時ノ糸~絆~

汐野悠翔

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第一幕 板東編

忠平と道真

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――『この方は、かの有名な菅原道真公の息子さんなのだとか。

実は今、四郎と共にこの方に、様々な学問を習っているのですが、初めて先生にお会いした際「お父上は元気ですか?」と尋ねられました。

それから、「父上によろしくお伝え下さい」との事で――これは先生が教えて下さった事なのですが、父上はあの道真公と、とても仲が良かったそうですね。

まさか父上の知り合いの方と、京から遠く離れたこの坂東の地で出会うとは、千紗はとてもびっくりしました。

世の中とは、案外狭いものなのですね。それとも父上のお顔が広いのか』――


「…………そうか、景行殿は坂東に……」


静かな部屋の中、忠平の零した小さな声が、やけに大きく響いて聞こえた。


「景行殿とは確か、道真の三番目の子供だったか。道真の屋敷を訪ねた際に何度か顔を合わせた程度の縁だったが……そうか、景行殿は私の事を覚えていたか。景行殿にも本当に……申し訳ない事をしてしまったな」


千紗の手紙から視線を上げ、ふと庭へ視線を移す忠平。
庭に植えられた梅の木をぼんやり眺め見ながら、過去の記憶に思いを寄せた。


  ◆◆◆


 ――36年前――


「兄上っ! これはどう言う事ですか?! 何故道真が太宰府に左遷などされなければならないのですか?!」


友とも師とも慕っていた道真の、太宰府左遷の知らせを聞いた忠平は、当時何とかしてその決定を覆そうと、あらゆる策を巡らせ奔走していた。

その中で、当時左大臣として朝廷内で大きな権力を握っていた兄、時平の元へと直接お願いに出向いた時のこと――


「何だ忠平、騒々しい。仕方なかろう、道真殿には恐れ多くも帝の地位を狙っていると言う悪い噂が立っているのだから。そんな危険な人物を、今のまま右大臣として帝の傍に……この京に置いておくわけには行くまいて」

「それは全て兄上がでっちあげた偽りでしょう。道真を陥れ、失脚させる為に」

「戯れ事を」

「戯れ言などではございません。皆噂してますよ。これは左大臣、つまりは兄上が巧妙に仕組んだ策略だと」

「単なる噂だ。私は何もしてなどおらんよ」

「貴方は道真の才能が怖かった。いつか道真にご自分の地位を奪われてしまうのではないかと。だからそうなる前に、力で道真を捩じ伏せようとしている。違いますか?」

「馬鹿な。低俗の学者一人、地位も名誉も手にしているこの私が恐れるはずあるまい」

「だからこそですよ。その低俗だと馬鹿にして来た中流貴族の道真が、己の学の才と人柄だけで上皇様の信頼を得て、異例の出世を重ね右大臣の地位にまで上り詰めた。その事実が兄上は恐ろしかったのでしょう? 今や道真は藤原と言う家柄をも脅かす存在。自尊心の強い兄上は……身分が全ての兄上には……それがどうしても許せなかったんだ」

「……」

「でも私は思います。道真の出世は、当然の結果だと。だってそれだけ彼は努力してきた。民を想い、民の生活を潤す為に必死に努力して政を動かして来た。だからこそ上皇様だって道真を信頼しているのですよ」

「違う! あいつは上皇様をたらし込み、帝を蔑ろにして自分の都合の良いように政を動かそうとしているだけだ! このまま放置していては本当にこの国は奴に乗っ取られてしまう」

「乗っ取るなど、そのようなこと道真は全く考えておりません。ただこの国を良くしたいと、信念を持って国の為、帝や上皇様にお仕えしているだけです。例えそのような事を企んでいたとして、一介の役人が本当に天皇家を追い落とし、国を乗っ取るなどと言う事が出来るとお思いですか?」

「あぁ、奴ならば出来る……道真ならば……」

「本気で言っているのですか? ……信じられない。……そうか、道真の才能を一番認めているのは、実は兄上なのですね。認めているからこそ怖いんだ。認めているからこそ、醜い嫉妬の炎に狂わされている」

「嫉妬? 私がたかが学者風情に嫉妬だと? くだらん。嫉妬などするはずがないだろう。いくら弟と言えど、それ以上の戯れ事は許さぬぞ! 今すぐ私の部屋から出て行け!」

「いいえ出て行きません!道真の太宰府左遷を撤回して下さるまでは、絶対に出ていきません!」

「何故だ? 何故お前はそこまであの男の肩を持つ?」

「京の為です。今ここで道真を失っては京の為になりません。あの方の才はこの京に……この国に必要なのです。兄上の醜い嫉妬の為に、潰して良い男じゃない!!」

「黙れ忠平っっっ!!!」

「っ……」


――この時の、兄の血走った瞳が私は今でも忘れられない。
たとえ実の弟であろうとも本気で殺されかねない、そんな恐ろしい狂気を帯びていた。

まだ二十歳そこそこの若造だった私は、兄の恐怖の前にそれ以上、食い下が出来なかったのだ。

大切な友を守る事を……諦めてしまったのだ。

 
あの時、私が諦めてしまったばかりに、道真は言われ無き罪を背負って太宰府へと流されてしまった。

彼の家族もまた、散り散りに各地へと左遷させられて行った。

そして2年後、彼は流された地で命を落とした。

どれ程無念だった事だろう。民の為、国を良くしたい、豊かにしたいと必死に働いて来た道真が、周囲の嫉妬と言うくだらない感情に夢を奪われ、政から遠ざけられたのだから。

それだけではない。太宰府ではそれはそれは辛い貧乏生活を強いられたと聞いた。
彼の死が、餓死であったと噂される程に。


彼の無念を思うと、どうしようもなく胸が苦しくなる。

世間も同じ事を思っているのだろう。天変地異が起こる度に、京では彼の仕業だと噂された。
菅原道真は怨霊となってこの世界を呪っているのだと。


「本当に……すまぬ事をしたな、道真……」


あの時私が兄上に怯える事なく、もっと意見を言えていたら……

兄上を止められたら……

もっと違った今があったのかもしれない――



忠平がじっと見つめていた庭の大きな梅の木が、晩秋の風に吹かれてさらさらと葉を震わせた。

その姿を眺めながら、忠平は詩を一句、口にする。



東風こち吹かば 思い起こせよ 梅の花  主無しとて 春を忘るな」
(訳:春の風が吹いたら咲いて香りを届けておくれ。梅の花よ、主が居なくなっても春を忘れるな)


その詩は、道真が太宰府へと旅立つ前日、忠平が道真の屋敷を訪ねた際に道真が詠んだ一句だ。

菅原家の庭に植わる、たくさんの梅の木を眺めながら、哀しげに詠んだ詩。


「あの時のお前の後ろ姿は、今も忘れられないよ、道真。私より一回りも二回りも年上であるはずのお前の背中が……ずっと憧れ、尊敬していた道真の大きかった背中が……あの時ばかりは小さく丸まって、酷く年老いて見えたのだ」


とても小さく、弱々しく、寂しげで、その姿が忠平の見た、道真最後の姿となった。


――あれから36年。
今私は、あの頃の兄以上の地位に立っている。

けれども世間は何も変わってはいない。
変えられてはいない。

そんな私を、奴は今どんな気持ちで見ているのだろうな。
私を憎んでいるか? 恨んでいるか? それとも……権力を持って尚、未だお前との約束を果たせずにいる私の事を、何処かで笑っているのだろうか?



――『忠平……私がなしえなかった事をお前に託そう。この京を、人々が罪を犯す事のない平和な都へと導いてやってくれ』――


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