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○●割愛拾い上げ劇場●○ 〜かつあい〘名〙(スル) 惜しいと思いながらも省略したり捨てたりすること。〜
[002]【年末年始の忙しない日々】Le cas.公爵家嫡男:アルヴェイン②
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これ以上言葉を重ねるのは悪手、言葉を重ねれば重ねるだけ、逆効果にしかならないだろうと早々に断じた。
そうと判断したが早いか、気取られないようさり気なく話題の転換をはかった。
「それはそうと、今朝のライラはどんな様子だった? 昨日交わした約束では食堂でと言われていたが、痛みが酷いようならこのままライラの部屋に行こうかと考えていたんだが…。 その微妙な反応から察するに、ライラはまだ起きていない、と云うことだろうか?」
ここで1つ断っておく事柄があるとすれば、メリッサの表情は1mmも変動していないという事。
反応とは言ったものの、目で見て表情の変化を確認したわけでも無ければ、変化する兆しさえ欠片も感じ取れていない。
今の僕に出来たことは唯一つ。
僕と適切な距離をとって無表情に佇む侍女から僅かに醸し出される空気を適切に読み取ることだけ。
そしてここではわかり易いように“反応”と言葉を選んで声に出しただけに過ぎない。
「仰る通りにございます。 ですが痛み等々に関しましては心配ご無用かと。 1度起きられたようで、その際に予備の鎮痛剤を服用されたご様子でした。 健やかにお眠りになられておられ、しばらく様子を見ておりましたが痛みに苛まれるご様子も見受けられませんでした。」
「それなら確かに、そこまで心配する必要はなさそうだな。 約束の通り、食堂で待つ事にしよう。」
「ですが痛みを感じておられない分、些か問題もございます。 安眠を妨害する要因が解消されすぎ、当分の間お目覚めにはならないかと。 早く済まされたいとのご意向であれば、ライリエルお嬢様のご起床を促してまいりますが如何致しましょう?」
抑揚少なく、淡々と言葉を返してくるメリッサ。
彼女が語るライラの今朝の様子の報告を聞いている間、その表情の何処かに変化がないかと気をつけて見つめてはみたが、分厚い眼鏡が邪魔をしている所為なのか、表情の変化はやはり発見することがかなわなかった。
――薄々感じてはいたが、ライラに対しての当たりがいやにキツイと感じる事が儘ある。 この遠慮の無い言動も、メリッサがライラの乳母だから、との理由で簡単に片付けてしまって良いものなのか…、判断が難しいな。――
僕だけしか居ない今でも、ライラに対しての言動を改める気配は皆無。
意図してなのかは定かではないが、紙一重で無礼には当たらない境界線スレスレ、且つギリギリ限度内に収まる言い回しで、最大限絶妙に辛辣な物言いをする侍女に、ある意味で感心してしまう。
それでも、ただ辛辣なだけではなかった。
今の短い遣り取りの中にメリッサの心境が変化したと感じられる、目に見えない顕著な変化が確かに存在したからだった。
「無理に起こす必要はないさ。 今の言葉に急かす意図はない、ライラが痛みに煩わされていないならそれでいい。 1度起きたのがいつ頃かは分からないが、このまま自然に目覚めるのを待った方がライラの為にも良いだろう、寝かせてやってくれ。」
頭を軽く左右に振り、やんわりといなすように侍女の提案を棄却する。
それに気を悪くするでもなく、職務に実直な侍女は鹿爪らしい態度で短く了承の返事を返した。
「かしこまりました、そのように致します。」
いつもと変わらぬ侍女の反応を窺い見ながら、同時に周囲の空気の流れを注意して気取ろうと努めてみる。
――…やはり変わった。 声だけでなく、メリッサの醸し出す雰囲気も少なからず軽くなっている。 手遅れかとも思ったが、話題をエリファス関連からライラに変えた甲斐があったな。――
あの辛辣なだけかと思われた物言いは、エリファスの話題を口にしていた時とは打って変わって、呆れを多分に含んだ声音でも語られていたからだった。
ピリ付いた雰囲気がきれいに霧散して、ただ呆れるばかりだ、と云った緩んだ空気に変化した。
