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本編
第五話 前触れ
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若葉の隙間から細長い体をにゅっと覗かせて一軒家を見下ろす、茅色の狐の顔がある。
「あれは人の子か。狗神が久方ぶりに白児を迎えたか。だが、変わったニオイをしている。あれは……」
するすると体を枝に巻きつけ、距離を測りつつ移動し、縁側で休む少女を窺おうと鼻先をひくつかせるが、張り巡らされた結界のせいでいまいち掴めない。
どうであれ、狗神が白児を迎えたこと自体が滅多に無いことだ。
「何かの前触れになるかもしれない。歌天様に報告しよう」
そう言うと、枝に巻きつけていた管のように細長い体を解き、茂る森の中を素早く泳いでいった。
◆◆◆
大福に案内してもらった浴室は、これまた西洋文化を取り入れた造りだった。顔を洗う為の洗面台には大きな鏡が張られており、シャワーと呼ばれる装置が目新しい。シャワーは、ちゃんと調整してあるが、下手にいじると熱湯が出るとのことだ。シロは、おずおずと蛇口をひねってみたが、丁度の温かさが降り注いできたので驚いた。
故郷の家の近くには神が住まうという川が流れており、清めには事足りたが、手間のかかる湯浴みはあまりしなかったので、ざあざあと湯の雨に濡れる心地好さを受け入れるのは、むず痒い。
「……ちゃんと、お礼を言わなくちゃ」
それでも、湯を被り、汗を洗い流しているうちに、シロの頭は冴えた。あの妖怪は命の恩人だ。今更だが、そう思った。
身寄りのいない子供。川の神による怒りの長雨を鎮めるとあれば、生贄には相応しい。長く死者に触れ、穢れに満ちた墓守りを、いつまでも村に置いておきたくないという、厄介払いの意味もあっただろう。そんなちっぽけな自分を、拾ってくれた。
自ら死者ノ國への旅路を望んだわけではない。ましてや、神に食われるなど。しかしまさか妖怪に拾われ、死者ノ國と同一視していた常世へと連れられるとは思わなかったし、ここが本当の居場所とは思えないが……それでも、救われたのだ。契りとやらを交わしたことを、覚えている。だから自分は白児なのだ。狗神が指名した白児。白児だからこそ……。
浴室から出ると鏡が目につく。短い毛先から、ぽたぽたと雫が落ちている。それを見ている自分の表情は生者の顔だが、切ない。こんな細い顔立ちだったのかと、シロは不思議な気持ちになった。
相変わらず丈が合わない浴衣を着たシロは、和室と隣接する斑の部屋へと向かうと決めた。
質素な無地の襖が閉まっている。大福曰く、朝餉の後の斑は自室か、その隣の書斎にいるとのことだった。まず自室に向かって声をかけ、返事が無ければ書斎にいる。書斎にいる場合は、勝手に入るのは恐れ多いからと控えておくという。
「あの……すみません。いらっしゃいますか」
シロは襖の前に座り、そっと声をかけると、すぐに応えが返ってきた。
「開けて構わないよ」
平淡とした、低い声。シロは緊張する手で引手に触れた。
「湯浴みは良かったか」
襖を開け、まず目に入ったのは、黒犬の後頭部。背筋を伸ばし、文机と対面しているらしい
「はい。おかげさまで……」
「そうか。穢れを祓う際は水の方が適しているが、普段は湯を使うといい。特に寝る前に体を温めると楽になる。それで、どうした」
斑が振り返るより前に、シロは三つ指をついて深々と頭を下げていた。
「ここ数日のこと、今更思いまして、その、命の恩人に対して、ちゃんとお礼も言っていなくて……すみませんでした。助けて下さって、ありがとうございます」
シロの謝罪と感謝の言葉を聞いた斑は、複雑な表情をした。
