転生して悪役令嬢な私ですが、ヒロインと協力して何とかハッピーエンドを目指します!

胡椒家-コショーヤ-

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●本編●

99.招かれざる来訪者、侵入者は刺客。【後】〜九死に一生、持つべきモノは多生之縁〜

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 ペタン…ペタン…ペタン…ペタン。

限界まですり減ってペラッペラになった靴底が、磨き抜かれたエントランスホールの床の表面を打ち付ける間の抜けた音が響く。
2階の天井まで吹き抜けとなっているせいか、間抜けな足音が直ぐに空気に紛れて気にならなくはなるが、そのせいで何とも言えない惨めな気持ちがいや増した。

公爵家の繁栄ぶりを象徴する、贅を凝らした華やかなエントランスホールにあって、いつまともに身繕いをしたか定かでないうえ、破れる寸前のボロを身に着けている自分の姿はとんでもなく浮いており、場違いでしかなかった。
誰に言われても決して認めてこなかったが、今では素直にこんな自分は汚物のような存在でしかないと納得してしまえた。

そもそも、本来であればこんな風に堂々と1階を徘徊できる身分ではないのだから、こんな惨めな気持ちになる機会は訪れなかったはずだった。
小汚い下働き風情、それよりもさらに下に見られているような自分が、自由に彷徨いて良い場所ではなかった。

それなのに何故自分はこんな場所に居るのか。
その経緯を思い出し、自然に首元へと手が伸びる。
それから我慢ならない痒みのような疼きのような何かを鎮める為に、首に嵌められた継ぎ目の見あたらない細い金属製のチョーカーラデュクを、皮膚といっしょくたにして手のひらでゴシゴシっと乱暴に擦る。

先程あの少女を助けた際、何故あんなところに居たのかと問われ、説明のため口にした言葉には1つの嘘偽りも無い。
嘘偽りはないが、言っていない事情ならたんまりと、事欠かない程には十分にあった。

ロクデナシ共からの不当な私刑リンチを受けたあと、あまりダメージを負わせられなかったことに腹を立てたどこぞの貴族の馬鹿息子が、最終的に取った腹いせ行為。
それがここ、1階へと強制的に連れてくる、というものだった。

それが何故腹いせになるのか。
その答えは地下から出る資格のない人間にしか体感できない、得も言われぬ激痛をこのチョーカーラデュクによって与えられるからだった。

この公爵家に来て初めに与えられるものは次の通り。
①質素ながらも耐久性に優れ、通気性も良い生地で作られた新品の・・・上下揃いの衣服や下着類が洗い替えも含めて各2枚ずつ。
②自然光は拝めないが、隙間風を心配する必要のない、最大10人の子供が一度に雑魚寝できる地下階の隙間空間に点在する寝床を毎日最低でも8時間は利用できる権利(非固定)。
③ある行いをすれば無償で提供される、温かで栄養管理が行き届いた朝・昼・晩の食事を摂る権利。
④就業時間内外問わず、この公爵家と雇用関係にある期間内であればいつ如何なる場合でも、適切な医療行為を受けられる権利(無償→有償/回数制限あり)。
そしてこれが最も重要にして肝心要、フォコンペレーラ公爵家の使用人である証明として、最下級である下働きにはこのチョーカーラデュクが与えられる。

何を隠そう、このチョーカーラデュクこそが魔導具であり、定められた職場たる地下階から許可なく出ようものなら、体の自由を余裕で奪う電流が流れ、その場で逃れられない罰を容赦なく下されてしまうのだった。

地下階から1階まで、この事を無視して階段を登り続けたなら、大の大人でも気絶して当たり前な量の電撃を浴び続けることとなる。
因みに、装着した人物が意識を手放した瞬間に電撃は止む仕組みとなっており、命まで奪われる心配はない。

けれどつい先程、その威力をさまざまと体験したばかりの少年にとっては、それなら安心♪とは考えられず、何もなくてもビクついてしまうくらいにはできたてホヤホヤなトラウマ案件だった。

地下階から1階へ上がるのに罰則が科されるなら、逆の場合はどうなるのだろうか。

惨めさを自覚したせいで余計に踏んだり蹴ったりな未来予想に忌避感が増してしまった。
自分が望んで来たわけでもないのに、こんな理不尽な目にあったばかりで再度同じ未来が待ち受けているなんて、たまったものではない。

折角年に一度の無礼講、レヴェイヨン当日だと云うのに、何故こんな災難に見舞われなければならないのか。
口と悪知恵だけ達者な品性下劣なダメ人間、相手にしたくなかった。
なのに相手せざるを得なかった我が身の置かれた境遇が、やっぱり少し恨めしい。

自分で決めて行動した結果だとはいえ、素直に納得して受け入れられない苦々しさが多分に顕著だ。

そして今日の自分と同じように、予期せぬ災禍に見舞われた少女の言葉も思い出す。
その言葉があったから、自分は今この場違い感半端ないピッカピカのエントランスホールに、そうとわかっていて逃げ出したいのを堪えて立ち続けているのだ。

それは本当に偶々、偶然にも関わることになったこの公爵家の“オジョーサマ”に“お願い”されてしまったからであり、状況に流されたとは云え自分が一度でも口にした言葉を自分で反故にはしたくなくて結果として“従う”形におさまってしまっているだけであって、心から誰かに隷属したからでは決してない。

自分の心は自分だけのものだ。
どんな境遇に身を置くことになっても、それだけは見失えない。
このちっぽけな命を、決してちっぽけではないと拾われて以来、自分の心の支えとなっている大事な“信条”だった。

ともかく、今の自分は『俺にできる内容なら、やってやっても良いけど?』とうっかり口にしてしまった自分の言葉を守る為だけに行動している。
痛みに震えながらも気丈に、こちらを信用しても良いかどうか考えながら提案してきた少女を、心の何処かで哀れだと思い、まんまと同情してしまったお人好しな自分のせいだ、とも理解している。

