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第十八節気 霜降
次候――霎時施(こさめときどきふる)
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しとしとしと。
朝から雨が降っていた。
「この時期小雨が降るたびに、冬が近づくそうですよ」
いつも寛ぐ居間とは、廊下を挟んだ入り口側。元は祖父母の寝室だった場所を、暁治はアトリエとして使っていた。
反対側は縁側で日当たりもよく、オシャレなすりガラスのはまった引き戸は、建った当初は田舎にしてはモダンな家だったことが窺える。
アトリエから外に目をやった石蕗は、そう言うと暁治の方を見た。座ったかたわらには細長い包み。中身は『菊花堂』の秋の和菓子詰め合わせらしい。
『菊花堂』は、街にある和菓子屋なのだが、名物がいなり寿司という変わった店だ。先代までは和菓子のみだったのだが、今の店主がいなり寿司が好きで、色々変わり種を出している。と聞いた。
というのは、暁治はまだ店に行ったことがないからだ。祖父が懇意にしていたらしく、葬式の日に来ていたのを知ったのはついこないだで、たまに朱嶺がお土産に持ってくるくらい。そのうち挨拶に行かねばと思いつつ、なかなか機会がないままでいる。
「崎山さんちのお饅頭も、ありますよ」
包みを見ていたのに気づいたようだ。竹の皮で包んである包みを持たされた。まだ少し温かい。
最近遊びに来るたび、土産を持ってくるのは、もしかして先日暁治をはめた詫びだろうか。そう思うと、少し複雑である。土産は嬉しいのだが。
今日は暁治の作品を見てみたいと言われ、家に押しかけてきた。三学期になって受験を控え、三年生はみな美術部を引退して時間があるらしい。
いや、勉強があるんじゃないか? 受験生。と思わないでもないが、毎回の試験で学年一位を誇る我が校の天才だそうなので、焦って勉強しなくてもいいのかもしれない。
「今日は天狗の坊はいないのですね」
「朱嶺なら、鷹野のバイト先だな」
鷹野は大黒高校のそばにある喫茶店で働いている。喫茶リョンリョン。いや違う、と暁治は思い直した。喫茶リヨン・リヨン。暁治や学校の生徒たちもよく行く店だ。
彼がちゃんと仕事をしているのか、監視に行くのだといっていたが、飯をたかりにいくの間違いだろう。
朱嶺のお気に入りは、粗挽きソーセージがごろごろ入った、甘いケチャップのナポリタンだ。苦手な玉ねぎ抜きの彼用特別メニューである。
家でも何度か作ったことがあるのだが、なぜかあのコクが出せない。
いつか再現してみたいものだと、暁治は思っている。別に朱嶺のためではないのだが。料理人の血というやつだ。たぶん。
台所では居残りキイチが、桃のリクエストでサツマイモのいももちを焼いていた。すっかりハマってしまったようで、あれからしょっちゅう作っている。
「スイートポテトを作るとき、バニラアイスを使うといいらしいにゃ。おれもいももちに使ってみるのにゃ」
彼も料理人の血が騒ぐらしい。料理において、想像力は大事である。もちろん実力が伴っていればだ。暁治も想像してみたのだが、間違いなく美味しいだろうと、彼の舌が告げている。
「雨のたびに冬が近づく、か。夏も台風の後に暑くなったよな」
まるで台風が春と秋の案内人のようだなと、そんなことを思う。
「そうですね。十月は時雨月ともいうそうですよ。時雨は降ったり止んだりと、パラパラと降る通り雨のことだそうです」
「へぇ」
「神無月、神在月に時雨月。十月は色んな別名がありますね。朝時雨、夕時雨。強く降ってはすぐ止む村時雨。時雨を詠んだ歌もありますよ」
「相変わらず物知りだな」
「正治先生の受け売りですよ。例えば――『神な月 降りみ降らずみ 定めなき 時雨ぞ冬の始なりける』なんてのはどうですか?」
「朱嶺といい、じいさんの影響だってのは、納得だ」
万葉集とやらで朱嶺に翻弄されたのは、ついこないだのことだ。
祖父はもういないのに――先日ひょっこり帰ってきたのは除いて――祖父の名残のような、色々な想いがあちこちに残っているのを見るたびに、懐かしいような、亡くなってもいつまでも痕跡を残す彼を羨むような、そんな気持ちになる。
「朱嶺はじいさんが好きだったんじゃないのか」
「え、好きでしたよ?」
ほろりと、口に出してしまったらしい。思いがけずに返事が返ってきてしまい、暁治は目を白黒させた。
