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第一幕 京編
千紗の決意①
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――時は再び小次郎がいなくなった3日後に戻って
「千紗? や~っぱりここにいた。お前が部屋から姿を消したって、今下は大騒ぎになってるぞ」
「…………」
藤原館の奥座敷、その屋根の上で膝を抱え、小さくうずくまった姿で顔を伏せていた千紗。屋根にかかる梯子を登り、秋成が探していた彼女の姿を見つけて声を掛けた。
一瞬だけ顔を上げ、チラリと秋成の方を見るも千紗は再び無言のまま顔を伏せてしまった。
「夜も近付いてきた。ここじゃ冷えるだろ。部屋へ戻ろう?」
「………」
千紗の無反応に、負けじと秋成も再び呼びかける。だが千紗は、今度は顔を上げることもせず秋成の呼びかけを無視し続けた。
小次郎との突然の別れを聞かされた後、千紗は「一人になりたい」と忠平やキヨを始め、その場にいた皆を遠ざけた。
もちろん、秋成も例外ではなく、千紗は自身の部屋に御簾を下ろし、秋成さえも近づく事は許さなかった。
焦心しきった千紗が、部屋に閉じこもってどれくらいの刻が過ぎた頃だろうか。千紗に夕餉を運びに来た際、侍女が千紗の不在に気付いた。
昼間の千紗の様子を、屋敷の皆が心配していた事もあり、それは直ぐさま騒ぎとなり屋敷中に広まった。
そして今に至るわけだが――
「……千紗? 千~紗! 聞いてるのかお前?」
「…………」
梯子から屋根に移り、千紗の左隣に腰掛けた後も、秋成はずっと千紗の名を呼び掛け続ける。
だが秋成がいくら呼んでも千紗は何の反応も示さない。
ずっと抱えた膝に顔を伏せて、顔は見えないが、まるで泣いてしるようだ。
予想通りの千紗の落ち込みよう。秋成からは思わず溜息が零れた。
そして、もうここには居ない小次郎を思い浮かべながら、千紗には聞こえない程の小さな声で義兄に対する愚痴を呟いた。
「だから千紗に何も告げずに行くのはやめてくれって言ったんですよ。こんなに落ち込んでるこいつを、俺がどうやって励ませって言うんだ、まったく……恨みますよ兄上」
ぐしゃぐしゃと頭を掻きむしる秋成。
ふとその時、千紗の手に一枚の紙切れが握られている事に気付いた。
「……千紗、それは? その手の中の……」
秋成の疑問に、今まで俯いたまま全く反応を示さなかった千紗がゆっくりと顔を上げ、握りしめた“それ”に視線を落としながら、初めて答えを返してくれた。
「…………小次郎からの文じゃ。枕元に置いてあった」
「兄上からの?」
千紗から返ってきた思わぬ言葉に、秋成は驚きに目を見開き、一瞬表情を強張らせた。そして、手にしていたものをそっと左の袖に忍ばせた。
「あ、兄上は何て?」
「謝っておる。傍にいられなくてすまないと。それから……」
「それから?」
「いつか戻ってくるからと。妾に相応しい男になって戻ってくるから……待っていて欲しいと」
「………」
――『待っていてほしい』
小次郎が千紗へと残した言葉を聞かされて、何故か秋成は胸が締め付けられるような、そんな不思議な感覚に襲われた。
「それより秋成、お主はよく妾の居場所が分かったな」
「そ、そりゃ~お前には前科があるからな」
「前科? そう……だったか?」
「おいおい、覚えてないのか? ほら、兄上が遣非違使見習いになったばかりの頃、兄上の気を引こうと今みたいに家出騒動を起こした事があったじゃないか。その時もこうして同じ場所――普段使われていないこの奥座敷の屋根上で」
「夕日を眺めておった。そう言えば、そんな事もあったの。妾は本当に……何も変わっておらぬのだな」
一瞬見せた千紗の笑顔。夕日に照らされたその笑顔が、秋成の目にはどこか寂しそうに映って見えた。
「……千紗?」
胸騒ぎから彼女の名を呼ぶ。
だが千紗は、秋成の胸騒ぎなど気付かない様子で構わず話を続けた。
「秋成は、知っておったか? 小次郎が遣非違使見習いになった理由を。役職にこだわっていた訳を」
「……あぁ」
秋成も知ったのは、つい最近の事だったのだけれど、そこには敢えて触れずに秋成は肯定の意を示した。
「そうか。妾だけが知らずにあやつを困らせておったのだな。己の幼さが誠情けない」
「…………千紗」
