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●本編●
95.【使用人とランコーントル[再]】Le cas.2:筆頭医師②〜合縁奇縁に導かれ、気づけば地獄の一丁目…?〜
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先に訪問した厨房もそうだったけれど、今居る救護室も含め、使用人が一日の勤務時間の大半を過ごすのは地上ではなく、この地下となる。
けれど、例に洩れず此の屋敷は地下でさえも、イメージしていた地下とは程遠いものだった。
“地下”という言葉の響きから連想するようなネガティブな要素は、この屋敷の地下には全く存在しないと云っていい。
例を挙げるとするなら、ジメジメ感も、薄暗さも、閉塞感も、小汚ささえ、皆無だった。
地上階と変わらぬ空調魔法が施された地下階は、快適そのものな温度に保たれており、足元からじわじわとせり上がってくるような冷えた空気は無く、真冬であると感じさせる隙間風さえ吹き込んでこない。
照明も金皇の光に似た柔らかな光量で満たされ、陰りを探す方が困難なほど、廊下から室内まで、あらゆる場所が照らし尽くされている。
地上階に比べれば天井までの距離はぐっと近づいて見えるけれど、それでも2mは優にある、寧ろこれくらいが丁度よいと感じるくらいの高さだ。
そして汚れなんてものは勿論見当たらない。
天井も壁も床も、経年によって色味は濃くなり、年季を感じさせる味わい深いものに変色していそうだが、シミやカビ、埃の蓄積された痕跡といったものは一切見当たらない。
魔法によるものか、日頃の使用人たちの勤勉さの賜物か、その区別は残念ながら判断できないけれど、清潔清掃はきちんと守られている、と云う事実は素人目にも判りすぎるほどに如実に判断できた。
今現在、何とか在室を許されている救護室も同様で、白を基調にした室内は、どこもかしこもきっちりと整理整頓されおり、見える範囲すべての場所に清掃も行き届いていて、床の上にだって髪の毛一本すら落ちていそうになかった。
ぐずぐずと鼻を啜りつつ、本来であれば診察を受ける者が腰を下ろすことのない、座面がふっかふかの背もたれ+肘置き付きの、見るからにハイグレードな椅子に腰掛けながら、泣きすぎて腫れぼったい目を動かし、何気なさを装って室内へと目線をフラフラ泳がせてじっくり観察した結果、前述した好印象な感想を抱いた今日此の頃。
コト、スススーー………。
目の前にスライドされてきたのは、白地に淡いピンクの小花柄が愛らしい、ソーサーに載せられたティーカップだった。
そこにはホカホカと温かそうな湯気をたてる、淹れたての紅茶が適量注がれていた。
「さっきよか、落ち着きましたかね? ライリエルお嬢様。」
声のした方を見て、何とも言葉にし難い、遣る瀬無い気持ちが込み上げてくる。
――もっと近くに居てもらって構わないのだけど…? 何でそんなに座りづらそうな机の横に居るのかしら?? 私、目茶苦茶わかり易ぅーーーく距離置かれてるんですけど、どういう心境のあらわれなの???――
紅茶のカップを遠い位置から腕を伸ばして、診察の際に使う事務机に腹ばいで乗り上げて私の前まで届けてくれた姿に、普通に持ってきてくれたらいいのに、と思わずにいられなかった。
声の主たる筆頭医師Drユーゴは、今現在この救護室に居る唯一の医師だった。
先程まで在室していた看護師長ローレンス・ラノワは、偶々忘れ物を取りに来ていただけだったようで、私が泣き止むのを待たず、カラカラとした笑い声を残してサッサカ退室した後だった。
宅の可愛いメリッサは、と云えば、もっとずっと前に此の場から姿を消している。
