235 / 286
第二幕 千紗の章
籠の鳥
しおりを挟む
――次の日の朝
遠くに聞こえる鳥の鳴き声に千紗は目を覚ます。
「………」
怠い体をゆっくり起こしながら、乱れた着物を整える。
ふと隣を見れば、まだ気持ちよさそうに眠る朱雀帝の姿が。
彼を起こさないように、千紗は静かに床を抜け出すと、縁側に腰掛けた。
人払いされた屋敷は静かで、千紗はする事もなくぼんやりと庭を眺めていた。
そんな千紗の前に1羽の雀が空から降り立つ。
その雀を目で追いながら、千紗は昨日、朱雀帝に言われた言葉を思い出していた。
――『あぁ、貴方をこのまま、私の腕の中に閉じ込めておきたい。貴方がどこにもいかないように、ずっと……。貴方は気が付くと、すぐ何処かへ飛んで行ってしまう、鳥のような人だから……だからこうしてずっと、私の腕の中に貴方を閉じ込めておきたい』
「お前は良いな。大空を羽ばたいてどこへでも飛んで行ける。自由で良いな。私は翔べぬ。翼を持たぬ私では、もう自由にこの大地を駆ける術を忘れてしまったよ」
そんな事を呟きながら、千紗は無意識に雀に向けて手を伸ばしていた。
瞬間、警戒したのか雀は再び空へ向かって飛び立って行く。
千紗の口から、「あっ」と短い声が漏れたかと思うと暫くの間、目の前から飛び立って行った雀の姿を目で追いながら、どこまでも広がる青く美しい空をいとおしげに見上げていた。
そんな千紗の後ろ姿を、眺める朱雀帝の視線にも気付かずに。
空を見上げる千紗の寂しげな背中。
その背中が幼い日の自分と重なる。
――『良いですか寛明。絶対に、絶対にここから外へ出てはいけませんよ。これは貴女を守る為の結界。もし結界より外へ出てしまったら、貴女も貴方の兄のように、道真に呪い殺されてしまう。そんな事、母は堪えられない。お願い寛明、決して外へは出ないで……母を一人にしないで……』
朱雀帝が生まれる少し前、彼の兄、保明様が薨去なされた。
そして保明様の後を追うように、保明様の息子、慶頼様も薨去なされた。
当時、皇太子、皇太孫であったお二人が立て続けに薨去なされた事は、あまりにも不吉であり、そして衝撃的で、その少し前に無実の罪により太宰府に左遷され、流された先で無念の死を遂げた菅原道真の死と、自然と結びつけられるようになって行った。
これは道真の呪いではないのかと、多くの者が噂し怯えた。
そんな京に広まりし噂を恐れた隠子様は、お二人の死と時同じくして生まれた朱雀帝こと寛明様を、道真の呪いから守ろうと彼を幾重にも張られた几帳の中で大切にお育てになられた。
朱雀帝は5歳になる歳まで、この几帳と言う結界の外に出る事は許されず、ごく限られた人間としか関わる事はなかった。
――『……お主、このような所で何をしておるのだ? この中に綴じ込められておるのか?』
『………え?』
『そんな狭い中では息が詰まるだろう。どうだ、少し外へ出て参らぬか? そして妾と一緒に遊ぼうぞ』
『……貴女は?』
『妾は千紗。左大臣家一の姫である藤原千紗だ』
『左大臣家? ……と言う事は、忠平の子か?』
『何だお主、父上を知っておるのか? 実はその父上に、ここ内裏まで連れて来て貰ったのだが……父上はお仕事で忙しいのか相手をしてくれぬ。供の者達も何故か内裏には入ってこれんでな。一人でする事もなく退屈だったから、内裏の中を探索でもしようとふらふらしていたら、こうしてここに辿り着いたのだ。どうだ? ここでお主と出会ったのも何かの縁。お互い暇をしているのならばお主、妾と一緒に少し遊ばぬか?』
偶然、彼の部屋に迷い混んだ千紗と出会わなかったら、外の世界に触れる事も出来ないまま、籠の鳥として今も几帳の中で、母に飼われ続けていたかもしれない。
当時の事は、母が自分を守る為にしていた事だと理解はしている。
だが幼心に外の世界に憧れ、外に出たいと願っていた自分を、几帳の中に閉じ込める母を全く恨んでいなかったと言えば嘘になるだろう。
今目の前にいる千紗姫様は、まるであの頃の自分自身。
そして今の自分は、大切に思うあまり鳥籠に閉じ込めた、あの頃の母と同じ。
空に焦がれる小さな千紗の背中を見て朱雀帝はそう悟った。
――『お主はそんな狭い世界に綴じ籠もって息苦しくはないのか? 外へ出たいと思わぬのか? 外の世界は良いぞぉ。ここから見える空だけ見ても、とても広く、美しい。そこからでは空も見えぬだろう。お主は空の色を知っておるか?