この事に少なからず驚いて、普段よりも僅かに目を瞠り、それと同時にやはり感心もしてしまう。
――…食堂での1件ではまだ半信半疑だったが、どうやらライラは父上に引き続き、本音の見えない領地家令、そしてこの鉄壁の侍女をも心変わりさせつつあるらしい。 齢3歳にして早くも人誑しの才が開花してしまったようだ。 まったく末恐ろしい…、勘違いした輩がこれ以上増える前に、ライラにそれとなく注意を促すべきか否か…これも判断が難しいな。――
“勘違いした輩”と考え、直ぐ様思い浮かぶ人物が我が家の使用人以外で既に1人いる。
先日開かれたライラの誕生日パーティーで初対面を果たした、オーヴェテルネル公爵家の長子、レスター・デ・オーヴェテルネル。
彼の公子が浮かべる、造り物であると一目でわかる笑顔を思い出し、溜息が漏れそうになる。
――うちのエリファス程でないにしろ、まず間違いなく性格に難あり、そしてレスター公子は少し僕たちと血が近すぎる。 家門間の繋がりは慎重に選ばないと、要らぬ諍いの種になりかねない。 それにあの母親の存在が懸念される。 再従弟だから問題ない、と簡単に断じれるものではないな…。――
爵位こそ同列ではあるが、オーヴェテルネル公爵家は5家ある公爵家の中では4番目、我が家に比べてしまうとかなり新しい家門であり、ぴったり釣り合う家格とは言い難い。
――まぁ、オーヴェテルネル公爵家だからという訳でなく、他にどんな家門出の輩が群れて来ようと、一々まともに相手する必要がないからな。 仮に王家から婚約の打診があったとて、断り難いと云うだけで、断れないわけでもない。 総ては父上の裁量に委ねられている状態だが………、恐らく話を持ちかけようとする相手に“婚約”の“こ”の字も言わせないだろうな。――
当主の限りない塩対応にもめげず、果敢に正面突破を敢行できる骨のある家門がどれだけいるのか、この実数の把握には少し興味をひかれる。
ライラが無自覚に周囲に振りまく優しさで、どれだけ勘違いした輩を量産できるのか。
それは火を見るよりも明らかで、今後どれだけでも、際限なく大量に、繰り返して発生することになるだろう。
けれどこの大量発生は毎回一時的なもので、一時的な熱が冷め、正気に戻った輩は蜘蛛の子を散らすようにサッと退散することとなるだろう。
ここまでで1回目の篩いにかけられたことになる。
そして時間が経過しても正気に戻らない者。
己の身の程も弁えずにのぼせ上がったまま、害虫の如く群がり続けられる輩。
この群れの中でもほんの一握り、実際に何らかの行動を起こした有象無象が、今知りたいと興味を持った実数となる。
この実数は都度変動するのが大前提だが、どれだけ繰り返されても結果が振るうことはないだろう。
こちらの期待値を上回る伸びを見せるとは、今の段階からもう既に思えない。
実数が2桁にのぼれば称賛されるべき数値であるだろうし、それと同時にこの国の将来性が危ぶまれる数字でもある。
建国から現存する最古の公爵家に正面から喧嘩を吹っ掛ける命知らずが、この国に不特定多数存在するとは思いたくない。
それがなくとも、父上と現国王であるローデリヒ・ロワ・フリソスフォス陛下は従兄弟同士、王家との繋がりが深い我が家に一矢報いようと安易に考える輩は早々現れない、と願いたい。
来るべき未来に起こりうる騒動を想定し、ある程度の危機感を募らせつつ、正直な心境としては深刻に将来を憂える必要性を全く感じていない。
この考えに至り、途端におかしくなってきた。
フ…、と僅かに口元から漏れ出てしまった空気の音を敏感に察知して、有能な侍女が「何か仰られましたでしょうか?」と問いかけてきた。
しかし、ここであけすけに、ありのままの感情を晒すほど愚かではない。
上がりそうになる口角を意思の力で抑え込み、生真面目な表情を保たせて侍女の言葉に答えを返す。
「いいや、僕は何も。 気の所為だろう。」
「…左様でございますか、失礼いたしました。 まだ少し早いかとは存じますが、このまま食堂に向かわれますか?」
何か引っかかりを感じつつも、此方の言葉を承服し、律儀に謝罪までされてしまった。
少し悪いことをしたか、と思いつつ、空耳の件はここで終止符を打ち、続いた侍女の言葉にだけ答えを返す。