「いや、その……」
「あぁ、恋愛的な意味でしたら、とっくにブロークンハートしてましたけどね」
「そうなのか!?」
思わず大きな声をあげてしまい、暁治は慌てて口を押さえる。ちらりと石蕗を見ると、温かい眼差しで見られているのに気づいた。ちょっと生温かさも感じる。
いや、そもそも今日彼が遊びに来る話になったのも、朱嶺がいないのも、全部お膳立てされてたような気がして仕方ない。
もしかしてこの男のことだ。今日来たのは、ここのところ朱嶺とギクシャクしていたのを知っていたのだろうか。またかと思ったものの、どうにも辟易していたのも事実なので、野次馬ともお節介とも言いにくい。
「偶然ですよ。気になってはいたので、ついでにとは思ってましたが。なんか面白そうなことになってるみたいですし」
そんなことを言われて、複雑な気分である。石蕗はちょっと正直者過ぎやしないだろうか。いや、かなりだ。
「正治先生は英恵さん大好きですからね。すぐに思い知ったんじゃないでしょうか」
「まぁ、なぁ」
てらいもなく歯の浮くようなことが言える人だ。失恋も瞬殺だろう。
となるとだ。
暁治と最初に出会ったときには、すでに失恋してたのではないだろうか。
二度目に会ったのは祖父の紹介だった。近所の子だと紹介されたのだ。普段からよく家に出入りしていたらしくて、祖父によく懐いていた。あのころから彼が向けていた視線が、単なる近所のおじいさん以上のものを感じていたから、暁治はてっきり――、
ため息がもれた。
別にこんなことが知りたいわけじゃない。ちょっと心が浮き立つのも気のせいだ。だいたい、初恋もまだの初な恋愛初心者じゃあるまいし。
そこまで思って、先日のキス――ではなくて、口と口がぶつかっただけのときのことを思い出す。――まさかと思うが、覚えてないだけで朱嶺が最初ってことはないよな。いやあれは、間違っても恋愛ではない。はず。
考えすぎて、余計な疑心暗鬼にかられる暁治である。
「先生のツンテレって、無意識だからたち悪いですよね」
「俺に聞くな。知るかそんなの……って、なぜそれを知ってるんだ」
「顔が赤いですよ、先生」
誰だこいつに漏らしたのは。朱嶺から聞いたのだろうか。いやそれとも店子の鷹野から? 心を読んだかのような的確なツッコミに、ぷいと外を見ると、雨脚が強くなってきている。そういや、あいつは傘を持って出ただろうか。
「暁治、いももち食うにゃ?」
「お、おぅ。ありがとうな」
ひょっこりと、扉から顔を出したキイチに、心臓が跳ねた。胸を押さえている暁治の横で、石蕗が同じようにいももちを所望する。キイチは「わかったにゃ!」と勇み足で台所へ向かった。
「先生の絵って、スケッチは前に何回か拝見しましたけど、淡い色で、力強くて、とても素直な感じがしますね」
桃を連れて台所へいももちを取りに行ったキイチを見送っていると、石蕗が描きかけのキャンバスを見ていた。かたわらにはスケッチブックが広げられている。一応本来の目的もちゃんと果たすらしい。
彼の絵に眼差しをそそぐ石蕗に、おもはがゆい気持ちになる。正直感想は嬉しいが、恥ずかしくもあるからだ。暁治は浮き立つ気持ちを抑えると、ことさらぶっきらぼうに頷いた。
「そうか?」
「はい。素直というか、見たままというか」
「そうか……」
自分ではよくわからない。
ただ、少し前に言われたことがある。
「素直って言えば、聞こえはいいんだが。な」
――お前の絵って、つまんないよな。
心の中に響く声。
自分では上手く描けたと思っていた。周りの先生たちも褒めてくれた。
なのに、たったひとりに言われたことが、心にとげのように刺さって、……今も抜けない。
「あぁ、でも。この絵は違いますね」
俯いていた暁治が顔を上げると、石蕗は部屋の奥にあったものの布を剥がした。
「あ、それは!!」
大きなキャンバスには、一面に金色に揺れる稲穂が描かれている。
背景には大きな夕陽。その手前には朱鷺色に溶ける太陽よりも明るい笑顔を浮かべる。朱嶺がいた。大きな麦わら帽子をかぶって、こちらに向けて笑っている。愛しくて、見ているだけで溶けそうなほど。
「先生の眼には、天狗の坊って、こんな風に映ってるんですね」
感心したように言う石蕗の顔が見られない。
わかっている。もう、答えは出ているのだ。
「はる! ただいま!!」
