、ブライトは重々しいことばでリンを遮った。「あの時、かぶったプルートゥの体液、あれがからだの中に浸潤していたらしい」
「そんなことが?。調べてみないと……」
「ふ、おめでとう……。君やエドにとってはうれしい事例だろう。重要な研究課題が一つ提起された」
「やめてよ、ヒカル。私はあなたの身に起きたことの方が心配よ。その体液のせいで体調を崩したの?。それとも……」
「知ってしまったんだ……四解文書の……四解文書の一節を……」
 リンの鼓動がはねあがった。
「何を……」

 それだけ口から紡ぎだすのがやっとだった。

 何を言ってるの?……。
 何を聞いたの?……。
 何をバカなことを?……。

「それだけじゃない……、この基地のなかにその一節を知っている人間がいる……と教えられた」
 リンの心臓は跳ねあがったビートのまま、高速ステップを踏みはじめていた。
 ブライトが言うリョウマが本物かどうかはわからない。だが、それが夢うつつであったとしても、何者かがブライトにあたらしい情報をもたらしたのは確かだ。
「だ、誰なの?」
「わからない……」
 ブライトは弱々しく頭をふった。それは首をふって否定するしぐさというには、あまりにも意思が希薄だった。ただ、惰性で首が揺れただけにしか見えなかった。
 それほどまでにブライトの精神は薄弱している……?。
「リン、君には、それが誰か心当たりがないか?」
 ブライトは生気のない目をリンにむけた。
 死者がうらめしげに自分になにかを問うてる。一瞬、そんな錯覚を感じた。
「残念だけど、わからない。すくなくともわたしに心当たりはないわ」
 リンはその視線を真正面から見据えて、淀みなく即答した。安堵とも苦悶ともつかないため息がブライトの口元から漏れた。
「そうか……」
「ヒカル、疲れているのよ。すこし休めば前のように;;」
「あぁ……、そうかも、そうかもしれんな」
「次の亜獣出現は、たぶん数ヶ月先になるはずよ。そのあいだ、休養をとって……」
 そのことばをブライトは手をはらって遮った。もう出ていってくれというジェスチャーだった。
「わかったわ……」
 リンはブライトの部屋から、ログアウトすることにした。今、ここで性急に結果を求めるべきではない。
 が、部屋を離れる間際に、ブライトがいやに確信めいた口調で問うてきた。

「リン……。君じゃないのか。一節を知っていたのは?」

 リンは口元をぎゅっと引き締めたまま、思いっきり口角をあげて笑みを作った。
「まさか。わたしが知っているはずはない」 
 ブライトはその表情をしばらく見ていたかと思うと、「そうか……」とだけ言ってテーブルの上に突っ伏した。もう誰とも口をききたくないという意思表示なのだと理解した。

 ブライトはわたしの言葉を信じただろうか?。
 えぇ、たぶん大丈夫だ……。

 だが、もしそうだとしたら、とんだお人よしだ。
 嘘は女のアクセサリなのだ。信じるほうがどうにかしている。

 リンは去り際にふと、先ほど「何を……」とまで言って、ことばに詰まったとき、本当はそのあと何を続けて言おうとしたか思いだした。
 ブライトの生ぬるい覚悟をあげつらおうとしたのだ。


「何を……、今さら」と。
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