235 / 285
第二幕 千紗の章
籠の鳥
しおりを挟む
――次の日の朝
遠くに聞こえる鳥の鳴き声に千紗は目を覚ます。
「………」
怠い体をゆっくり起こしながら、乱れた着物を整える。
ふと隣を見れば、まだ気持ちよさそうに眠る朱雀帝の姿が。
彼を起こさないように、千紗は静かに床を抜け出すと、縁側に腰掛けた。
人払いされた屋敷は静かで、千紗はする事もなくぼんやりと庭を眺めていた。
そんな千紗の前に1羽の雀が空から降り立つ。
その雀を目で追いながら、千紗は昨日、朱雀帝に言われた言葉を思い出していた。
――『あぁ、貴方をこのまま、私の腕の中に閉じ込めておきたい。貴方がどこにもいかないように、ずっと……。貴方は気が付くと、すぐ何処かへ飛んで行ってしまう、鳥のような人だから……だからこうしてずっと、私の腕の中に貴方を閉じ込めておきたい』
「お前は良いな。大空を羽ばたいてどこへでも飛んで行ける。自由で良いな。私は翔べぬ。翼を持たぬ私では、もう自由にこの大地を駆ける術を忘れてしまったよ」
そんな事を呟きながら、千紗は無意識に雀に向けて手を伸ばしていた。
瞬間、警戒したのか雀は再び空へ向かって飛び立って行く。
千紗の口から、「あっ」と短い声が漏れたかと思うと暫くの間、目の前から飛び立って行った雀の姿を目で追いながら、どこまでも広がる青く美しい空をいとおしげに見上げていた。
そんな千紗の後ろ姿を、眺める朱雀帝の視線にも気付かずに。
空を見上げる千紗の寂しげな背中。
その背中が幼い日の自分と重なる。
――『良いですか寛明。絶対に、絶対にここから外へ出てはいけませんよ。これは貴女を守る為の結界。もし結界より外へ出てしまったら、貴女も貴方の兄のように、道真に呪い殺されてしまう。そんな事、母は堪えられない。お願い寛明、決して外へは出ないで……母を一人にしないで……』
朱雀帝が生まれる少し前、彼の兄、保明様が薨去なされた。
そして保明様の後を追うように、保明様の息子、慶頼様も薨去なされた。
当時、皇太子、皇太孫であったお二人が立て続けに薨去なされた事は、あまりにも不吉であり、そして衝撃的で、その少し前に無実の罪により太宰府に左遷され、流された先で無念の死を遂げた菅原道真の死と、自然と結びつけられるようになって行った。
これは道真の呪いではないのかと、多くの者が噂し怯えた。
そんな京に広まりし噂を恐れた隠子様は、お二人の死と時同じくして生まれた朱雀帝こと寛明様を、道真の呪いから守ろうと彼を幾重にも張られた几帳の中で大切にお育てになられた。
朱雀帝は5歳になる歳まで、この几帳と言う結界の外に出る事は許されず、ごく限られた人間としか関わる事はなかった。
――『……お主、このような所で何をしておるのだ? この中に綴じ込められておるのか?』
『………え?』
『そんな狭い中では息が詰まるだろう。どうだ、少し外へ出て参らぬか? そして妾と一緒に遊ぼうぞ』
『……貴女は?』
『妾は千紗。左大臣家一の姫である藤原千紗だ』
『左大臣家? ……と言う事は、忠平の子か?』
『何だお主、父上を知っておるのか? 実はその父上に、ここ内裏まで連れて来て貰ったのだが……父上はお仕事で忙しいのか相手をしてくれぬ。供の者達も何故か内裏には入ってこれんでな。一人でする事もなく退屈だったから、内裏の中を探索でもしようとふらふらしていたら、こうしてここに辿り着いたのだ。どうだ? ここでお主と出会ったのも何かの縁。お互い暇をしているのならばお主、妾と一緒に少し遊ばぬか?』
偶然、彼の部屋に迷い混んだ千紗と出会わなかったら、外の世界に触れる事も出来ないまま、籠の鳥として今も几帳の中で、母に飼われ続けていたかもしれない。
当時の事は、母が自分を守る為にしていた事だと理解はしている。
だが幼心に外の世界に憧れ、外に出たいと願っていた自分を、几帳の中に閉じ込める母を全く恨んでいなかったと言えば嘘になるだろう。
今目の前にいる千紗姫様は、まるであの頃の自分自身。
そして今の自分は、大切に思うあまり鳥籠に閉じ込めた、あの頃の母と同じ。
空に焦がれる小さな千紗の背中を見て朱雀帝はそう悟った。
――『お主はそんな狭い世界に綴じ籠もって息苦しくはないのか? 外へ出たいと思わぬのか? 外の世界は良いぞぉ。ここから見える空だけ見ても、とても広く、美しい。そこからでは空も見えぬだろう。お主は空の色を知っておるか?
