可惜夜に浮かれ烏と暁の月

るし

文字の大きさ
上 下
29 / 75
第十節気 夏至

次候――菖蒲華(あやめはなさく)

しおりを挟む
 雨降りが続く梅雨真っ盛り。梅雨の季節と言えばあじさい、というのが定番だけれど、校庭の花壇にはそれとは違う花が咲いている。

 紫や青や白――すらりとした立ち姿や花の形などは、自宅の庭に咲いていたアヤメに似ている。しかし庭でそれが咲いていたのは五月のことだ。そんなに長く咲く花なのだろうかと疑問が浮かぶ。
 ではなんの花なのかと、不思議に思いながら暁治が廊下でそれを眺めていたら、通りかかった主幹教諭の品川が足を止めた。彼は色々なものに詳しい先生なので、聞いてみるのが早いだろうと思い立つ。

「あれはアヤメですか?」

 隣に並んで窓の向こうを見た品川は、暁治の指の先を見てああ、と目尻にしわを刻んで笑った。その反応に首を傾げたら、こちらを振り向いてにこにこと笑みを深くする。

「あれは花ショウブです。アヤメと花ショウブは同じ漢字を書くのですが、見た目もよく似ているんです。それに加えカキツバタも似ているんですよ」

「なんだか似たような花が、ずっと咲いているような気がしていたんですけど。もしかしてそれですか?」

「そうです。アヤメは五月の初め頃、カキツバタは中頃、花ショウブは下旬から六月初旬に咲き始めます。その中でも花ショウブは梅雨の時期に咲き誇る美しい花ですよ」

「あじさいも綺麗ですけど、こちらも確かに綺麗ですね」

 ここへ来るまで四季の移り変わりや、花の善し悪しなんて気にも留めたことがなかった。田舎にいると情緒が育つなどと言うが、あながち間違いではないなと思える。
 子供の頃に田舎で伸び伸びと育ったおかげか、わりと暁治は大らかだ。元来の性格も多分にあるけれど、細かいことはあまり気にしない。

 たとえ自称ご近所さん兼生徒が人間ではなくとも。しかしそれを考えると、なんの疑問も感じさせずに接する石蕗は、そのことをすでに承知していることになる。
 正直言えば、彼も実は人間ではないと言われても、頷いてしまいたくなるミステリアスさがあった。笑顔で誤魔化されて、腹の奥が見えないところが玉に瑕だ。

「そういえばこの学校は花が多いですね」

「ああ、辻森先生がたくさん植えて行かれたからですよ」

「え? 祖父が?」

「はい、花は心が潤うとおっしゃって」

「品川先生は祖父が教壇に立っていた頃から、この学校にいらっしゃるんですか?」

「そうです。博識で、とても明るく優しい先生にみんなで憧れたものですよ」

 懐かしむように目を細めた品川の顔に、本当に人に慕われていたのだなと感じる。祖父の器量の大きさは底なしではないかと思うことがあった。
 分け隔てなく人に優しく、動物や植物にまで等しく愛情を注ぐ人だった。そんな人だからたくさんの者たちが集まってきたのだろう。いつも賑やかだったというあの家は、すべての者の拠り所だったに違いない。

「そうだ宮古先生、学校には慣れましたか?」

「え? あ、はい、だいぶ慣れました」

 ふいに声を上げた品川の声にとっさに返事をするが、そうだ、とはどういう意味なのか。訝しく思いながら言葉の続きを待てば、人の好さそうな笑みを浮かべて、突然思いがけないことを言う。

「それならば、副担任をしませんか?」

「えっ? ええ? 私は非常勤講師ですよ?」

「まあまあ、副担任と言っても名ばかりです。担当していた先生が、急遽おやめになることになりまして。手の空いている先生がほかにおられないので、ぜひよろしくお願いします」

「よ、よろしく、……ですか」

 このにこやかな笑み。温和でいい先生だと思っていたけれど、実は石蕗のように食えない性格だったようだ。けれど威圧的でもなく、やんわりと申し出られると、断ることが申し訳ないような気持ちになる。
 これまでなんだかんだと朱嶺を許容してきた暁治は、根っからのお人好しだった。