空はな、青いのだ。真っ青な空にはふわふわの雲が浮かんでいる。その雲はな、様々な姿に形を変え空を漂っているのだ。お主も見てみたいとは思わぬか? 何を恐れておる。大丈夫。大丈夫だから、一歩そこから出て参れ』――
暗闇に一筋の光を照らし、外の世界に導いてくれた千紗が……
太陽のようにきらきらと、明るく光輝いていた千紗が……
己の欲望に飲み込まれ、光を失っていく。
その姿に朱雀帝の心がチクンと痛む。
だが……その事実から目を反らすかのように、朱雀帝は寝返りをうった。
遠くに聞こえる鳥の鳴き声に千紗は目を覚ます。
「………」
怠い体をゆっくり起こしながら、乱れた着物を整える。
ふと隣を見れば、まだ気持ちよさそうに眠る朱雀帝の姿が。
彼を起こさないように、千紗は静かに床を抜け出すと、縁側に腰掛けた。
人払いされた屋敷は静かで、千紗はする事もなくぼんやりと庭を眺めていた。
そんな千紗の前に1羽の雀が空から降り立つ。
その雀を目で追いながら、千紗は昨日、朱雀帝に言われた言葉を思い出していた。
――『あぁ、貴方をこのまま、私の腕の中に閉じ込めておきたい。貴方がどこにもいかないように、ずっと……。貴方は気が付くと、すぐ何処かへ飛んで行ってしまう、鳥のような人だから……だからこうしてずっと、私の腕の中に貴方を閉じ込めておきたい』
「お前は良いな。大空を羽ばたいてどこへでも飛んで行ける。自由で良いな。私は翔べぬ。翼を持たぬ私では、もう自由にこの大地を駆ける術を忘れてしまったよ」
そんな事を呟きながら、千紗は無意識に雀に向けて手を伸ばしていた。
瞬間、警戒したのか雀は再び空へ向かって飛び立って行く。
千紗の口から、「あっ」と短い声が漏れたかと思うと暫くの間、目の前から飛び立って行った雀の姿を目で追いながら、どこまでも広がる青く美しい空をいとおしげに見上げていた。
そんな千紗の後ろ姿を、眺める朱雀帝の視線にも気付かずに。
空を見上げる千紗の寂しげな背中。
その背中が幼い日の自分と重なる。
――『良いですか寛明。絶対に、絶対にここから外へ出てはいけませんよ。これは貴女を守る為の結界。もし結界より外へ出てしまったら、貴女も貴方の兄のように、道真に呪い殺されてしまう。そんな事、母は堪えられない。お願い寛明、決して外へは出ないで……母を一人にしないで……』
朱雀帝が生まれる少し前、彼の兄、保明様が薨去なされた。
そして保明様の後を追うように、保明様の息子、慶頼様も薨去なされた。
当時、皇太子、皇太孫であったお二人が立て続けに薨去なされた事は、あまりにも不吉であり、そして衝撃的で、その少し前に無実の罪により太宰府に左遷され、流された先で無念の死を遂げた菅原道真の死と、自然と結びつけられるようになって行った。
これは道真の呪いではないのかと、多くの者が噂し怯えた。
そんな京に広まりし噂を恐れた隠子様は、お二人の死と時同じくして生まれた朱雀帝こと寛明様を、道真の呪いから守ろうと彼を幾重にも張られた几帳の中で大切にお育てになられた。
朱雀帝は5歳になる歳まで、この几帳と言う結界の外に出る事は許されず、ごく限られた人間としか関わる事はなかった。
――『……お主、このような所で何をしておるのだ? この中に綴じ込められておるのか?』
『………え?』
『そんな狭い中では息が詰まるだろう。どうだ、少し外へ出て参らぬか? そして妾と一緒に遊ぼうぞ』
『……貴女は?』
『妾は千紗。左大臣家一の姫である藤原千紗だ』
『左大臣家? ……と言う事は、忠平の子か?』
『何だお主、父上を知っておるのか? 実はその父上に、ここ内裏まで連れて来て貰ったのだが……父上はお仕事で忙しいのか相手をしてくれぬ。供の者達も何故か内裏には入ってこれんでな。一人でする事もなく退屈だったから、内裏の中を探索でもしようとふらふらしていたら、こうしてここに辿り着いたのだ。どうだ? ここでお主と出会ったのも何かの縁。お互い暇をしているのならばお主、妾と一緒に少し遊ばぬか?』
偶然、彼の部屋に迷い混んだ千紗と出会わなかったら、外の世界に触れる事も出来ないまま、籠の鳥として今も几帳の中で、母に飼われ続けていたかもしれない。
当時の事は、母が自分を守る為にしていた事だと理解はしている。
だが幼心に外の世界に憧れ、外に出たいと願っていた自分を、几帳の中に閉じ込める母を全く恨んでいなかったと言えば嘘になるだろう。
今目の前にいる千紗姫様は、まるであの頃の自分自身。
そして今の自分は、大切に思うあまり鳥籠に閉じ込めた、あの頃の母と同じ。
空に焦がれる小さな千紗の背中を見て朱雀帝はそう悟った。
――『お主はそんな狭い世界に綴じ籠もって息苦しくはないのか? 外へ出たいと思わぬのか? 外の世界は良いぞぉ。ここから見える空だけ見ても、とても広く、美しい。そこからでは空も見えぬだろう。お主は空の色を知っておるか?
空はな、青いのだ。真っ青な空にはふわふわの雲が浮かんでいる。その雲はな、様々な姿に形を変え空を漂っているのだ。お主も見てみたいとは思わぬか? 何を恐れておる。大丈夫。大丈夫だから、一歩そこから出て参れ』――
暗闇に一筋の光を照らし、外の世界に導いてくれた千紗が……
太陽のようにきらきらと、明るく光輝いていた千紗が……
己の欲望に飲み込まれ、光を失っていく。
その姿に朱雀帝の心がチクンと痛む。
だが……その事実から目を反らすかのように、朱雀帝は寝返りをうった。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【新訳】帝国の海~大日本帝国海軍よ、世界に平和をもたらせ!第一部
山本 双六
歴史・時代
たくさんの人が亡くなった太平洋戦争。では、もし日本が勝てば原爆が落とされず、何万人の人が助かったかもしれないそう思い執筆しました。(一部史実と異なることがあるためご了承ください)初投稿ということで俊也さんの『re:太平洋戦争・大東亜の旭日となれ』を参考にさせて頂きました。
これからどうかよろしくお願い致します!
ちなみに、作品の表紙は、AIで生成しております。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。


猿の内政官の息子 ~小田原征伐~
橋本洋一
歴史・時代
※猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~という作品の外伝です。猿の内政官の息子の続編です。全十話です。
猿の内政官の息子、雨竜秀晴はある日、豊臣家から出兵命令を受けた。出陣先は関東。惣無事令を破った北条家討伐のための戦である。秀晴はこの戦で父である雲之介を超えられると信じていた。その戦の中でいろいろな『親子』の関係を知る。これは『親子の絆』の物語であり、『固執からの解放』の物語である。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
大陰史記〜出雲国譲りの真相〜
桜小径
歴史・時代
古事記、日本書紀、各国風土記などに遺された神話と魏志倭人伝などの中国史書の記述をもとに邪馬台国、古代出雲、古代倭(ヤマト)の国譲りを描く。予定。序章からお読みくださいませ
拾われ子だって、姫なのです!
田古みゆう
歴史・時代
南蛮人、南蛮人って。わたくしはれっきとした倭人よ!
お江戸の町で与力をしている井上正道と、部下の高山小十郎は、二人の赤子をそれぞれ引き取り、千代と太郎と名付け育てることに。
月日は流れ、二人の赤子はすくすくと成長した。見目麗しい姿と珍しい青眼を持つため、周囲からは奇異の眼で見られる。こそこそと噂をされるたび、千代は自分は一体何者なのだろうかと、自身の出自について悩んでいた。唯一同じ青眼を持つ太郎と悩みを分かち合おうにも、何かを知っていそうな太郎はあまり多くを語らない。それがまた千代を悶々とさせていた。
そんな千代を周囲の者は遠巻きに見ながらも、その麗しさに心奪われる者は多く、やがて年頃の千代にも縁談話が持ち上がる。
しかし、当の千代はそんなことには興味がなく。寄ってくる男を、口八丁手八丁で退けてばかり。
果たして勝気な姫様の心を射止める者が、このお江戸にいるのかっ!?
痛快求婚譚、これよりはじまりはじまり〜♪
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる