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第六節気 穀雨
末候――牡丹華(ぼたんはなさく)
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気にかけたのなら、きっといまよりもっと――そう言われてからしばらくして気づいた。校舎の中で生徒たちと会話を交わす赤朽葉色。
これまで目に映っていなかったものが、ふっと現れたような不思議な感覚だけれど、おそらく単にタイミングが合わなかっただけだろう。
そんなことを考えて、暁治は彼のいる廊下を横目に通り過ぎようとした。しかしふいに大きな声で名前を呼ばれ、振り向けば見慣れた笑顔がこちらを向いている。
普段の着物姿ではない、学校規定のブレザーを身にまとった姿。それは少しばかり物珍しさがあった。
「はるっ! ねえ知ってる? 七不思議があるんだって!」
さらに大きな声が廊下に響いて、周りの視線が集まる。黙って立ち去ろうと思っていた暁治だが、うずうずとした様子でまっすぐに見つめられた。周りからの視線も合わせて考えると、ここは無視をするのは得策ではない。
いささか渋々の態ではあるが、視線の先へ足を向ける。そこには朱嶺のほかに男子生徒が二人。わりと大人しい組み合わせの子たちだ。
「七不思議って、桜の木の下に死体が埋まってるとか、そういうのだろ?」
「夕方の誰もいない美術室に出るらしいよ」
「ふぅん」
「はるってなんでそんなに興味ないの?」
「目で見て知ったことしか信用できない」
ふぅんと、あちらも曖昧な相づちを打って、なにかもの言いたげに目を細めた。リアリストだとか、夢がないだとか、友人に言われたことはある。けれど信じられないものはどうしようもない
しかし子供の頃は子供らしく、暁治も祖父の話にドキドキはらはらとしたものだった。いつからこんなに頭が固くなったのだろうと、少し不思議に思いもする。けれど大人になって現実を見るようになるのは、別段おかしなことではないだろう。
「それよりもお前、一年も学校に通ってて、怪談話も知らなかったのか?」
「え? あー、去年はあんまり、……そう、友達が多くなかったんだよね」
「そういや一年の頃の朱嶺って印象薄いな」
「確かに、あんまり覚えてないな」
少し慌てた様子を見せる朱嶺に、傍にいる二人の少年はおかしそうに笑い声を上げる。この目立つ男が印象に残らないなんて、と思いもするが、しばらく目に留まらなかったことを思えば、普段はもしかしたら影が薄いのかもしれない。
自分は家では下っ端で雑用係だ、などと言っていたので、家では大人しいことも考えられる。しかし暁治は小さく唸って、すぐに考えるのをやめた。まったく想像がつかなかったのだ。
「これからは積極的に人に交じっていこうと思うよ」
「うん、まあ、いいことなんじゃないのか。お前は隅っこで小さくなってるのはイメージじゃないしな」
「はるもそっちのほうが嬉しい?」
「ん? 嬉しいというか。……なんだ、その、安心はする」
「そっか」
突然の問いかけに暁治は言葉が詰まった。いないことは気になっていたが、嬉しい、嬉しくないの感情に例えられると、その先が見つからない。けれどようやく見かけるようになって、ほっとしたような気持ちになったのは確かだった。
曖昧な返事をした暁治だけれど、それに満足したのか朱嶺はぱっと花が開いたような笑みを浮かべる。
「朱嶺と宮古先生って仲いいの?」
「先生ってこの町に越してきたばっかりじゃなかったっけ?」
「はると僕はね、ご近所さんなんだ! 色々とお世話してるの」
「はっ? なに言ってんだ。世話されてるのお前じゃないか。毎日毎日、飯食いに来やがって」
「んふふ、みんなで食べるご飯は美味しいよね。……あっ、授業だ! はる、またね~!」
文句を言いかけたところでチャイムが鳴り響いた。周りの生徒たちが教室へ吸い込まれていくのを追いかけるように、朱嶺も片手を大きく振りながら去っていく。
あっという間のことに暁治は呆気に取られていたが、廊下にひと気がなくなると我に返る。そう言えば次の時間は、と考えたが、幸いなことに空き時間だった。
そのあとの授業の準備をするために、職員室へ戻る途中だったのだ。踵を返して一階へと続く階段を下りていく。その途中に大鏡があって、七不思議――それをなんとなく思い出した。
「四時四十四分だっけ? ぞろ目だっけ? 鏡の中に連れて行かれるとか」
ふとそんなことを考えたが、なんとなく馬鹿馬鹿しくてそのまま鏡の前を通り過ぎる。しかしその瞬間、映った自分の傍をなにかが通り過ぎたような気がして、思わず振り向いてしまう。
けれどじっと鏡の中を見つめても、なにか変わったものが写っている様子はない。
「疲れ目かな」
一つ大きな息を吐きだしてから、肩をすくめて暁治はまた階段を下りていった。授業中で静かな校内。ゆっくりと歩いて行くと、廊下の先に主幹教諭の品川の姿が見える。
立ち止まって窓の外を見ている横顔に、誘われるように近づいていけば、暁治に気づいてやんわりと笑った。面接の時からお世話になっているが、相変わらず人の好い先生だ。
「宮古先生、お疲れさまです」
「お疲れさまです。なにを見ているんですか?」
「ああ、牡丹ですよ。今年も綺麗に咲き始めました」
並んで窓の外を見れば、校庭の花壇で華やかな紅い花が花びらを広げている。咲き始めたばかりなのか、まだ蕾を閉じているものもあるが、品川が言うように綺麗なものだった。
そう言えばと、庭にも同じ花が咲き始めていたことを思い出す。手入れはしていないので、毎年花を咲かせるものなのだろう。
「なんとも言えない気品がありますよね」
「はい、華やかですけど、凜々しいような」
「王者の風格、なんて言う花言葉もあるそうです」
「へぇ」
「牡丹と言えば、牡丹灯籠という話をご存じですか?」
「……すみません。あー、不勉強で」
「いえいえ、若い方はご存じではないかもしれないですね。落語の怪談話の一つです」
「え?」
驚いたあとに思わず、また怪談話か――と言いそうになるが、慌てて暁治は言葉を飲み込んだ。しかしなにかを飲み込んだことに気づいているのか、品川は意味ありげに微笑む。
けれど咎めるつもりはないのだろう。なにも言わずにまた窓の外へ視線を向けた
「男女の恋物語です。夜ごと逢瀬を重ねる二人ですが、実は女のほうは亡霊だったんです。霊気に当てられて弱る男に、坊様が札を与えて期限まで家に篭もっていなさいと言う。女は毎夜、牡丹灯籠を持って家の周りをぐるぐるとして、恨めしげに呼びかけてくる。そして最終日。男は命よりも女のことを想い、外へ出てしまう、と言うお話です」
「なるほど」
「昔は朝だと騙されて家を出てしまう、と言うあらすじだったようですが。現代になって、人ではないものとの恋愛話に抵抗がなくなってきたのでしょうかね。宮古先生は、恋した相手が人間ではなかったらどうしますか?」
「……ああ、えーっと、私はあまり超常現象の類いは信じないのですけど。祖父がよく物の怪の話をしていまして。作り話とも思いますが、いないとは限らないと思っています。しかし、人でなかったら、……悩ましいですね。それでも添い遂げたいほどの相手なら、考えますね」
「そうですか。うん、さすがは辻森さんのお孫さんだ」
懐かしそうに祖父の名を呟き、目を細めた品川に上手い言葉も見つからない。そのまましばらく黙って、暁治は咲き誇る牡丹を見つめた。
これまで目に映っていなかったものが、ふっと現れたような不思議な感覚だけれど、おそらく単にタイミングが合わなかっただけだろう。
そんなことを考えて、暁治は彼のいる廊下を横目に通り過ぎようとした。しかしふいに大きな声で名前を呼ばれ、振り向けば見慣れた笑顔がこちらを向いている。
普段の着物姿ではない、学校規定のブレザーを身にまとった姿。それは少しばかり物珍しさがあった。
「はるっ! ねえ知ってる? 七不思議があるんだって!」
さらに大きな声が廊下に響いて、周りの視線が集まる。黙って立ち去ろうと思っていた暁治だが、うずうずとした様子でまっすぐに見つめられた。周りからの視線も合わせて考えると、ここは無視をするのは得策ではない。
いささか渋々の態ではあるが、視線の先へ足を向ける。そこには朱嶺のほかに男子生徒が二人。わりと大人しい組み合わせの子たちだ。
「七不思議って、桜の木の下に死体が埋まってるとか、そういうのだろ?」
「夕方の誰もいない美術室に出るらしいよ」
「ふぅん」
「はるってなんでそんなに興味ないの?」
「目で見て知ったことしか信用できない」
ふぅんと、あちらも曖昧な相づちを打って、なにかもの言いたげに目を細めた。リアリストだとか、夢がないだとか、友人に言われたことはある。けれど信じられないものはどうしようもない
しかし子供の頃は子供らしく、暁治も祖父の話にドキドキはらはらとしたものだった。いつからこんなに頭が固くなったのだろうと、少し不思議に思いもする。けれど大人になって現実を見るようになるのは、別段おかしなことではないだろう。
「それよりもお前、一年も学校に通ってて、怪談話も知らなかったのか?」
「え? あー、去年はあんまり、……そう、友達が多くなかったんだよね」
「そういや一年の頃の朱嶺って印象薄いな」
「確かに、あんまり覚えてないな」
少し慌てた様子を見せる朱嶺に、傍にいる二人の少年はおかしそうに笑い声を上げる。この目立つ男が印象に残らないなんて、と思いもするが、しばらく目に留まらなかったことを思えば、普段はもしかしたら影が薄いのかもしれない。
自分は家では下っ端で雑用係だ、などと言っていたので、家では大人しいことも考えられる。しかし暁治は小さく唸って、すぐに考えるのをやめた。まったく想像がつかなかったのだ。