ペッタンペッタンペッタン。

少女から託されたペンダントを教えられた通りの手順で途中まで操作し終えてから、丁度よいアングルを探して徘徊する。
エントランスホールにある大階段を正面に見て、向かって右側の階段の先、2階の通路の奥にまで響き渡るように角度を入念に調整する。

練習している暇はない、手間取っていられる時間も、本来ならありはしない。
けれど目に見えない焦りが目測を誤らせて、なかなか決まって欲しいアングルに合わせることが出来なかった。
思っていたよりもずっともたもたして手間取ってしまったが、なんとか調整を終えられた。

掲げた右手に持ったペンダントの状態を触った感覚で確認し、少女からの説明を今一度頭の中で反芻し、抜け落ちた手順が無いか確認して最後の仕上げに取り掛かる。

言われた通りペンダントの裏面を向けて、最後にしっかりと狙いを定めてから、ペンダントトップを押すという最後の操作を行った。

カチッ。

『…助けてくださいっ! お願いしますっ!! 誰でも良いから、助けて、手を、貸してくださいっ!! この声が、聞こえたの…なら、どうかっ、助けてっ、ください!!』

大きな音が出る、とは聞いていたが、ここまで大きな音とは思いもよらなかった。
ペンダントを捧げ持っている右手はそのままに、空いている左手で右耳を音の攻撃から守るように塞ぐ。
音源から遠い分被害が少ないかと思われた塞げていない左耳は、キィーーーンと耳鳴りがしている始末。
その上空気を震わせる音の振動が右手から全身にビリビリと伝播して、しっかりと歯を食いしばっているはずなのにカチカチと歯がぶつかっる音が立ってしまう。

どれだけの言葉がおさめられているのか、ペンダントからは未だに何事かを必死に訴える少女の切羽詰まった声が流れ続けている。

震えそうになる声を必死に抑え、言葉の邪魔になる荒い息遣いを意志の力でねじ伏せて、必要な言葉のみを吹き込もうと決死の思いで臨んでいた。
その時の少女の様子、小さく身体を丸めて震えていた後ろ姿を思い出して、知らず左右の眉根が寄っていき、眉間に深いシワが刻まれきるまでに時間はかからなかった。



『犯人は…、従僕、格好…して、…す。 うぅ……、髪は、栗…ろ、ひと……は、も……も、…ぃろ……っ! て……び、ひだ……の、てく………っに、ぃれず、…が!! 気を……け、……まだ、………っに!!』

段々と言葉が削られたように抜け落ちる部分が増えてきた。
音を聞き取れる言葉が少なすぎて何を伝えたいのかがいまいち伝わってこない録音内容になっていった。
せめてもう少し間にあったはずの言葉が拾えていれば良かったのに。
そう思って聞いていると、一際言葉の抜け落ちた箇所に差しかかった。

『おと……ぁ……、 お…ぃ……まっ! は…く、…ぅうっ、き…ぇ…、……けっ、てぇ…っ、…、ゃくっ、た…け……ぇっ!!!』

プツン!

言葉尻が中途半端な叫びを残して強制的にブツ切れた。
どうやら録音できる時間を目一杯使い切ってしまったらしい。

それでもペンダントを掲げる手は、まだまだ降ろせそうにない。
少女の説明が本当なら、これから同じ内容が繰り返されるはずだったから、下ろしたくても下ろせないのだった。

…カチ…カチ……カ、チン。

『 …助けてくださいっ! お願いしますっ!! ――』

 ――へぇ…スゲーな、ホントだったんだ。 あいつの言った通り、もう1回流れ始めた!――

教えられた通りの手順で操作できていた事が、この時にきちんと証明された。

掲げた手の中にすっぽりとおさまっているペンダントを透かし見て、感心してしまう。
けれど、感心ばかりしてもいられかった。
それもそのはず、真剣に体を鍛えているわけでもない下働きの少年にとって、じっと立ち続けて腕を同じ角度に保って掲げ続けることは苦行以外の何物でもなかった。

 ――うをぉ~~~っとぉ?! ゎ、わりかし、腕が限界、きたっぽい?? いやマジで、ジョーダン抜きで、やべーーかもしんねーーー!! 早く来いよなぁ~~、もぉこの際誰でも良いからさぁ~~~っ!!!――

プルプルと腕が小刻みに震える。
我慢の限界に差し掛かった頃になってようやっと、2階の通路の奥が騒がしくなりはじめた。
誰かが通路の奥から全力で駆けて来るようで、高く響く靴音がもうすぐそこまで近づいてきていた。

しばらくも待たないうちに、今までお目にかかったことが一度もないのに、まず間違いなくこの屋敷の主人一家の子息だとわかる上等な衣服を身に纏った同じ年頃の少年が、階段の際まで息せき切らした状態で姿を現した。

ガバっと手すりから身を乗り出し、こちらを見下ろしてから、キョロキョロと忙しなくエントランスホールを見回す。
その度に毛艶が最高な飴色の髪がシャンデリアが放つ光をキラキラと反射して眩く煌めいた。