空はな、青いのだ。真っ青な空にはふわふわの雲が浮かんでいる。その雲はな、様々な姿に形を変え空を漂っているのだ。お主も見てみたいとは思わぬか? 何を恐れておる。大丈夫。大丈夫だから、一歩そこから出て参れ』――
暗闇に一筋の光を照らし、外の世界に導いてくれた千紗が……
太陽のようにきらきらと、明るく光輝いていた千紗が……
己の欲望に飲み込まれ、光を失っていく。
その姿に朱雀帝の心がチクンと痛む。
だが……その事実から目を反らすかのように、朱雀帝は寝返りをうった。
遠くに聞こえる鳥の鳴き声に千紗は目を覚ます。
「………」
怠い体をゆっくり起こしながら、乱れた着物を整える。
ふと隣を見れば、まだ気持ちよさそうに眠る朱雀帝の姿が。
彼を起こさないように、千紗は静かに床を抜け出すと、縁側に腰掛けた。
人払いされた屋敷は静かで、千紗はする事もなくぼんやりと庭を眺めていた。
そんな千紗の前に1羽の雀が空から降り立つ。
その雀を目で追いながら、千紗は昨日、朱雀帝に言われた言葉を思い出していた。
――『あぁ、貴方をこのまま、私の腕の中に閉じ込めておきたい。貴方がどこにもいかないように、ずっと……。貴方は気が付くと、すぐ何処かへ飛んで行ってしまう、鳥のような人だから……だからこうしてずっと、私の腕の中に貴方を閉じ込めておきたい』
「お前は良いな。大空を羽ばたいてどこへでも飛んで行ける。自由で良いな。私は翔べぬ。翼を持たぬ私では、もう自由にこの大地を駆ける術を忘れてしまったよ」
そんな事を呟きながら、千紗は無意識に雀に向けて手を伸ばしていた。
瞬間、警戒したのか雀は再び空へ向かって飛び立って行く。
千紗の口から、「あっ」と短い声が漏れたかと思うと暫くの間、目の前から飛び立って行った雀の姿を目で追いながら、どこまでも広がる青く美しい空をいとおしげに見上げていた。
そんな千紗の後ろ姿を、眺める朱雀帝の視線にも気付かずに。
空を見上げる千紗の寂しげな背中。
その背中が幼い日の自分と重なる。
――『良いですか寛明。絶対に、絶対にここから外へ出てはいけませんよ。これは貴女を守る為の結界。もし結界より外へ出てしまったら、貴女も貴方の兄のように、道真に呪い殺されてしまう。そんな事、母は堪えられない。お願い寛明、決して外へは出ないで……母を一人にしないで……』
朱雀帝が生まれる少し前、彼の兄、保明様が薨去なされた。
そして保明様の後を追うように、保明様の息子、慶頼様も薨去なされた。
当時、皇太子、皇太孫であったお二人が立て続けに薨去なされた事は、あまりにも不吉であり、そして衝撃的で、その少し前に無実の罪により太宰府に左遷され、流された先で無念の死を遂げた菅原道真の死と、自然と結びつけられるようになって行った。
これは道真の呪いではないのかと、多くの者が噂し怯えた。
そんな京に広まりし噂を恐れた隠子様は、お二人の死と時同じくして生まれた朱雀帝こと寛明様を、道真の呪いから守ろうと彼を幾重にも張られた几帳の中で大切にお育てになられた。
朱雀帝は5歳になる歳まで、この几帳と言う結界の外に出る事は許されず、ごく限られた人間としか関わる事はなかった。
――『……お主、このような所で何をしておるのだ? この中に綴じ込められておるのか?』
『………え?』
『そんな狭い中では息が詰まるだろう。どうだ、少し外へ出て参らぬか? そして妾と一緒に遊ぼうぞ』
『……貴女は?』
『妾は千紗。左大臣家一の姫である藤原千紗だ』
『左大臣家? ……と言う事は、忠平の子か?』
『何だお主、父上を知っておるのか? 実はその父上に、ここ内裏まで連れて来て貰ったのだが……父上はお仕事で忙しいのか相手をしてくれぬ。供の者達も何故か内裏には入ってこれんでな。一人でする事もなく退屈だったから、内裏の中を探索でもしようとふらふらしていたら、こうしてここに辿り着いたのだ。どうだ? ここでお主と出会ったのも何かの縁。お互い暇をしているのならばお主、妾と一緒に少し遊ばぬか?』
偶然、彼の部屋に迷い混んだ千紗と出会わなかったら、外の世界に触れる事も出来ないまま、籠の鳥として今も几帳の中で、母に飼われ続けていたかもしれない。
当時の事は、母が自分を守る為にしていた事だと理解はしている。
だが幼心に外の世界に憧れ、外に出たいと願っていた自分を、几帳の中に閉じ込める母を全く恨んでいなかったと言えば嘘になるだろう。
