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鉄扇の老侍

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 旅道中にある飯屋では隅の席で老侍が漬物と茶漬けを食べていた。
 噛みしめる茶漬けが初めての味わうもののような気がした。
 公儀も死に仕掛けもなにも背負うことのない気楽なひとり旅の空気がそうさせているのだ。
 
 うまい…。

 老侍にはなんでもない飯屋の造りでさえ愛おしく思えた。
 店内には、数人の武者修行の浪人達が自慢話をしていた。
 べつによく見る光景だ。
 老侍はとくに気にしなかった。
 大柄の男が大声で話した。

 「我が大森流の剣は人間を真っ二つにする極意がある」

 「いやいや、何と言っても我が鹿島新当流よ。名人塚原卜伝の技だからな」

 若い侍が言った。

 「塚原卜伝は、伊藤一刀斎に負けているだろう」

 老侍は、一刀斎という言葉で浪人達に目を向けた。

 「誰がそんなことを言ったのだ?」

 「我が一刀流では、そのように伝えられている」

 あの若僧は一刀流か…

 おそらくは江戸の小野忠常の弟子だろう…

 「はっはっはっは。そんなものは嘘に決まっている。道場生を集めるための口実よ」

 「違う!塚原卜伝も上泉伊勢守も伊藤一刀斎に敗れている」

 「一刀流がそんなに強いのか!だったら、わしら全員相手に戦えるか?」

 浪人達が立ち上がった。

 「やれやれ。近頃の若いのときたら…」

 老いて出てくる言葉というのはいつの時代も変わらない。
 一刀流の若者も立ち上がり、柄に手をかけた。

 「おもてへ出ろ!」

 浪人達五人、対一刀流一人で互いに身構えた。
 老侍も見かねて出てきて若侍に言った。

 「一対五か。おぬしの腕ではまだ無理だろう」

 「なに?」

 「おぬしら。一刀流が見たいなら、わしが見せてやる!」

 老剣士は肩衣を羽織、両刀を腰に差しているが手には鉄扇を握っていた。

 「ご老体…何を言ってるのですか。無茶なことを…」

 「無茶はおぬしじゃろう。一刀流がそんなものだと思われてはかなわん」

 「一刀流をご存じなのですか?」

 「まあ、見ておれ」

 浪人達は、老侍を見て大笑いした。

 「はっはっはっは。じじい!怪我したくなかったら下がっておれ」

 「一刀流の師匠か?出しゃばらずに隠居したほうがよいぞ」

 老剣士は不敵な笑みを浮かべて言った。

 「口先だけだな大森流も。塚原卜伝も口喧嘩の達人ではなかったぞ」

 「なんだと?」

 若侍は一瞬老侍の言い回しに違和感を覚えた。
 
 まるで塚原卜伝と会ったことがあるような口ぶりだ…

 「五人まとめて、好きに来るがいい」

 「なにぃ?」

 浪人達は剣を抜いて構えた。
 老剣士が鉄扇を前方へ構えると、五人はいっせいに斬りかかった。
 若者が加勢をしようとしたがそんな暇はなかった。
 老剣士は、するりと五人の間をすり抜けながら五人の腕や腹、頭を鉄扇で打った。
 まさに若侍があっと言う暇すらなかった。
 気づくと五人は、地面にうずくまっていた。

 この動き…どこかで…

 若者は見たことある動きだと思った。

 そうだ。この動きは…

 若者が学んだ江戸の小野忠常先生と同じ捌き方だった。

 まさか小野忠明先生?

 若侍はいい勘をしている。

 いや、もう二十年以上も前に亡くなられているはずだ…

 老剣士はそのまま去ろうとしていた。
 若侍が追った。

 「お待ちください!ご老体もしや一刀流の小野忠常先生のゆかりの方でございますか?」

 「小野忠常?おお、忠明の跡取り。三代目だな」

 「忠明?やはり忠明先生を御存知でありましたか。差し支えなければお名前をお教え願えぬませぬか?」

 老剣士はゆっくり振り返った。

 「わしか?」

 そして、鉄扇をばっと勢いよく広げて言った。

 「わしはな。忠明に教えた伊藤一刀斎じゃ」


 承応二年(1653年)
 伊藤一刀斎は八十七歳で死んだ。
 弟子の小野忠明よりも、宮本武蔵よりも長く生きたことになる。
 出家したはずの一刀斎の享年が一刀斎として記録されているのは当然誰か別の者がなりすましていたことになる。
 しかも伊藤一刀斎を名乗れる剣客はひとりしかいない。

 これは剣に生き、佐々木小次郎、小野忠明、松山主水、宮本武蔵として四度死んだふりをしたひとりの隠密剣士の物語である。


 完
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