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独行道

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 「なにそれは大昔の話よ。わしは、細川家剣技指南役、松山主水じゃ」

 「剣技指南役!それでしかも宮本先生の弟弟子でございますか。では、ぜひ見ていただきたいものがあります」

 井上は、道場を出ていくつかの巻物と書物を持ってきた。
 巻物を開き主水は目を見張った。
 枯木鳴鵙図こぼくめいげきずだ。枯れ木の枝に止まる鵙の水墨画である。
 左隅から延びだし上へとまっすぐに伸びた枯れ木は、太刀筋にも見える。

 あの善鬼に…いや武蔵にはこのような才能があったのか…

 よく見ると、茎を登るいも虫がいる。
 虫をいつでも捕食できる頂点の鵙と、そこへ這い上がろうとするいも虫。
 それは頂点を目指して修行する者と、自由に羽ばたける道に達した者。

 他には「悟道」という真正面から描いた達磨の絵があった。
 思わずに主水はにやけてしまった。
 達磨を描いたのだろうが、その目は沢庵に似ていたからだ。
 僧が身をかがめ、軍鶏の争いを見る布袋観闘鶏図ほていかんとうけいず
 まるで戦いを懐かしんでいる沢庵のようだ。
 そして、二刀を手にした武蔵の自画像があった。
 井上が、その絵を参考に赤い肩衣を羽織っているのがわかる。

 「武蔵…」

 思わず声に出た。
 強い眼光、右足は外へ開き、小太刀を持つ左手が前にやや出ている。
 一見、構えていないようでいつでも応戦できる構えだ。
 左で受け、牽制を行い、足は前後左右に動け、右は一太刀で
 相手を斬るために静かに待っている。
 組み合わせられる動きは、軽く百は超えているだろう。
 囲碁の手は読めずとも、剣の動きはわかる。
 腕のある者なら、この自画像を見ただけで武蔵と戦おうとは思うまい。
 主水はしばらくその絵に見入った。
 井上は武蔵の絵を見つめる主水の目を見て心が暖まったような気がした。
 間違いなく武蔵の弟弟子だったのだと主水を信じることにした。
 主水は、書物を手に取った。
 表紙には、独行道とあった。

 「独行道…?」

 ー  身ひとつに美食をこのまず

 ー  恋慕の道、思ひよるこころなし

 ー  神仏は貴し、仏神をたのまず

 武蔵の孤独な生き様が書かれていた。
 武蔵が目指していたものが、主水にはよくわかった。
 妻もめとらずたった一人で求道する姿、それはまさに欲を断ち、
 出家して沢庵となった師匠の伊藤一刀斎だ。
 武蔵の達磨の絵を見る限り、沢庵との交流が続いていたようだ。
 主水には阿国がいて、一刀流を継承した息子忠常、弟子達がいて、師匠沢庵がいて、自分を信じてくれた秀忠公、但馬、小幡、忠利公、多くの者が常に周りにいた。
 武蔵には誰もいなかった。
 いや、そんな武蔵に武人としての道を示したのが、絵を見る限り沢庵だったようだ。
 神仏は貴し、仏神をたのまず。
 神仏を敬っても頼らない。

 主水にとって剣を追求する者としてそれはしごく当たり前の感覚だった。

 「目の前の敵の剣を祈って捌くことはできまいて…」

 それをわざわざ字に記すとは…

 主水の脳裏には沢庵の姿が浮かんだ。
 剣聖伊藤一刀斎は出家した。
 武蔵は己はそうはしないという意味できっとそう記したのだろう。
 それは武蔵の一刀斎への憧れを意味している。
 剣豪としての一刀斎は認めても仏道へ入ったことは受け入れないということだ。
 主水は秀頼が南無妙法蓮華経と必死で唱え、己の剣をかわしたことを思い出した。
 そして小次郎として倭寇の島でお題目を唱えて助かったことも。
 井上が、奥から書を保管するための木箱を二つ持ってきた。
 そこには、武蔵が書き溜めた二天一流の兵法が書き記されていた。

 ー兵法の道において、心の持ちやうは、常の心に替わることなかれ…

 戦う時も平常心でなくてはならない、ということだ。

 ー振りかざす太刀の下こそ地獄なれ、一と足進め先は極楽

 敵の振りかざす太刀の下にいれば斬られるが、一歩踏み出して
 捌けばもう勝ったも同然だということだ。

 思いつくままに書かれた武蔵の武の書が、木箱に収められていた。
 もう一つの箱を開けると武蔵の過去が書かれていた。

 ー我、若年のむかしより兵法の道に心をかけ、十三歳にして初めて勝負をす。

 其の相手、という兵法者に勝つ。

 これは…筆跡が違う。

 それに鹿島新当流有馬?鹿島神流有馬とは一刀斎が倒した達人でなかったか?

 主水には一刀斎の過去なのか武蔵の過去なのかはっきりしない内容に思えた。

 「これはおぬしが書いたのか?」

 「いえ、それは宮本伊織が先生に聞いたことを書き記したものです」

 主水は、宮本武蔵の養子の伊織が家老になっていたことを思い出した。

 「家老の伊織殿か。そういえば武蔵の養子だったと聞いたが」

 「はい。伊織は宮本家の跡取りがいないということで、宮本先生の兄弟の
 次男が養子になったということです」

 「そうだったのか」

 「じつは…某が宮本先生になりすましているのも、士官試験を
 受けたのも、伊織の考えでござる」

 「なに?」

 「先生がで亡くなられた際、我々が伊織に先生のお使いになられた鎧や剣、木剣など送り届けたのですが、すぐに
 送り返してきました。そして宮本先生の死を世に知られてはならないと申してきたのです」

 「知られてはならないとは、どういうことだ?」

 井上は、その理由を聞いてはなかった。
 数日後、主水は家老の宮本伊織と話をするために小倉城へ参上した。 
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