「これからは積極的に人に交じっていこうと思うよ」
「うん、まあ、いいことなんじゃないのか。お前は隅っこで小さくなってるのはイメージじゃないしな」
「はるもそっちのほうが嬉しい?」
「ん? 嬉しいというか。……なんだ、その、安心はする」
「そっか」
突然の問いかけに暁治は言葉が詰まった。いないことは気になっていたが、嬉しい、嬉しくないの感情に例えられると、その先が見つからない。けれどようやく見かけるようになって、ほっとしたような気持ちになったのは確かだった。
曖昧な返事をした暁治だけれど、それに満足したのか朱嶺はぱっと花が開いたような笑みを浮かべる。
「朱嶺と宮古先生って仲いいの?」
「先生ってこの町に越してきたばっかりじゃなかったっけ?」
「はると僕はね、ご近所さんなんだ! 色々とお世話してるの」
「はっ? なに言ってんだ。世話されてるのお前じゃないか。毎日毎日、飯食いに来やがって」
「んふふ、みんなで食べるご飯は美味しいよね。……あっ、授業だ! はる、またね~!」
文句を言いかけたところでチャイムが鳴り響いた。周りの生徒たちが教室へ吸い込まれていくのを追いかけるように、朱嶺も片手を大きく振りながら去っていく。
あっという間のことに暁治は呆気に取られていたが、廊下にひと気がなくなると我に返る。そう言えば次の時間は、と考えたが、幸いなことに空き時間だった。
そのあとの授業の準備をするために、職員室へ戻る途中だったのだ。踵を返して一階へと続く階段を下りていく。その途中に大鏡があって、七不思議――それをなんとなく思い出した。
「四時四十四分だっけ? ぞろ目だっけ? 鏡の中に連れて行かれるとか」
ふとそんなことを考えたが、なんとなく馬鹿馬鹿しくてそのまま鏡の前を通り過ぎる。しかしその瞬間、映った自分の傍をなにかが通り過ぎたような気がして、思わず振り向いてしまう。
けれどじっと鏡の中を見つめても、なにか変わったものが写っている様子はない。
「疲れ目かな」
一つ大きな息を吐きだしてから、肩をすくめて暁治はまた階段を下りていった。授業中で静かな校内。ゆっくりと歩いて行くと、廊下の先に主幹教諭の品川の姿が見える。
立ち止まって窓の外を見ている横顔に、誘われるように近づいていけば、暁治に気づいてやんわりと笑った。面接の時からお世話になっているが、相変わらず人の好い先生だ。
「宮古先生、お疲れさまです」
「お疲れさまです。なにを見ているんですか?」
「ああ、牡丹ですよ。今年も綺麗に咲き始めました」
並んで窓の外を見れば、校庭の花壇で華やかな紅い花が花びらを広げている。咲き始めたばかりなのか、まだ蕾を閉じているものもあるが、品川が言うように綺麗なものだった。
そう言えばと、庭にも同じ花が咲き始めていたことを思い出す。手入れはしていないので、毎年花を咲かせるものなのだろう。
「なんとも言えない気品がありますよね」
「はい、華やかですけど、凜々しいような」
「王者の風格、なんて言う花言葉もあるそうです」
「へぇ」
「牡丹と言えば、牡丹灯籠という話をご存じですか?」
「……すみません。あー、不勉強で」
「いえいえ、若い方はご存じではないかもしれないですね。落語の怪談話の一つです」
「え?」
驚いたあとに思わず、また怪談話か――と言いそうになるが、慌てて暁治は言葉を飲み込んだ。しかしなにかを飲み込んだことに気づいているのか、品川は意味ありげに微笑む。
けれど咎めるつもりはないのだろう。なにも言わずにまた窓の外へ視線を向けた
「男女の恋物語です。夜ごと逢瀬を重ねる二人ですが、実は女のほうは亡霊だったんです。霊気に当てられて弱る男に、坊様が札を与えて期限まで家に篭もっていなさいと言う。女は毎夜、牡丹灯籠を持って家の周りをぐるぐるとして、恨めしげに呼びかけてくる。そして最終日。男は命よりも女のことを想い、外へ出てしまう、と言うお話です」
「なるほど」
「昔は朝だと騙されて家を出てしまう、と言うあらすじだったようですが。現代になって、人ではないものとの恋愛話に抵抗がなくなってきたのでしょうかね。宮古先生は、恋した相手が人間ではなかったらどうしますか?」
「……ああ、えーっと、私はあまり超常現象の類いは信じないのですけど。祖父がよく物の怪の話をしていまして。作り話とも思いますが、いないとは限らないと思っています。しかし、人でなかったら、……悩ましいですね。それでも添い遂げたいほどの相手なら、考えますね」
「そうですか。うん、さすがは辻森さんのお孫さんだ」
懐かしそうに祖父の名を呟き、目を細めた品川に上手い言葉も見つからない。そのまましばらく黙って、暁治は咲き誇る牡丹を見つめた。
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