今目の前にいる千紗姫様は、まるであの頃の自分自身。
そして今の自分は、大切に思うあまり鳥籠に閉じ込めた、あの頃の母と同じ。
空に焦がれる小さな千紗の背中を見て朱雀帝はそう悟った。
――『お主はそんな狭い世界に綴じ籠もって息苦しくはないのか? 外へ出たいと思わぬのか? 外の世界は良いぞぉ。ここから見える空だけ見ても、とても広く、美しい。そこからでは空も見えぬだろう。お主は空の色を知っておるか?
空はな、青いのだ。真っ青な空にはふわふわの雲が浮かんでいる。その雲はな、様々な姿に形を変え空を漂っているのだ。お主も見てみたいとは思わぬか? 何を恐れておる。大丈夫。大丈夫だから、一歩そこから出て参れ』――
暗闇に一筋の光を照らし、外の世界に導いてくれた千紗が……
太陽のようにきらきらと、明るく光輝いていた千紗が……
己の欲望に飲み込まれ、光を失っていく。
その姿に朱雀帝の心がチクンと痛む。
だが……その事実から目を反らすかのように、朱雀帝は寝返りをうった。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説

金蝶の武者
ポテ吉
歴史・時代
時は天正十八年。
関東に覇を唱えた小田原北条氏は、関白豊臣秀吉により滅亡した。
小田原征伐に参陣していない常陸国府中大掾氏は、領地没収の危機になった。
御家存続のため、選ばれたのは当主大掾清幹の従弟三村春虎である。
「おんつぁま。いくらなんでもそったらこと、むりだっぺよ」
春虎は嘆いた。
金の揚羽の前立ての武者の奮戦記 ──
【新訳】帝国の海~大日本帝国海軍よ、世界に平和をもたらせ!第一部
山本 双六
歴史・時代
たくさんの人が亡くなった太平洋戦争。では、もし日本が勝てば原爆が落とされず、何万人の人が助かったかもしれないそう思い執筆しました。(一部史実と異なることがあるためご了承ください)初投稿ということで俊也さんの『re:太平洋戦争・大東亜の旭日となれ』を参考にさせて頂きました。
これからどうかよろしくお願い致します!
ちなみに、作品の表紙は、AIで生成しております。
戦国三法師伝
kya
歴史・時代
歴史物だけれども、誰にでも見てもらえるような作品にしていこうと思っています。
異世界転生物を見る気分で読んでみてください。
本能寺の変は戦国の覇王織田信長ばかりではなく織田家当主織田信忠をも戦国の世から葬り去り、織田家没落の危機を迎えるはずだったが。
信忠が子、三法師は平成日本の人間が転生した者だった…

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
不屈の葵
ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む!
これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。
幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。
本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。
家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。
今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。
家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。
笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。
戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。
愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目!
歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』
ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!

永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる