狗神と白児

青木

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本編

第七話 波蛇の根城

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 シロは歩いている。
「ここは、どこ……?」
 道は、白と黒の世界だった。時には天が白くなり、時には地が黒くなり、そもそも天地が曖昧で、道のはずなのに、どこを歩いているのか分からなくなる。
 ふと振り返っても部屋の窓は無い。その場で留まると、足の裏に道が吸いついて離れなくなりそうになる。不気味な感触を味わうのが嫌なので、足早に進むしかない。何も無い前へ。
 どこからか、蝶が舞う。白と黒の美しい蝶――故郷の墓場でよく飛んでいた蝶と同じだ。光の鱗粉を散らしながら優雅に飛び、ふとシロの頭で休んだかと思えば、再び二匹で宙を泳ぐ。シロを案内しているのか、惑わしているのか、先へ先へと行ってしまう。
(急がなきゃ!)
 背中から、頭上から、体内から、何かの影に支配されそうな、焦燥感に駆られる。
 ――視るな。視るな。視るな。
 支配から逃れる為、あの拒絶された感覚を思い出し、祈りとして真似してみる。それがどういうものなのか、分からないままに。
「ねえ、待って! 私、ここから出たいの! 行きたい所があるの!」
 切実な呼びかけに応えたのか、二匹の蝶は浮遊したままシロを待つ。シロは走る。ぴた。ぴた。ぴた。走っているつもりが、足の裏に道が引っつくせいでおかしい。
 それでも、蝶へと伸ばした手は届く。
 触れられた途端、白と黒の蝶は溶け合い、混ざり合い、白黒の羽根を持つ蝶と化す。そして世界は真紅に染まる。
 あまりの鮮烈な光景に瞼を閉ざしてしまったシロは、やがて深い森の中に立っていたことに気付くまで、しばらくの時間を要した。

 湿った葉の匂いが辺り一面から漂う。天の恵み……あるいは、神の祟りを十二分に飲み干した自然の塊は、満腹で眠りこけているようだった。
 シロは、濡れた地面に裸足を触れさせながら、一歩、二歩、三歩、歩く。
(まさか、ここは……)
 どうしてか、予感がした。
 木々の隙間からふくろうのような鳴き声がする。しかし梟そのままのものとは思えなかった。ホー、ホー、という鳴き方に馴染みはあるが、ホホッ、ハハッ、フフフフッと、追いかけっこではしゃぐ子供の笑い声が挟まれるのだ。
「わあ、人間の子だ! こんばんは!」
 突然、背後から幼い声で話しかけられたシロは、腰を抜かした。べちゃりと浴衣が泥で汚れた。
「何してるの? 夜のお散歩? 迷子?」
 男児とも女児ともつかない声音で話しかけてくるそれは、鳥だった。それこそ梟のような、柔らかそうな羽毛で覆われた丸みのある体付きと、真っ直ぐにこちらを見つめてくる丸い目がある。が、意思を確実に持ち、仄かに発光している様は、やはり、ただの獣とは違う。
「貴方は……妖怪だよね?」
「うん。たたりもっけだよ。君は何してるの? 迷子? 迷子?」
 自分が妖怪であると指摘されても、人と出会っても一切動じず、たたりもっけはシロの周りをくるくると楽しそうに飛ぶ。
「行きたい場所があるの。でも、どこをどう進めばいいのか分からなくて、困ってて……」
「行きたい場所って?」
「蛇の妖怪……波蛇の根城」
「あの川かあ! ちょっと歩くけど、結界を通れば大丈夫だよ。結界の場所は知ってるよ。ついてきて!」
 ふわりと小風が吹いた途端、そこには腹掛け姿の子供がいた。目の前で擬人化されても、もうシロは驚かなかった。
 たたりもっけがシロの手首を掴んだ。幼い外見からは想像つかない力強さは、大福以上だった。
 シロは、たたりもっけに引っ張られながら走る羽目になる。しかし不思議と苦にならない。たたりもっけは見た目によらず足も速く、放っておけばシロを引き離してしまうだろう。だが、たたりもっけに補助されて飛んでいるような心地で、森の中をびゅんびゅんと駆けていく。
 やがて、ある地点で立ち止まった。
「ここが結界だよ。呪符が目印だよ」
 周りと比べて茂みが開いた所に、太い木が二本並んでいる。
 たたりもっけは再び〈本性〉となり、樹冠に近い所を飛ぶ。体から放たれる仄かな光に照らされ、それぞれに一枚の紙が貼られていることにシロは気付いた。
「ほら、この呪符が貼られてる木の間を通るんだ。そしたら波蛇の川の近くに出られるよ。ちゃんと川の光景を思い浮かべて通るんだよ。じゃないと神ノ國に迷い込んじゃうよ。行ってらっしゃい!」
 それだけ言うと、たたりもっけは淡い光のまま暗い森の奥深くへと消えてしまった。
 とにかく説明が足りない。しかし、ここまで来て残されたシロに、もう迷う暇など無かった。それに、何故だか分からないが、あの道を辿ってこられた自分は、結界などに恐れている場合ではないという自信がついていた。
 浴衣を汚した落ちない泥を気休めに払い、シロは木の間へと進む。
 強く、強く、光景を浮かべる。
 日照り乞いの贄として放り込まれた先の、斑に拾われた、あの始まりの川辺を。

 シロが一歩そこを通った瞬間、雰囲気が変わった。森だった場所は林となり、土手の上から見下ろせるのは、月明かりに照らされる穏やかな川。
 あの鉄砲雨が嘘だったかのように淀み無く、しんと流れている所へ、シロは転がる勢いで下りた。夜更けの川水に浸るのは冷える。それでも躊躇わなかった。ばしゃばしゃと音を立て、腿まで浸かる位置で右岸へ左岸へ、ひたすら動き回る。水草や小石を掻き分け、見つかるわけがないと思っていながら探す。
 五分、十分……時が少しずつ経つ。体が冷え切って崩れ落ちる前に、仕方なく小岩に腰を下ろした。
(これから、どうしよう……)
 来られたはいいが、考えが無い。
 シロは膝頭に顔を埋め、溜め息を吐く。朝を迎えて姿が無いとなれば、命の恩人に対して恩返しもせず逃げ出した礼儀知らずの人間、と見なされて当然だ。逃げたつもりは無かった、ただ形見の櫛を探したかった。……果たして、この言い分を伝えて理解してもらえるのだろうか。無我夢中だった為、今になって思うが、どうしてここに辿り着けたのかも理解出来ていない。
 ざ、ざ、ざ、と砂利を踏んで近付いてくる草鞋わらじの足音が、いつの間にか近かった。「人ならざるモノ」であることは、すぐに分かった。
「そそるニオイだ」
 振り向くと、だらしなくえりを浮かせた、着物姿の青年が立っている。
「こんな夜半に女一人で散歩か? 警戒心が無いよなぁ」
 シロは、よろよろと立ち上がる。けれど密やかに、青年に向けて眉間を意識する。青い火が、ぼやぼやと揺らめいている。その奥に――(本性)を視た。
 人の姿と同じくらいの背丈の、長い舌をちろちろさせ、こちらを窺う蛇。青海波せいがいはのような形の白い鱗が全身に生えており、下半身と言える部位からは、川面と繋がる水が絶えず流れている。川を根城とする主、まさしくそれらしい様相だった。
 シロは、禍々しい生き物から、そっと目を逸らした。妖怪だと見抜いたことを悟られないように、あくまで〈擬人〉に対して声を絞り出す。
「す、数日前、ここで挿し櫛を落としたんです。それを探していて……」
「ほう。もしかして、これか?」
 シロは目を見開いた。月光によって映える艶やかなそれは、追い求めていたものだった。
「そ、それ! 私のなんです、私の大事なものなんです。お願いします、返して下さい!」
「返せだぁ? まるで俺が無理矢理奪ったみたいな言い方は止めろ、気分が悪い。ここは俺の縄張りだ。満月の夜に拾ってからは、俺が持ち主だ。……ああ、そういうことか。本来の馳走は、櫛ではなくお前だったのか?」
 「本来の馳走」という言い方から、シロは斑の推測を思い出しつつ、自分なりに考えてみる。
 村で暮らしていた頃、自分から漂うニオイをどこからか嗅ぎつけた蛇が、雨を降らせて川を乱したのだろうと斑は言っていた。村人はそれを「神の祟り」と呼び、人身御供を決めた。直接の襲撃は何かの「掟」によって許されない。だから、贄として選ばれる人間の中に、豊かな呪力を持つ者が投げ込まれるまでを待つという、闇雲なやり方。何の因果か、最初の贄で大当たり。
(だけど、もしかして、あの櫛にも呪力がこもってる……?)
 当然ながら、櫛とは髪に触れさせるものだ。神宿りの頭髪には呪力が宿る……その話と結びつけるなら、髪から櫛へと呪力が移ることもあるかもしれない。
 シロは心の中で泣きたくなった。獲物を食う為に狡賢い策略を企てた妖怪にも、身寄りの無い穢れた墓守りの子を厄介払いしようと決めた村人にも、餌と贄の道しか選べなかった弱い自分にも、腹が立って、泣きたくなる。
 波蛇はシロを見下しながらも、櫛を眺める目付きには尊さを湛えている。
「乞う理由も分かるぞ。良き櫛だ。管狐がかじった途端に空孤にさえなれそうなほどの、純粋で豊満な力が宿っている。長く受け継がれ、日毎夜毎丹念に手入れをしてきたんだろう?」
 シロは力無く頷く。母が教えてくれた通りの手順で、夕菜油ゆうなあぶらで磨いた。母の真似をして、帯に入れて仕事をした日もある。寝る前に見つめては両親の出会いが過り、くすくすと笑った。
 人間の小娘が何に耽っているのかなど、波蛇にとってはどうでもいい。ただ、付け入る隙がある恰好の獲物を、おいそれと逃すわけにはいかない。
「丁度腹が減っていたところでな。櫛を持っているだけでは物足りん。そこで、お前の腕一本と引き換えに櫛を返してやる、というのはどうだ?」
 ひらひらと櫛で手招きされると、シロの足は自然と惹かれてしまう。
 波蛇は口元を吊り上げながらも、妖としての矜持きょうじはあるらしく、はっきりとした語調で続ける。
「契りを交わそう。名を言え、人間。これは礼儀だ。真の名を明かせ」
 真の名を迂闊に名乗ってはいけないと、斑に教えられた。名は魂と等しく、知られてしまえば命取りになる。それがどういうものなのか、具体的に教えられていないのに、直感が恐ろしさを思い浮かばせる。
 だから、言いなりになってはいけないと、頭では分かっている。……それでも、その櫛は、シロにとって、唯一残された家族の絆なのだ。
「私の、名前は――」
 突然、シロの背後から大きな光が一面に差した。驚いて振り向こうとするも、ぽん、と頭に触れる男の手のせいで、その暇が無かった。
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