最終的には不自然な恰好でエントランスホールに突っ立っている自分へと振り回していた視線を定めて、叫ぶように声を張り上げながらも鋭く尖らせた声で問い詰められる。

「そこの少年、この声の少女は何処にいる?! 何故君がそのペンダントを持っているんだ!! 何があったか説明できるだろう、今そちらに行くからそこを動くなよ!!」

同年代の少年に“少年”と言われた、何とも形容し難いモヤッとした感情が胸中に去来して深く考える前に自然と閉口してしまう。

 ――これぞ貴族のボンボンって感じの、命令しなれた喋り方だな、…一発殴りてぇ!――

けれど直ぐに、でも、と思い直す。

 ――でも…まぁ良っか。 『そこの×××(自主規制)』って言われなかっただけ、全然マシだもんな。 今回だけはそういう事にして大目に見てやろう、うん!!――

上から目線で寛大にも相手を許し、こちらに必死になって向かっているだろう同じ年頃の少年を待つ。
その到着は予想よりも大分早かった。

「説明の前に、そのペンダントをこちらへ、渡してもらおうか…!」

目の前にパッと、魔法でも使ったのか一瞬で移動して現れた少年は、先程と同様の命令口調で尊大に言い放つ。
その言葉についカチンと引っかかってしまうのは、自分の器が小さいからではないと信じたい。

 ――あ~あぁ~~、ダメだなこりゃ、やっぱ殴りてぇわコイツ。 いつか絶対に、ここを辞める前に一発は殴ろう、うん。――

当然のように放たれた命令口調での催促に、少しだけ眉がピクっと跳ねてしまったけれど、頭を過ぎった物騒な考えも、『はぁ?』と喧嘩腰の言葉が口をついて出そうになるのも何とか堪えて、無難な音を鼻から出すに留めた。

「……ん。」

心の内に再発した暴力的な考えを辛うじてやり過ごし、渋々ながら、ペンダントを持っていた右手を差し出す。
その動作を取るまでに一拍分間が空いてしまったのは、ご愛嬌。
それでも総合的に評価したなら、結果は上々。
今の自分は、優れた自制心により大人な対応が出来た、との評価で間違いなく、自画自賛して溜飲を下げる。

しかし、こちらの内心で勃発した度重なる葛藤を預かり知らないお貴族様は、当たり前だがこちらの心情を慮らず、あまつさえ調子も崩さない。
平気でこちらの琴線を掻き乱し、喧嘩を売っているとしか思えない言動を差し控えることはなかった。

「やはりこれはライラの…!! コレを何処で?! 何故操作できた?? それとさっきの内容も、一体ライラに何があったんだ!?」

「………ッチ!」

切羽詰まった様子で投げかけられる矢継ぎ早の質問には答えず、このままでは埒が明かないと短く舌を打って行動に移す。
無言のまま、ぬ…っと左手を突き出し、身形の良い“お坊っちゃま”の右手首を仕立の良い服の上からぐわしっと鷲掴む。

「んなことより、早く行くぞ!! ヤバイんだって本当に!! 一応見つからなさそーなとこに隠れさせたけど、怪我してっしさ!! 説明なんか後でできんだから来いよ、ほら行くぞお坊っちゃま!!」

相手からの返答は聞かず、グイグイ引っ張って走り出す。
足手まといになるかと思われたお坊ちゃまは、予想に反してしっかりとした足取りで遅れること無く駆けてついてくる。

体のブレも少なく、息継ぎの仕方にも余裕が感じられる。
その事で少しだけ、ほんのちょびっとだけ、下降しまくりだったお坊ちゃんに対する評価が上向いた。

 ――ふーん、貴族のボンボンのくせに、ちゃんと鍛えてんだな…。 これならもーちょい、早く走っても大丈夫そーだな…!――

クスッ。

無意識で笑っていたらしい。
何が面白いと感じたのか自分でもわからないまま、動かす足の速さをテンポから変え、一段回引き上げる。

クンッと前に引っ張る負担が増すだけか、との予想は良い意味で裏切られた。
予告なく引き上がった速度に、文句を言うでもなくきっちり合わせてくる貴族の少年に、浮かべた笑みが深まった。

タッタッタッタッタッタッ!

カッコッカッコッカッコッ!

2つの違う靴音が同じテンポで廊下を駆け進む。
広い通路を途中で左に曲がり、狭い使用人用通路へと入り込む。

クンクン……スンスン……。

時折息継ぎとは違う目的で鼻で息をする。
そんな下働きの少年の一種異様な行動に、眉を顰めはするが、声をかけることまではしなかった。

時折見えるその横顔に浮かぶ表情は真剣そのもので、今は声をかけるのを憚らせるに足る十分な迫力が感じられたからかもしれない。

不思議な雰囲気を纏う少年は、油断なく辺りをうかがいながらも駆ける速度は少しも落とさず、着実に前へと足を進めていく。

その様はまるで、危険の中に身を置くことに慣れた野生の狼の姿を彷彿とさせた。


 そんな事を思われているとはつゆ知らず、進行方向の安全を確認しつつ少女が身を潜める新たな潜伏先となった場所へと少女の兄と思しき少年を導いて駆ける。

そうして無事に、兄妹を引き合わせることに成功し、束の間の休息とばかりにその場にとどまり2人の様子を窺う。

息を整え終えると直ぐ、サッと身を翻して2人に気づかれないよう此の場を去る。

自分が請け負った役目は十分に果たした。
これ以上、あの2人に関わる必要は本来なら無い。

しかしこれも、多生之縁と云うやつか。
最後にとびっきりのお節介を焼いて、恩を売っておくのも悪くない。
そんな打算的な考えを隠れ蓑にして、ともすれば怯んでしまいそうな足を叱咤激励して動かし、本来の自分が居るべき場所である地下へと続く階段を目指して全速力で直走る。

足音を殺して姿勢も低く直走るさまは、正しく飢えた痩せ狼のそれに見えたとか、見えないとか。


ペタペタペタペタッ!

ドンドンバン!!

ガチャッ!!