たぶん、振り向いた先にある彼の顔も、こんな風な笑みなんだろう。
暁治は一瞬顔を歪めると、「お帰り」と笑って振り返った。
朝から雨が降っていた。
「この時期小雨が降るたびに、冬が近づくそうですよ」
いつも寛ぐ居間とは、廊下を挟んだ入り口側。元は祖父母の寝室だった場所を、暁治はアトリエとして使っていた。
反対側は縁側で日当たりもよく、オシャレなすりガラスのはまった引き戸は、建った当初は田舎にしてはモダンな家だったことが窺える。
アトリエから外に目をやった石蕗は、そう言うと暁治の方を見た。座ったかたわらには細長い包み。中身は『菊花堂』の秋の和菓子詰め合わせらしい。
『菊花堂』は、街にある和菓子屋なのだが、名物がいなり寿司という変わった店だ。先代までは和菓子のみだったのだが、今の店主がいなり寿司が好きで、色々変わり種を出している。と聞いた。
というのは、暁治はまだ店に行ったことがないからだ。祖父が懇意にしていたらしく、葬式の日に来ていたのを知ったのはついこないだで、たまに朱嶺がお土産に持ってくるくらい。そのうち挨拶に行かねばと思いつつ、なかなか機会がないままでいる。
「崎山さんちのお饅頭も、ありますよ」
包みを見ていたのに気づいたようだ。竹の皮で包んである包みを持たされた。まだ少し温かい。
最近遊びに来るたび、土産を持ってくるのは、もしかして先日暁治をはめた詫びだろうか。そう思うと、少し複雑である。土産は嬉しいのだが。
今日は暁治の作品を見てみたいと言われ、家に押しかけてきた。三学期になって受験を控え、三年生はみな美術部を引退して時間があるらしい。
いや、勉強があるんじゃないか? 受験生。と思わないでもないが、毎回の試験で学年一位を誇る我が校の天才だそうなので、焦って勉強しなくてもいいのかもしれない。
「今日は天狗の坊はいないのですね」
「朱嶺なら、鷹野のバイト先だな」
鷹野は大黒高校のそばにある喫茶店で働いている。喫茶リョンリョン。いや違う、と暁治は思い直した。喫茶リヨン・リヨン。暁治や学校の生徒たちもよく行く店だ。
彼がちゃんと仕事をしているのか、監視に行くのだといっていたが、飯をたかりにいくの間違いだろう。
朱嶺のお気に入りは、粗挽きソーセージがごろごろ入った、甘いケチャップのナポリタンだ。苦手な玉ねぎ抜きの彼用特別メニューである。
家でも何度か作ったことがあるのだが、なぜかあのコクが出せない。
いつか再現してみたいものだと、暁治は思っている。別に朱嶺のためではないのだが。料理人の血というやつだ。たぶん。
台所では居残りキイチが、桃のリクエストでサツマイモのいももちを焼いていた。すっかりハマってしまったようで、あれからしょっちゅう作っている。
「スイートポテトを作るとき、バニラアイスを使うといいらしいにゃ。おれもいももちに使ってみるのにゃ」
彼も料理人の血が騒ぐらしい。料理において、想像力は大事である。もちろん実力が伴っていればだ。暁治も想像してみたのだが、間違いなく美味しいだろうと、彼の舌が告げている。
「雨のたびに冬が近づく、か。夏も台風の後に暑くなったよな」
まるで台風が春と秋の案内人のようだなと、そんなことを思う。
「そうですね。十月は時雨月ともいうそうですよ。時雨は降ったり止んだりと、パラパラと降る通り雨のことだそうです」
「へぇ」
「神無月、神在月に時雨月。十月は色んな別名がありますね。朝時雨、夕時雨。強く降ってはすぐ止む村時雨。時雨を詠んだ歌もありますよ」
「相変わらず物知りだな」
「正治先生の受け売りですよ。例えば――『神な月 降りみ降らずみ 定めなき 時雨ぞ冬の始なりける』なんてのはどうですか?」
「朱嶺といい、じいさんの影響だってのは、納得だ」
万葉集とやらで朱嶺に翻弄されたのは、ついこないだのことだ。
祖父はもういないのに――先日ひょっこり帰ってきたのは除いて――祖父の名残のような、色々な想いがあちこちに残っているのを見るたびに、懐かしいような、亡くなってもいつまでも痕跡を残す彼を羨むような、そんな気持ちになる。
「朱嶺はじいさんが好きだったんじゃないのか」
「え、好きでしたよ?」
ほろりと、口に出してしまったらしい。思いがけずに返事が返ってきてしまい、暁治は目を白黒させた。
「いや、その……」
「あぁ、恋愛的な意味でしたら、とっくにブロークンハートしてましたけどね」
「そうなのか!?」
思わず大きな声をあげてしまい、暁治は慌てて口を押さえる。ちらりと石蕗を見ると、温かい眼差しで見られているのに気づいた。ちょっと生温かさも感じる。
いや、そもそも今日彼が遊びに来る話になったのも、朱嶺がいないのも、全部お膳立てされてたような気がして仕方ない。
もしかしてこの男のことだ。今日来たのは、ここのところ朱嶺とギクシャクしていたのを知っていたのだろうか。またかと思ったものの、どうにも辟易していたのも事実なので、野次馬ともお節介とも言いにくい。
「偶然ですよ。気になってはいたので、ついでにとは思ってましたが。なんか面白そうなことになってるみたいですし」
そんなことを言われて、複雑な気分である。石蕗はちょっと正直者過ぎやしないだろうか。いや、かなりだ。
「正治先生は英恵さん大好きですからね。すぐに思い知ったんじゃないでしょうか」
「まぁ、なぁ」
てらいもなく歯の浮くようなことが言える人だ。失恋も瞬殺だろう。
となるとだ。
暁治と最初に出会ったときには、すでに失恋してたのではないだろうか。
二度目に会ったのは祖父の紹介だった。近所の子だと紹介されたのだ。普段からよく家に出入りしていたらしくて、祖父によく懐いていた。あのころから彼が向けていた視線が、単なる近所のおじいさん以上のものを感じていたから、暁治はてっきり――、
ため息がもれた。
別にこんなことが知りたいわけじゃない。ちょっと心が浮き立つのも気のせいだ。だいたい、初恋もまだの初な恋愛初心者じゃあるまいし。
そこまで思って、先日のキス――ではなくて、口と口がぶつかっただけのときのことを思い出す。――まさかと思うが、覚えてないだけで朱嶺が最初ってことはないよな。いやあれは、間違っても恋愛ではない。はず。
考えすぎて、余計な疑心暗鬼にかられる暁治である。
「先生のツンテレって、無意識だからたち悪いですよね」
「俺に聞くな。知るかそんなの……って、なぜそれを知ってるんだ」
「顔が赤いですよ、先生」
誰だこいつに漏らしたのは。朱嶺から聞いたのだろうか。いやそれとも店子の鷹野から? 心を読んだかのような的確なツッコミに、ぷいと外を見ると、雨脚が強くなってきている。そういや、あいつは傘を持って出ただろうか。
「暁治、いももち食うにゃ?」
「お、おぅ。ありがとうな」
ひょっこりと、扉から顔を出したキイチに、心臓が跳ねた。胸を押さえている暁治の横で、石蕗が同じようにいももちを所望する。キイチは「わかったにゃ!」と勇み足で台所へ向かった。
「先生の絵って、スケッチは前に何回か拝見しましたけど、淡い色で、力強くて、とても素直な感じがしますね」
桃を連れて台所へいももちを取りに行ったキイチを見送っていると、石蕗が描きかけのキャンバスを見ていた。かたわらにはスケッチブックが広げられている。一応本来の目的もちゃんと果たすらしい。
彼の絵に眼差しをそそぐ石蕗に、おもはがゆい気持ちになる。正直感想は嬉しいが、恥ずかしくもあるからだ。暁治は浮き立つ気持ちを抑えると、ことさらぶっきらぼうに頷いた。
「そうか?」
「はい。素直というか、見たままというか」
「そうか……」
自分ではよくわからない。
ただ、少し前に言われたことがある。
「素直って言えば、聞こえはいいんだが。な」
――お前の絵って、つまんないよな。
心の中に響く声。
自分では上手く描けたと思っていた。周りの先生たちも褒めてくれた。
なのに、たったひとりに言われたことが、心にとげのように刺さって、……今も抜けない。
「あぁ、でも。この絵は違いますね」
俯いていた暁治が顔を上げると、石蕗は部屋の奥にあったものの布を剥がした。
「あ、それは!!」
大きなキャンバスには、一面に金色に揺れる稲穂が描かれている。
背景には大きな夕陽。その手前には朱鷺色に溶ける太陽よりも明るい笑顔を浮かべる。朱嶺がいた。大きな麦わら帽子をかぶって、こちらに向けて笑っている。愛しくて、見ているだけで溶けそうなほど。
「先生の眼には、天狗の坊って、こんな風に映ってるんですね」
感心したように言う石蕗の顔が見られない。
わかっている。もう、答えは出ているのだ。
「はる! ただいま!!」
たぶん、振り向いた先にある彼の顔も、こんな風な笑みなんだろう。
暁治は一瞬顔を歪めると、「お帰り」と笑って振り返った。
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