可惜夜に浮かれ烏と暁の月

るし

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第十節気 夏至

次候――菖蒲華(あやめはなさく)

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 雨降りが続く梅雨真っ盛り。梅雨の季節と言えばあじさい、というのが定番だけれど、校庭の花壇にはそれとは違う花が咲いている。

 紫や青や白――すらりとした立ち姿や花の形などは、自宅の庭に咲いていたアヤメに似ている。しかし庭でそれが咲いていたのは五月のことだ。そんなに長く咲く花なのだろうかと疑問が浮かぶ。
 ではなんの花なのかと、不思議に思いながら暁治が廊下でそれを眺めていたら、通りかかった主幹教諭の品川が足を止めた。彼は色々なものに詳しい先生なので、聞いてみるのが早いだろうと思い立つ。

「あれはアヤメですか?」

 隣に並んで窓の向こうを見た品川は、暁治の指の先を見てああ、と目尻にしわを刻んで笑った。その反応に首を傾げたら、こちらを振り向いてにこにこと笑みを深くする。

「あれは花ショウブです。アヤメと花ショウブは同じ漢字を書くのですが、見た目もよく似ているんです。それに加えカキツバタも似ているんですよ」

「なんだか似たような花が、ずっと咲いているような気がしていたんですけど。もしかしてそれですか?」

「そうです。アヤメは五月の初め頃、カキツバタは中頃、花ショウブは下旬から六月初旬に咲き始めます。その中でも花ショウブは梅雨の時期に咲き誇る美しい花ですよ」

「あじさいも綺麗ですけど、こちらも確かに綺麗ですね」

 ここへ来るまで四季の移り変わりや、花の善し悪しなんて気にも留めたことがなかった。田舎にいると情緒が育つなどと言うが、あながち間違いではないなと思える。
 子供の頃に田舎で伸び伸びと育ったおかげか、わりと暁治は大らかだ。元来の性格も多分にあるけれど、細かいことはあまり気にしない。

 たとえ自称ご近所さん兼生徒が人間ではなくとも。しかしそれを考えると、なんの疑問も感じさせずに接する石蕗は、そのことをすでに承知していることになる。
 正直言えば、彼も実は人間ではないと言われても、頷いてしまいたくなるミステリアスさがあった。笑顔で誤魔化されて、腹の奥が見えないところが玉に瑕だ。

「そういえばこの学校は花が多いですね」

「ああ、辻森先生がたくさん植えて行かれたからですよ」

「え? 祖父が?」

「はい、花は心が潤うとおっしゃって」

「品川先生は祖父が教壇に立っていた頃から、この学校にいらっしゃるんですか?」

「そうです。博識で、とても明るく優しい先生にみんなで憧れたものですよ」

 懐かしむように目を細めた品川の顔に、本当に人に慕われていたのだなと感じる。祖父の器量の大きさは底なしではないかと思うことがあった。
 分け隔てなく人に優しく、動物や植物にまで等しく愛情を注ぐ人だった。そんな人だからたくさんの者たちが集まってきたのだろう。いつも賑やかだったというあの家は、すべての者の拠り所だったに違いない。

「そうだ宮古先生、学校には慣れましたか?」

「え? あ、はい、だいぶ慣れました」

 ふいに声を上げた品川の声にとっさに返事をするが、そうだ、とはどういう意味なのか。訝しく思いながら言葉の続きを待てば、人の好さそうな笑みを浮かべて、突然思いがけないことを言う。

「それならば、副担任をしませんか?」

「えっ? ええ? 私は非常勤講師ですよ?」

「まあまあ、副担任と言っても名ばかりです。担当していた先生が、急遽おやめになることになりまして。手の空いている先生がほかにおられないので、ぜひよろしくお願いします」

「よ、よろしく、……ですか」

 このにこやかな笑み。温和でいい先生だと思っていたけれど、実は石蕗のように食えない性格だったようだ。けれど威圧的でもなく、やんわりと申し出られると、断ることが申し訳ないような気持ちになる。
 これまでなんだかんだと朱嶺を許容してきた暁治は、根っからのお人好しだった。