「先生っ!! 急患!! 早く、準備してっ!!」

「いやうるせーーだろ?! 焦ってるにしてももっとやりかたってもんが――」

「悠長にしてたらオジョーサマがやべーーんだって!! 兄貴っぽいやつに任せてきたけど、早く行って処置してやんないとやばい状態なんだってマジで!!」

いつもと同じ調子で文句を垂れようとする医師の男の言葉を途中で遮る。
こんなモジャモジャの鬱陶しい頭をしているのに、腕は良いし処置も早いから、緊急を要する今日のような場合にはうってつけの人材だと言える。
今日は大晦日、レヴェイヨンが開かれる特別な夜だけに最悪の場合も考えていた。
けれどその予想は裏切られ、結果として良い方向に働いた。
正直、まだ救護室ここに居てくれて良かったと心底ホッとした、というのはここだけの話。

こちらの話した内容が上手く飲み込めていないらしい。
いつもなら直ぐに何かしら返答してくるのに、未だに思考停止したように固まっていて、微動だにしない。

じれったく思い、再度言葉をかけようとした所でやっと脳内が動き始めたようだ。
それから問いかけて然るべき当然の疑問を口にする。

「は? オジョーサマ、って、公爵家ここのお嬢様か?! は、嘘だろ?! どーゆーこったよ、てか何でお前がお嬢様と会えたんだよ?? お前ってこっから上、行けないはずだろ?!?」

「んな事今言ってる場合かよ?! 早くしろって、先生!! ぐずぐずしてたら、あいつ本当に死んじまうかもなんだって!!」

だからといって悠長に問答を繰り返しても居られないため、バッサリとその疑問は切り捨てて、この男が少しでも早く準備に取り掛かるのを急かすために誇張表現ではない言葉を重ねる。

「?! よっぽどの大怪我してんのか!? 傷の具合とか、何でも良い、どーゆー状態だったかできるだけ詳しく話せ!!」

いつもどこかに必ず余裕を残してあらわれる少年が、ここまで取り乱すなんて、よっぽどお嬢様は重傷なのだ、とようやっと理解する。

ガタッ。

それまで腰を下ろしていた椅子から音を立てて立ち上がり、往診用の鞄の中身を確認しながら必要な器具や備品を足して増やして、と手を止めずにテキパキと準備を整えていく。

その間も両耳は少年の言葉をまって、聞き逃さないようそばだてておく。

「怪我した時の詳しい状況は見てねーから知らね。 俺が見た時は得物持った男に追っかけられてて、隠れるの手伝っただけ。 んで、左腕のここんとこ切り付けられてて出血してた。 止血がなってなかったから縛り直して、そん時に傷の周り見たら…めちゃくちゃキモかったデギュ。」

くっしゃくしゃに顔を顰めて、思い出して胸が悪くなたようにうえっバーキと言いながら舌を口から投げ出す。

「おいこらっ、キモいデギュって何だよ? もっと状態がわかるような形容の仕方ねーーのかよ?! こーゆーときに抽象的な言葉でふわっと説明しようとすんなマジで!!」

「だってキモいもんはキモいってしか言えねーーもん、俺頭わりーーんだしさ!! んーー…なんつーか見たことねー感じ、毒じゃねーとは思うけど、大丈夫な感じは全然しなくてさ…! 何かよくわかんねー黒い細長いのが皮膚の下で伸びてってる、って感じ? 肌が白いから、透けて見えんのが余計気持ち悪くってさぁ~、あれをじっくり見る気になれなかったんだよ!」

ガシャンッ!!

「っわ、何だよ先生、人には静かにしろって言うくせに、何落として――」

「黒い細長いのが、皮膚の下で伸びてってるって!? 本当に見たのか?! 見間違いでも何でも無く、そう見えたってのか!?!」

「…っそーだけど、何だよ、先生? 何か……ヤバイの、かよ?」

喚き散らされたことは星の数ほど、けれどこんな風に鬼気迫って詰め寄られたことは無く、今日始めて此の男でも慌てることがあるのか…と驚くと同時に感心してしまった。

「やばくねーーよ、最っっ悪だよっ!! 得物持ってたって辺りで不審者が堅気じゃないって気づくべきだったか?! 兄貴っぽいって、アルヴェイン様か?! 治癒魔法を使える坊っちゃんが側に居て、血も止まってねぇーって、どれだけ最悪なんだよ!!」

独り言ちながら準備する手を早め、必要な物をあら方詰め終えたところで、ある薬品の前でピタリと手が止まる。
持っていくか、置いていくか。
迫られた2つの選択肢の内、筆頭医師がこの時選んだのは後者の選択肢だった。

往診用の鞄の口をしっかりと閉めて、ヒョイッと持ち上げて、そのまま救護室の出入り口へと足早に向かいながら少年に鋭く問いかけた。

「何処だ!!?」

「へ、何が?」

「お嬢様たちが居るのが、1階のどの辺りかって聞いてんだよ!!!」


○ーーーー○


 ぺったっぺったっぺったっぺったっ!!

