253 / 285
第二幕 千紗の章
物忌み
しおりを挟む
「きゃーーーーっ!」
自身の悲鳴で目を覚ます千紗。
静寂の中、耳障りな荒い息遣いだけが響いていた。
「…………夢?」
汗で肌にベッタリと張り付いた着物に不快感を覚える。
どうやら悪夢に魘されていたらしい。
千紗は震える体をそっと抱きしめながら、乱れた息を整えようと深呼吸を繰り返した。
「姫様っ、千紗姫様っ!?大丈夫ですか? 今の悲鳴はいったい……」
そこに、まだ夜明け前だと言うのに、彼女の侍女であるキヨとヒナが血相を変え、ドタバタと部屋まで駆け込んで来て
「キヨ……ヒナ………」
千紗は甘えるように二人に抱きついた。
「姫様………」
震える肩に、キヨとヒナは千紗が泣いている事に気付く。
泣いている事を悟られまいと、必死に声を押し殺す姿が余計に切なく感じられて、キヨは溜まらず主の背中を優しくさすってやった。
「また怖い夢を、ご覧になったのですか?」
キヨからの問いに、千紗はコクンと小さく頷くと、夢の中の出来事をキヨとヒナに話して聞かせた。
「……これで3日目ですね。小次郎様のお話をお聞かせしてから、ずっと悪夢に魘されて……」
「…………千紗様……は……もしかして……何か悪い気に……侵されている……のかも……しれませんね……。そうだ……千紗様、今日は……物忌み……を……なされてみては……いかが……ですか?」
悪夢に苦しむ千紗を心配して、ヒナはそんな提案をする。
思いがけない提案に、キヨは妙案とばかりにポンと手を打ち賛同した。
「そうです。そうですよ! 小次郎様を心配する、その不安な心に悪鬼が取り付いたのかもしれません。ヒナの言う通り、今日は臨時で物忌みの日として、その悪鬼を追い払ってしまいましょう。ね、そうしましょう、千紗姫様!」
「しかし……」
「そうと決まれば早速準備をいたしましょう!」
千紗の返答も聞かぬまま、キヨはまだ日が昇る前だと言うのにバタバタと物忌みの準備を始めた。
因みに物忌みとは、陰陽道で日や方角が悪いとされるときや、夢見の悪いとき、穢れに触れたときなどに心身を清めるべく、一定期間家に籠る行為の事を言う。
これは、自身の身を清めると共に、他に厄災をうつさないよう慎む意味もあった。
そして朝を迎え、内裏内が慌ただしくなり始めた頃――
「姉様~!遊んで下され~」
朝餉を終えたその足で、成明が藤坪殿へと千紗を訪ねやって来た。
「…………あれ?」
だが、藤坪殿の塗籠と呼ばれる周囲を塗り壁で囲まれた部屋の戸の前には、「物忌み」と書かれた柳の木札が貼られていて
「姉様は今日は物忌みの日だったか?」
塗籠の妻戸の前では正座をし、見張りの如く控えていたキヨとヒナに成明はそう問いかける。
「成明様。申し訳ございません。姫様は、ここ数日悪夢に魘されておりまして、何やら良くない気に犯されているのではと、邪気を祓うべく本日は臨時に物忌みの日とさせていただきました」
「………そうか……」
キヨの説明に、酷く残念そうにシュンと肩を落とす成明。
「でも姉様と遊べないのは寂しいが、姉様が邪気に苦しめられているのはもっと嫌だ」
「………成明様…」
「分かった。今日は大人しく帰る事にする。物忌みが明けたらまた遊んでくださいと、姉様に伝えてくだされ。お大事に」
それだけ言い残すと、成明はトボトボと、またもと来た道を帰って行った。
「ん? 成明? 千紗姫の元へ遊びに行ったのではなかったか?」
「兄様……」
帰り道、すれ違った朱雀帝に声をかけられた成明。
悲しげな顔で、朱雀帝に事の経緯を話して聞かせた。
「……なに、千紗が?」
成明の話に、朱雀帝は確かにこの数日元気のなかった千紗の姿を思い出しながら、心配そうに千紗の名前を呟いていた。
「…………千紗姫様……」と
その声は風にさらわれ、虚しく空へと消えて行った。
――――――――――――――――
●物忌み
陰陽道で日や方角が悪いとされるときに、一定期間、家にこもって心身を慎むこと。
夢見の悪いときや、もののけに対処せねばならぬとき、そして、疫病を避けたいときに、貴族たちは陰陽師に相談をし、指定された期間中、どこへも行かず、誰とも会わずに邸内に引き籠もった。
●塗籠
周囲を土壁で囲まれた部屋。寝殿で最も神聖な場所とされ、先祖伝来の宝物などを収納したり、寝所にあてたりしていた。
●妻戸
寝殿造の住宅で、出入口に設けた両開きの板製の扉。
自身の悲鳴で目を覚ます千紗。
静寂の中、耳障りな荒い息遣いだけが響いていた。
「…………夢?」
汗で肌にベッタリと張り付いた着物に不快感を覚える。
どうやら悪夢に魘されていたらしい。
千紗は震える体をそっと抱きしめながら、乱れた息を整えようと深呼吸を繰り返した。
「姫様っ、千紗姫様っ!?大丈夫ですか? 今の悲鳴はいったい……」
そこに、まだ夜明け前だと言うのに、彼女の侍女であるキヨとヒナが血相を変え、ドタバタと部屋まで駆け込んで来て
「キヨ……ヒナ………」
千紗は甘えるように二人に抱きついた。
「姫様………」
震える肩に、キヨとヒナは千紗が泣いている事に気付く。
泣いている事を悟られまいと、必死に声を押し殺す姿が余計に切なく感じられて、キヨは溜まらず主の背中を優しくさすってやった。
「また怖い夢を、ご覧になったのですか?」
キヨからの問いに、千紗はコクンと小さく頷くと、夢の中の出来事をキヨとヒナに話して聞かせた。
「……これで3日目ですね。小次郎様のお話をお聞かせしてから、ずっと悪夢に魘されて……」
「…………千紗様……は……もしかして……何か悪い気に……侵されている……のかも……しれませんね……。そうだ……千紗様、今日は……物忌み……を……なされてみては……いかが……ですか?」
悪夢に苦しむ千紗を心配して、ヒナはそんな提案をする。
思いがけない提案に、キヨは妙案とばかりにポンと手を打ち賛同した。
「そうです。そうですよ! 小次郎様を心配する、その不安な心に悪鬼が取り付いたのかもしれません。ヒナの言う通り、今日は臨時で物忌みの日として、その悪鬼を追い払ってしまいましょう。ね、そうしましょう、千紗姫様!」
「しかし……」
「そうと決まれば早速準備をいたしましょう!」
千紗の返答も聞かぬまま、キヨはまだ日が昇る前だと言うのにバタバタと物忌みの準備を始めた。
因みに物忌みとは、陰陽道で日や方角が悪いとされるときや、夢見の悪いとき、穢れに触れたときなどに心身を清めるべく、一定期間家に籠る行為の事を言う。
これは、自身の身を清めると共に、他に厄災をうつさないよう慎む意味もあった。
そして朝を迎え、内裏内が慌ただしくなり始めた頃――
「姉様~!遊んで下され~」
朝餉を終えたその足で、成明が藤坪殿へと千紗を訪ねやって来た。
「…………あれ?」
だが、藤坪殿の塗籠と呼ばれる周囲を塗り壁で囲まれた部屋の戸の前には、「物忌み」と書かれた柳の木札が貼られていて
「姉様は今日は物忌みの日だったか?」
塗籠の妻戸の前では正座をし、見張りの如く控えていたキヨとヒナに成明はそう問いかける。
「成明様。申し訳ございません。姫様は、ここ数日悪夢に魘されておりまして、何やら良くない気に犯されているのではと、邪気を祓うべく本日は臨時に物忌みの日とさせていただきました」
「………そうか……」
キヨの説明に、酷く残念そうにシュンと肩を落とす成明。
「でも姉様と遊べないのは寂しいが、姉様が邪気に苦しめられているのはもっと嫌だ」
「………成明様…」
「分かった。今日は大人しく帰る事にする。物忌みが明けたらまた遊んでくださいと、姉様に伝えてくだされ。お大事に」
それだけ言い残すと、成明はトボトボと、またもと来た道を帰って行った。
「ん? 成明? 千紗姫の元へ遊びに行ったのではなかったか?」
「兄様……」
帰り道、すれ違った朱雀帝に声をかけられた成明。
悲しげな顔で、朱雀帝に事の経緯を話して聞かせた。
「……なに、千紗が?」
成明の話に、朱雀帝は確かにこの数日元気のなかった千紗の姿を思い出しながら、心配そうに千紗の名前を呟いていた。
「…………千紗姫様……」と
その声は風にさらわれ、虚しく空へと消えて行った。
――――――――――――――――
●物忌み
陰陽道で日や方角が悪いとされるときに、一定期間、家にこもって心身を慎むこと。
夢見の悪いときや、もののけに対処せねばならぬとき、そして、疫病を避けたいときに、貴族たちは陰陽師に相談をし、指定された期間中、どこへも行かず、誰とも会わずに邸内に引き籠もった。
●塗籠
周囲を土壁で囲まれた部屋。寝殿で最も神聖な場所とされ、先祖伝来の宝物などを収納したり、寝所にあてたりしていた。
●妻戸
寝殿造の住宅で、出入口に設けた両開きの板製の扉。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説

金蝶の武者
ポテ吉
歴史・時代
時は天正十八年。
関東に覇を唱えた小田原北条氏は、関白豊臣秀吉により滅亡した。
小田原征伐に参陣していない常陸国府中大掾氏は、領地没収の危機になった。
御家存続のため、選ばれたのは当主大掾清幹の従弟三村春虎である。
「おんつぁま。いくらなんでもそったらこと、むりだっぺよ」
春虎は嘆いた。
金の揚羽の前立ての武者の奮戦記 ──
【新訳】帝国の海~大日本帝国海軍よ、世界に平和をもたらせ!第一部
山本 双六
歴史・時代
たくさんの人が亡くなった太平洋戦争。では、もし日本が勝てば原爆が落とされず、何万人の人が助かったかもしれないそう思い執筆しました。(一部史実と異なることがあるためご了承ください)初投稿ということで俊也さんの『re:太平洋戦争・大東亜の旭日となれ』を参考にさせて頂きました。
これからどうかよろしくお願い致します!
ちなみに、作品の表紙は、AIで生成しております。
戦国三法師伝
kya
歴史・時代
歴史物だけれども、誰にでも見てもらえるような作品にしていこうと思っています。
異世界転生物を見る気分で読んでみてください。
本能寺の変は戦国の覇王織田信長ばかりではなく織田家当主織田信忠をも戦国の世から葬り去り、織田家没落の危機を迎えるはずだったが。
信忠が子、三法師は平成日本の人間が転生した者だった…

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
不屈の葵
ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む!
これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。
幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。
本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。
家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。
今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。
家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。
笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。
戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。
愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目!
歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』
ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!

永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる