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第十一節気 小暑
次候――蓮始開(はすはじめてひらく)
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恥の多い生涯を送って来ました。とは、誰の言葉だったか。
恥が多いと言えば、暁治とて負けたものではないと思うし、ほぼ毎日恥をかいている気がする。
昨日も初めて担任の代わりにHRを受け持ったところ、黒板に文字を書こうとして、五本連続でポキポキ折ってしまい、「せんせぇ、緊張しちゃって可愛い」とか、生徒からふざけたコメントを貰ってしまった。
誰にだって初めてということがあるではないか。副担任の出番なんてそうそうないと思っていたのに、腕の骨を骨折した担任の代わりに、しばらく暁治がHRを受け持つことになったのだ。
担任への心配はおいておいて、気疲れ感は否めない。手当が増えるのはありがたいのだが。
そのせいか、昨夜のほうれん草のおひたしは、醤油ではなくウスターソースをかけてしまった。味は整えたけれど、居候どもに「斬新な味だねぇ」などと評価を貰ってしまい、穴があったら飛び込みたい気分だった。
かくいう失敗談には事欠かない暁治ではあったのだが、人から恨まれたりする覚えはない。
ましてや見知らぬ少年相手だ。
考えこんでいると、ふと、「ひとりは寂しかろ」と囁く声に気づいた。
尋ねられ最近の自分を思う。常に誰かがそばにいて、寂しいどころか鬱陶しいくらいだ。
そう答えると声は、「そうか」と、ぽつり。届いた声音にあぁ、そうなのかと理解する。
寂しいのは自分ではなく――
ぱちり。と、目を開ける。
見慣れた自分の部屋ではなく、これは居間の天井だ。
「暁治っ!」
身を起こそうとすると、横からがばりと、抱きつかれた。ぐらりと、頭が揺れる。額がひどく痛む。
壊れたように耳元で自分の名前を繰り返す、キイチの頭をなでてやると。すんすんとしゃくりあげられた。
「気分はどうだい?」
かたわらに座っていたらしい。初老の男性が暁治の顔を覗き込んでくる。特に問題ないと返事をすると、そうかそうかと頷かれた。彼は祖父の友人の柳田さん。近所に住む医者だ。
「心配したにゃ! 心配したにゃぁぁぁ!!」
えぐえぐとえづくキイチの背中を、なだめるように叩く。大袈裟なと思ったが、柳田の顔を見ると、かなり心配をかけていたようだ。反対側の枕元には、桃も座っている。大きな瞳に涙を浮かべる少女の頭を、安心させるようになでてやった。
どうやら自分は、家の前に立っていた少年に殴られたらしい。
「やはり烏は信用出来ないにゃ! 勝手気ままなだけじゃなく、暴力魔にゃ」
キイチは暁治の背に手を回すと、ぐりぐりと頭を擦り付けてくる。まったく猫のようなことをと思ったが、そういやこいつは猫だったなと思い直した。
「もうこれからはず~っと、暁治のそばにいるのにゃ。離れないにゃ。一心同体だにゃ」
「いや、それは勘弁してくれ」
即答する。
気持ちはありがたいが、素直なキイチのことだ。暁治が肯定したら本気で離れない気がして怖い。
膝の上でごろごろと喉を鳴らすキイチをなでながら、暁治は辺りを見回した。いない。
「朱嶺くんなら」
柳田は縁側に視線を向けると、右手の人差し指をそちらへと伸ばした。釣られて視線を向ける。
縁側のすぐ奥、庭に二つ、こんもりとした山が見えた。
「暁治っ、烏に情けは無用にゃ!」
見るとそれは人の背中で、片方は先ほどの山伏姿の黒装束、もうひとつは。
「はる、ごめん!」
朱嶺は黒装束の少年の頭に手をやって、ぐいっと砂場へ押しつけた。二人して庭に正座をして、地面に手をついている。
「ほんとこのバカってバカだから、腕一本で許してやって!」
「え?」
「え、腕一本じゃだめ? じゃ足もつける? それとも腹切りがいいかな」
「えぇ!?」
なんだかとても物騒なことを言われてる気がするが、状況がさっぱりわからない。
「えぇと、要するにこいつはお前の弟弟子ってことか」
ひとつ、わかったことがある。朱嶺がとても説明が苦手だということが。だがここでそれを知っても、まったく役には立たない。
回りくどい修飾語や前後する状況説明、彼自身の推測や解釈を交えた言葉の連なりに頭を痛めつつ、なんとか出た答えはそんな一言。あれ、おかしい。
「うん、一人前になるまで面倒を見るんだ」
「で、お前はそれをサボってたと?」
「サボってないよ! ちゃんとお世話してるからね!!」
いや、嘘だろ。
世話というのがどの程度かわからないが、ほぼ一日この家にいて、できるものではない気がする。
「お前しばらく出入り禁止な」
「ええっ!?」
妥当な処分だと思う。
「そ、そりゃ最近ははると一緒にいたいから、指導の時間はちょっぴり減らしたけど、でも手は抜いてないんだからね」
「はい、兄ぃは手を抜いてはいませぬ」
唇を尖らせる朱嶺の隣で、伏したまま少年が言う。
「兄ぃの厳しさは弟子の中でも有名で、また我らの誇りゆえ、学びを受けるのは誉なことでござる」
少年が顔を上げると、キラキラと瞳が輝いていた。朱嶺に心酔しているらしい。熱っぽい声で語られて、暁治は「はぁ」と、力なく頷いた。
「したが最近の兄ぃは腑抜けでござる。我ら天狗は厳しい修行を耐えてこその本分。なのに最近は人界の者に誑かされ、ほぼこちらへ帰ってくることもなく。理を外れた兄弟子を引き留めるのもまた、弟弟子たる自分の役目と存じました」
「なるほど、それで誑かした相手に天誅を加えようとした、と」
「はい!」
元気な返事が返ってきた。正義感にあふれた美しい兄弟愛である。彼にはおおいに同情したい。天誅される側でなければ、だが。
「はる、ごめんね。腹かっさばく?」
「さばかなくてもいい。そもそもお前が元凶だろう!」
きゅいっと、可愛く首を傾げる朱嶺には、当事者の自覚はないようだ。
「はる殿! 兄ぃに向けての暴言、控えてもらえるだろうか」
兄弟子をかばう弟弟子の姿も麗しい。どうしたものかとため息をつくと、そばにいた桃が立ち上がり、縁側へと出た。
「おやおや、まるでお白州のようですね」
シロクロを連れた石蕗が、庭の砂利を踏んでこちらへと歩いてくる。
「きたぞ!」
「きたぞー!」
シロの手にはピンクの花。蓮だ。
「庭の池で蓮が咲きましたので、お裾分けです。それとせっかくですし、今日は蓮の実のご飯を作ってみました。気を補ってくれるそうですよ」
縁側から上って来た双子から、花を受け取る。
「蓮って、昼には閉じると思ってたけど」
「蓮は三日花を咲かせ、四日目枯れる日は夕方まで咲くそうです」
石蕗はなにげに物知りだ。高校生にはとても思えない。千年ほどサバを読んでるに違いない。
「柳田先生もよろしければ、食べていかれますか?」
最近宮古家に来客が多いことを知っているのか、手に持っているのは風呂敷包みではなく、クーラーボックスだ。まことにそつがない。
「ご飯食べよう!」
朱嶺は一声叫ぶと真っ先に立ち上がり、縁側に身体を乗り上げた。宮古家ではケンカをしていても、ご飯は休戦の合図である。それを知っているのだろう。
布団から立ち上がると、キイチが布団を片付け、テーブルの上には茶碗が並べられる。皿の上に並ぶのは、昨日作ったラタトゥイユと、ほうれん草のごま和え。茄子とズッキーニを大量に戴いたので、消化は大歓迎だ。
一気に和やかムードになった雰囲気に、暁治は胸をなで下ろす。そういえば、自称三百歳の朱嶺は妖の類いだろうと考えてはいたのだが、今更ながらなるほどと思った。暁治にとって、さして重要ではないということだろう。
「はる殿」
蓮を手に所在なげにしていた暁治のそばに、いつの間にか少年が立っていた。
「蓮の花言葉を知っているでござるか」
黒々とした澄んだ眼差しに、少し気遅れする。もう暁治にはない、真っ直ぐな視線だ。