「っは、っは、…っ坊っちゃん!! お嬢様も!! 無事、ですか…?!」

「……ユーゴ、か…! 良く、来てくれた。 僕は何とも、ライラが切り付けられて、血が止まってないんだ! 早く診てやって欲しい!!」

通路の先から息を切らして走ってきた人物を見て、警戒を解いて声をかける。

「大体の傷の具合は聞いてます、取り敢えず、代わりますから! 俺がお嬢様を運び……、は? 嘘だろ、ソレ…何でもう伸びて…?!」

サッと顔色を蒼くして激しく動揺してみせる筆頭医師に、公爵家の嫡男は困惑する他に返せる反応がなかった。

新しく巻かれた布に覆われていない部分から垣間見えた最悪な展開を脳裏に描き、矢も盾もたまらず呆気にとられる嫡男に向かって鋭く詰問する。

「まさかとは思いますが、魔法、使ってないですよね?! お嬢様に、治癒魔法なんかかけてないですよねぇ?!?」

『否定してくれ!!』と顔に書いて予想外の剣幕で詰め寄られ、驚きつつも首を縦に2、3回動かしてから言葉でも答えた。

「使っていない。 毒かもしれないと聞いて、取り敢えず雑菌がこれ以上つかないよう傷口を覆っただけで何も、……僕にはできなかった。」

「良かった!! 焦った、ホント、でもなら何でだ?! まぁいーーわ、兎に角、運ぶのは中止っす!! ここに寝かして下さい、早く!!」

羽織っていた白衣を脱いで床に敷く。
その上を顎で示して、ライリエルを寝かせるようアルヴェインへ促す。

「あ…あぁ。 これで……いい、か?」

「えぇ、もぉーーじゅーーぶんっすよ!! お嬢様、聞こえますか? ちょっと触りますからね、傷口!! 痛むかもしれんですが、ちーーっと我慢してくださいね!!」

固く結ばれた結び目を解くのではなく、胸ポケットから取り出したメスでさっと躊躇なく切りつける。
高級そうな布地は音もなく裂けて、ハラリと白衣の上に落ちていった。

「おいっ、嘘だろ…? んな早く根が伸びるなんざ、ありえねぇーーだろ!?」

顕になった少女の腕は、お世辞にも良好な状態とは言えない、何とも不気味な状態へ変貌を遂げていた。
薄い肌の下を黒い根が伸びゆくさまが異様にはっきりと、まるで表面に浮かび上がっているかのようにしっかりと見て取れた。

確かに、あの赤銅色の髪の少年が言ったように、気持ちの良い見栄えではなかった。

けれどここで1番不味い事態は、その根が伸びた長さが長すぎることだった。

既に、今後の処置を決める区切りとなる10cmに届きそうなほど根が急成長してしまっていた。

床に敷いた白衣の上で仰向けにぐったりと横たわる少女の左腕を取り、今度は位置を動かしにかかる。
緩く肘を曲げて体の上に置かれていた手を掬い取り、肘をピンと伸ばし直して掌を下にして白衣の上へと置き直す。

そうすると前腕部にパックリと口を開けた切創の状態がよく見えた。
赤く覗く肉の間、切創の中央部分にさくらんぼの種くらいの大きさの黒い異物が埋まっている。

これを体内から早急に取り出さないとならない。
けれど、この種が発芽してしまった今となっては、種だけ取り出しても意味がない。

こんなに早く発芽してしまうこと事態が異常事態ではあるが、今はその事はおいておく。
ともかく、このアゴニゼと命名された魔法植物は発芽すると同時に、何処からでも再生可能な性質に変容を果たしてしまっている。

マナを宿した生物の体内に埋まっている限り、宿主と周囲のマナを養分にしてたった1mmの欠片からでも再生してしまう。

そして10cm以上伸びると手の施しようがない、と云うよりは取れる手立てがたったの1つしか無くなってしまう。
それは間に合わなかった場合の最終手段であり、できれば一生選択することが無くて済む選択肢であって欲しいと切に願ってやまない。

なので今、取れる手立てはやり尽くし、そんな未来が実現されないよう全力を賭す必要がある。

「何でもうここまで成長しちまってんだ?! ありえねぇ、クソッ、意味がわからん!! けど四の五の言ってる場合でもねぇ!!」

これ以上悠長にしていられる時間はない。
正に一刻の猶予もなく、断崖絶壁に追い詰められ、究極の選択を迫られる状況に立たされている。

迷ったのは一瞬。
意を決し終えた筆頭医師メドゥサン・シェフの行動は早く、朦朧とした意識の中を彷徨い、ふわっふわと現実と夢現を行ったり来たりしている少女へと語りかける。

「…お嬢様、ライリエルお嬢様!! 俺の声が聞こえてんなら、辛いでしょーけど目開けてもらっていーーっすか?」

…ぱち……ぱち、すぅ…。

ぐぐっと力を込めてから開かれた目蓋、覗いた瞳は虚ろな瑠璃色で、直ぐに力を失くして閉じようとする目蓋に覆い隠されそうになる。

「ぁっと、できればそのまま、目ぇ開いててくんねーすか? 目の動き見て、反応確認したいんで。 直ぐすみますから、ちょっとの間辛抱頼んます! “はい”なら1回、“いいえ”なら2回、瞬きして貰っていいすかね? ありきたりだけど、これが1番わかりやすいんで!!」

…ぱち。

「聞き届けてくださってどーも! んじゃ、手短に説明しますね!」

にかっと歯を見せて笑う口元が霞がかる視界でもぼんやりと見えた。
どうやらこの医師は、いつだったかと同じように私を励まそうとしてくれているらしい。

「左腕の傷口の真ん中辺りから肘に向かって10cmくらい、切開します。 麻酔が届くのを待ってらんねーからこのままやります。 だから泣き叫ぶくらい痛い、今お嬢様が感じてる10倍は痛いって、思ってたほうがマシに感じるくらいっすかね?」

つらつらと支えること無く紡ぎ出される言葉は、信じられない内容の羅列だった。
普段の元気な自分であれば、『あいや待たれいユーゴ氏!?』と心の中で大いに待ったの口上を喚きたてていたことだろう。

けれど今の私には、ぱちり…ぱちり…、と力なく瞬くことでしかこの胸中を表すことが適わない。

「わかります、嫌っすよねこんなん。 でもやります! 種本体と、伸びちまった根の両方を手遅れになる前に摘出するためにはこれしか方法がねーーんすわ。 なんで、ちょっとの間辛抱してもらえませんかね、お嬢様?」

がなるでもなく、喚くでもなく、ただ彼の中ではもう既に決定している事柄を淡々と語り聞かされて、頷くことを優しく強要されている。
結局今の私には拒否権なんて無いというのに、それでも私に同意を求めてくるとはこれ如何に…。

無意味な問答、この時間がなければもっと早くに処置を進められているはずだというのに。
説明無くただ黙って実行してしまえば済む話なのに、律儀に同意を求めてくる筆頭医師の責任感の強さに、込み上げてくる笑いが抑えられなかった。

