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剣聖に挑む
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思いのたけをおくみに伝えた典膳は爽やかな気分だったが、ただなにかを忘れている気がした。
典膳は、ハッとした。
では、あの旅籠屋の前に立ててあった高札はなんだ?
「あの宿の前にあった高札はおぬしたちが立てたものか?」
その場にいた全員がいっせいに目を逸らした。
阿国がしらじらしい声でしらばっくれた。
「高札ぁ?知らないねえ。なんかの見間違いじゃないのかい?」
「剣に覚えある者あらば我、勝負承るとあった高札だ」
典膳は若いが大人の嘘の声にはいつも違和感を感じていた。
この阿国の声にも違和感があった。
典膳はおくみをまっすぐに見つめた。
目を逸らしていたおくみが意を決して典膳に言った。
「あれは…伊藤一刀斎の高札です…」
典膳は猛然と立ち上がった。
そしてすごい勢いで飯屋を出た。
伊藤一刀斎を先に見つけたのは阿国の一座だった。
阿国は本物の伊藤一刀斎を芝居しようと仲間に一刀斎のようなかっこうをさせ、自らも剣客の姿をして芝居を作ろうとしていたところに典膳がやってきて勘違いしたわけだ。
ところが典膳の容姿を見て一座に引き込みたくなった阿国達は、なんとか一刀斎に会わせないように飯屋に連れてゆき、役者にならないかと言い寄ったわけだ。
典膳は旅籠屋に戻ると丁稚に取り次いでもらい、一刀斎を待った。
すると奥からのれんを押す手が見えた。
手と一緒におもむろに出てきた一刀斎を見て今度こそ最強の剣聖だと胸が高鳴った。
強者は、どんな技にも対応するためにどんな技でも会得している。
故に得意な技への執着はないし、この技を使おうという狙いもない。
ましてや天下に名をとどろかせた伊藤一刀斎ともなれば、霊妙な空気をまとっているのだが、己の腕を試すことに高揚している典膳にはそれ感じとることはまだできなかった。
しかし典膳をひと目見た一刀斎の方は違った。
典膳を一目見るなり「ほう…」と、その生まれながらの純粋で剛直な人柄を見抜いた。
それでいてその体格は弟子の善鬼にも劣らず、容姿はまるで
おなご、芝居の色男のような姿であるが、そんな甘ったるい空気はみじんも感じない。
一刀斎の後から出てきた善鬼も、典膳の立ち姿にただならぬものを感じた。
本来なら善鬼が「俺にやらせてください」と、しゃしゃり出てくるのだが、このときばかりは典膳の純粋な気迫に見入ってしまっていた。
善鬼が黙っている…
一刀斎もこの出会いが、なにか特別なものになることを予感した。
気負う典膳は、持ってきた木刀をぎゅっと強く握りしめ言った。
「伊藤一刀斎殿。某、神子上典膳と申す。幼少の頃より武術の稽
古に励んできたが、世間に出て腕を試したことは未だなく、ぜひ
とも伊藤殿と勝負を決し己の腕のほどを知りたい」
そう言った典膳には勝ってやろうという功名心、驕り、恐れ、緊張などない、すっと耳に入る邪念のない声だ。
ただただ純粋に一刀斎と勝負がしたくて、そこに立っている。
一刀斎の口元がわずかに笑った。
典膳の純粋な気迫が、一刀斎の警戒心を崩した。
「いいだろう。獲物は何にする?」
「真剣にてお願いしたい!」
木刀を持ってきていたが、実際の一刀斎を見て真剣で挑みたいと思ったのだ。
本物には本物の剣で挑まねば…
典膳は二尺八寸(八十五センチ)の長剣を腰から抜き出すと、すぐに切っ先を隠すように脇構えにとった。
三神流の構えだ。
一刀斎はというと入口の横にあった薪置きから一尺五寸(約四十五センチ)ほどの薪を手にし典膳の前に立った。
…あんな薪で真剣に立ち向かえるのか?
典膳は不思議に思った。
薪を片手で構える一刀斎からは、見栄や去勢は感じられない。
確実に典膳は、会ったことのない巨大な相手が目の前にいると思った。
善鬼は典膳の目に純粋な好奇心、期待に満ちているのが見えた。
普通なら舐められてると憤慨するか好機とばかりに攻めるはず…
しかし典膳は、もう一刀斎の次元の高さに期待している…
剣が好きでその高みが見たいという、純粋な人間であることは善鬼にもわかった。
邪気邪念を持って打ち勝とうとする善鬼とは、まるで正反対の少年。
典膳が脇構えで一刀斎に進み寄る。
己の間合いの先に相手の気を感じた瞬間、典膳は太刀を素早く振りかぶって斬り込む。
しかして次の瞬間、典膳が振り下したはずの太刀が消えた。
見ると一刀斎が典膳の太刀と自分が持っていた薪を、薪置きの上に置きなにごともなかったように宿に入っていくところだった。
典膳はいったいなにが起こったのか理解できず、茫然と立ち尽くした。
それを見かねた善鬼がため息交じりで声をかけた。
「師匠は宿に入ったぞ」
典膳は、ハッとした。
では、あの旅籠屋の前に立ててあった高札はなんだ?