「白児として、神宿りとして、私は何を……貴方に捧げればいいのですか」
「シロ。顔を上げなさい」
おずおずとして現れたシロの表情は、とても気不味そうだった。丈の合わない浴衣を、どうにかきっちりと身に着けて、まるでその為に湯浴みをしてきたことを体現している。
「別に堅苦しく考える必要は無い。白児とは、狗神に仕える人間を指す。大福は私に付き従ってくれているが、妖怪だから白児とは呼ばない。それだけの違いで、その呼称は常世での古い風習だ。私は、お前から何かを頂戴する気は無い。お前の血肉を食う絶好の機会なら、あの場だった。……別の意味でも、お前に手を出すつもりは無いよ」
そう言われ、シロはあからさまに気が抜けたような顔をした。
「神宿りに関しても、少し話しておこう。端的に言えば、人でありながら妖に等しいか、それ以上の呪力を持っている者のことだ」
「その、呪力というのは」
「昨日知りたがっていたな。今の人間達からすれば、化かされた気になるような術を繰り出す為の種だ」
こんな風に――そう呟いて左手を出し、その上に青白く細い火を浮かべた。
当然、シロは驚く。
「それ、何ですか」
「妖であれば大概が出せる、鬼火というものだ。常世と現世という区切りが無かった時代では、人も呪力を持ち、操るのが当たり前だった。しかし、時が下るにつれて失われつつあるのだろう。使い手ならともかく、呪力が何なのかを知らず、制御出来ない者は、傍から見て異端なのだろうな」
異端という言葉に、シロは肩を小さく跳ねさせる。
「更に、その中でも特殊なのが神宿りというお前だ。自覚は無いかもしれないが、その身に呪力を呼び集め、たっぷりと蓄えてしまっている。恐らく、ある時期から漏れ出したであろう呪力が、神宿り特有のニオイとなって漂っている。今までは幸運にも、お前を食おうとした妖と遭遇した覚えは無さそうだが、飢えた者から見れば、お前はこの上ない馳走だ。もしかすると、前兆として、おかしな出来事を体験してきたのではないか?」
「それは……」
おかしなこと――村で数少ない、親しくしてくれた、隣家の死んだおじいの亡者と話をしたことだろうか。周りに誰もいなのに、長い髪を触られたり、抜かれたりしたことだろうか。墓場で誰にも見えない蝶を追いかけたことだろうか。「人ならざるモノ」の気配を感じることだろうか。満月の夜に、右目が赤く光ることだろうか。
斑は、いかにも心当たりがあると言わんばかりに黙ってしまったシロを置き、とりあえず続ける。
「先程聞いたが、大福がすねこすりであることを視たのだな。妖が人の姿に化ける術は、呪力によるものだ。そして、お前が大福の〈本性〉を見破れた心眼こそ、神宿り特有のもの。普通の人間であれば擬人を見抜けない」
〈擬人〉――シロは、目の前にいる男の形と、ようやく向き合った。犬の頭と人の体。では、この姿は……考えた途端、頭の中が暗くなった。蝋燭の火を吹かれたように、思考が消えてしまった。
「お前を人身御供とした故郷に帰りたいか? 現世に身寄りや行く宛てはあるか?」
「……いいえ」
「ならば、うちに住めばいい。大福は新入りのお前が来て、大層喜んでいるのが分かりやすいだろう。まだ幼く、可愛い奴だ。彼に家のことを任せてばかりの月日だったから、手伝いでもしてくれるとありがたい」
恩に報いる為、身を捧げる覚悟をしていたので、本当に使用人としての仕事が与えられるだけなら、こなさないわけにはいかない。それに、確かに大福とは打ち解けられる気がする。実年齢は彼の方がいくつも上だそうだし、妖怪ではあるが、やはり見た目のせいか、気を許し易い。
シロが頷く寸で、斑の語りは続いた。
