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第十節気 夏至
初候――乃東枯(なつかれくさかるる)
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梅雨入り宣言がなされたのはつい先日のこと。からっとした晴れ間が続いていたのに、梅雨となった途端に雨曇りになるのだから、日本の気候というものはとても面白い。
しかし雨が増えて湿気が多くなると、空気がじめじめとするので、暁治はあまりこの季節は好きではなかった。絵の具の乾きも悪くなるし、筆も重くなる。洗濯物は乾かないし、布団だって干せない。
古い家屋だと余計にそれを感じて、いつもは固い財布の紐を緩め、大奮発して除湿機を購入した。寝室に一台と思ったけれど、やはりアトリエにも欲しくて二台。かなり大きな出費ではあるが、おかげでなかなか快適な梅雨を過ごしている。
寝室用に買ったものは、寝る少し前まで居間で使用しているのでフル稼働だ。風呂上がりも肌に貼り付くような湿気を感じないのは気分がいい。
気持ちが上がると面倒になりがちな料理も捗るもので、せっせと暁治は居間のテーブルでエンドウ豆を剥いていた。瑞々しいさやから出てくるのはつやつやのグリンピース。崎山さんから採れたばかりだと今朝いただいた。
ビニール袋いっぱいにあるので、なににしようかと悩ましいくらいだ。卵とじやスープ、掻き揚げにしても美味しいし、豆ご飯もいいだろう。残りはさやごと冷凍保存しておけば一ヶ月くらいはもつ。
ここへ来てから暁治は料理をよくするようになった。新鮮なものが色々と手に入るので、その腕もぐんぐん上がる一方だ。今時の男子は、料理上手なほうが好印象と聞く。
誰に好印象を持たれたいのかは定かではないが、毎日のように作ったご飯を綺麗さっぱり食べてくれる相手がいると、少なからずやる気に繋がる。
「はぁるぅ」
黙々と作業していると、どうやらくだんの人物がやって来たようだ。しかし玄関先から呼び声が響いて、いつもならすぐに上がってくるところだが、しばらく待っても顔を出さない。
手を止めて廊下へ出ると、その先に桃の姿があり、こちらを見てにっこりと笑う。玄関になにがあるのだと誘われるままに近づけば、朱嶺が玄関戸の傍でなにかを引っ張っている。
「ほらぁ、挨拶するっていったの君でしょ」
「やぁ、せやけど」
よくよく見ればそれは人の手だ。その手の主は引っ張る朱嶺に対し、頑なに拒んでいるように見える。戸の向こうで姿は見えないが、声音は少年のように思えた。
うちに挨拶に来るような子などいただろうかと、暁治が首を傾げていたら、ついに力負けをしたのか転がり入るように、少年らしき子が飛び込んでくる。その勢いに、引っ張っていた朱嶺は後ろにひっくり返り、二人で押し重なる状態になった。
「いたたた、もういきなり力緩めないで!」
「ああっ! 朱さん、申し訳ない! こんなに濡れてもうて」
「って言うか、さっきから君のおかげでびしょびしょだよ!」
慌てて立ち上がってペコペコとお辞儀をする少年に、朱嶺は頬を膨らませてぷりぷりとしている。けれど確かに見た通り、朱嶺の着物は濡れて色が変わっていた。泥もかなり跳ねており、いつもきちりと綺麗なものを着ているのに珍しい。
けれど暁治はそんな彼より少年のほうに視線が向いていた。背丈は朱嶺より少し低いくらい。甚平のような上下の着物を着ているその子は、頭に笠を被っている。笠地蔵みたいな昔の雨笠だ。
時代がかったその姿に、もしやまたか――と妙な予感を抱く。ついこのあいだ自分は三百年くらい生きている、と言っていた人物の知り合いは二択だ。人間か人間ではないか。
石蕗と崎山さんはれっきとした人間、のはずだが、振り返ってみれば、クロシロと妙な名前の双子も、気の優しい河太郎も、そしてにこにこと笑っている桃さえ怪しい。