「……ふ、わかり……た。 おね、…しま……!」

出そうになかった言葉が笑いの力を借りて、ほんの少し喉を震わせる事に成功する。

脂汗を浮かべて疲れたように眉をハの字にして笑う少女。
その表情を見て、この男はこの瞬間何を思ったのか。
それは絶対にこの施術を成功させる、決して違えること無い決意であり誓い、その事を今一度強く心に抱いたのだった。

けれどそんな事はユーゴだけが自分でしっかり自覚していれば問題ないので、言葉にして伝えることはせず、他の言葉を語りかけることにしたようだった。

「…ありがとうございますお嬢様。 目、閉じてて良いっすよ、ちゃんと伝わったんで…! 少しの間楽にしてて下さい。」

何だかとっても、今までで1番優しげに微笑まれている気配がする。
でも気を抜くとすぐに、今の私の目蓋は自然に降りてきてしまって、十分な視界が確保できなくなってしまう。

少女から同意を得られた流れで、次はこの場での保護者代理、アルヴェインへと顔を向け、身体から向き直って、姿勢も含めて真正面から対峙する。
今正に目の前で決定した内容をこれから確実に実行する為、念押して釘を刺しにかかる。

「ってなわけで坊っちゃん、止めんでくださいね、俺がこれからすることを、絶対に邪魔せんで下さい!! もし少しでも止めたいって思ってるなら、今直ぐここから離れてください!! 自主的が無理なら、強制的にご退去願いますんで、悪しからず。」

胸ポケットから取り出された魔導具には見覚えがある、普段よりわずかに大きく目を開き、驚きを顕にしたのはアルヴェインだった。
実物を目にしたのは勿論初めてだったが、図鑑で一度目にした覚えがある代物だった為、驚いてしまった。
確か…相手の身体の自由を奪い、捕縛する為の魔導具だったはず。

そんな物を常備しているなんて、一体今までにどんな環境下で施術を行ってきたというのか、その経験を詳らかにするべく問い詰めたい衝動に駆られる。

けれど好奇心に富んだその考えが頭を擡げたのは一瞬、次の瞬間にはいつもの冷静な自分に立ち返り、抑揚を抑えた声でここに留まらせて欲しいと願い出る。

「…止めはしないと約束する。 だからライラの側にいさせて欲しい、何も出来なくても、せめて側で見守らせて欲しい。」

感情が滲まないよう、完璧に自制してみせようとして、敢え無く失敗。
絞り出された声は情けなくも所々頼り無げに震えてしまった。
こんな事で容易く動揺してしまう自分が情けない、そんな思いから自然に目線が下がってしまい、まるで頭を下げて懇願しているような姿勢になってしまった。
慌てて取り繕う前に、目の前の筆頭医師が口を開く。

「何もしないで側にいられるのは困ります、なんでガッツリ手伝ってくださいよ! 腕の方は俺だけでも押さえられるんですけど他が無理なんで、坊っちゃんはお嬢様が舌噛まないよう口元押さえるのと、暴れて頭打たないよう押さえてて下さいや!! 結構精神的にしんどいと思いますけど、できますよね?」

図々しくも自分に対して顎で使うことを宣言し、こちらの同意を待たずに役割を振られ、決定事項のようなそれを確実に実行可能か、こちらの覚悟の程を試すように確認されてしまった。

不敵な笑みを口元に浮かべる、この男は一体誰であるのか一瞬だけわからなくなってしまった。

普段は決してこんな態度で接してこないのに、と不思議に思い目の前の男をまじまじと見返す。
医師として対峙する場合には我が強まり、誰を相手にしても怯まない意志の強さを顕著に示し、相手を自分のペースに巻き込み、絡め取って従わせてしまうのだから、大したものだといっそ感心してしまう。

自然と自分の口元が緩んでくるのがわかり、そのことで余計に可笑しくなってしまってしょうがない。

「…ああ、問題ない。 どの程度押さえられえば良いんだ?」

「そぉーっすねぇ、顎が動かないくらいの何かを噛ませられれば1番安心なんすけど…。 腕とかって、いけそーーすか?」

協力させる事に成功し、遠慮がない物言いに拍車がかかった。
敬語かどうかも怪しい言葉遣いで、問いかける言葉に込められた感情は真剣そのものだった。

確かに、この場でライラの口に嵌りそうで、尚且つライラが噛み付いても余計な怪我を負わなさそうな手頃な固い物は、自分の腕の他に良さそうなものは影も形も思い浮かばなかった。

「腕か、わかった。 それも問題ない。 そちらの準備が整ったら、言ってくれ。」

「ははっ、ホント物分りが良くって助かります、言ったこっちが心配になるくらいっすわ!」

頷き1つで了承されたのが可笑しかったらしく、カラカラと笑われた。
こんな時に不謹慎だ、とは…不思議と思わされない、清々しさのみを感じる笑顔だった。

「んなら待つ間坊っちゃんも準備してもらっていいっすか、噛ませる時は服の上からでお願いしますね? ハンカチとか…スカーフでも、あれば上から巻いてもらって、噛まれて皮膚が裂けるのも少しは軽減されるし、万一裂けちまっても、そーしてれば多少は坊っちゃんの血がお嬢様の口に入るのも防げるでしょうから。 ほら、他人の血液って舐めたりすっとあんま良くないんで、お互いの為っってね!!」

こちらには視線を寄越さず、指示のみを口頭で出してくる。
見ればわかるが、その間にも忙しなく腕を動かしてこれから行う手術の準備を着々と進めている。
用途のわかるものから、不明なものまで。
浄化効果を付与されたトレーの上に、恐らく使用する順に自分の手前から遡って並べていく。