「…そうだな、そうするよ。 自室に居ると逆に遅くなってしまうだろうからな…。 メリッサはこの後は母上の寝所に行くのか? 今日は予定通り、午後からは休みを取るんだろう?」
自室で時間を持て余すと碌な事がない。
少しだけ…、と前もって終了時間を決めていたにも関わらず、結局時間を超過する羽目になったことがどれだけあったことだろうか。
誰の目もない空間で時間を潰すのは、どうやら性に合わないらしい、そう確信したのは奇しくもつい最近だった。
専属の侍女が不在となったここ10日間で、苦い思いとともに嫌という程実感した。
最近犯したばかりの失態を具に思い出してしまわない内に、ここでもそうとは気付かれないよう自然な流れを意識して話題転換をはかる。
「はい、仰る通り、午後からは例年通り私室に下がらせて頂きます。 その前に奥様の寝所にも今一度おうかがいする予定でおります。 …ですがその前に、エリファス坊ちゃまのお部屋にうかがわなければなりません…。」
最後の一文を口にしたメリッサの声の音程が、それまでのものから一気に三段階程下がったのは、僕の気の所為だと思いたい。
「………そうか、まだ、だったのか。 それは………、よしなに頼む、とだけ…。」
回避したはずの話題が舞い戻ってきてしまった。
予想の範疇を超過した展開に頭がついていかず、咄嗟に気の利いた言葉が見つからない。
当たり障りのない言葉を選べていると願いながら、侍女の無表情な顔を直視して、最後の最後でいたたまれずにサッと目を逸してしまった。
「心配無用にございますアルヴェイン坊ちゃま。 エリファス坊ちゃまへの適宜対応はしかと心得ておりますので、お任せくださいまし。 他にお申し付けが無いようでしたらこのまま下がらせて頂きますが、宜しいでしょうか?」
僕の心情を汲んでか、声の調子を戻してさも何でも無いことのように言い切ったメリッサに、頭が下がる思いで一杯になった。
メリッサからの気遣いを無駄にしないよう、それ以上いたずらにエリファスの話題には触れないし、相槌も控えた。
そのおかげかどうかは不明確だが、最後に問われた言葉にだけ、幾分か落ち着きを取り戻して答えを返せた。
「ああ、大丈夫だ。 数日とは言え余計な仕事を増やしてしまってすまなかった。 だがとても助かったよ、最初のうちは…目も当てられない、酷いものだったからな…。 ありがとうメリッサ。」
「お褒めに預かり恐縮でございます。 ですが、些か過分な御言葉かと。 私がきちんとお支度に携われたのは1日だけでございました。 寧ろお叱りを賜って然るべき失態にございます。」
「ライラの看病を優先するよう指示したのは他の誰でもなく父上だからな、仕方ないさ。 当主の命令に逆らえるはずもないと理解しているし、僕もライラを優先してくれて構わないと了承していた。 メリッサに責が無いのは明白、それなのに叱責なんてできないだろう。」
僕の本心からの感謝の言葉を受けて、畏まって謙遜するのみのメリッサ。
静かに頭を下げるメリッサをまじまじと見つめ、本当にどうしてこの侍女がついていながらエリファスがあんな性格になってしまったのか疑問で仕方がない。
とは云え、自我を芽生えさせてここまではっきりと確立し、成長してしまったものは仕方無い。
「あまり謙遜しすぎず、言葉通りに受け取って欲しい。 丁度明日から新年だ、その謙虚さが良い方向に改善されることを期待するとしよう。」
「…善処致します。」
「っはは、改善の見込みが低そうな返事だが、前向きに検討してくれることを願うよ。 長く引き止めてすまないなメリッサ。 良い年の瀬を…と云う前に、年末最後の大仕事がすんなりと片付くことを祈るのが先決か?」
「いえ、そのような必要はございません。 アルヴェイン坊ちゃまも…良い年の瀬を、お過ごしくださいまし。」
僕の見間違いでなければ、メリッサの口角が少しだけ、本当にほんの少し、柔らかく緩んだように見えた。
入室した時と同様に、音もなく部屋を辞す侍女の姿を扉が閉まるまで見送ってから、急激に自分の目の正常性に疑念が生じ始めた。
今目にした光景が本当に現実であったのか、いつの間にやら幻覚魔法でもかけられたのではないか、と際限なく疑わしくなってしまった。