「とりあえずまあ、どっちでもいいか。お前たちその濡れた格好で上がるなよ。いまタオルを持ってくるから」
怪異の類いは鵜呑みにしないタイプなので、怪しいと疑るよりも目の前の現状を優先するのが暁治だ。洗面所でバスタオルを二枚取り出し、ついでに風呂釜に火種を付けた。
「お前たち、風呂に入れ」
「いやや、いやですっ! わいはほんまにご挨拶だけで」
「ご挨拶するならちゃんとするのが、礼儀でしょっ!」
玄関へ戻るとまた二人で引っ張り合いになっていた。必死と笠を掴んで俯く少年の腕を、朱嶺が目いっぱい引っ張っている。しかし体重をかけている様子なのにビクともしない辺り、どれだけ力が強いのだろうかと暁治は驚きに目を瞬かせた。
「おい、風呂から上がったら飯だ。挨拶するなら上がっていけ」
「はるのご飯はすっごく美味しいよ! 食べなきゃ損だよ!」
「ご、ごはんっ」
「今日は豆ご飯だ」
「まめごはんっ」
ふいにぱっと顔を上げた少年の顔がようやく見えた。肩先まで伸びた不揃いの黒髪。年の頃は十五、六ほど。細目と思われる瞳はいまは大きく見開かれていて、なにやら感動しているようだ。さらにその目が暁治に向けられ、期待するように輝いた。
「豆ご飯、好きなのか?」
「す、好き! めっちゃ好物です! あったかいご飯を食べられるなんていつぶりやろう。さすが正治さんのお孫さんや。優しいなぁ」
「う、うん? とりあえず用意しておくから」
普段は一体どんなものを食べているのだろう、という疑問はさておき。朱嶺にタオルを渡すと、少年は笠を脱いで代わりにタオルを被った。
手足を拭って風呂場へ向かう二つの背中を見ながら、色々なものに順応してきた自分に気づいて、なんとも言えず暁治は頭を掻く。けれどふと視線を感じて下を向くと、にこにこと笑っている桃に急くように手を引かれた。
「桃もご飯だな。すぐ用意するからな」
台所から繋がる風呂場では、わーわーきゃーきゃーとなにやら騒がしい声が聞こえている。子供の賑やかな声がうるさいと感じる人もいるが、この静かな田舎では元気で良いものだ、などと思ってしまう。
炊飯器が炊き上がりを知らせる頃には、ピカピカになった二人も風呂から上がってきた。
「暁治さん、ご挨拶が遅れました。わいは雨降小次郎と申します。雨師さまのお手伝いをしてるもんです」
「うし、さん?」
テーブルの真向かいにちんまりと正座した少年は相変わらずタオルを被っている。斜め向かいの朱嶺はなんてことない顔をしているので、そこは突っ込まないでおこうと思うけれど、よくわからない名前のような単語に、暁治の頭の上に疑問符が飛ぶ。
だがしかしその疑問を答える気がないのか、小次郎はほわほわと笑みを浮かべていた。
「雨の季節にこうしてご挨拶できるやなんて嬉しいわぁ。これ、ささやかなお土産です」
「え? 枯れてないか、これ?」
おずおずと差し出されたのはほんの少し紫色が残る花、らしきもの。大部分は枯れたように茶色くなっている。これがお土産とは? と首をひねると、小次郎はにかりと笑う。
「これは夏枯草いいます。煎じたり塗ったりしますと痛みや熱も引きます。夏至の頃に枯れる花ですが、漢方、薬、ってもんですわ」
「ふぅん、昔ながらの薬ってわけか」
「捻挫とか腫れ物、むくみにも効くんだよ。昔はなんにでも効くって言われてたんだ」
「へぇ、……って! お前! いただきますはどうした!」
「言ったよ~! はるが聞いてなかったんだよ、ね~」
いつの間にかテーブルに並べたご飯を頬ばっている兄妹は、顔を見合わせてにんまり笑う。そして美味しいねぇ、なんて言いながらさらに料理へ箸を伸ばしていた。
「うっ、まあ美味いなら、いいか。小次郎も早く食べろ。食う前になくなっちまうぞ」
「ご相伴に預かります!」
