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第一章 最終節 決意

第140話 ブライトなら、どうしただろう?

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 春日リンは駐機エプロンで、アスカの到着を待っていた。
 切り立った崖の上に敷設されているこの場所は、あたりは人工の森で囲まれ、上空からも見えにくい作りになっている。
 朝4時15分からと告知されていた『天気予告』通り、すでに先般から雨が降りはじめていた。『天気予告』は気象庁の予定通り、一秒の狂いもなく施行されている。
 格納庫側には庇があったが、リンは白衣が濡れるのも構わず、屋外にでて上を見上げていた。気持ちが急いて、居ても立ってもいられなかった。司令室でのほほんと、待っていることができずに、いつの間にかここまで走り出してきている。
 それほどまでに深刻な被害をセラ・ヴィーナスは受けたのだ。 
 かつてデミリアンが腕を消失するほどの重篤な怪我を負ったことはなかった。表皮が裂ける、骨が破砕される、肉が削げ落ちる……。自分が請け負った事例でも、厳しいものはそれなりにあった。だが、今度はそれらとは次元が異なる。
 デミリアンの専門家の自分でも正直、どこから手をつけていいのかさえわからずにいる。
 いや、懸案は怪我だけではない。それよりももっと大きな問題を孕んでいる。
 むしろ、そちらのほうが気がかりだ。
 セラ・ヴィーナスは、今、別の個体の腕を、しかも反対側の腕を癒着させようとしている。それだけでも充分に無茶な賭けだ。
 なのに、その腕は亜獣になった個体プルートゥのものなのだ。
 われながらまったく無謀きわまりないことをやっている……。

 春日リンは時計に目をやった。あと五分も経たずにセラ・ヴィーナスは到着するはずだ。
「カオリ、腕の感じはどう?」
 惘膜の奥に投影されたアスカが、大きなため息をつきながら言った。
「メイ、これで何回目?。そんなに聞かれても状態はそんなに変わりはしないわよ」
「でもね……」
「ハイハイ、わかったわよ!。もー」
「じゃあチェックするわよ。さっきから言っているようにあくまでも印象だからね」
「ええ、それで構わない」
「腕のつけ根の接合部は確実に癒着してる。完全に自分の肩にくっついているって実感できるわ。なんでかは説明できないけどね。それにほんとうにかすかにだけど、指先を動かせそうな感触も。ただ、神経が繋がってきているかは自信ない。でもなんとなく動かせそう」
「ねぇ、カオリ、今、試せない?」
「試したけど、まだ無理っぽい。それに腕が逆向きについてるの。繋がってても、どの指を動かしてるかわかんない」
 リンは肩を落とした。先ほどから横ばいの状況。可も不可もない。
「ひき続き細かな変化を注視してちょうだい。カオリ、何か変化があったら、どんなに些細なものでいいから知らせて!」
「あのね、メイ、そんなにーーー」
「その腕があなたに襲いかかるかもしれないの!」
 リンは語気を強めて、アスカの反論を封じた。
「一部分とはいえ、亜獣を基地の中に招きいれるのよ。どれだけ神経質になってるか察してちょうだい」
 モニタのむこうのアスカがすこしふてくされた声で「わかったわよ」と返答してきた。リンは大きくため息をついて、「ありがとう」と返した。
 リンは額に手をやると、そのまま自分の顔をなでまわした。
 ひどい女……。
 私、アスカに責任を半分押しつけてる。判断したのも、決断したのも自分のくせに……。
 だが、リンはセラ・ヴィーナスが基地に近づくにつれ、不安が大きくなっていくのを止められずにいた。
 結局、うまく癒着せず片腕になってしまったら……。
 左腕に接合した右腕を活用するのが難しいという結論になってしまったら……。
 左腕が勝手に暴走してしまったら……。
 そして、移植された左腕から亜獣の組織体や体液を通じて、セラ・ヴィーナス本体が乗っ取られたとしたら……。
 否定しても、あとからあとからネガティブな予想ばかりが次々と浮かんでくる。
 その時、自分はどうすればいい?。
 自分は間違っていたのだろうか?。
『ブライトなら、どうしただろう?』
 ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。ブライトなら自分とは違う対応をしているだろう。まず責任が生じる決断を容易にはくださない。そのうえで成り行きまかせにするはずだ。
 とたんに彼の優柔不断さがうらやましく思えてきた。潔く即断したせいで、こんなにも苦しむのなら、すべてをあと送りにして、選択肢がなくなったことを嘆き苦しむほうが楽なのかもしれない。
「まさかね」
 リンは思わず呟いた。
 自分は常に決断してきたことで、ここまで生きてきた人間だ。思ったような結果が得られなかったことのほうが多かったが、その時の自分が決めたことを後悔したことはない。ブライトが他人の目を気にしてしか生きられないように、私は他人の目などを無視してしか生きていけない人種なのだ。

「ア・ス……カ……」
 リンの耳にどこからか声が聞こえてきた。
 セラ・ヴィーナスに何か変化があったのか?。いや違う!。
 りンの心が逸りかけたが、すぐに打ち消した。
 この回線はデミリアンパイロット専用回線だ。アスカでも、ヤマトでも、レイのものでもない、廃止されたはずの周波数帯の……。
 リンはばっと上空を見まわした。雨で煙って見えにくかったが、流動パルスに沿って、こちらへ飛んでくるセラ・ヴィーナスの姿が、すでに目視できる位置にまできているのがわかった。
 これではない!。
 リンはこの駐機エプロンの外縁のむこうの空間が、ゆらゆらと揺らめいているのに気づいた。
 雨の中に何かがいる。
 雨に視界を遮られていてもわかる。そこだけあきらかに異質な空間。
「リ・ン・さん……」
 また声が聞こえた。
 その瞬間、リンの目がカッと見開かれた。空にふたつ、上が欠けた半月形の光がギラついていた。

 すぐ目の前にプルートゥがいた。
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