「一年生のクラスです。担任の先生はしっかりした方なので大丈夫ですよ。基本は担任の先生がやってくれます。不在の時と手が足りない時にだけお願いします」

 流されるままに頷いてしまった暁治は、肩を落としながら品川に続く。最初は少しでも稼げればと思っていたが、気づけばほかの教師たちと変わらない仕事をしている気がした。
 副担任では職務手当は出ないだろうし、薄給に特別手当がほんの少し上乗せられるくらいだろうか。しかし主幹教諭は校長、教頭に次ぐ役職だ。その品川からの依頼ならば、適当な扱いをされることはないはずだ。

「近藤先生、お疲れさまです」

 職員室につくと品川は生徒と向き合っている先生に声をかける。体躯の大きないかにも体育会系といった風情の近藤は、暁治もよく見知っていた。いつでも色々と気遣ってくれて、いつも色々と用事を頼んでくる。
 だが決して悪い先生ではないのも知っている。

「宮古先生がやってくれるそうです」

「おお、そうですか! それはありがたい」

「よ、よろしくお願いします」

 厳つい顔がぱっと花が咲いたみたいに明るくなって、差し伸ばした手を握り返されるとぶんぶんと振られる。確かにこの気合いと元気の塊のような先生ならば、ちょっとやそっとのことでは倒れたりしないだろう。
 よほどの急用がなければ、担任不在という場面は少ないことが想像できて、暁治はほっと息をつく。

「宮古?」

「ん?」

 諸説明を聞いていると、ふいに自分の名前を呟く声がして、その先へ暁治は視線を動かした。声の主は先ほどまで近藤と向き合っていた生徒だ。
 タンポポみたいな色のさらさらな猫っ毛で、琥珀に似た色のつり気味な目をしている。日本人離れした顔立ちは朱嶺のようだ。少し幼さがある顔立ち。近藤と話していたことを踏まえると、一年生だろう。

「暁治! じいちゃんの孫だ!」

「んん?」

 突然指さされて呼び捨てられて、言葉に詰まった。けれど暁治の困惑をまったく気に留めず、彼は小躍りするみたいに両手を挙げてはしゃぐ。そしてぴょんぴょんと周りを跳ねるみたいにぐるぐると回って、ペタペタと触れてくる。

「暁治っ、おれ、キイチ、キイチだよ!」

「キイチ?」

「覚えてないのか? おれ、一緒に寝てやったのに」

「一緒に? お前と?」

 パチパチと目を瞬かせる彼に暁治はまったく覚えがなかった。ここへ来てから会ったことはないし、この町によく来ていたのは小学生の頃だ。年齢を逆算したら高校一年生の彼の年齢は一桁、もしくは以下になる。
 そこで思い当たった考えに引きつった笑いが浮かんだ。誰が何歳で、何年生きていたってどうもしないと言ったのは暁治ではあるが、こうも立て続けに遭遇すると、笑い飛ばす余裕が失われる。

「宮古先生は猫屋と知り合いですか?」

「猫屋、……ね、猫か?」

 祖父は猫を飼っていただろうかと記憶を掘り返す。しばらく考え込んでから、ふっと思い出すものがあった。飼ってはいなかったけれど、世話をしていた猫がいた。田舎町には珍しい洋種の猫で、柔らかな黄金色の毛並みだった覚えがある。
 けれど暁治が母親の療養のあいだこの町に訪れて、しばらくしたのち姿を消してしまった。おそらく歳だったのだろう。猫は死に際を見せないものだと祖父が言っていた。

 それが、これ――じっと見つめると瞳がキラキラとする。死んだと思っていたのが、実は生きながらえていたと言うことか。それが人にまでなるとは、未知との遭遇過ぎて暁治はひどい頭の痛みを覚えた。
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