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沢庵の兵法

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 「人を斬ってただただ、罪障を積んだだけだ。今のわ 
 しの兵法はこれじゃ」

 そう言って手を合わせ「南無妙法蓮華経…」と、唱えた。
 その姿を見て忠明は思った。

 この人はもう一刀斎ではない…

 自分が憧れたあの伊藤一刀斎はもういない。
 目の前にいるのは、ひとりの僧。
 だが忠明はそれが寂しいとは思わなかった。
 わかっていたことだ。

 「しかし、夕べはな。まさか、うどんを食べていた
 ら、払捨刀の話を聞くとは思ってなかった」

 「わたしもまさかご本人が後ろで聞いてるとは思って
 いませんでした」

 「まさに己の罪障を省みろということじゃな」

 そして阿国が夕べの事件を思い出した。

 「そうだ。小次郎様。夕べは変な技を使う奴が現れ
 て、小幡さんが斬られそうになったの」

 「なに?」

 忠明は小幡を見た。

 「今から報告しようと思っていたところでござる。夕
 べは四人の男が現れ、そのうちの三人は薬丸道場の
 者。しかし一人はどこぞの異国の着物を纏っておりま
 した」

 「異国の者か?」

 「異国…いや、もしかするとこの島津に元々住んでい  
 た者のようにも思える…」

 「北のほうにもアイヌという人達が住んでるって聞い 
 たことがあります。その着物の模様が変わってるそう
 です」

 小幡が続けた。

 「とにかくその者が剣を構えるとこちらがまったく動
 けなくなってしまったのです」

 「なに?動けなくなっただと?」

 「どれほど力を込めようと拙者の四肢、いや指ですら
 動かせぬありさまで…」

 「それでどうしたのだ?」

 「あわやそのまま斬られるというところを沢庵さんが
 それを助けてくれたんです」
 
 沢庵が宙を見上げ思い出しながら話した。

 「あれは、技というよりは呪術のようなもんじゃな」

 「それはいったい…?」

 「一言でいえば金縛りでござる」

 「金縛り?」

 沢庵があることを思い出した。

 「さきほどの阿国の話で思い出したが、島津の隼人族
 という部族の話を聞いたことがある。呪術を使う者達
 で古くは大和族と対立していたことがあるという」

 「呪術…」

 阿国は夕べ沢庵が現れて隼人の男と対峙したことを思い出した。

 「でも沢庵さんには、効かなかったんだよね」

 小幡が子供のような好奇心丸出しの顔つきで聞いた。

 「先生、いや沢庵殿は、すでに呪術の破り方を会得さ
 れてたのですか?」

 「そうではない。奴の土俵に上がらなかっただけのこ
 とじゃ。気の結びがあるなら気の外し方もある」

 「気の結びと、外し方?」

 小幡は、思わず身を乗り出す。

 「それはどのようなものでござりますか?」

 「これじゃよ」

 そう言って手を合わせた。

 「南無妙法蓮華経…」

 「拝むのでござるか?」

 「そうじゃ。わしは、心の中で拝んでおった。剣を捨
 てた身で斬り合いの中へ入っていくのじゃ。拝むしか
 あるまい」

 「しかし、あなた様は…」

 剣聖だったのでしょ?

 小幡は、そう言いかけた。
 沢庵は僧らしいことを言った。

 「かつて日本一の法華経の行者が言った。これ運きは
 めりぬれば兵法もいらず、果報つきぬれば所従もした
 がはず。乃至、すぎし存命不思議とおもはせ給へ。な 
 にの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」

 「はあ…」

 「つまりだ。運が尽きたら兵法は役に立たん。また果
 報が尽きれば家来も従わず、命助かったことを不思議
 に思うべきであろう。なんの兵法よりも法華経を用い
 よというとこだ。究極の兵法だからじゃ」

 「はあ…」

 小幡は剣の神に出会えて興奮していたのだが、気のない返事をしてしまった。
 忠明はもう、目の前にいるのは僧の沢庵であると割り切っていた。
 一刀流を創始した一刀斎が、一刀流以上の究極の兵法が法華経だと言っているが、忠明はとくに深くは考えなかった。

 沢庵は続けた。

 「信長公も比叡山を焼かなければ天下人になっていた
 であろう」

 忠明は、ハッとした。

 「もしかして先生は、それが理由で出家されたのです
 か?」

 「うむ。信長公ほどの男が天下がとれなんだ理由はそ
 れしかない」

 小幡が元剣聖がなにを言いたいのか聴くために話を合わせた。

 「比叡山というと言わずと知れた仏門の総本山でござ
 いますな」

 「天台宗のな。天台では法華経を修行する。なにの兵
 法よりも法華経を用いよと日蓮大聖人もおっしゃってい
 た」

 「さきほどの日本一の法華経の行者とは日蓮上人のこ
 とでござったか…」

 小幡も仏道に詳しかったわけではないが、聞いたことはあった。
 阿国はふつうに疑問をぶつけた。

 「当時、比叡山は欲にまみれた僧ばかりだったんでし
 ょ?」

 「その罰は仏に任せるべきだ。信長公の出る幕ではあ
 るまい。信長公は僧達があの世で受ける罰を自らもら
 いに行ったようなものだ」

 一刀斎は大気の流動を見て「見山」の教をたて、雨の日に松風を聞いて教の則とし、風に枝を流す柳を見て奥義を得た。
 大自然を師とし、その霊妙さで、天地陰陽の理を究めた神がかった剣聖だった。
 その剣聖だった男が今度は、法華経が究極の兵法だと言っている。
 忠明は、一瞬その法華経について聞いてみたいと思ったが今夜のことで頭がいっぱいだった。

 これから倭寇に乗り込んでいく。

 神仏にすがってどうする…

 すぐに覚悟の心を固めた。
 俺がこの世で信じるは一刀斎という剣聖が授けてくれた一刀流のみ!これしかない。
 たとえ一刀斎が僧となったとしても、忠明にとっては剣聖一刀斎の一刀流こそが
 己のすべてを捧げ信じぬくべきものだった。
 沢庵は忠明の表情を見て言った。

 「佐々木小次郎が毎日、派手に喧嘩をしていることは
 聞いている。事情はわからんが、それはおぬしにとっ
 てさして難しいことではあるまい」
 
 「…」

 「だが、なぜ死を覚悟をしておる?」
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