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第十三節気 立秋
末候――蒙霧升降(ふかききりまとう)
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その日は朝から霧が出ていた。
小脇に洗濯物籠を抱えた暁治は、縁側でため息をついた。霧が晴れるまで、洗濯はお預けだ。これからどうしたものかともうひとつ、ため息混じりに目を落とすと、縁側でごろりと寝そべっているつっくんがいた。
朝のラジオ体操を終えて、そのまま寝てしまったらしい。のんきなことだ。
庭を覆う薄白い景色に、こんな時期に霧が出るのかと、都会育ちの暁治は少し感動したのだが、そういえば霧は秋の季語だったなと、思い直す。祖父の影響ですっかり詳しくなってしまった。
もしかして自分は美術より、文学の道に進んだ方がよかったろうかと、そんなことを思いながら、ふと先日の出来事を思い出す。
しばらく担任の代理をやっていたからだろうか。東京の大学に行きたいのだけれどと、クラスの生徒から相談を受けた。暁治と同じ、絵の道に進みたいのだそうだ。
地方都市で美術系の大学を見つけるのは難しい。かといって都会の大学行くにしろ、進路先が美大では、頭の固い親たちを説得するのはさらに困難だ。それを思うと実家から通える距離とは言え、快く進学を許してくれた親たちには感謝しかない。
「どうかしたのか?」
見下ろすと、目覚めたらしい。つっくんが目をこすっている。
「いや、ちょっとな」
「なるほど、悩める色男というやつか」
「う~ん、それはちょっと違うんだがなぁ」
「そうかそうか、はるもそんな年になったか」
「だから違うって」
からかわれているのはわかるのだが、なんとなく分が悪い。確かに相談相手は女子生徒だったけれど。
「誰だ相手はあけみーか?」
「ぐっ……なっ、なんで朱嶺!?」
よりにもよって、なぜあいつの名前が出てくるのか。
「なにを言っとる。真面目で大人しく、優しいいい子が、あけみーといるときだけ、はしゃいどるだろ」
真面目で大人しいって誰のことだろう。訳知り顔で言われ思い返すと、確かに朱嶺といる自分は、ほかとちょっと違うような気がしてくる。暁治は口元を抑えると、首をぶんぶんと振る。
「そりゃ、あいつがあまりに荒唐無稽で傍若無人で能天気だから、調子が狂うというか」
「そうか、そんなに気になるか」
「ならない!」
否定するのは相手の思うつぼだとわかってはいるのだけれど。
「誰にでも優しい子というのは二種類ある。相手のことを真に思いやることができる子と、相手のことに興味がない、無関心な子だ。構いたいという気持ちは、相手に興味があるからだ。自分以外の誰かに興味を持つのは、情緒が発達しているということだからな。はるはちゃんと育ってるってことだ」
「……」
小さな子供に言い聞かせるような言動。いい年した年上の大人に言われるのならわかるのだが、つっくんは小学生にしか見えない。中身はたぶん違うのだというのは、朱嶺たちの言動で知ってても、どうにも外見との違和感が拭えない。
「暁治っ、牛がない!」
なんだか微妙な空気の中、そう叫んで突然仏間に続くふすまを開けて入ってきたのは、元飼い猫で化け猫のキイチだ。ずいぶん慌てている。
「つっくん、逃げて! 鬼がっ!!」
今度は庭から朱嶺がやって来る。こちらも慌てているが、かなり物騒な台詞だ。アイスが食べたいと、散歩がてら買いに行っていたはずなのだが。
「鬼って、あのツノの生えたやつか?」
返す暁治ものんきなものだ。緊張感がまったくない。のんきを絵に描いたような田舎町とはいえ、牛はともかく鬼はないだろう。
「うんうん、めっちゃ生えてる! 牙もむき出しで――」
「朱嶺っ! 誰が鬼や!?」
「うわぁ!!」
入り口付近からだろう。縁側から覗き込むと、朱嶺と同い年くらいに見える少女が、文字通り仁王立ちになっている。
少女の叫び声に、朱嶺は頭を抱えて縁側に上がり込む。暁治の肩をつかんで後ろに回った。
「あ~、やっぱしここにおった!」
「おや、英恵さん。どうしたんだい、そんなに息を切らせて。相変わらず美人だね」
縁側に腰掛けたつっくんが手を振ると、少女は朱嶺をビシッと指差した。