「あの宿の前にあった高札はおぬしたちが立てたものか?」
その場にいた全員がいっせいに目を逸らした。
阿国がしらじらしい声でしらばっくれた。
「高札ぁ?知らないねえ。なんかの見間違いじゃないのかい?」
「剣に覚えある者あらば我、勝負承るとあった高札だ」
典膳は若いが大人の嘘の声にはいつも違和感を感じていた。
この阿国の声にも違和感があった。
典膳はおくみをまっすぐに見つめた。
目を逸らしていたおくみが意を決して典膳に言った。
「あれは…伊藤一刀斎の高札です…」
典膳は猛然と立ち上がった。
そしてすごい勢いで飯屋を出た。
伊藤一刀斎を先に見つけたのは阿国の一座だった。
阿国は本物の伊藤一刀斎を芝居しようと仲間に一刀斎のようなかっこうをさせ、自らも剣客の姿をして芝居を作ろうとしていたところに典膳がやってきて勘違いしたわけだ。
ところが典膳の容姿を見て一座に引き込みたくなった阿国達は、なんとか一刀斎に会わせないように飯屋に連れてゆき、役者にならないかと言い寄ったわけだ。
典膳は旅籠屋に戻ると丁稚に取り次いでもらい、一刀斎を待った。
すると奥からのれんを押す手が見えた。
手と一緒におもむろに出てきた一刀斎を見て今度こそ最強の剣聖だと胸が高鳴った。
強者は、どんな技にも対応するためにどんな技でも会得している。
故に得意な技への執着はないし、この技を使おうという狙いもない。
ましてや天下に名をとどろかせた伊藤一刀斎ともなれば、霊妙な空気をまとっているのだが、己の腕を試すことに高揚している典膳にはそれ感じとることはまだできなかった。
しかし典膳をひと目見た一刀斎の方は違った。
典膳を一目見るなり「ほう…」と、その生まれながらの純粋で剛直な人柄を見抜いた。
それでいてその体格は弟子の善鬼にも劣らず、容姿はまるで
おなご、芝居の色男のような姿であるが、そんな甘ったるい空気はみじんも感じない。
一刀斎の後から出てきた善鬼も、典膳の立ち姿にただならぬものを感じた。
本来なら善鬼が「俺にやらせてください」と、しゃしゃり出てくるのだが、このときばかりは典膳の純粋な気迫に見入ってしまっていた。
善鬼が黙っている…
一刀斎もこの出会いが、なにか特別なものになることを予感した。
気負う典膳は、持ってきた木刀をぎゅっと強く握りしめ言った。
「伊藤一刀斎殿。某、神子上典膳と申す。幼少の頃より武術の稽
古に励んできたが、世間に出て腕を試したことは未だなく、ぜひ
とも伊藤殿と勝負を決し己の腕のほどを知りたい」
そう言った典膳には勝ってやろうという功名心、驕り、恐れ、緊張などない、すっと耳に入る邪念のない声だ。
ただただ純粋に一刀斎と勝負がしたくて、そこに立っている。
一刀斎の口元がわずかに笑った。
典膳の純粋な気迫が、一刀斎の警戒心を崩した。
「いいだろう。獲物は何にする?」
「真剣にてお願いしたい!」
木刀を持ってきていたが、実際の一刀斎を見て真剣で挑みたいと思ったのだ。
本物には本物の剣で挑まねば…
典膳は二尺八寸(八十五センチ)の長剣を腰から抜き出すと、すぐに切っ先を隠すように脇構えにとった。
三神流の構えだ。
一刀斎はというと入口の横にあった薪置きから一尺五寸(約四十五センチ)ほどの薪を手にし典膳の前に立った。
…あんな薪で真剣に立ち向かえるのか?
典膳は不思議に思った。
薪を片手で構える一刀斎からは、見栄や去勢は感じられない。
確実に典膳は、会ったことのない巨大な相手が目の前にいると思った。
善鬼は典膳の目に純粋な好奇心、期待に満ちているのが見えた。
普通なら舐められてると憤慨するか好機とばかりに攻めるはず…
しかし典膳は、もう一刀斎の次元の高さに期待している…
剣が好きでその高みが見たいという、純粋な人間であることは善鬼にもわかった。
邪気邪念を持って打ち勝とうとする善鬼とは、まるで正反対の少年。
典膳が脇構えで一刀斎に進み寄る。
己の間合いの先に相手の気を感じた瞬間、典膳は太刀を素早く振りかぶって斬り込む。
しかして次の瞬間、典膳が振り下したはずの太刀が消えた。
見ると一刀斎が典膳の太刀と自分が持っていた薪を、薪置きの上に置きなにごともなかったように宿に入っていくところだった。
典膳はいったいなにが起こったのか理解できず、茫然と立ち尽くした。
それを見かねた善鬼がため息交じりで声をかけた。
「師匠は宿に入ったぞ」
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