その事で理解する。
この筆頭医師の頭の中では既に、手術の段取りは完了しており、後はそれに従って実際に展開していくのみなのだという事を。

「わかった、そうしよう。 …これで、いいだろうか?」

ならば自分も、足で纏いにならぬよう今できる事を然るべく行うのみに集中し、正しく手助けとなるよう動くのみ、と心に決める。

首元に巻かれていたスカーフを引き抜き、言われる前に浄化を施してから袖諸共腕に巻き付ける。
たわんだりしないよう、キツめに巻きつけてそのままを維持して、口と手を使い同時にギュッと引っ張って結びあげた。

念のため、もう一度浄化を施してからユーゴに声をかけ、判断をあおる。

最後の仕上げに、普段から邪魔でしか無い前髪をキュッとまとめて引っ掴み、雑にピンで固定して自分の視野を確保し終わったユーゴのペツォッタイトの瞳と、初めて正面から目を合わせる。

「…ん、あとはぐぐっと拳握ってもらってから噛ませて、頭は絶対浮かねぇーよーに空いてる手の掌のココで…お嬢様の額も押さえてもらって……、良いっすね、大丈夫そーーっす! んなら俺も、良さげな位置に移動してぇ~~~っと!!」

施術を行う際の自分が身を置くに相応しい場所を総合的な判断から割り出し、仰臥位の少女の頭の左横、左の肩峰の前辺りに移動する。
切創への光の当たり具合を確認し、丁度よい角度を見つけて少女の腕を置く位置を修正する。

そして最後に、これが1番肝要となる。
自分の足を使って少女の左腕を押さえる為の両足の置所を確認する。
大体の目ぼしい位置は当たりを付けておいたが、実際にやってみて自分がやりやすい位置へと微調整していく。

足の爪先と膝蓋のみで床に触れてバランスを取り、左下腿で少女の左上腕を押さえ、右下腿で少女の左手背を押さえるよう陣取る。
常に体重をかけるのではなく、暴れそうになったら立てた爪先を下ろし下腿で押さえるのだが、これは殆ど勘で行われるものだった。

微かに触れ合わせて感じ取れる衣服越しの肌から、筋肉が蠢く前の気配を察知して、反射によって押さえ込む。

この感覚を会得するに至ったのは、奇しくも従軍して赴いた戦場でだった。
誰かの補助が期待できない中、この身一つででも確実に処置しなければならなかった。
そんな特殊な環境下でだからこそ、身についた実践的な技術だったように思える。

「…っし、んじゃしっかり押さえててくださいね!! お嬢様、ホント少しの間なんで辛抱してくださいよ!!」

これから自分が痛みを与える少女に向かって励ますように言葉をかけたあとは、もう脇目をふる事は無い。
先程の明るい声の調子とは裏腹に、患部に向ける目は真剣そのもので、ピタリと照準が固定され、揺らぐことも逸れることもなく真直ぐに視線が注がれていた。

ス…と傷口の裂け目の際に、迷いなく右手に持ったメスの切っ先を当て、柔らかな肉に沈み込ませる。

プツ…ン、スーーーーーー……、ツプッ。

透けて見える根の影を上からなぞるように、真横に向かい真っ直ぐ切り開いていき、ピッタリ10cmの距離まで動かしてから止め、沈めていた柔肉から刃の切っ先をそっと引き抜く。
メスが通ったあとはキレイにぱっくりと裂き開かれ、じわじわと血が滲み出てきて、切創の縁から赤い筋が細く流れ落ちていった。

それに慌てるでもなく、慣れた手付きでささっとガーゼをあて、滲み出た血液を吸い込ませる。
術野を邪魔しない箇所に置かれたそれらは、みるみる内に切創から血を吸い出し、肉の隙間を掻き分けて成長した黒い根の全貌が直に見られるようになった。

次にユーゴが手に取ったのは金属製の器具だった。
横幅の広い洗濯ばさみのような形状をしたそれの口部分を大きく開き、今切開してできた真新しい傷口にテキパキと装着していく。
腕の裏側から装着して、切創の上と下に外側に向かって緩く湾曲した先端部を食い込ませ、摘み部分を操作して引っ張り加減を調整し、外れてこないよう摘み部分を寝かせてしっかりと固定する。

傷の長さによっては複数個使用する場合もあるが、今回は10cmということで、始点から終点までの距離を1つでカバーできた。
それは鉗子と鉤を足して2で割った器具らしく、今の状況にはうってつけの器具でもあった。
両手の自由と術野の両方を確保し、確実に患部を固定する目的で使うもののようだった。

これで十分な術野を確保しつつ、器具の外れを心配する必要もなく、摘出に集中できる環境が整った。

淡々と進行する施術の間、痛みをダイレクトに受け止め続ける少女が黙っていられるはずはなかった。

「…っ?! ん!! ぐぅっ!! んうーーーーーっ!! んんうっ、ぅ!! うっうっ、うんぅーーーーっっ!!!」

メスの刃を受け止めてから直ぐに、身も世もなく呻き出し、身を捩って逃れようと暴れ出す。
けれどその少女の上半身はびくとも動かせず、上下左右、様々な方向に激しく捩っても適わず、足のみをバタバタと煩くばたつかせることしか出来ないでいた。

どうやっても逃れられない痛みに、涙腺が即座に瓦解して決壊する。

ボロボロっと一気に涙が噴き出して、幾許もしない内に目元から頬にかけて一帯が濡れそぼっていった。
幾筋も涙が流れ、後から後から溢れ出す涙がその跡をなぞって頬を伝いボタボタ音を立てて白衣の上に落ちて大きなシミを幾重にも作っていった。
清廉な白一色だった白衣に、瞬く間に薄灰色の斑模様が染み広がっていった。