疑いだしたらきりがなく、考えれば考えるほど、疑惑は沸き起こり、全く解消されていかない。
自分で予想した以上に、実際に目の当たりにしたメリッサの表情の変化は衝撃的で、冷静さを直ぐには取り戻せない程驚かされ過ぎてしまった。
そうと判断したが早いか、気取られないようさり気なく話題の転換をはかった。
「それはそうと、今朝のライラはどんな様子だった? 昨日交わした約束では食堂でと言われていたが、痛みが酷いようならこのままライラの部屋に行こうかと考えていたんだが…。 その微妙な反応から察するに、ライラはまだ起きていない、と云うことだろうか?」
ここで1つ断っておく事柄があるとすれば、メリッサの表情は1mmも変動していないという事。
反応とは言ったものの、目で見て表情の変化を確認したわけでも無ければ、変化する兆しさえ欠片も感じ取れていない。
今の僕に出来たことは唯一つ。
僕と適切な距離をとって無表情に佇む侍女から僅かに醸し出される空気を適切に読み取ることだけ。
そしてここではわかり易いように“反応”と言葉を選んで声に出しただけに過ぎない。
「仰る通りにございます。 ですが痛み等々に関しましては心配ご無用かと。 1度起きられたようで、その際に予備の鎮痛剤を服用されたご様子でした。 健やかにお眠りになられておられ、しばらく様子を見ておりましたが痛みに苛まれるご様子も見受けられませんでした。」
「それなら確かに、そこまで心配する必要はなさそうだな。 約束の通り、食堂で待つ事にしよう。」
「ですが痛みを感じておられない分、些か問題もございます。 安眠を妨害する要因が解消されすぎ、当分の間お目覚めにはならないかと。 早く済まされたいとのご意向であれば、ライリエルお嬢様のご起床を促してまいりますが如何致しましょう?」
抑揚少なく、淡々と言葉を返してくるメリッサ。
彼女が語るライラの今朝の様子の報告を聞いている間、その表情の何処かに変化がないかと気をつけて見つめてはみたが、分厚い眼鏡が邪魔をしている所為なのか、表情の変化はやはり発見することがかなわなかった。
――薄々感じてはいたが、ライラに対しての当たりがいやにキツイと感じる事が儘ある。 この遠慮の無い言動も、メリッサがライラの乳母だから、との理由で簡単に片付けてしまって良いものなのか…、判断が難しいな。――
僕だけしか居ない今でも、ライラに対しての言動を改める気配は皆無。
意図してなのかは定かではないが、紙一重で無礼には当たらない境界線スレスレ、且つギリギリ限度内に収まる言い回しで、最大限絶妙に辛辣な物言いをする侍女に、ある意味で感心してしまう。
それでも、ただ辛辣なだけではなかった。
今の短い遣り取りの中にメリッサの心境が変化したと感じられる、目に見えない顕著な変化が確かに存在したからだった。
「無理に起こす必要はないさ。 今の言葉に急かす意図はない、ライラが痛みに煩わされていないならそれでいい。 1度起きたのがいつ頃かは分からないが、このまま自然に目覚めるのを待った方がライラの為にも良いだろう、寝かせてやってくれ。」
頭を軽く左右に振り、やんわりといなすように侍女の提案を棄却する。
それに気を悪くするでもなく、職務に実直な侍女は鹿爪らしい態度で短く了承の返事を返した。
「かしこまりました、そのように致します。」
いつもと変わらぬ侍女の反応を窺い見ながら、同時に周囲の空気の流れを注意して気取ろうと努めてみる。
――…やはり変わった。 声だけでなく、メリッサの醸し出す雰囲気も少なからず軽くなっている。 手遅れかとも思ったが、話題をエリファス関連からライラに変えた甲斐があったな。――
あの辛辣なだけかと思われた物言いは、エリファスの話題を口にしていた時とは打って変わって、呆れを多分に含んだ声音でも語られていたからだった。
ピリ付いた雰囲気がきれいに霧散して、ただ呆れるばかりだ、と云った緩んだ空気に変化した。
この事に少なからず驚いて、普段よりも僅かに目を瞠り、それと同時にやはり感心もしてしまう。