ぱんと両手を合わせた珍客は、先の二人のように美味い美味いと飯を頬ばる。どんどんと賑やかになってきたこの家は、祖父の頃もこんな感じだったのだろうかと思えた。
しかし雨が増えて湿気が多くなると、空気がじめじめとするので、暁治はあまりこの季節は好きではなかった。絵の具の乾きも悪くなるし、筆も重くなる。洗濯物は乾かないし、布団だって干せない。
古い家屋だと余計にそれを感じて、いつもは固い財布の紐を緩め、大奮発して除湿機を購入した。寝室に一台と思ったけれど、やはりアトリエにも欲しくて二台。かなり大きな出費ではあるが、おかげでなかなか快適な梅雨を過ごしている。
寝室用に買ったものは、寝る少し前まで居間で使用しているのでフル稼働だ。風呂上がりも肌に貼り付くような湿気を感じないのは気分がいい。
気持ちが上がると面倒になりがちな料理も捗るもので、せっせと暁治は居間のテーブルでエンドウ豆を剥いていた。瑞々しいさやから出てくるのはつやつやのグリンピース。崎山さんから採れたばかりだと今朝いただいた。
ビニール袋いっぱいにあるので、なににしようかと悩ましいくらいだ。卵とじやスープ、掻き揚げにしても美味しいし、豆ご飯もいいだろう。残りはさやごと冷凍保存しておけば一ヶ月くらいはもつ。
ここへ来てから暁治は料理をよくするようになった。新鮮なものが色々と手に入るので、その腕もぐんぐん上がる一方だ。今時の男子は、料理上手なほうが好印象と聞く。
誰に好印象を持たれたいのかは定かではないが、毎日のように作ったご飯を綺麗さっぱり食べてくれる相手がいると、少なからずやる気に繋がる。
「はぁるぅ」
黙々と作業していると、どうやらくだんの人物がやって来たようだ。しかし玄関先から呼び声が響いて、いつもならすぐに上がってくるところだが、しばらく待っても顔を出さない。
手を止めて廊下へ出ると、その先に桃の姿があり、こちらを見てにっこりと笑う。玄関になにがあるのだと誘われるままに近づけば、朱嶺が玄関戸の傍でなにかを引っ張っている。
「ほらぁ、挨拶するっていったの君でしょ」
「やぁ、せやけど」
よくよく見ればそれは人の手だ。その手の主は引っ張る朱嶺に対し、頑なに拒んでいるように見える。戸の向こうで姿は見えないが、声音は少年のように思えた。
うちに挨拶に来るような子などいただろうかと、暁治が首を傾げていたら、ついに力負けをしたのか転がり入るように、少年らしき子が飛び込んでくる。その勢いに、引っ張っていた朱嶺は後ろにひっくり返り、二人で押し重なる状態になった。
「いたたた、もういきなり力緩めないで!」
「ああっ! 朱さん、申し訳ない! こんなに濡れてもうて」
「って言うか、さっきから君のおかげでびしょびしょだよ!」
慌てて立ち上がってペコペコとお辞儀をする少年に、朱嶺は頬を膨らませてぷりぷりとしている。けれど確かに見た通り、朱嶺の着物は濡れて色が変わっていた。泥もかなり跳ねており、いつもきちりと綺麗なものを着ているのに珍しい。
けれど暁治はそんな彼より少年のほうに視線が向いていた。背丈は朱嶺より少し低いくらい。甚平のような上下の着物を着ているその子は、頭に笠を被っている。笠地蔵みたいな昔の雨笠だ。
時代がかったその姿に、もしやまたか――と妙な予感を抱く。ついこのあいだ自分は三百年くらい生きている、と言っていた人物の知り合いは二択だ。人間か人間ではないか。
石蕗と崎山さんはれっきとした人間、のはずだが、振り返ってみれば、クロシロと妙な名前の双子も、気の優しい河太郎も、そしてにこにこと笑っている桃さえ怪しい。
「とりあえずまあ、どっちでもいいか。お前たちその濡れた格好で上がるなよ。いまタオルを持ってくるから」
怪異の類いは鵜呑みにしないタイプなので、怪しいと疑るよりも目の前の現状を優先するのが暁治だ。洗面所でバスタオルを二枚取り出し、ついでに風呂釜に火種を付けた。
