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村上の燕返し

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 小倉に戻った主水は、阿国に着替えを手伝ってもらいながら、
 二階堂流平法の道場に道場破りがあったとことを聞いた。

 「道場破り?」

 「ええ。そうなんですって」

 「なんでも、村上吉之丞が返り討ちにしたそうですよ」

 「ほう。村上が?」

 村上吉之丞は、留守のとき師範代を任せている。
 道場破りがあっても、村上ならなんとかするだろうと思っていた。

 「それでね。村上さんが使った技というのが、佐々木小次郎の燕返しだったそうな
 んです」

 「燕返しだと?」

 「覚えてませんか?」

 「なにをだ?」

 「村上吉之丞です」

 「?」

 阿国は庭を見た。

 「毎朝ここで、小次郎は子供たちと稽古してたではありませんか」

 主水の頭に、当時の朝稽古時の情景が浮かんだ。
 子供たちに教えた小次郎、自分がいる。
 その中に熱心に、剣を学んでいた少年がいた。

 「村上吉之丞?おお!あのときの子供か!」

 「そうですよ。毎朝、小次郎の朝稽古に来ていたではありませんか」

 阿国が帯を背中で結ぶと、主水は思わず腕を組んで懐かしい思い出にふけった。

 「覚えておる。毎日、熱心に来ておったな。あのときの鼻たれ小僧が村上吉之丞
 だったか」

 「そうか。たしかに燕返しを教えた。だが、幼少の頃に教えた技を未だに覚えているとはな」

 「それだけあの子は、小次郎に憧れていたのですよ」

 主水は若い頃、師匠一刀斎に己も憧れていたことを思い出した。
 当時は若い情熱のすべてを一刀斎に近づくことだけを念頭において修行したものだ。

 「あっというまだったな…」

 「ほんとうに」

 翌日、主水は道場で村上から道場破りの話を聞いた。
 村上は、道場生に道場破りの役をさせた。
 道場生は、置きトンボに構えた。

 「示現流か」

 「さようです。構えるとすぐに袈裟斬りが来ました」

 道場生が袈裟斬りを打ち込んでくる。
 すると、村上は素早く上段からまっすぐ振り下ろした。

 「それを真っ向に叩き落しました」

 村上の木剣が、道場生の木剣と交差すると振り下ろした勢いで、
 両者とも切っ先が落ちる。
 村上がすかさず下から、刃を上に向けて道場生の顔の横近くを斬り上げた。
 道場生が思わず顔をよけた。

 「このように下から斬り上げました」

 「燕返しという技であろう」

 「はい。幼少の頃、この技を佐々木小次郎から学びました」

 やはり、この村上があのときの少年か…

 よくぞここまで幼少に学んだ技を磨き上げたものだ…

 主水の口元がわずかに笑った。

 しかも、木刀を叩き落した技は一刀流の「二つ勝ち」だ。

 記憶にはないが、どうやら一刀流まで教えてたようだ。

 二つ勝ちなら、そのまま踏み込んで一動作で斬るのだが、そうは言っても示現流の初太刀を叩き落して二つ勝ちでやるのは至難の技。

 燕返しで倒すのがむしろ確実だ。

 いや、定石と言ってもいい。

 島津で道場破りをしていた時は、自分もよく同じ手を使った…

 「おぬしは、よほどその佐々木小次郎とやらが気に入っているのだな」

 「はい。拙者の憧れの剣士でした」

 「そうか…」

 「街で小次郎が、十人以上の浪人達と喧嘩をしてるのを見たことがあります」

 十人以上の浪人?いや、七人くらいではなかったか…?

 村上の子供の頃の記憶だ。
 だが、もしかすると主水の方が記憶違いしているのかもしれない。

 「その動きの速さと来たら、もうまるで弁天のごとく。小次郎は剣を抜かず抜刀した浪人達の間を通り抜けると、浪人達の剣は小次郎を追って間違って互いを斬りつけ合う始末。浪人達は、すぐに小倉を出ていきました」

 たしかにそんなこともあったな…

 それにしても弁天か。天狗だの弁天だの、人は見たこともないもので例えたがるものだ。
 武道一徹者だった主水は、比喩の意味が未だによくわかってなかった。

 「まあ、弁天のように速くとも宮本武蔵に負けたのであろう。忘れるがいい」

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