――…食堂での1件ではまだ半信半疑だったが、どうやらライラは父上に引き続き、本音の見えない領地家令、そしてこの鉄壁の侍女をも心変わりさせつつあるらしい。 齢3歳にして早くも人誑しの才が開花してしまったようだ。 まったく末恐ろしい…、勘違いした輩がこれ以上増える前に、ライラにそれとなく注意を促すべきか否か…これも判断が難しいな。――
“勘違いした輩”と考え、直ぐ様思い浮かぶ人物が我が家の使用人以外で既に1人いる。
先日開かれたライラの誕生日パーティーで初対面を果たした、オーヴェテルネル公爵家の長子、レスター・デ・オーヴェテルネル。
彼の公子が浮かべる、造り物であると一目でわかる笑顔を思い出し、溜息が漏れそうになる。
――うちのエリファス程でないにしろ、まず間違いなく性格に難あり、そしてレスター公子は少し僕たちと血が近すぎる。 家門間の繋がりは慎重に選ばないと、要らぬ諍いの種になりかねない。 それにあの母親の存在が懸念される。 再従弟だから問題ない、と簡単に断じれるものではないな…。――
爵位こそ同列ではあるが、オーヴェテルネル公爵家は5家ある公爵家の中では4番目、我が家に比べてしまうとかなり新しい家門であり、ぴったり釣り合う家格とは言い難い。
――まぁ、オーヴェテルネル公爵家だからという訳でなく、他にどんな家門出の輩が群れて来ようと、一々まともに相手する必要がないからな。 仮に王家から婚約の打診があったとて、断り難いと云うだけで、断れないわけでもない。 総ては父上の裁量に委ねられている状態だが………、恐らく話を持ちかけようとする相手に“婚約”の“こ”の字も言わせないだろうな。――
当主の限りない塩対応にもめげず、果敢に正面突破を敢行できる骨のある家門がどれだけいるのか、この実数の把握には少し興味をひかれる。
ライラが無自覚に周囲に振りまく優しさで、どれだけ勘違いした輩を量産できるのか。
それは火を見るよりも明らかで、今後どれだけでも、際限なく大量に、繰り返して発生することになるだろう。
けれどこの大量発生は毎回一時的なもので、一時的な熱が冷め、正気に戻った輩は蜘蛛の子を散らすようにサッと退散することとなるだろう。
ここまでで1回目の篩いにかけられたことになる。
そして時間が経過しても正気に戻らない者。
己の身の程も弁えずにのぼせ上がったまま、害虫の如く群がり続けられる輩。
この群れの中でもほんの一握り、実際に何らかの行動を起こした有象無象が、今知りたいと興味を持った実数となる。
この実数は都度変動するのが大前提だが、どれだけ繰り返されても結果が振るうことはないだろう。
こちらの期待値を上回る伸びを見せるとは、今の段階からもう既に思えない。
実数が2桁にのぼれば称賛されるべき数値であるだろうし、それと同時にこの国の将来性が危ぶまれる数字でもある。
建国から現存する最古の公爵家に正面から喧嘩を吹っ掛ける命知らずが、この国に不特定多数存在するとは思いたくない。
それがなくとも、父上と現国王であるローデリヒ・ロワ・フリソスフォス陛下は従兄弟同士、王家との繋がりが深い我が家に一矢報いようと安易に考える輩は早々現れない、と願いたい。
来るべき未来に起こりうる騒動を想定し、ある程度の危機感を募らせつつ、正直な心境としては深刻に将来を憂える必要性を全く感じていない。
この考えに至り、途端におかしくなってきた。
フ…、と僅かに口元から漏れ出てしまった空気の音を敏感に察知して、有能な侍女が「何か仰られましたでしょうか?」と問いかけてきた。
しかし、ここであけすけに、ありのままの感情を晒すほど愚かではない。
上がりそうになる口角を意思の力で抑え込み、生真面目な表情を保たせて侍女の言葉に答えを返す。
「いいや、僕は何も。 気の所為だろう。」
「…左様でございますか、失礼いたしました。 まだ少し早いかとは存じますが、このまま食堂に向かわれますか?」
何か引っかかりを感じつつも、此方の言葉を承服し、律儀に謝罪までされてしまった。
少し悪いことをしたか、と思いつつ、空耳の件はここで終止符を打ち、続いた侍女の言葉にだけ答えを返す。
「…そうだな、そうするよ。 自室に居ると逆に遅くなってしまうだろうからな…。 メリッサはこの後は母上の寝所に行くのか? 今日は予定通り、午後からは休みを取るんだろう?」
自室で時間を持て余すと碌な事がない。