「ありがとう――じゃないっ! なんであんたがここにおるの!? この馬鹿が馬鹿で馬鹿なせいで、迎えも来ないし一人になるしっ。お陰で探し回ったわよ!!」
「ひどいっ、馬鹿って三回も言った!」
「うるさい、この馬鹿っ!」
セーラー服に、両耳の下で編まれたふたつのお下げ髪。ぶんっと首を振ると、尻尾のように揺れる。烈火のごとくという言葉が当てはまる。うん、まさに鬼のようだ。
「ばっ、ばぁちゃんも来たにゃっ!」
「えぇっ!?」
その様子をそばで見ていたキイチは、一人事態が飲み込めない暁治の背中に回り込むと、「暁治、任せたにゃっ!」と言って肩を押し出した。
「なっ、ちょ!?」
今度慌てるのは暁治だ。鬼のように怒っているとはいえ、見た目相手は妙齢の女性である。腕に覚えがないこともないが、暁治は平和主義者なのだ。できれば穏便にすませたい。
「暁治? お前、暁治というのかい?」
「あはい」
名を呼ばれてコクコクと首を振る。英恵は開いていた口を閉じ、暁治を上から下まで胡乱げな眼差しで見据えると、不意にぱっと顔を輝かせた。
「まぁ、ほんま。はるちゃんや! 大きゅうなって! あらあら、まぁまぁ」
ぱんっと、手を叩く。
「ほら、そこのカラス妖怪。気ぃきかんやつやねぇ。とっとと人数分茶ぁ出して。はるちゃん、なんでここに来たん? もうえらいご無沙汰しとったねぇ」
朱嶺に出した冷たい声とは裏腹に、にこやかに笑みを浮かべる少女は、しみじみと暁治を見た。ぱたり、ぱたりと招くように手が振られる。
「なんや、正治さん、はるちゃん来とるなら来とるって、教えてくれたらよかったのに」
「僕も知ったのこっち来てからやからなぁ。英恵さんはさっき着いたんか」
「さっきちゃうで。お盆始まってすぐに来たんやけど、迎えもあらへんさかい迷ってしもてな。そろそろ帰らなならんし、どないしようかと思てたら、その馬鹿カラスにおうてん」
「また馬鹿って聞こえた!」
言われるまま湯を沸かしているのか、台所から朱嶺の声が聞こえた。
「うるさい。盆の準備も満足にでけん、カラスなんぞ馬鹿って言葉ももったいないわ!」
「また馬鹿ってひどいっ! 僕ちゃんとやったよ。二人が早すぎたんだってば。ねぇ、はる、はなちゃんが僕をいじめる!!」
ぎゃぁぎゃぁと騒ぐ周囲をよそに、暁治はとりあえず今まで聞いた言葉を思い出す。
「って、正治って!?」
「なんだ、はる」
つっくんがこちらを見上げて来る。
「えぇ、まさかじいちゃん!?」
「おう!」
元気よく、返事を返されて、暁治はこめかみを抑えた。確かに、なんの妖だろうかと、疑問に思わないことはなかったとは言わないけれど。
「なんにゃ、暁治気づいてなかったにょか」
なにも言わないからてっきりと、首を捻るキイチから、そっと目をそらす。連れ帰ってきた当人が正体を知らなかったとは、ちょっと認めづらい。
「むぅ。だってな、ここのところ立て続けに色々と訪問されるし」
妖だけでなく、神さまに続いて、まさか幽霊まで訪問してくるとは思わなかった。いくらお盆とはいえ。
「あ、そうだ! じいちゃんばあちゃん、牛がないのにゃ」
「牛?」
「おう、馬と一緒に作って、仏壇に置いといたのにゃ」
見ればキイチは手にきゅうりを持っている。普通のきゅうりと違うのは、細いきゅうりにようじが四本刺さっていることだろうか。
「きゅうりの馬と、茄子の牛か」
「そうにゃ、牛に乗って帰ってもらうのにゃ」
「僕と駄猫で、一緒に作って仏壇に置いたよねぇ」
お茶請けの饅頭を食べながら、朱嶺が顔を覗かせた。
「うむ。きっと駄烏が牛を作ったから、牛が嫌がったのにゃ」
口の応酬から出てくる手を抑えると、暁治はきゅうりにじっと目を凝らした。茄子、きゅうり、牛、馬。最近そういえば茄子を見なかったろうか。
「あ、そうだ桃!!」
振り返ると、仏間から覗いてたらしい、まぁるい頭が引っ込んだ。
先日そうめんを作ったとき、茄子をリクエストされたのだ。考えてみれば、その茄子はどこから持ってきたのか。
「桃ちゃん、牛が帰るときの乗り物だって知ってたんだろうね」
「あの子は寂しがりやだからねぇ」
朱嶺の言葉につっくんがそう言って口元を緩めると、ひょこりと顔を覗かせた桃が、白い歯を見せて笑う。
「それと、そろそろうちも入れてくれる?」