「お前たち、風呂に入れ」
「いやや、いやですっ! わいはほんまにご挨拶だけで」
「ご挨拶するならちゃんとするのが、礼儀でしょっ!」
玄関へ戻るとまた二人で引っ張り合いになっていた。必死と笠を掴んで俯く少年の腕を、朱嶺が目いっぱい引っ張っている。しかし体重をかけている様子なのにビクともしない辺り、どれだけ力が強いのだろうかと暁治は驚きに目を瞬かせた。
「おい、風呂から上がったら飯だ。挨拶するなら上がっていけ」
「はるのご飯はすっごく美味しいよ! 食べなきゃ損だよ!」
「ご、ごはんっ」
「今日は豆ご飯だ」
「まめごはんっ」
ふいにぱっと顔を上げた少年の顔がようやく見えた。肩先まで伸びた不揃いの黒髪。年の頃は十五、六ほど。細目と思われる瞳はいまは大きく見開かれていて、なにやら感動しているようだ。さらにその目が暁治に向けられ、期待するように輝いた。
「豆ご飯、好きなのか?」
「す、好き! めっちゃ好物です! あったかいご飯を食べられるなんていつぶりやろう。さすが正治さんのお孫さんや。優しいなぁ」
「う、うん? とりあえず用意しておくから」
普段は一体どんなものを食べているのだろう、という疑問はさておき。朱嶺にタオルを渡すと、少年は笠を脱いで代わりにタオルを被った。
手足を拭って風呂場へ向かう二つの背中を見ながら、色々なものに順応してきた自分に気づいて、なんとも言えず暁治は頭を掻く。けれどふと視線を感じて下を向くと、にこにこと笑っている桃に急くように手を引かれた。
「桃もご飯だな。すぐ用意するからな」
台所から繋がる風呂場では、わーわーきゃーきゃーとなにやら騒がしい声が聞こえている。子供の賑やかな声がうるさいと感じる人もいるが、この静かな田舎では元気で良いものだ、などと思ってしまう。
炊飯器が炊き上がりを知らせる頃には、ピカピカになった二人も風呂から上がってきた。
「暁治さん、ご挨拶が遅れました。わいは雨降小次郎と申します。雨師さまのお手伝いをしてるもんです」
「うし、さん?」
テーブルの真向かいにちんまりと正座した少年は相変わらずタオルを被っている。斜め向かいの朱嶺はなんてことない顔をしているので、そこは突っ込まないでおこうと思うけれど、よくわからない名前のような単語に、暁治の頭の上に疑問符が飛ぶ。
だがしかしその疑問を答える気がないのか、小次郎はほわほわと笑みを浮かべていた。
「雨の季節にこうしてご挨拶できるやなんて嬉しいわぁ。これ、ささやかなお土産です」
「え? 枯れてないか、これ?」
おずおずと差し出されたのはほんの少し紫色が残る花、らしきもの。大部分は枯れたように茶色くなっている。これがお土産とは? と首をひねると、小次郎はにかりと笑う。
「これは夏枯草いいます。煎じたり塗ったりしますと痛みや熱も引きます。夏至の頃に枯れる花ですが、漢方、薬、ってもんですわ」
「ふぅん、昔ながらの薬ってわけか」
「捻挫とか腫れ物、むくみにも効くんだよ。昔はなんにでも効くって言われてたんだ」
「へぇ、……って! お前! いただきますはどうした!」
「言ったよ~! はるが聞いてなかったんだよ、ね~」
いつの間にかテーブルに並べたご飯を頬ばっている兄妹は、顔を見合わせてにんまり笑う。そして美味しいねぇ、なんて言いながらさらに料理へ箸を伸ばしていた。
「うっ、まあ美味いなら、いいか。小次郎も早く食べろ。食う前になくなっちまうぞ」
「ご相伴に預かります!」
ぱんと両手を合わせた珍客は、先の二人のように美味い美味いと飯を頬ばる。どんどんと賑やかになってきたこの家は、祖父の頃もこんな感じだったのだろうかと思えた。
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