「清らかな心、神聖。そして」
いったん口を閉じる。
「離れゆく愛」
恥が多いと言えば、暁治とて負けたものではないと思うし、ほぼ毎日恥をかいている気がする。
昨日も初めて担任の代わりにHRを受け持ったところ、黒板に文字を書こうとして、五本連続でポキポキ折ってしまい、「せんせぇ、緊張しちゃって可愛い」とか、生徒からふざけたコメントを貰ってしまった。
誰にだって初めてということがあるではないか。副担任の出番なんてそうそうないと思っていたのに、腕の骨を骨折した担任の代わりに、しばらく暁治がHRを受け持つことになったのだ。
担任への心配はおいておいて、気疲れ感は否めない。手当が増えるのはありがたいのだが。
そのせいか、昨夜のほうれん草のおひたしは、醤油ではなくウスターソースをかけてしまった。味は整えたけれど、居候どもに「斬新な味だねぇ」などと評価を貰ってしまい、穴があったら飛び込みたい気分だった。
かくいう失敗談には事欠かない暁治ではあったのだが、人から恨まれたりする覚えはない。
ましてや見知らぬ少年相手だ。
考えこんでいると、ふと、「ひとりは寂しかろ」と囁く声に気づいた。
尋ねられ最近の自分を思う。常に誰かがそばにいて、寂しいどころか鬱陶しいくらいだ。
そう答えると声は、「そうか」と、ぽつり。届いた声音にあぁ、そうなのかと理解する。
寂しいのは自分ではなく――
ぱちり。と、目を開ける。
見慣れた自分の部屋ではなく、これは居間の天井だ。
「暁治っ!」
身を起こそうとすると、横からがばりと、抱きつかれた。ぐらりと、頭が揺れる。額がひどく痛む。
壊れたように耳元で自分の名前を繰り返す、キイチの頭をなでてやると。すんすんとしゃくりあげられた。
「気分はどうだい?」
かたわらに座っていたらしい。初老の男性が暁治の顔を覗き込んでくる。特に問題ないと返事をすると、そうかそうかと頷かれた。彼は祖父の友人の柳田さん。近所に住む医者だ。
「心配したにゃ! 心配したにゃぁぁぁ!!」
えぐえぐとえづくキイチの背中を、なだめるように叩く。大袈裟なと思ったが、柳田の顔を見ると、かなり心配をかけていたようだ。反対側の枕元には、桃も座っている。大きな瞳に涙を浮かべる少女の頭を、安心させるようになでてやった。
どうやら自分は、家の前に立っていた少年に殴られたらしい。
「やはり烏は信用出来ないにゃ! 勝手気ままなだけじゃなく、暴力魔にゃ」
キイチは暁治の背に手を回すと、ぐりぐりと頭を擦り付けてくる。まったく猫のようなことをと思ったが、そういやこいつは猫だったなと思い直した。
「もうこれからはず~っと、暁治のそばにいるのにゃ。離れないにゃ。一心同体だにゃ」
「いや、それは勘弁してくれ」
即答する。
気持ちはありがたいが、素直なキイチのことだ。暁治が肯定したら本気で離れない気がして怖い。
膝の上でごろごろと喉を鳴らすキイチをなでながら、暁治は辺りを見回した。いない。
「朱嶺くんなら」
柳田は縁側に視線を向けると、右手の人差し指をそちらへと伸ばした。釣られて視線を向ける。
縁側のすぐ奥、庭に二つ、こんもりとした山が見えた。
「暁治っ、烏に情けは無用にゃ!」
見るとそれは人の背中で、片方は先ほどの山伏姿の黒装束、もうひとつは。
「はる、ごめん!」
朱嶺は黒装束の少年の頭に手をやって、ぐいっと砂場へ押しつけた。二人して庭に正座をして、地面に手をついている。
「ほんとこのバカってバカだから、腕一本で許してやって!」
「え?」
「え、腕一本じゃだめ? じゃ足もつける? それとも腹切りがいいかな」
「えぇ!?」
なんだかとても物騒なことを言われてる気がするが、状況がさっぱりわからない。
「えぇと、要するにこいつはお前の弟弟子ってことか」
ひとつ、わかったことがある。朱嶺がとても説明が苦手だということが。だがここでそれを知っても、まったく役には立たない。