「一年生のクラスです。担任の先生はしっかりした方なので大丈夫ですよ。基本は担任の先生がやってくれます。不在の時と手が足りない時にだけお願いします」

 流されるままに頷いてしまった暁治は、肩を落としながら品川に続く。最初は少しでも稼げればと思っていたが、気づけばほかの教師たちと変わらない仕事をしている気がした。
 副担任では職務手当は出ないだろうし、薄給に特別手当がほんの少し上乗せられるくらいだろうか。しかし主幹教諭は校長、教頭に次ぐ役職だ。その品川からの依頼ならば、適当な扱いをされることはないはずだ。

「近藤先生、お疲れさまです」

 職員室につくと品川は生徒と向き合っている先生に声をかける。体躯の大きないかにも体育会系といった風情の近藤は、暁治もよく見知っていた。いつでも色々と気遣ってくれて、いつも色々と用事を頼んでくる。
 だが決して悪い先生ではないのも知っている。

「宮古先生がやってくれるそうです」

「おお、そうですか! それはありがたい」

「よ、よろしくお願いします」

 厳つい顔がぱっと花が咲いたみたいに明るくなって、差し伸ばした手を握り返されるとぶんぶんと振られる。確かにこの気合いと元気の塊のような先生ならば、ちょっとやそっとのことでは倒れたりしないだろう。
 よほどの急用がなければ、担任不在という場面は少ないことが想像できて、暁治はほっと息をつく。

「宮古?」

「ん?」

 諸説明を聞いていると、ふいに自分の名前を呟く声がして、その先へ暁治は視線を動かした。声の主は先ほどまで近藤と向き合っていた生徒だ。
 タンポポみたいな色のさらさらな猫っ毛で、琥珀に似た色のつり気味な目をしている。日本人離れした顔立ちは朱嶺のようだ。少し幼さがある顔立ち。近藤と話していたことを踏まえると、一年生だろう。

「暁治! じいちゃんの孫だ!」

「んん?」

 突然指さされて呼び捨てられて、言葉に詰まった。けれど暁治の困惑をまったく気に留めず、彼は小躍りするみたいに両手を挙げてはしゃぐ。そしてぴょんぴょんと周りを跳ねるみたいにぐるぐると回って、ペタペタと触れてくる。

「暁治っ、おれ、キイチ、キイチだよ!」

「キイチ?」

「覚えてないのか? おれ、一緒に寝てやったのに」

「一緒に? お前と?」

 パチパチと目を瞬かせる彼に暁治はまったく覚えがなかった。ここへ来てから会ったことはないし、この町によく来ていたのは小学生の頃だ。年齢を逆算したら高校一年生の彼の年齢は一桁、もしくは以下になる。
 そこで思い当たった考えに引きつった笑いが浮かんだ。誰が何歳で、何年生きていたってどうもしないと言ったのは暁治ではあるが、こうも立て続けに遭遇すると、笑い飛ばす余裕が失われる。

「宮古先生は猫屋と知り合いですか?」

「猫屋、……ね、猫か?」

 祖父は猫を飼っていただろうかと記憶を掘り返す。しばらく考え込んでから、ふっと思い出すものがあった。飼ってはいなかったけれど、世話をしていた猫がいた。田舎町には珍しい洋種の猫で、柔らかな黄金色の毛並みだった覚えがある。
 けれど暁治が母親の療養のあいだこの町に訪れて、しばらくしたのち姿を消してしまった。おそらく歳だったのだろう。猫は死に際を見せないものだと祖父が言っていた。

 それが、これ――じっと見つめると瞳がキラキラとする。死んだと思っていたのが、実は生きながらえていたと言うことか。それが人にまでなるとは、未知との遭遇過ぎて暁治はひどい頭の痛みを覚えた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

社畜だけど異世界では推し騎士の伴侶になってます⁈

めがねあざらし
BL
気がつくと、そこはゲーム『クレセント・ナイツ』の世界だった。 しかも俺は、推しキャラ・レイ=エヴァンスの“伴侶”になっていて……⁈ 記憶喪失の俺に課されたのは、彼と共に“世界を救う鍵”として戦う使命。 しかし、レイとの誓いに隠された真実や、迫りくる敵の陰謀が俺たちを追い詰める――。 異世界で見つけた愛〜推し騎士との奇跡の絆! 推しとの距離が近すぎる、命懸けの異世界ラブファンタジー、ここに開幕!