「お前は、妖と人の境に立つとも言われた神宿りでありながら、常世を全く知らない上に、とても不安定だ。今の時代、呪力を学ぶには現世よりも常世の方が合っていると、私は思うがね。勿論、ここが全く安楽とは言えないが……力を制御出来ないまま現世で暮らすというのも、どうだろう。妖と人が殺し合いをしてはならないという掟は敷かれているものの、どちらの世にいても、抜け道を作り、お前を食おうとする者はいるだろうから……」慎重に言葉を選んでいるらしい。
そこで、シロは思った。そもそも、どうしてこの妖怪は、こちらが戸惑ってしまうくらいの善意で接してくるのだろう、と。
「お訊ねしたいのですが……貴方が私を助けてくれた訳は、何なのですか?」
「死に際を見た時、哀れだったからだ」
間を置かず、端的な答えを一つ。そして目を逸らした。傲慢にも思える物言いだ。しかし隈取りのせいか、表情と心情の細かさを読み取ることは出来ない。
斑という妖は、多くのことを説明してくれた。それでもシロは、自分のことも、斑のことも、いまいち分からない。
ふとシロは、母の形見について訊ねたくなった。
「あの、挿し櫛を見かけませんでしたか。私、持っていたんです。川に投げられる前に」
「いや、覚えは無いな。白装束を脱がした時には既に見当たらなかった。川に流されたのだろう」
分かってはいたが落胆した。同時に、全てを見られた事実への羞恥で顔を赤くした。
一方、斑は全く動じておらず、ただ僅かに首を傾げる。
「櫛が欲しいのか?」
「い、いえ……。お忙しいところ、すみませんでした。これからは働きますので、宜しくお願いします。失礼します……」
ぺこりと頭を下げ、シロはその場を後にする。
慎ましやかな足音が遠ざかったので、一人になった斑は立ち上がる。縁側に出る障子を、そっと開く。左の手の平を見つめると、ふわりと青白い火が浮かんだ。先程よりも明るく燃える火に向け、何かを囁く。
「……言の葉を乗せた鬼火よ、往け」
障子の隙間から、それは緩やかに空へと飛んでいった。
◆◆◆
管狐の報告を聞いた歌天は、杯を一つ飲み干した。
「ふうん。狗っころが久方ぶりに子犬を迎えたってかい」
貝桶の文様が描かれた金色の留袖を身にまとい、高価な露油で整えた耳隠しが似合う貴婦人。しかし荒っぽい口調と、袖を思い切り捲り上げた姿、そして右頬の傷跡が目立つ為、品位よりも豪気に溢れている。妖狐一族の頭領である天狐、それが歌天という妖だった。
「つくし、ご苦労さん。ご褒美だ」そう言うと、重箱を埋め尽くす油揚げの一枚を放る。
つくしと呼ばれた管狐は、しゅるしゅると宙を舞い、見事に口で捕まえた。そのまま自身の住処である竹筒の中へと入っていった。
歌天は再び杯を透明な液体で満たす。これは、常世の誰もが求めて止まない最上級の飲み物、甘露。鼻先まで近づけても無臭、しかし一度舌で触れた途端に天まで昇るような美味が伝わる。時折常世では何の前触れも無く、しかも雨の一族も関与しないという甘露の雨が降り注ぐ。それを貯めた樽などは、金銭の概念が薄い常世において、珍しく財産の一つとして数えられる。
歌天の二杯目に男が横やりを入れた。
「おい、俺にももう一杯くれや」
サスペンダーにネクタイ、左肩にコートをかける洋装の出で立ちは洒落ているのに、舌を出して必死な面で杯を差し出す様は情けない。
しかし、歌天は得意げに笑い、また見せつけるようにごくりと飲み干す。
「やーだね。将棋で勝ったのはアタシだよ」
「せやけど二杯も三杯も飲むなや! そんなルールとちゃうかったやろ」
「その西洋かぶれの言葉、『るーる』とやらを決められるのが勝者の特権さ。何だい、野暮ったい奴だ。あちらさんとことの貿易商で稼いでるんだろ? 大人しく西洋酒でも飲んどきな」
「甘露と西洋酒が比べモンになるわけないやろ! 甘露はロマンや!」