田舎町の小さな一軒家。たった一人の人間は、少女の言葉に「どうぞ」と頷いた。
小脇に洗濯物籠を抱えた暁治は、縁側でため息をついた。霧が晴れるまで、洗濯はお預けだ。これからどうしたものかともうひとつ、ため息混じりに目を落とすと、縁側でごろりと寝そべっているつっくんがいた。
朝のラジオ体操を終えて、そのまま寝てしまったらしい。のんきなことだ。
庭を覆う薄白い景色に、こんな時期に霧が出るのかと、都会育ちの暁治は少し感動したのだが、そういえば霧は秋の季語だったなと、思い直す。祖父の影響ですっかり詳しくなってしまった。
もしかして自分は美術より、文学の道に進んだ方がよかったろうかと、そんなことを思いながら、ふと先日の出来事を思い出す。
しばらく担任の代理をやっていたからだろうか。東京の大学に行きたいのだけれどと、クラスの生徒から相談を受けた。暁治と同じ、絵の道に進みたいのだそうだ。
地方都市で美術系の大学を見つけるのは難しい。かといって都会の大学行くにしろ、進路先が美大では、頭の固い親たちを説得するのはさらに困難だ。それを思うと実家から通える距離とは言え、快く進学を許してくれた親たちには感謝しかない。
「どうかしたのか?」
見下ろすと、目覚めたらしい。つっくんが目をこすっている。
「いや、ちょっとな」
「なるほど、悩める色男というやつか」
「う~ん、それはちょっと違うんだがなぁ」
「そうかそうか、はるもそんな年になったか」
「だから違うって」
からかわれているのはわかるのだが、なんとなく分が悪い。確かに相談相手は女子生徒だったけれど。
「誰だ相手はあけみーか?」
「ぐっ……なっ、なんで朱嶺!?」
よりにもよって、なぜあいつの名前が出てくるのか。
「なにを言っとる。真面目で大人しく、優しいいい子が、あけみーといるときだけ、はしゃいどるだろ」
真面目で大人しいって誰のことだろう。訳知り顔で言われ思い返すと、確かに朱嶺といる自分は、ほかとちょっと違うような気がしてくる。暁治は口元を抑えると、首をぶんぶんと振る。
「そりゃ、あいつがあまりに荒唐無稽で傍若無人で能天気だから、調子が狂うというか」
「そうか、そんなに気になるか」
「ならない!」
否定するのは相手の思うつぼだとわかってはいるのだけれど。
「誰にでも優しい子というのは二種類ある。相手のことを真に思いやることができる子と、相手のことに興味がない、無関心な子だ。構いたいという気持ちは、相手に興味があるからだ。自分以外の誰かに興味を持つのは、情緒が発達しているということだからな。はるはちゃんと育ってるってことだ」
「……」
小さな子供に言い聞かせるような言動。いい年した年上の大人に言われるのならわかるのだが、つっくんは小学生にしか見えない。中身はたぶん違うのだというのは、朱嶺たちの言動で知ってても、どうにも外見との違和感が拭えない。
「暁治っ、牛がない!」
なんだか微妙な空気の中、そう叫んで突然仏間に続くふすまを開けて入ってきたのは、元飼い猫で化け猫のキイチだ。ずいぶん慌てている。
「つっくん、逃げて! 鬼がっ!!」
今度は庭から朱嶺がやって来る。こちらも慌てているが、かなり物騒な台詞だ。アイスが食べたいと、散歩がてら買いに行っていたはずなのだが。
「鬼って、あのツノの生えたやつか?」
返す暁治ものんきなものだ。緊張感がまったくない。のんきを絵に描いたような田舎町とはいえ、牛はともかく鬼はないだろう。
「うんうん、めっちゃ生えてる! 牙もむき出しで――」
「朱嶺っ! 誰が鬼や!?」
「うわぁ!!」
入り口付近からだろう。縁側から覗き込むと、朱嶺と同い年くらいに見える少女が、文字通り仁王立ちになっている。
少女の叫び声に、朱嶺は頭を抱えて縁側に上がり込む。暁治の肩をつかんで後ろに回った。
「あ~、やっぱしここにおった!」
「おや、英恵さん。どうしたんだい、そんなに息を切らせて。相変わらず美人だね」
縁側に腰掛けたつっくんが手を振ると、少女は朱嶺をビシッと指差した。
「ありがとう――じゃないっ! なんであんたがここにおるの!? この馬鹿が馬鹿で馬鹿なせいで、迎えも来ないし一人になるしっ。お陰で探し回ったわよ!!」
「ひどいっ、馬鹿って三回も言った!」