異世界転移で、俺と僕とのほっこり溺愛スローライフ~間に挟まる・もふもふ神の言うこと聞いて珍道中~

戸森鈴子 tomori rinco
BL
主人公のアユムは料理や家事が好きな、地味な平凡男子だ。 そんな彼が突然、半年前に異世界に転移した。 そこで出逢った美青年エイシオに助けられ、同居生活をしている。 あまりにモテすぎ、トラブルばかりで、人間不信になっていたエイシオ。 自分に自信が全く無くて、自己肯定感の低いアユム。 エイシオは優しいアユムの料理や家事に癒やされ、アユムもエイシオの包容力で癒やされる。 お互いがかけがえのない存在になっていくが……ある日、エイシオが怪我をして!? 無自覚両片思いのほっこりBL。 前半~当て馬女の出現 後半~もふもふ神を連れたおもしろ珍道中とエイシオの実家話 予想できないクスッと笑える、ほっこりBLです。 サンドイッチ、じゃがいも、トマト、コーヒーなんでもでてきますので許せる方のみお読みください。 アユム視点、エイシオ視点と、交互に視点が変わります。 完結保証! このお話は、小説家になろう様、エブリスタ様でも掲載中です。 ※表紙絵はミドリ/緑虫様(@cklEIJx82utuuqd)からのいただきものです。

その溺愛は伝わりづらい!気弱なスパダリ御曹司にノンケの僕は落とされました

海野幻創
BL
人好きのする端正な顔立ちを持ち、文武両道でなんでも無難にこなせることのできた生田雅紀(いくたまさき)は、小さい頃から多くの友人に囲まれていた。 しかし他人との付き合いは広く浅くの最小限に留めるタイプで、女性とも身体だけの付き合いしかしてこなかった。 偶然出会った久世透(くぜとおる)は、嫉妬を覚えるほどのスタイルと美貌をもち、引け目を感じるほどの高学歴で、議員の孫であり大企業役員の息子だった。 御曹司であることにふさわしく、スマートに大金を使ってみせるところがありながら、生田の前では捨てられた子犬のようにおどおどして気弱な様子を見せ、そのギャップを生田は面白がっていたのだが……。 これまで他人と深くは関わってこなかったはずなのに、会うたびに違う一面を見せる久世は、いつしか生田にとって離れがたい存在となっていく。 【続編】 「その溺愛は行き場を彷徨う……気弱なスパダリ御曹司は政略結婚を回避したい」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/962473946/911896785

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜

きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

【完結】もふもふ獣人転生

  *  
BL
白い耳としっぽのもふもふ獣人に生まれ、強制労働で死にそうなところを助けてくれたのは、最愛の推しでした。 ちっちゃなもふもふ獣人と、攻略対象の凛々しい少年の、両片思い? な、いちゃらぶもふもふなお話です。 本編完結しました! おまけをちょこちょこ更新しています。 第12回BL大賞、奨励賞をいただきました、読んでくださった方、応援してくださった方、投票してくださった方のおかげです、ほんとうにありがとうございました!

鬼上司と秘密の同居

なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳 幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ… そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた… いったい?…どうして?…こうなった? 「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」 スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか… 性描写には※を付けております。

シンメトリーの翼 〜天帝異聞奇譚〜

長月京子
恋愛
学院には立ち入りを禁じられた場所があり、鬼が棲んでいるという噂がある。 朱里(あかり)はクラスメートと共に、禁じられた場所へ向かった。 禁じられた場所へ向かう途中、朱里は端正な容姿の男と出会う。 ――君が望むのなら、私は全身全霊をかけて護る。 不思議な言葉を残して立ち去った男。 その日を境に、朱里の周りで、説明のつかない不思議な出来事が起こり始める。 ※本文中のルビは読み方ではなく、意味合いの場合があります。

処理中です...