「知らないよ、んなこと。第一、この甘露は妖狐一族が何千年もかけて集めたモンだ。好きに飲んでやる。悔しかったら次はお前んトコで賭けようじゃねえか。飲み干しちまったらごめんよ、楽助?」
楽助と呼ばれた伊達男は、ぐぬぬと唇を噛んだ。が、案外すんなりと表情を切り替え、油揚げをむしゃむしゃと食べる音がする竹筒を見やり、落ち着いた声色で話し始める。
「……で、茶番はさて置き。狗神のことやけど、どないすんねん。ひとまず様子見か?」
「ま、そうだな。一大事が起きない限りは」
「どれくらいを一大事て言うんや?」
「二つ世の戦」
「アホか」
楽助は呆れて頭を掻く。とは言え、歌天とは長年の付き合い――妖狐と並んで長く続く妖狸一族の頭領なので、彼女の冗談くらい分かるのだが。
「あいつ、三百年ほど前にも拾ってきたことがあったっけね。あの時はただの人間だったから、特に手出しせず見逃してやったが……今回はニオイがあるってか。そりゃ気にならねえわけねえや。神隠しで来ちまえるくらいには呪力が人並み以上の人間か、はたまた年代物の……神宿り?」ちらりと、長し目を楽助に向ける。
楽助は大きく頷いた。
「可能性は、ある。神宿りの里は戦の間に滅んだっちゅうのが二つ世の共通認識やけど、戦乱のしっちゃかめっちゃかに確かめる余裕なんぞ無い。一人でも二人でも落ち延びて、密かにまた力を蓄えた子孫がどっかにおるやろ」
「ああ、楽助はずっとその主張だったねえ」
「……お前さんは、そもそもこの話をあんまりせえへんかったな」
「そうさ。アタシにとっては、もう過ぎた話だったってのに、色々思い出しちまいそうだ。もし……本当に神宿りを拾ったのなら、どんな気持ちで飼い始めたんだろうな。『血と闇の斑』さんよ」どこか悲しそうに、目を細める。
楽助は複雑な気持ちになり、空っぽの杯に視線を落とした。明くる日も明くる日もあの家に間者を送っていたくせに、狗神の存在を過去のものにしたかった歌天。難儀な妖狐の心境に同情した。
「あれは人の子か。狗神が久方ぶりに白児を迎えたか。だが、変わったニオイをしている。あれは……」
するすると体を枝に巻きつけ、距離を測りつつ移動し、縁側で休む少女を窺おうと鼻先をひくつかせるが、張り巡らされた結界のせいでいまいち掴めない。
どうであれ、狗神が白児を迎えたこと自体が滅多に無いことだ。
「何かの前触れになるかもしれない。歌天様に報告しよう」
そう言うと、枝に巻きつけていた管のように細長い体を解き、茂る森の中を素早く泳いでいった。
◆◆◆
大福に案内してもらった浴室は、これまた西洋文化を取り入れた造りだった。顔を洗う為の洗面台には大きな鏡が張られており、シャワーと呼ばれる装置が目新しい。シャワーは、ちゃんと調整してあるが、下手にいじると熱湯が出るとのことだ。シロは、おずおずと蛇口をひねってみたが、丁度の温かさが降り注いできたので驚いた。
故郷の家の近くには神が住まうという川が流れており、清めには事足りたが、手間のかかる湯浴みはあまりしなかったので、ざあざあと湯の雨に濡れる心地好さを受け入れるのは、むず痒い。
「……ちゃんと、お礼を言わなくちゃ」
それでも、湯を被り、汗を洗い流しているうちに、シロの頭は冴えた。あの妖怪は命の恩人だ。今更だが、そう思った。
身寄りのいない子供。川の神による怒りの長雨を鎮めるとあれば、生贄には相応しい。長く死者に触れ、穢れに満ちた墓守りを、いつまでも村に置いておきたくないという、厄介払いの意味もあっただろう。そんなちっぽけな自分を、拾ってくれた。
自ら死者ノ國への旅路を望んだわけではない。ましてや、神に食われるなど。しかしまさか妖怪に拾われ、死者ノ國と同一視していた常世へと連れられるとは思わなかったし、ここが本当の居場所とは思えないが……それでも、救われたのだ。契りとやらを交わしたことを、覚えている。だから自分は白児なのだ。狗神が指名した白児。白児だからこそ……。
浴室から出ると鏡が目につく。短い毛先から、ぽたぽたと雫が落ちている。それを見ている自分の表情は生者の顔だが、切ない。こんな細い顔立ちだったのかと、シロは不思議な気持ちになった。
相変わらず丈が合わない浴衣を着たシロは、和室と隣接する斑の部屋へと向かうと決めた。
質素な無地の襖が閉まっている。大福曰く、朝餉の後の斑は自室か、その隣の書斎にいるとのことだった。まず自室に向かって声をかけ、返事が無ければ書斎にいる。書斎にいる場合は、勝手に入るのは恐れ多いからと控えておくという。
「あの……すみません。いらっしゃいますか」
シロは襖の前に座り、そっと声をかけると、すぐに応えが返ってきた。
「開けて構わないよ」
平淡とした、低い声。シロは緊張する手で引手に触れた。
「湯浴みは良かったか」
襖を開け、まず目に入ったのは、黒犬の後頭部。背筋を伸ばし、文机と対面しているらしい
「はい。おかげさまで……」
「そうか。穢れを祓う際は水の方が適しているが、普段は湯を使うといい。特に寝る前に体を温めると楽になる。それで、どうした」
斑が振り返るより前に、シロは三つ指をついて深々と頭を下げていた。
「ここ数日のこと、今更思いまして、その、命の恩人に対して、ちゃんとお礼も言っていなくて……すみませんでした。助けて下さって、ありがとうございます」
シロの謝罪と感謝の言葉を聞いた斑は、複雑な表情をした。
「白児として、神宿りとして、私は何を……貴方に捧げればいいのですか」
「シロ。顔を上げなさい」
おずおずとして現れたシロの表情は、とても気不味そうだった。丈の合わない浴衣を、どうにかきっちりと身に着けて、まるでその為に湯浴みをしてきたことを体現している。
「別に堅苦しく考える必要は無い。白児とは、狗神に仕える人間を指す。大福は私に付き従ってくれているが、妖怪だから白児とは呼ばない。それだけの違いで、その呼称は常世での古い風習だ。私は、お前から何かを頂戴する気は無い。お前の血肉を食う絶好の機会なら、あの場だった。……別の意味でも、お前に手を出すつもりは無いよ」
そう言われ、シロはあからさまに気が抜けたような顔をした。
「神宿りに関しても、少し話しておこう。端的に言えば、人でありながら妖に等しいか、それ以上の呪力を持っている者のことだ」
「その、呪力というのは」
「昨日知りたがっていたな。今の人間達からすれば、化かされた気になるような術を繰り出す為の種だ」
こんな風に――そう呟いて左手を出し、その上に青白く細い火を浮かべた。
当然、シロは驚く。
「それ、何ですか」
「妖であれば大概が出せる、鬼火というものだ。常世と現世という区切りが無かった時代では、人も呪力を持ち、操るのが当たり前だった。しかし、時が下るにつれて失われつつあるのだろう。使い手ならともかく、呪力が何なのかを知らず、制御出来ない者は、傍から見て異端なのだろうな」
異端という言葉に、シロは肩を小さく跳ねさせる。
「更に、その中でも特殊なのが神宿りというお前だ。自覚は無いかもしれないが、その身に呪力を呼び集め、たっぷりと蓄えてしまっている。恐らく、ある時期から漏れ出したであろう呪力が、神宿り特有のニオイとなって漂っている。今までは幸運にも、お前を食おうとした妖と遭遇した覚えは無さそうだが、飢えた者から見れば、お前はこの上ない馳走だ。もしかすると、前兆として、おかしな出来事を体験してきたのではないか?」
「それは……」
おかしなこと――村で数少ない、親しくしてくれた、隣家の死んだおじいの亡者と話をしたことだろうか。周りに誰もいなのに、長い髪を触られたり、抜かれたりしたことだろうか。墓場で誰にも見えない蝶を追いかけたことだろうか。「人ならざるモノ」の気配を感じることだろうか。満月の夜に、右目が赤く光ることだろうか。
