狗神と白児

青木

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本編

第二十話 犬憑きの光景

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 時に小風が吹こうとも、花弁の一枚も散らない霊妙な桜の下にて、斑とシロは座った。
 不思議な春の香りに包まれていると、逸る心が和らいでいく。
 斑は、枝の先を見据えながら口を開いた。
「時期を見計らって言うつもりだった」
「神宿りの件ですか」
「そうだ。歌天の言う通り、筋を通すべきだと分かっていながら、切り出す適宜てきぎを掴めなかった」
「……色々ありましたからね」
「九分九厘私のせいだ。……更に、まだ色々ある。歌天と楽助の言っていたことは、恐らく全て本当だということも、そのうちの一つだ」
「恐らく、というのは」
「犬憑きだった頃の記憶が、とても曖昧だ。都合のいい話だが。……私が恐ろしいか」
「はい。とても」
 はっきりと言い切られ、斑は自嘲する。
 ただ、シロは、それで終わらせるつもりは毛頭無かった。
「だけど、もう、貴方のことを恐ろしいと思い続けたくありません。知らないままでいては貴方のことを恐ろしいと思い続けるか、恐ろしくないと思い直せるかすら分かりません。だから教えて下さい、斑さんのことを」
 唇を噛み締め、手を握り締め、心からの望みを伝える。
 斑は逡巡したが、いつかは訪れるものとして端から考えていたことの通りに応える。
「お前に私の過去を視せる。私にも、お前の過去を視せてほしい」
 どういう理屈か分からない。けれどシロは頷いた。「目を閉じろ」と告げられた通りにして、過去を待つ。
 やがて、瞼の裏が、ぐるぐると回り始めた――



 ◆◆◆



 ――腹が減って死にそうだ。
 最初に伝わった感覚は、酷い飢餓感だった。空っぽの胃袋がキュウキュウと収縮し、痛くて痛くて堪らない。その痛みを慰めようと体を丸めたいのに、それすら許されない。首から下までが冷たい土に覆われ、もがけないのだ。
 目の前には、かごに閉じ込められた一羽の鶏がいる。慌ただしく羽ばたきして甲高く鳴き続け、狭い空間を嫌がっている。活きのいい鶏だ。あれを食いたい。丸ごと食いたい。むしゃぶりつきたい。羽を毟る暇も無く、骨の一本も残さず、食いたい。胃袋を満たしたい。
 シロの中に湧いてくる食欲は、祭事に出される馳走を前にして嬉々とするような、生半可なものではなかった。ひたすら虚しかった。目と鼻の先に食い物があるのに、それを誰かに制御されている。干し肉が乗る手の平を差し出され、延々と「待て」と言い続ける偏屈な飼い主に、飼い慣らされた自分は牙を剥けない。自分の弱さを呪う、そんな虚しいひもじさ。
 不意に、かごが開かれた。食い物だ。自由を得た食い物が踊る。限界まで首を伸ばし、口を開き、本能的に食らいつこうと必死になった。
 ――そこで、首に何かが宛てがわれ、突然視界が宙を舞ったかと思うと、また地に転がった。地面は赤かった。人影に囲まれている。それが最期だった。

 ――復讐してやる。
 先程とは違う、誰かの憎しみの感情だ。誰か……人だ。視界は高く、土に埋もれている感覚は無い。だが、やはり自由は限られている。首輪で繋がれ、自ら首を差し出すような姿勢で待たされている。それを見下ろす人の群れのうち、一人は血に塗れた鉈を持っている。そして、ふと視線が地面に向く。黒い犬の生首だけが転がっていた。まだ意識が残っているかのように、涎と血が垂れる口元を僅かに動かし、白い羽毛の数枚を舌で舐めていた。
「必ず殺してやるからな」
 呪詛を唱えるような、男の低い声。シロは自分が言っている気になった。例え自分が死んだとしても、「想い」だけはいつまでも残してやると、男の腹の底で沈殿する遺恨は、とても重苦しく、肺に息が詰まって呼吸も難しくなる。
 やがて鉈を持つ人影が迫る。男の肩と頭を目一杯押し込む人影もいる。見世物のつもりか、人の群れはそこから動かず、食い入るように見つめている。
 そして、良く研がれた刃先が、皮膚に食い込んだ。