「うるさい、この馬鹿っ!」
セーラー服に、両耳の下で編まれたふたつのお下げ髪。ぶんっと首を振ると、尻尾のように揺れる。烈火のごとくという言葉が当てはまる。うん、まさに鬼のようだ。
「ばっ、ばぁちゃんも来たにゃっ!」
「えぇっ!?」
その様子をそばで見ていたキイチは、一人事態が飲み込めない暁治の背中に回り込むと、「暁治、任せたにゃっ!」と言って肩を押し出した。
「なっ、ちょ!?」
今度慌てるのは暁治だ。鬼のように怒っているとはいえ、見た目相手は妙齢の女性である。腕に覚えがないこともないが、暁治は平和主義者なのだ。できれば穏便にすませたい。
「暁治? お前、暁治というのかい?」
「あはい」
名を呼ばれてコクコクと首を振る。英恵は開いていた口を閉じ、暁治を上から下まで胡乱げな眼差しで見据えると、不意にぱっと顔を輝かせた。
「まぁ、ほんま。はるちゃんや! 大きゅうなって! あらあら、まぁまぁ」
ぱんっと、手を叩く。
「ほら、そこのカラス妖怪。気ぃきかんやつやねぇ。とっとと人数分茶ぁ出して。はるちゃん、なんでここに来たん? もうえらいご無沙汰しとったねぇ」
朱嶺に出した冷たい声とは裏腹に、にこやかに笑みを浮かべる少女は、しみじみと暁治を見た。ぱたり、ぱたりと招くように手が振られる。
「なんや、正治さん、はるちゃん来とるなら来とるって、教えてくれたらよかったのに」
「僕も知ったのこっち来てからやからなぁ。英恵さんはさっき着いたんか」
「さっきちゃうで。お盆始まってすぐに来たんやけど、迎えもあらへんさかい迷ってしもてな。そろそろ帰らなならんし、どないしようかと思てたら、その馬鹿カラスにおうてん」
「また馬鹿って聞こえた!」
言われるまま湯を沸かしているのか、台所から朱嶺の声が聞こえた。
「うるさい。盆の準備も満足にでけん、カラスなんぞ馬鹿って言葉ももったいないわ!」
「また馬鹿ってひどいっ! 僕ちゃんとやったよ。二人が早すぎたんだってば。ねぇ、はる、はなちゃんが僕をいじめる!!」
ぎゃぁぎゃぁと騒ぐ周囲をよそに、暁治はとりあえず今まで聞いた言葉を思い出す。
「って、正治って!?」
「なんだ、はる」
つっくんがこちらを見上げて来る。
「えぇ、まさかじいちゃん!?」
「おう!」
元気よく、返事を返されて、暁治はこめかみを抑えた。確かに、なんの妖だろうかと、疑問に思わないことはなかったとは言わないけれど。
「なんにゃ、暁治気づいてなかったにょか」
なにも言わないからてっきりと、首を捻るキイチから、そっと目をそらす。連れ帰ってきた当人が正体を知らなかったとは、ちょっと認めづらい。
「むぅ。だってな、ここのところ立て続けに色々と訪問されるし」
妖だけでなく、神さまに続いて、まさか幽霊まで訪問してくるとは思わなかった。いくらお盆とはいえ。
「あ、そうだ! じいちゃんばあちゃん、牛がないのにゃ」
「牛?」
「おう、馬と一緒に作って、仏壇に置いといたのにゃ」
見ればキイチは手にきゅうりを持っている。普通のきゅうりと違うのは、細いきゅうりにようじが四本刺さっていることだろうか。
「きゅうりの馬と、茄子の牛か」
「そうにゃ、牛に乗って帰ってもらうのにゃ」
「僕と駄猫で、一緒に作って仏壇に置いたよねぇ」
お茶請けの饅頭を食べながら、朱嶺が顔を覗かせた。
「うむ。きっと駄烏が牛を作ったから、牛が嫌がったのにゃ」
口の応酬から出てくる手を抑えると、暁治はきゅうりにじっと目を凝らした。茄子、きゅうり、牛、馬。最近そういえば茄子を見なかったろうか。
「あ、そうだ桃!!」
振り返ると、仏間から覗いてたらしい、まぁるい頭が引っ込んだ。
先日そうめんを作ったとき、茄子をリクエストされたのだ。考えてみれば、その茄子はどこから持ってきたのか。
「桃ちゃん、牛が帰るときの乗り物だって知ってたんだろうね」
「あの子は寂しがりやだからねぇ」
朱嶺の言葉につっくんがそう言って口元を緩めると、ひょこりと顔を覗かせた桃が、白い歯を見せて笑う。
「それと、そろそろうちも入れてくれる?」
田舎町の小さな一軒家。たった一人の人間は、少女の言葉に「どうぞ」と頷いた。
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