時ノ糸~絆~

汐野悠翔

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第一幕 京編

昔話②

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小次郎と忠平との出会い。
きっかけは、小次郎が偶然居合わせた貴族と薄汚れた格好をした老婆とのいさかいの仲介に入ったこと。

諍いの原因は、本当に些細な事だった。

目の見えぬ老婆が、思いもよらず貴族の乗る牛車の前に飛び出して、牛車の行く手を塞いでしまったのだ。
それは偶然の事故によるもので、老婆は決して態とした事ではなかった。
それでも自分がしでかしてしまった事を何度も謝り、老婆は必死に道を譲ろとしていた。

けれども目が見えず、体も劣えているせいか、なかなか立ち上がる事が出来ず、思うようにその場から動く事が出来ずにいたのだ。

きっかけはただこれだけ。たった、これだけの事だったのに――


なかなか退かぬその老婆に痺れを切らした貴族は、「退かぬと言うなら跳ね飛ばしてでも牛車を先へ進めるように」と、何の躊躇いもなく従者に命じたのだ。

その場には、悲鳴にも近いざわめきが起こっていた。だが、貴族に意見する事が怖いのか、誰も老婆を助けようとする者はいなかった。

ただ一人、小次郎だけが貴族の乗る牛車の前に飛び出し、身を呈して老婆を庇い、貴族の過ちを説いた。


「おやめ下さい!この者は、悪意があって道を塞いでいるわけではございません。ただ、体が不自由であるが故に、上手く動く事ができないだけなのです。それを、非道にも跳ね飛ばせとは……とても民の為、国を治める貴族様のする事とは思えません。どうか、今暫くお待ち頂けないでしょうか?」


だが小次郎の勇気あるこの行動は、ただ貴族を怒らせる行為でしかなかった。



「ええい、貴様っ!一体何のつもりだ?!御館様の牛車の前に立ちはだかり、侮辱の言葉を吐くなど、このお方を近衛中将このえちゅうじょうであらせられる藤原芳輝ふじわらのよしてる様と知っての狼藉か?!」

「位など関係ありません。これは人の世を生きる者としての道徳の問題。このまま牛車を進めればどうなるかなど、容易にお分かりになるでしょう? それなのに何故お止まりにならない!」

「構わず進めと、芳輝様よりの命だ。全てはその者が芳輝様の行く手を塞ぎ、邪魔をしている、その事が悪いのであろう!」

「この牛車に乗っておられます貴族様は、邪魔だと言う理由だけで人の命を殺める、そんな心の狭いお方なのか? あなた達従者も、主の命令とあらば間違いを正さず、ただ従うだけの操り人形の集まりか?」

「お前っ!? なんと無礼な!! これ以上の侮辱は許さぬぞ!!」


小次郎の訴えに、一人の従者が顔を真っ赤にして小次郎を罵倒する中、もう一人の従者が冷静に口を開いた。


「おい待て。この小僧、よくよく見れば御館様に仕えたいと数日前に屋敷を尋ね来た者ではないか。まさかこれは、御館様に雇って貰えなかったその腹いせのつもりか?」


貴族の従者の者から返された、思ってもみなかったとんちんかんな言葉に、小次郎はふんっと鼻で笑い飛ばす。


「何と言われても結構。ですが、雇っていただけなかった事、今となっては感謝をしなくては」

「何?」

「こんな、人を人とも思わぬ冷酷な人間に仕えることなどできるものか。俺はお前らみたいな恥も自尊心もないつまらない人間になど絶っ対にならない! 貴族だから何だと言うんだ? 人の命をそんな簡単に奪って良い権利など誰にもありはしないっ!」