 ――もう、嫌だ。
 入り交じる憎しみと悲しみで目が回り、吐きそうになった。
 シロが――暴れ狂う自分が上げる咆哮の中に、様々な悲鳴が聞こえた。助けて。止めて。この子だけは。化け物。犬憑きだ。奴は狗神になるぞ。今更祀っても無意味だ。悪かった。許してくれ。殺さないでくれ。お前を呪ってやる。
 だが、それらの叫びを聞いたところで己を止められない。自分だって苦しい。自分だって恐ろしい。ただ殺戮の為に生まれ、復讐の道具として生まれ、己を制御する術が分からない。
 自分は、他人に隷属する為に生まれてきたのか?
 意思を奪われ、肉体を奪われ、尊厳を奪われ――沸き立つ怒りに任せて暴れてやりたい衝動を抑えられない。復讐したい相手は既にいないのに、我慢出来ない。
 飛んできた矢や弾など届く前に使用者を蹴散らし、かつての飢えを思い出して肉を好きなだけ食らう。
 燃え盛る家々。香ばしい血の匂い。砕かれた大岩。倒された大木。無惨な死体の塊。縫われた首の傷口が開いたのか痛くて堪らず、紛らわせる為、目につくものに体当たりをした。二足とも四足ともつかない不格好な形で、荒廃した戦地を駆け巡り、戦災から逃れたはずの罪無き里さえ荒らす。今までの肉のどれよりも不味く、しかし豊満な力が内側に蓄えられていていくのが分かる。この力があれば、誰にも縛られない。

 じゆうだ!
 ぼくはじゆうだ!
 だから、もう、ころしたくない!
 ぼくのじゆうをうばうな!

 立ちはだかるは巨躯の狐狸。独特な和装の人影達が無から一斉に放つ光の矢。
 牙と爪で抉られ、矢で射抜かれ、ついに倒れ込んだが、まだ意識はある。
 左手の甲が炙られたように熱い。深々と刻まれたのは勾玉の刻印。

 あばれたりない。ぼくはじゆうだから。
 つかれた。ねむい。ねよう。
 おきた。おもい。さむい。いきぐるしい。
 ここは、どこ?
 ぜんぶがしろだ。ひとりぼっちのせかいはしろい。
 さびしいよ。さびしいよ。さびしいよ。ゆきのなかは、すごくつめたいよ。
 ここがぼくのいばしょなの?
 ……そうか。ぼくは、たくさんころしてしまった。

 雪月の崖で遠吠えをする、哀れな黒犬。



 ◆◆◆



 ぽん、とシロの頭に斑の手が乗っかる。
「すまない。残虐すぎて、耐えられるものではなかったか」
 知らずのうちに目頭から涙が止まらないシロは、斑に諭されて我に返った。とても断片的で、前後も分からない、一気に押し寄せる過去の波は、あまりにも重かった。全てを理解するには無理のはずなのに、我が身のように感じた。
 泣くばかりのシロを、自分の惨めな過去を気にしないような顔色で、相変わらず平淡な語調で続ける。
「戦時中、恐らく私は人間が妖怪に対抗する為の武器として作られた。本来の犬憑きは、飢えた犬の首を刎ね落とし、それを箱に入れて祀ると、その者に隷属し、呪った相手を殺す道具となる。だが、私は……より強力なものとする為、人の体に犬の頭を縫いつけられたらしい。その一人の人間に、多くの人間が抱く憎しみを背負わせた。ある種の〈依代〉だ。きっと妖怪の襲撃が酷かった土地で、何が何でも復讐したかったのだろう。そして、目論見は成功した。たくさんの妖を食った。だが、無関係な人間も……神宿りの里まで襲った。視て分かっただろうが、力に酔ってもいた」
 斑は、寂しい溜め息を吐いた。犬憑きと、狗神である自分は別物と思い込みたいが、記憶は曖昧でも、感覚が残っているのは事実だった。 
「厭物の贄に使われた身だ、どうせろくでもなかったのだろう。女子供を殺した大罪人か、伝染病を持ち込んだ疫病神か、世迷い言を吐く異常者か。田畑を荒らし、家畜を食らい、人をも襲う狂犬だったのかもしれない。ともあれ、これが私の出自。……恐ろしいに決まっている」
 シロは何度も目を擦る。手の甲に染み込み切れない涙の雫が腕に伝う。そのまま、ぶんぶんと首を横に振ってみせた。
「恐ろしい、けど……悲しいって、思いました」
 ひっく、ひっくと啜り上げながら、振り絞って続ける。 
「斑さんも、そうだったんじゃないですか? 自分はこんなことの為に生まれてきたわけじゃない、助けてくれ、苦しいって、悲しくて、叫んでいたんじゃないですか?」
 斑は肯定も否定もしなかった。ただ、目尻の隈取りが僅かに下がった。
「お前がそう思い、その為に涙を流してくれたのなら……私は嬉しい」
 すっと頭から手が離れる。その時、シロは気付いた。幼い頃から見えない何かに髪を触られていたが、その度に寒気がして気分が悪くなった。だが、今の斑の手は、心地好い。夕菜油ゆうなあぶらで髪を整えてくれた母のように、抱き着けば抱き締め返して頭を撫でてくれた父のように、シロの胸を温かさで満たしてくれる。
(私、斑さんに髪を触られるの、嫌じゃないんだ。勝手に切られたのに。安心する。変なの……)
 絆されているだけかもしれない。だが、こんな温かい気持ちにしてくれる手の平の持ち主を、やはり無下には出来ない。斑の所業が許されないのは勿論だとしても、彼一人だけを罪人に仕立て上げるのは、間違っている。シロは、そう思った。
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