兄の腕を噛まされ口を塞がれても、喉奥から絶え間なくお見上げてくる獣のような呻き声は止められなかった。
少女のあげる、悲鳴にも似た呻きが両の耳を劈く。
それでも施術を執り行う医師の手の動きは揺るがず、浮かべる真剣な表情にも一分の変化もない。

少女が喉奥から迸らせる獣のような呻き声が辺りに反響してこだまする中にあって、まるで何も聞こえていないような平静さで、予めプログラミングされたかのように淀みなく手を動かす。

何百回、何千回と繰り返し、体に染み付いた動作であるように、医師の手は休み無く正確無比に動き続ける。

「……っライラ、我慢するな! 堪えなくて良い、もっとしっかり…、噛み付いて大丈夫だ!! 僕は痛くない、だから気にせず、噛んで良いんだ!!」

「ぅううーーーっ、ぅ、うう!! んんぐぅうっ!!」

ブルブルと動かない頭を震わせて、否定なのか肯定なのか、判断のつかない呻き声を鋭く迸らせた。

「うっし、もーーーーちょいっ! あと……ちょと、……っし、見えた、見つけた、ここまで来りゃホント後ちょっとだかんな!! しっかり、は、し過ぎてたな、お嬢様も、坊っちゃんも!!」

他の根よりも深く潜り込んでいた先端部をやっと発見し、ここに来て初めてとなる明るめた声を上げた。
鉗子を正確に動かしてその首根っこに狙いを定めてしっかりと――――、把持せしめた。

「おーーらよっと、最先端部掴めましたっと!! これで全部、取れましたよぉーーーっとぉ!! 後は縫うからな、ちぃーーーっと、チクチクすっけど、堪忍な!!」

そこからは早く、種子側と先端部を同時に、根が途中で千切れないよう注意してゆっくりと持ち上げる。
名残惜しげに絡みついていた根が剥がれ、ピチピチピチッという小さな音を最後に、私の体内から完全に取り払われていった。

蓋を開けておいた底の深いガラス瓶に、種を伸びた根っこごと放り込んで間髪入れずに蓋を被せる。

それからは施術に続きに戻り、手に持つ器具を鉗子から持針器に持ち替えて、準備しておいた糸の通った細い針を危なげなく摘み上げる。
そこからの動作もまた、頭の中で何度もシミュレーションしていたかのように、無駄なく最小限の動作でハイスピードで進行していく。

チャッ、チャッ、チャッ、チャッ!

素人目にはどうやって針が動かされているのか判別出来なかった。
魔法のように自動で糸が肌を縫い合わせているような、そんな錯覚を催してしまうくらい、目にも止まらぬ早業過ぎた。
結局何がどうなっているのかわからないまま、気が付いたときにはパチンッと糸の切れる音で縫合が完了した事を理解するだけとなった。

「よしよしよぉーーーーしっとぉ!! 縫合完了!! 良く頑張った!! マジで偉かったぞお嬢様も坊っちゃんも!! ホント吃驚だよ、あんたら兄妹の我慢強さにゃ脱帽だ!!!」

ハの字に寄せられた眉の下で、気怠げではありながらもペツォッタイトの瞳は優しく細められていた。
その瞳で私達の顔を交互に見てから破顔して呵い、彼らしい遠慮のない言葉遣いで手放しで称賛された。

ぱち……ぱち、……ぱち…ぱち。

瞬く度に、睫毛に纏わりついていた涙がポロッポロッと小さな塊になって落ちていく。
ゆっくりと時間をかけて、ガチガチに力んでいた顎が弛緩していき、噛まされていた腕を引き抜けるまでに緩んだ。

「はぁ………っ、………っはぁ…?」

呻き続けたせいで喉が枯れてしまい、言葉が全く音を伴ってくれない。
はくはくと言葉の形に口を動かして、振動を欠いた荒い吐息だけが吐き出されていくばかりだった。

それでも、私の口と目の動きで何を訴えたいのか正確に理解して、長兄は得心いったように安心させるよう微笑んで慰める言葉をくださった。

「あぁ、心配ないよ、ライラ! 僕は大丈夫だ、ライラが途中から加減してくれたからな…、痛くない。 今は自分の怪我の事だけ…、いや、良くなることだけを考えて、安心して休んで欲しい。」

いつもと変わらない、温かくて優しい手。
見知った掌が触れてくる感触と、近くに居てくれる長兄の存在とに慰撫される。

ナデ……ッポン、ナデナデ…ッポン。

一定のリズムで拍子付けて撫でられて、極度の緊張感から強張っていた体と、限界までピンと張り詰めていた心から、ゆっくりと余計な力が解けて消えていった。

安心して、安心しすぎて、ふぅ~~っと意識を手放しそうになったとき、ここには今居ないはずの人物の、初めて聞くような硬い声に阻まれてしまった。

「ライリエルお嬢様、サミュエルでございます。 このような時に恐縮ではございますが、少々私めの質問にお答えいただけませんでしょうか?」

ぱちり……ぱちり…ぱち…ぱち。

頑張って瞬きを繰り返し、目蓋が閉じないよう注意しながら、時間はかかったものの何とか声のした方に視線を向けることに成功する。

そこには声と同じく、初めて目にする真顔の領地家令アンタンダンの姿があった。
胡散臭さを取っ払ったサミュエルの表情は、常以上の冷酷な雰囲気を見る者に印象付けてくる。

初めて顔を合わせた見知らぬ人物と対峙した心地になり、新鮮な驚きを感じながら見つめ返す。
空の蒼を写し取っただけのガラス玉のように、無機質な光を反射する領地家令の瞳に映った自分は――。

それが自分の顔であると直ぐには理解できなかった。

疲労が色濃く滲み出し、生気を消費し尽くした酷く儚げな風貌に見え、このまま目を閉じてしまったなら永遠に目覚めないかもしれない、と見る者に印象付けてしまいそうな全く以って弱々しい有様だった。
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