「あやつには背負っているものがあったと言うのに、京に取られるだのと自分勝手な我が儘で、散々あやつを振り回してしまった。なんと子供だった事か。それなのにあやつは、こんな妾を見捨てずに妾の我が儘に付き合い続けてくれていたのだな。故郷に帰る事になっても、こうしてまだ我が儘に付き合おうとしてくれる。それを嬉しく思う半面……その優しさについ甘えてしまいそうになる自分を情けないと思った」
「…………」
寂しそうに語る千紗に、秋成は何と言葉を返すのが正解なのか分からなくて、言葉に詰まった。
だが、相変わらず秋成の戸惑いになど、構う事なく千紗は言葉を続けた。
「覚えておるか? 市へ行く道中、おぬしに問うた言葉を」
一瞬何の事を聞かれているのかピンと来なかった秋成は、ゆっくりと記憶を手繰り寄せて行く。
そして、思い当たる一つの言葉を思い出した。
「どうして人は……変わってしまうのか?」
秋成が導き出した答えに千紗は小さく頷く。
「今ならば、その答えが分かる気がする。人は皆、それぞれに背負う物があって、進むべき道がある。目指す物が違うのだから、変化が生じるのは当たり前。どんなに居心地がよくても、変わらずにいる事など……出来るはずもなかったのだ」
千紗の口から紡がれる千紗なりの考え。
だが秋成には、千紗が導き出した答えの意味を理解する事は出来ても、納得する事は出来そうになかった。
何故ならば、そう語る千紗の顔があまりにも寂しそうに見えたから。
「周りが変わろうとして行く中で、いつまでも目を反らし続けるわけには行かないのだと、妾自身も変わらなければ行けないと言う事にやっと気付いた。妾だけがいつまでも子供のまま、周りを振り回して、足手まといとなっているのは嫌じゃ」
胸の内を吐き出しながら、小次郎が残した手紙へと落とされていた千紗の視線が、突然秋成へと向けられた。
千紗の真剣な眼差しが、真っ直ぐに秋成を捉える。
「だから決めたぞ。妾は裳着をする。これ以上小次郎に置いていかれぬよう、妾も大人になりたい」
「っ!」
「次に小次郎と再会した時、呆れられないよう立派な人間になっていなくては! それに久しぶりに会った時、大人の女に成長した妾の姿に驚く奴の顔を見ると言うのも一興。子供だなんだと、散々馬鹿にした事を後悔させてやるのじゃ!」
突然の千紗の宣言に、秋成は驚きに目を見開く。
彼を驚かせておきながら当の本人は、先程までの真剣な顔から一変、悪戯を思いついた幼子のように笑っていた。
だがその笑顔は、今までの千紗のものとは明らかに違っている。秋成にはそう感じてならなかった。
「千紗? や~っぱりここにいた。お前が部屋から姿を消したって、今下は大騒ぎになってるぞ」
「…………」
藤原館の奥座敷、その屋根の上で膝を抱え、小さくうずくまった姿で顔を伏せていた千紗。屋根にかかる梯子を登り、秋成が探していた彼女の姿を見つけて声を掛けた。
一瞬だけ顔を上げ、チラリと秋成の方を見るも千紗は再び無言のまま顔を伏せてしまった。
「夜も近付いてきた。ここじゃ冷えるだろ。部屋へ戻ろう?」
「………」
千紗の無反応に、負けじと秋成も再び呼びかける。だが千紗は、今度は顔を上げることもせず秋成の呼びかけを無視し続けた。
小次郎との突然の別れを聞かされた後、千紗は「一人になりたい」と忠平やキヨを始め、その場にいた皆を遠ざけた。
もちろん、秋成も例外ではなく、千紗は自身の部屋に御簾を下ろし、秋成さえも近づく事は許さなかった。
焦心しきった千紗が、部屋に閉じこもってどれくらいの刻が過ぎた頃だろうか。千紗に夕餉を運びに来た際、侍女が千紗の不在に気付いた。
昼間の千紗の様子を、屋敷の皆が心配していた事もあり、それは直ぐさま騒ぎとなり屋敷中に広まった。
そして今に至るわけだが――
「……千紗? 千~紗! 聞いてるのかお前?」
「…………」
梯子から屋根に移り、千紗の左隣に腰掛けた後も、秋成はずっと千紗の名を呼び掛け続ける。
だが秋成がいくら呼んでも千紗は何の反応も示さない。
ずっと抱えた膝に顔を伏せて、顔は見えないが、まるで泣いてしるようだ。
予想通りの千紗の落ち込みよう。秋成からは思わず溜息が零れた。
そして、もうここには居ない小次郎を思い浮かべながら、千紗には聞こえない程の小さな声で義兄に対する愚痴を呟いた。
「だから千紗に何も告げずに行くのはやめてくれって言ったんですよ。こんなに落ち込んでるこいつを、俺がどうやって励ませって言うんだ、まったく……恨みますよ兄上」
ぐしゃぐしゃと頭を掻きむしる秋成。
ふとその時、千紗の手に一枚の紙切れが握られている事に気付いた。
「……千紗、それは? その手の中の……」
秋成の疑問に、今まで俯いたまま全く反応を示さなかった千紗がゆっくりと顔を上げ、握りしめた“それ”に視線を落としながら、初めて答えを返してくれた。
「…………小次郎からの文じゃ。枕元に置いてあった」
「兄上からの?」
千紗から返ってきた思わぬ言葉に、秋成は驚きに目を見開き、一瞬表情を強張らせた。そして、手にしていたものをそっと左の袖に忍ばせた。
「あ、兄上は何て?」
「謝っておる。傍にいられなくてすまないと。それから……」
「それから?」
「いつか戻ってくるからと。妾に相応しい男になって戻ってくるから……待っていて欲しいと」
「………」
――『待っていてほしい』
小次郎が千紗へと残した言葉を聞かされて、何故か秋成は胸が締め付けられるような、そんな不思議な感覚に襲われた。
「それより秋成、お主はよく妾の居場所が分かったな」
「そ、そりゃ~お前には前科があるからな」
「前科? そう……だったか?」
「おいおい、覚えてないのか? ほら、兄上が遣非違使見習いになったばかりの頃、兄上の気を引こうと今みたいに家出騒動を起こした事があったじゃないか。その時もこうして同じ場所――普段使われていないこの奥座敷の屋根上で」
「夕日を眺めておった。そう言えば、そんな事もあったの。妾は本当に……何も変わっておらぬのだな」
一瞬見せた千紗の笑顔。夕日に照らされたその笑顔が、秋成の目にはどこか寂しそうに映って見えた。
「……千紗?」
胸騒ぎから彼女の名を呼ぶ。
だが千紗は、秋成の胸騒ぎなど気付かない様子で構わず話を続けた。
「秋成は、知っておったか? 小次郎が遣非違使見習いになった理由を。役職にこだわっていた訳を」
「……あぁ」
秋成も知ったのは、つい最近の事だったのだけれど、そこには敢えて触れずに秋成は肯定の意を示した。
「そうか。妾だけが知らずにあやつを困らせておったのだな。己の幼さが誠情けない」
「…………千紗」
「あやつには背負っているものがあったと言うのに、京に取られるだのと自分勝手な我が儘で、散々あやつを振り回してしまった。なんと子供だった事か。それなのにあやつは、こんな妾を見捨てずに妾の我が儘に付き合い続けてくれていたのだな。故郷に帰る事になっても、こうしてまだ我が儘に付き合おうとしてくれる。それを嬉しく思う半面……その優しさについ甘えてしまいそうになる自分を情けないと思った」
「…………」
寂しそうに語る千紗に、秋成は何と言葉を返すのが正解なのか分からなくて、言葉に詰まった。
だが、相変わらず秋成の戸惑いになど、構う事なく千紗は言葉を続けた。
「覚えておるか? 市へ行く道中、おぬしに問うた言葉を」
一瞬何の事を聞かれているのかピンと来なかった秋成は、ゆっくりと記憶を手繰り寄せて行く。
そして、思い当たる一つの言葉を思い出した。
「どうして人は……変わってしまうのか?」
秋成が導き出した答えに千紗は小さく頷く。
「今ならば、その答えが分かる気がする。人は皆、それぞれに背負う物があって、進むべき道がある。目指す物が違うのだから、変化が生じるのは当たり前。どんなに居心地がよくても、変わらずにいる事など……出来るはずもなかったのだ」
千紗の口から紡がれる千紗なりの考え。
だが秋成には、千紗が導き出した答えの意味を理解する事は出来ても、納得する事は出来そうになかった。
何故ならば、そう語る千紗の顔があまりにも寂しそうに見えたから。
「周りが変わろうとして行く中で、いつまでも目を反らし続けるわけには行かないのだと、妾自身も変わらなければ行けないと言う事にやっと気付いた。妾だけがいつまでも子供のまま、周りを振り回して、足手まといとなっているのは嫌じゃ」
胸の内を吐き出しながら、小次郎が残した手紙へと落とされていた千紗の視線が、突然秋成へと向けられた。
千紗の真剣な眼差しが、真っ直ぐに秋成を捉える。
「だから決めたぞ。妾は裳着をする。これ以上小次郎に置いていかれぬよう、妾も大人になりたい」
「っ!」
「次に小次郎と再会した時、呆れられないよう立派な人間になっていなくては! それに久しぶりに会った時、大人の女に成長した妾の姿に驚く奴の顔を見ると言うのも一興。子供だなんだと、散々馬鹿にした事を後悔させてやるのじゃ!」
突然の千紗の宣言に、秋成は驚きに目を見開く。
彼を驚かせておきながら当の本人は、先程までの真剣な顔から一変、悪戯を思いついた幼子のように笑っていた。
だがその笑顔は、今までの千紗のものとは明らかに違っている。秋成にはそう感じてならなかった。
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