斑は、いかにも心当たりがあると言わんばかりに黙ってしまったシロを置き、とりあえず続ける。
「先程聞いたが、大福がすねこすりであることを視たのだな。妖が人の姿に化ける術は、呪力によるものだ。そして、お前が大福の〈本性〉を見破れた心眼こそ、神宿り特有のもの。普通の人間であれば擬人を見抜けない」
〈擬人〉――シロは、目の前にいる男の形と、ようやく向き合った。犬の頭と人の体。では、この姿は……考えた途端、頭の中が暗くなった。蝋燭の火を吹かれたように、思考が消えてしまった。
「お前を人身御供とした故郷に帰りたいか? 現世に身寄りや行く宛てはあるか?」
「……いいえ」
「ならば、うちに住めばいい。大福は新入りのお前が来て、大層喜んでいるのが分かりやすいだろう。まだ幼く、可愛い奴だ。彼に家のことを任せてばかりの月日だったから、手伝いでもしてくれるとありがたい」
恩に報いる為、身を捧げる覚悟をしていたので、本当に使用人としての仕事が与えられるだけなら、こなさないわけにはいかない。それに、確かに大福とは打ち解けられる気がする。実年齢は彼の方がいくつも上だそうだし、妖怪ではあるが、やはり見た目のせいか、気を許し易い。
シロが頷く寸で、斑の語りは続いた。
「お前は、妖と人の境に立つとも言われた神宿りでありながら、常世を全く知らない上に、とても不安定だ。今の時代、呪力を学ぶには現世よりも常世の方が合っていると、私は思うがね。勿論、ここが全く安楽とは言えないが……力を制御出来ないまま現世で暮らすというのも、どうだろう。妖と人が殺し合いをしてはならないという掟は敷かれているものの、どちらの世にいても、抜け道を作り、お前を食おうとする者はいるだろうから……」慎重に言葉を選んでいるらしい。
そこで、シロは思った。そもそも、どうしてこの妖怪は、こちらが戸惑ってしまうくらいの善意で接してくるのだろう、と。
「お訊ねしたいのですが……貴方が私を助けてくれた訳は、何なのですか?」
「死に際を見た時、哀れだったからだ」
間を置かず、端的な答えを一つ。そして目を逸らした。傲慢にも思える物言いだ。しかし隈取りのせいか、表情と心情の細かさを読み取ることは出来ない。
斑という妖は、多くのことを説明してくれた。それでもシロは、自分のことも、斑のことも、いまいち分からない。
ふとシロは、母の形見について訊ねたくなった。
「あの、挿し櫛を見かけませんでしたか。私、持っていたんです。川に投げられる前に」
「いや、覚えは無いな。白装束を脱がした時には既に見当たらなかった。川に流されたのだろう」
分かってはいたが落胆した。同時に、全てを見られた事実への羞恥で顔を赤くした。
一方、斑は全く動じておらず、ただ僅かに首を傾げる。
「櫛が欲しいのか?」
「い、いえ……。お忙しいところ、すみませんでした。これからは働きますので、宜しくお願いします。失礼します……」
ぺこりと頭を下げ、シロはその場を後にする。
慎ましやかな足音が遠ざかったので、一人になった斑は立ち上がる。縁側に出る障子を、そっと開く。左の手の平を見つめると、ふわりと青白い火が浮かんだ。先程よりも明るく燃える火に向け、何かを囁く。
「……言の葉を乗せた鬼火よ、往け」
障子の隙間から、それは緩やかに空へと飛んでいった。
◆◆◆
管狐の報告を聞いた歌天は、杯を一つ飲み干した。
「ふうん。狗っころが久方ぶりに子犬を迎えたってかい」
貝桶の文様が描かれた金色の留袖を身にまとい、高価な露油で整えた耳隠しが似合う貴婦人。しかし荒っぽい口調と、袖を思い切り捲り上げた姿、そして右頬の傷跡が目立つ為、品位よりも豪気に溢れている。妖狐一族の頭領である天狐、それが歌天という妖だった。