少しだけ…、と前もって終了時間を決めていたにも関わらず、結局時間を超過する羽目になったことがどれだけあったことだろうか。
誰の目もない空間で時間を潰すのは、どうやら性に合わないらしい、そう確信したのは奇しくもつい最近だった。
専属の侍女が不在となったここ10日間で、苦い思いとともに嫌という程実感した。
最近犯したばかりの失態を具に思い出してしまわない内に、ここでもそうとは気付かれないよう自然な流れを意識して話題転換をはかる。
「はい、仰る通り、午後からは例年通り私室に下がらせて頂きます。 その前に奥様の寝所にも今一度おうかがいする予定でおります。 …ですがその前に、エリファス坊ちゃまのお部屋にうかがわなければなりません…。」
最後の一文を口にしたメリッサの声の音程が、それまでのものから一気に三段階程下がったのは、僕の気の所為だと思いたい。
「………そうか、まだ、だったのか。 それは………、よしなに頼む、とだけ…。」
回避したはずの話題が舞い戻ってきてしまった。
予想の範疇を超過した展開に頭がついていかず、咄嗟に気の利いた言葉が見つからない。
当たり障りのない言葉を選べていると願いながら、侍女の無表情な顔を直視して、最後の最後でいたたまれずにサッと目を逸してしまった。
「心配無用にございますアルヴェイン坊ちゃま。 エリファス坊ちゃまへの適宜対応はしかと心得ておりますので、お任せくださいまし。 他にお申し付けが無いようでしたらこのまま下がらせて頂きますが、宜しいでしょうか?」
僕の心情を汲んでか、声の調子を戻してさも何でも無いことのように言い切ったメリッサに、頭が下がる思いで一杯になった。
メリッサからの気遣いを無駄にしないよう、それ以上いたずらにエリファスの話題には触れないし、相槌も控えた。
そのおかげかどうかは不明確だが、最後に問われた言葉にだけ、幾分か落ち着きを取り戻して答えを返せた。
「ああ、大丈夫だ。 数日とは言え余計な仕事を増やしてしまってすまなかった。 だがとても助かったよ、最初のうちは…目も当てられない、酷いものだったからな…。 ありがとうメリッサ。」
「お褒めに預かり恐縮でございます。 ですが、些か過分な御言葉かと。 私がきちんとお支度に携われたのは1日だけでございました。 寧ろお叱りを賜って然るべき失態にございます。」
「ライラの看病を優先するよう指示したのは他の誰でもなく父上だからな、仕方ないさ。 当主の命令に逆らえるはずもないと理解しているし、僕もライラを優先してくれて構わないと了承していた。 メリッサに責が無いのは明白、それなのに叱責なんてできないだろう。」
僕の本心からの感謝の言葉を受けて、畏まって謙遜するのみのメリッサ。
静かに頭を下げるメリッサをまじまじと見つめ、本当にどうしてこの侍女がついていながらエリファスがあんな性格になってしまったのか疑問で仕方がない。
とは云え、自我を芽生えさせてここまではっきりと確立し、成長してしまったものは仕方無い。
「あまり謙遜しすぎず、言葉通りに受け取って欲しい。 丁度明日から新年だ、その謙虚さが良い方向に改善されることを期待するとしよう。」
「…善処致します。」
「っはは、改善の見込みが低そうな返事だが、前向きに検討してくれることを願うよ。 長く引き止めてすまないなメリッサ。 良い年の瀬を…と云う前に、年末最後の大仕事がすんなりと片付くことを祈るのが先決か?」
「いえ、そのような必要はございません。 アルヴェイン坊ちゃまも…良い年の瀬を、お過ごしくださいまし。」
僕の見間違いでなければ、メリッサの口角が少しだけ、本当にほんの少し、柔らかく緩んだように見えた。
入室した時と同様に、音もなく部屋を辞す侍女の姿を扉が閉まるまで見送ってから、急激に自分の目の正常性に疑念が生じ始めた。
今目にした光景が本当に現実であったのか、いつの間にやら幻覚魔法でもかけられたのではないか、と際限なく疑わしくなってしまった。
疑いだしたらきりがなく、考えれば考えるほど、疑惑は沸き起こり、全く解消されていかない。
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