思いの丈を力強く言い切った小次郎。その瞬間、どこからともなく拍手が聞こえて来た。

その拍手の音に、野次馬含めその場に居合わせていた全ての人間の視線が、音のする方へと向けられる。

皆の視線の先、立っていたのは麻で作られたみすぼらしい小袖に身を包みながらも、どこか気品漂う美しい女。


「良く申した、少年!」


女は拍手と共に小次郎に賛辞の言葉を送った。
そんな彼女をギロリと鋭い目で睨む貴族の従者達。低く冷たい声で女を威嚇する。


「女、何のつもりだ?」

「何とは? その少年の発言に感動したので、こうして拍手を送っているのだよ。のぉ、忠平殿」


だが、彼等が発する殺気にも威圧にも臆する事なく、その美しい女はニッと笑みを零し、隣に立つ男に向かって同意を求めた。

格好こそ、薄汚れた麻の着物を着ているが、この男こそ藤原忠平その人だ。

女の口から出た“忠平”の名前に、それまで牛車の中に隠れ、決して姿を見せようとはしなかった貴族、芳輝が驚いた様子で牛車の窓から突然顔を覗かせた。


「お、御館様?!このような公の場で顔をお出しになるのは……」

「馬鹿を申せ!忠平殿と言えば、現右大臣の任につかれているお方。お前こそ口を慎め。あの方へは決して無礼はあってはならぬ!それら全ては私の恥になるのだからな!!」

「………えっ……あのお方が………右大臣様?」


芳輝とその従者が上げた驚きの声に、再びその場に居合わせた皆の視線が一斉に忠平と娘の元へと注がれた。


「近衛中将、藤原芳輝殿。今のやり取り、全て拝見させていただいた。ここは公の道であろう。そなたの私道では決してない。それなのに何故なにゆえ、病で身動きの取れなくなっている老婆を待たずして牛車を進めるよう命じた?」

「それは……………」

「これは重大な問題として朝廷に報告させて頂こう。場合によっては処罰を受ける事もあるやもしれぬな」

「そ、そんな……私はただ……」

「何か言い訳でも?」

「……い、いいえ……何もございません。誠に申し訳………ありませんでした」


忠平に向けて謝罪の言葉を口にする芳輝。


「それは私にではなく、ここにいる者達皆に申すべき言葉であろう」

「なっ!それは私にこの卑しい者共に向けて謝罪しろとおっしゃるのですか?!」

「卑しい者とは聞き捨てならぬな。我等、おおやけは、彼等民人達を守る為に政を司っているのであろう。そして我々貴族もまた彼等民人達によって日々の暮らしを守られている。貴方はまず、その歪んだ考えから改められてはいかがかな?」

「っく………」

「何か言いたい事がある様子。私に言いたい事があるなら遠慮はいらぬ。今この場ではっきりと申してみよ。そのように唇を噛み締めているだけでは、何も伝わりはせぬぞ」
「も……申し訳……ございませんでした」


こうして、皆の見ている前で、芳輝を含めその配下の者達は小次郎や老婆に頭を下げる事となった。

それを見守った後に、忠平とその娘は、静かにその場から去ろうとする。
気付いた小次郎は慌てた様子で二人の後を追いかけた。


「あのっ!」
「……どうした、少年?」


二人の元へと駆け寄って来た小次郎に、忠平と共に居た気品漂う綺麗な女人が問いかける。

一番に小次郎へと拍手を送ったこの女人こそが千紗の母である順子じゅんし

順子の言葉に小次郎は急いでその場に座り込むと、深々と頭を下げて見せた。


「お願いがございます!俺を……俺を………どうか貴方様の従者に!」



__________
●近衛中将
役職の名前。皇居・京中・行幸などの警備を担当した軍隊の一つである近衛府の次官。

●麻
植物の名前。平安時代の庶民の着物は、安く作れるうえに、動きやすい麻や木の繊維で作られたものが多かった。

●小袖
現代の着物の原型。平安時代、貴族の女性が大袖《おおそで》の下に、下着として着ていたもので、袖口の開きが大きく、袖丈一杯まで開いている袖形状の大袖《おおそで》に対し、袖口の開きが狭いことから小袖と名付けられた。庶民にとっては小袖が日常着として用いられていた。

●右大臣
 律令制の中での役職の名前。太政大臣、左大臣の次に位し,政務を統轄した。
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