「つくし、ご苦労さん。ご褒美だ」そう言うと、重箱を埋め尽くす油揚げの一枚を放る。
つくしと呼ばれた管狐は、しゅるしゅると宙を舞い、見事に口で捕まえた。そのまま自身の住処である竹筒の中へと入っていった。
歌天は再び杯を透明な液体で満たす。これは、常世の誰もが求めて止まない最上級の飲み物、甘露。鼻先まで近づけても無臭、しかし一度舌で触れた途端に天まで昇るような美味が伝わる。時折常世では何の前触れも無く、しかも雨の一族も関与しないという甘露の雨が降り注ぐ。それを貯めた樽などは、金銭の概念が薄い常世において、珍しく財産の一つとして数えられる。
歌天の二杯目に男が横やりを入れた。
「おい、俺にももう一杯くれや」
サスペンダーにネクタイ、左肩にコートをかける洋装の出で立ちは洒落ているのに、舌を出して必死な面で杯を差し出す様は情けない。
しかし、歌天は得意げに笑い、また見せつけるようにごくりと飲み干す。
「やーだね。将棋で勝ったのはアタシだよ」
「せやけど二杯も三杯も飲むなや! そんなルールとちゃうかったやろ」
「その西洋かぶれの言葉、『るーる』とやらを決められるのが勝者の特権さ。何だい、野暮ったい奴だ。あちらさんとことの貿易商で稼いでるんだろ? 大人しく西洋酒でも飲んどきな」
「甘露と西洋酒が比べモンになるわけないやろ! 甘露はロマンや!」
「知らないよ、んなこと。第一、この甘露は妖狐一族が何千年もかけて集めたモンだ。好きに飲んでやる。悔しかったら次はお前んトコで賭けようじゃねえか。飲み干しちまったらごめんよ、楽助?」
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「……で、茶番はさて置き。狗神のことやけど、どないすんねん。ひとまず様子見か?」
「ま、そうだな。一大事が起きない限りは」
「どれくらいを一大事て言うんや?」
「二つ世の戦」
「アホか」
楽助は呆れて頭を掻く。とは言え、歌天とは長年の付き合い――妖狐と並んで長く続く妖狸一族の頭領なので、彼女の冗談くらい分かるのだが。
「あいつ、三百年ほど前にも拾ってきたことがあったっけね。あの時はただの人間だったから、特に手出しせず見逃してやったが……今回はニオイがあるってか。そりゃ気にならねえわけねえや。神隠しで来ちまえるくらいには呪力が人並み以上の人間か、はたまた年代物の……神宿り?」ちらりと、長し目を楽助に向ける。
楽助は大きく頷いた。
「可能性は、ある。神宿りの里は戦の間に滅んだっちゅうのが二つ世の共通認識やけど、戦乱のしっちゃかめっちゃかに確かめる余裕なんぞ無い。一人でも二人でも落ち延びて、密かにまた力を蓄えた子孫がどっかにおるやろ」
「ああ、楽助はずっとその主張だったねえ」
「……お前さんは、そもそもこの話をあんまりせえへんかったな」
「そうさ。アタシにとっては、もう過ぎた話だったってのに、色々思い出しちまいそうだ。もし……本当に神宿りを拾ったのなら、どんな気持ちで飼い始めたんだろうな。『血と闇の斑』さんよ」どこか悲しそうに、目を細める。
楽助は複雑な気持ちになり、空っぽの杯に視線を落とした。明くる日も明くる日もあの家に間者を送っていたくせに、狗神の存在を過去のものにしたかった歌天。難儀な妖狐の心境に同情した。
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婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
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