回りくどい修飾語や前後する状況説明、彼自身の推測や解釈を交えた言葉の連なりに頭を痛めつつ、なんとか出た答えはそんな一言。あれ、おかしい。
「うん、一人前になるまで面倒を見るんだ」
「で、お前はそれをサボってたと?」
「サボってないよ! ちゃんとお世話してるからね!!」
いや、嘘だろ。
世話というのがどの程度かわからないが、ほぼ一日この家にいて、できるものではない気がする。
「お前しばらく出入り禁止な」
「ええっ!?」
妥当な処分だと思う。
「そ、そりゃ最近ははると一緒にいたいから、指導の時間はちょっぴり減らしたけど、でも手は抜いてないんだからね」
「はい、兄ぃは手を抜いてはいませぬ」
唇を尖らせる朱嶺の隣で、伏したまま少年が言う。
「兄ぃの厳しさは弟子の中でも有名で、また我らの誇りゆえ、学びを受けるのは誉なことでござる」
少年が顔を上げると、キラキラと瞳が輝いていた。朱嶺に心酔しているらしい。熱っぽい声で語られて、暁治は「はぁ」と、力なく頷いた。
「したが最近の兄ぃは腑抜けでござる。我ら天狗は厳しい修行を耐えてこその本分。なのに最近は人界の者に誑かされ、ほぼこちらへ帰ってくることもなく。理を外れた兄弟子を引き留めるのもまた、弟弟子たる自分の役目と存じました」
「なるほど、それで誑かした相手に天誅を加えようとした、と」
「はい!」
元気な返事が返ってきた。正義感にあふれた美しい兄弟愛である。彼にはおおいに同情したい。天誅される側でなければ、だが。
「はる、ごめんね。腹かっさばく?」
「さばかなくてもいい。そもそもお前が元凶だろう!」
きゅいっと、可愛く首を傾げる朱嶺には、当事者の自覚はないようだ。
「はる殿! 兄ぃに向けての暴言、控えてもらえるだろうか」
兄弟子をかばう弟弟子の姿も麗しい。どうしたものかとため息をつくと、そばにいた桃が立ち上がり、縁側へと出た。
「おやおや、まるでお白州のようですね」
シロクロを連れた石蕗が、庭の砂利を踏んでこちらへと歩いてくる。
「きたぞ!」
「きたぞー!」
シロの手にはピンクの花。蓮だ。
「庭の池で蓮が咲きましたので、お裾分けです。それとせっかくですし、今日は蓮の実のご飯を作ってみました。気を補ってくれるそうですよ」
縁側から上って来た双子から、花を受け取る。
「蓮って、昼には閉じると思ってたけど」
「蓮は三日花を咲かせ、四日目枯れる日は夕方まで咲くそうです」
石蕗はなにげに物知りだ。高校生にはとても思えない。千年ほどサバを読んでるに違いない。
「柳田先生もよろしければ、食べていかれますか?」
最近宮古家に来客が多いことを知っているのか、手に持っているのは風呂敷包みではなく、クーラーボックスだ。まことにそつがない。
「ご飯食べよう!」
朱嶺は一声叫ぶと真っ先に立ち上がり、縁側に身体を乗り上げた。宮古家ではケンカをしていても、ご飯は休戦の合図である。それを知っているのだろう。
布団から立ち上がると、キイチが布団を片付け、テーブルの上には茶碗が並べられる。皿の上に並ぶのは、昨日作ったラタトゥイユと、ほうれん草のごま和え。茄子とズッキーニを大量に戴いたので、消化は大歓迎だ。
一気に和やかムードになった雰囲気に、暁治は胸をなで下ろす。そういえば、自称三百歳の朱嶺は妖の類いだろうと考えてはいたのだが、今更ながらなるほどと思った。暁治にとって、さして重要ではないということだろう。
「はる殿」
蓮を手に所在なげにしていた暁治のそばに、いつの間にか少年が立っていた。
「蓮の花言葉を知っているでござるか」
黒々とした澄んだ眼差しに、少し気遅れする。もう暁治にはない、真っ直ぐな視線だ。
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「離れゆく愛」
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