私を室内に送り出す前に、『今回も長引くのだろうから、用件が終わるまでの間はせめて、自分の職務を遂行する時間にあてたい。 なので、終わったら“呼び鈴”で知らせて欲しい』と、願望を隠すこと無く全面に押し出した訴えを聞かされ、頷く他にあの時の私に選べる選択肢は、全く用意されてはいなかった。
今回改善された点をあげるならば、ちゃんと事前に説明してからこの場を辞したことだろうか。
「はい、もう大分落ち着きました。 驚かせてしまってごめんなさい…、もう、大丈夫です、………多分。」
早速、淹れていただいた紅茶を頂こうとカップを持ち上げ、ゆらゆらと揺れ動く湯気を吐息で数度乱し、口をつけてコクリと飲み下す。
優しい甘みが口の中広がり、ほわっと解けるようにリラックスして、温かさと共に全身に染み渡った。
「や、多分じゃ困るんですけど?! それにですねぇ、驚いたっつーーより、心底困ったって方が正しい感じですし…ね?? 何でかなぁホント、寿命が縮む思いばっかっすよ、昨日からずぅ~~っと!!」
「うぅ…、こんなに泣くつもりはなかったのですけど、どうにもこうにも…止まらなくって、ゴメンナサイ。」
――自分の感情なのに、全然歯止め効かないし、制御もできないしで、ホント、困る!!――
「謝らんでくださいよ、後が怖いんで! ホント俺の生存が危ぶまれていく一方なんで、これ以上は謝罪せんでください!! はい、此の話はこれにて終了!! んでもってこのまま解散できれば尚良いんですけどねぇ…。」
チラリ、と期待に満ち満ちた視線を向けられていると嫌でも感じたが、そこは素直に頷けるはずもなく。
「駄目ですよ!? 解散はできません、まだ何も始まってないので、絶対ダメです!!」
――あいや待たれいユーゴ氏!? チャンスを下されっ!! お願いだから私の話を聞いてくださいなぁ~~~っ!!――
「ハハッ、デスヨネ、知ってた(泣)!! んじゃ改めて本題聞いてきますけど、本日お嬢様がお出であそばされたご用件は、一体何でございましょーかねぇ~~?」
泣き笑いを浮かべた口元しか見えないが、恐らく前髪に隠された目は、発せられた言葉の震え具合から察するに、ウルウルに潤んで涙をたたえていることだろう。
嫌々渋々ででも、追い返さず(多分追い返せないだけだろうけど…)に話を聞こうとしてくださるDrユーゴに、感謝しかない。
居住まいを正し、喉の調子を整える為に咳払いを数回して、早口になり過ぎないよう注意して話を切り出す。
「単刀直入にお伺いします! お母様が飲まされていたあの栄養剤の成分は、どれくらいの間体内に蓄積されたままになるのでしょうか? それと昨日のように、突然倒れたり、それ以上の…命に関わるような…危険性はまだ残っているのでしょうか?!」
私の質問しそうな内容を予め予想していたのだろう。
別段驚いた風もなく、かしかしと緩めに後ろ頭を掻きながら、慎重に選んだ言葉でやんわりと断ろうとされた。
「やぁ~~っぱ、気になっちゃいますよねぇ…、奥様のこと。 でもですねぇ、それについては――」
「お願いですから、子供だからと言葉を誤魔化したり偽ったりしないで、有りの儘でお答えいただけませんか!? 私、ちゃんと理解できます、専門用語でなければ、大抵の言葉の意味はきちんと理解できると自負してます!!」
身を乗り出して言い募る。
『子供には教えられない』的な言葉が飛び出すその前に、先回りして相手が口にしそうなセリフを奪って否定し、それを相手の言葉に被せることで、それ以上この断り文句が継げないように、文の途中だろうとお構いなしにゴリ押してぶった斬る。
「…確かに、お嬢様は3歳児らしからぬ理解力をお持ちだと、俺も間違いなくそぉー思ってますよ? だから、偽らずにって部分だけ、ここだけは全力で否定させてもらいます。 俺は患者本人にも患者の家族にだって、言葉を偽ったことは一度もねぇーーっすから。 言えんかったり、言わんかったりするこたぁーーあっても、偽ったことだきゃねぇーーっすから! そこだけはしっかり訂正させてもらいますよ!!」
がしがしっ、と先程よりも強めに頭皮に爪を立てながら、本人的には譲れない箇所らしい言葉を力一杯に意気込んで訂正する。
「それに、さっきだって断ろうとしたわけでもなかったんすよ? 『ご家族がお揃いの時に説明します』って、言おうとしてただけなんすけどねぇ??」
「そうなの…ですか……? えぇと、でも、それは…この場では教えてくださらない、と…いうこと、でしょうか??」
目に見えてしゅんと肩を落とし、おずおずと尋ねる私に、Drは意外な言葉で返してきた。
「…まぁ、旦那様から言って駄目とは言われてませんし、奥様からも別段止められてませんからねぇーー…。 答えられる範囲で良ければ、先にお嬢様にだけでも、お答えしましょうかねぇ~~? ま、現時点で言えることは殆ど無いっちゃーーないんすけど。」
少しだけ頭の中で考える素振りを見せた後、首を擦りながら、答えたれる範囲でなら、との条件付きで教えてもらえる話の流れに切り替わった。
ぱっと表情を明るくした私を一瞥して、どこからどこまで説明するか、瞬時に決め終えたDrは昨日話した内容に触れながら説明を開始した。
「昨日も少し言ったと思いますけど、欠乏気味の人間が適量飲んでるだけなら命に関わるようなものにはならないんすけどね? 今回は過剰も過剰、短期決戦で殺す気満々なやつだったんで、ちぃーーっと、正常値に戻すには時間がかかりそーっすわ。 しゃーないんすけど、ホント摂取量が半端なかったんで! 今の段階じゃ、自然に消費されるか体外に出でくのをのを待つ以外、選べる手立てがねぇーーんすわ。」
わしゃわしゃっと髪をかき混ぜてから、手立てが少ない理由を話し始める。
「今回過剰配合された成分のナヴィタル1ってのが、そもそも厄介な代物で、少量摂取するだけで事足りるように成分を濃縮して、諸々の効果が出るのが早まるよう品種改良されたものだったんすよねぇ~~…。 でも、昨日あの後採血して調べた感じだと、どぉ~~も従来のから手が加えられてそぉーーなんすよねぇ、これが。」
今お母様の体の中に蓄積されている栄養剤の成分が、Drユーゴの推察通り品種改良された未知なる性質のものであったとしたら、従来の成分通りと見誤ったままで対処していたら、それこそお母様の命が危なかったことだろう。
従来型であれば問題なかった成分が、新型では問題を起こす要因になりかねない。
何が無害で、何が有害と成り得るのか、それが全くわからない状態で1つでも対処を誤れば、結果は最悪の方向へと簡単に突き進んでいってしまう。
許容量を遥かに上回る、完全なオーバードーズ状態なお母様には、もう一滴分の追加も許す余地は残されていない。
「なんで、手元に残った錠剤の成分を詳しく調べてからしか、奥様の症状に合った有効な手立ては考えていかれないっすね。 でもってそれを調べる人員は最小限に留めてぇーーんで、ここのお抱え薬剤師がひとりでやってるっつーーね。」
成分の調査結果が出るまでの間、医師として出来ることは限られてくる。
慎重に慎重を重ねて、お母様のその日の体調に合わせてその都度見直しながら、手探りで対処していくしか道が無い。
それもこれも、全てはあの国策が原因であると言いたくなってしょうが無いのを堪え、魔法は除いた方法で対処していく他にない現状が憎らしい。
もし万が一、与えたら駄目なモノ、蓄積されたナヴィタル1との相性最悪な物質が身近な食物に僅かでも含まれていたら、お母様は今度こそショック症状を起し、お腹の中の赤ちゃん共々命を落としてしまいかねないのだそうだ。
「それを待つ間に精密検査とか繰り返して、って本当ならやりたいとこなんですけどね。 今の奥様にそれはできねーってのが、また厳しいんっすよねぇ~~、正直な話ぃ~~…。」
臨月のお母様に検査漬けの日々なんて、そんな身体的負担はかけさせられない。
「まぁーーーね、何とかしますけど! 蓄積されたナヴィタル1が悪い方向に効果を発揮しないよう対処して、徐々にでも確実に薄まってくように、そう促すための手は尽くしていきますけどね!? 即効性のある対処法は今無いんで、気長に時間をかけてやってくしかないです、って話ですね。」
「そう…ですか、……じゃぁ、突然倒れたりってことは、もう起こらないんですよね? 時間をかけて薄めていけば、後遺症もなく、完治できるんですよね?!」
「んーー、それも何とも言えませんね。 激しく動き回ったりしない限りは大丈夫だと思いますけど。 あとわ…後遺症云々ですけどね、残念ながら安易に確約はできねーーっす、そこはホント申し訳ないんすけど、俺は『絶対に完治してみせます』とは口が裂けても言えません。 でも、全力を尽くすことはお約束します。 俺に出来ることは全部、全力でやりきりますから。 そこだけは、信じてくださってて良いんで、宜しく頼んます。」
「……わかりました、話してくださってありがとうございます。 お母様のこと、どうぞ宜しくお願い致します、Drユーゴ…様?」
「“様”は一生つけんでください、滅茶苦茶いらねーーすわっ!!」
尊敬の念を込めて追加してみた敬称は、筆頭医師の肝を冷やしただけで終わり、期待したような好感度アップに繋がりそうな効果は得られなかった。
小難しい話をすると、甘いものが欲しくなるのは異世界だろうと変わらない、人間の摂理のようだった。
私のような人間には特に、顕著にその症状が顕現しているように感じるのは……恐らく気のせいであると信じたい。
救護室に詰める医師たちが各々持ち込んでいた菓子類から見繕って、お茶請けに出された菓子を遠慮なく頬張りながら、昨日もう1つ気になっていた事柄を話題に上らせる。
きっと、この和んだ空気を壊す類の内容にはならないだろう、そう安易に考えて話題に選んでしまった自分を、後々に後悔して責め詰ることになろうとは、此の時の私は知る由もなかった。
「そういえば、昨日ユーゴ先生も驚かれてましたけど、お父様とお母様と、この屋敷に勤める以前に面識があったのですか?」
「あーー、やっぱそこも気になっちゃいます? あん時も不思議そうにしてましたもんね~、お嬢様。」
私がちまちまと食べているのと同じ菓子を、一口で平らげた御仁との距離は、ちょっと縮まっていた。
現に、物理的距離は正常値に引き下げられ、問診を受ける患者と問診する医師、的な距離にまで劇的な回復を見せていた。
「あ、親愛の証に、気軽にライラと呼んでくださって構いませんよ?」
だから調子に乗ってポロリと、近い距離に居る筆頭医師には爆弾にしかならないセリフを安易に投下してしまった。
「俺に死ねって仰るんで?! 無理、ムリムリムリムリぜっっっっってぇーーーに、呼びませんからね!! 一生お嬢様ってだけ呼ばせてくださいお願いしますぅっ!!!」
その結果私にもたらされたものは、全身全霊をかけた、渾身の拒絶。
ふわっふわと上昇気流に乗っかり浮かび上がっていた気分は、墜落せざるを得なかった。
「……寂しいですが、はい、………わかりました。 現状維持で、いいです、我慢します、はい。」
「うわぁ~~…、これ、どっちも地獄しか待ち受けてねぇやつじゃね? こんな2択ってある?? 受け入れたら殺されそうだし、断っても殺されそうって、俺の人生詰みじゃん、もう既に。 何つーー罠に嵌められちまったのよ俺。」
はぁ~~~~…、とそのまま魂までもが抜けていきそうな、長ったらしい溜息を吐いて、事務机に上体をだらん…とうつ伏せて頭を抱え出したユーゴ先生に、沈み切る前にと慌てて声をかける。
「何の罠にも嵌めておりませんから! お気を確かに、そんなに目に見えて落ち込まないでください、ユーゴ先生!!」
「ハハッ、勿論冗談っすよ、笑えない類のジョーーダンっすけど! えっと、何でしたっけ? あ、そーそぉ~、旦那様たちとの出会い、でしたっけね??」
引き攣った笑い声を立てながら、雑に話題転換を画策・実行した筆頭医師の行動に、それ以上何も言うまい、と心情を察して飲み込み、意気込んで話し出そうとする先生の回想話を聞く流れにそのまま乗っかることにした。
「あれは偶々、うちの親父が招待された夜会に、偶々家にいたっつー理由だけで問答無用で引っ張って連れてかれたのが事の始まりなんすけどね。 同じ伯爵家のトリュフォーって家門なんすけど、そこの嫡男がいよいよ爵位を継いだってんで開かれた夜会で、やたらに参加者の多い大規模で面倒な夜会だったって、会場についた瞬間から印象深かったっすわ、俺ン中で。」
つらつらと紡がれた言葉たちを理解して、理解が追いつかない顕著な部分である、出だしから数行の所で見事に引っかかり、躓いてしまった。
「同じ伯爵家!? え、ユーゴ先生のご実家って、まさか?!」
――確かに、ローレンス看護師長が『ユーゴ君はイイトコのお坊ちゃんだから』って仰っていたけれど、伯爵家のご子息?! 嘘でしょ、見えないっ!! 悪口じゃなくて、ホントにハイソな家柄の出って部分が結びつかないんですけどぉーーっ!!!――
「んあれ、言ってませんでしたっけ? 俺の親父、いい年してまだ現役の伯爵家の当主なんすよ。 ドラクロワって言って、王城でもそこそこの地位の外交官やってるらしいんすけど、俺全然興味なくて。 毎回実家帰るたんびに仕事内容教えられるんですけど、全然記憶に残らんくって、俺には向かねー職業なんだな、って毎度実感してるってゆーーね(笑)」
――王城勤め…つまりキャリア官僚ってことジャナイ?! え、メッチャ良いとこのお坊ちゃんじですやんっ!? ……何で、ウチで筆頭医師なんてしてるんだろう、此のお方。――
「てっきり、その……貴族ではないと、勝手に思ってしまっておりました……ゴメンナサイ!!」
ウロウロと視線を彷徨わせて、最後の方はしょぼんと項垂れて、殊勝に謝ることしか出来なかった。
「だから謝罪せんでくださいよぉっ!? 良いっすから、ホント、自分でもこれが伯爵家の子息だって言われたら疑わしいって思いますからね、ハハッ!! 俺だって好き好んで伯爵家の次男坊に生まれたわけじゃねーーっすわっ!!」
身に覚えがありすぎるのか、過去何十回も言われただろうセリフを思い出してしまったようで、ささくれだった心情に塗れたヒステリックに裏返った声で、遣る瀬無い心情を乗せてギャンギャンっと吠えた。
その一回で気が晴れたのか、はたっと自分を取り戻すと、何でこんな話になったんだったか?と冷静に思い返して、言葉にして発してみて、ようやっと発端となるエピソードの尻尾を鷲掴んだ。
「あれぇ…、何でこんな話になったんだったか? あー、夜会! その夜会で偶然、体調のわるっそーーな奥様に遭遇しちゃったんすよね~…、んで、勿論見なかったふりなんてできなかった当時の俺は、命知らずにも声をかけちまったんすよぉ~~…。 あのフォコンペレーラ公爵の奥方様って気づかずに、一生気づかないまんまでいたかったなぁ~~ってあん時は死ぬほど後悔しましたけど!!」
「良ければ、その夜会で両親とどんな出会い方をされたのか、詳しく伺いたいのですが……可能でしょうか?!」
ハハハ!と笑って誤魔化し、良い感じに話を切り上げようとする筆頭医師の退路を塞ぐべく、期待に満ち満ちた、キラキラと輝くようなつぶらな瞳を意識して向け、渾身のお願い攻撃を仕掛けてみる。
「ハハハ…ハ、詳しく、デスカ。 まぁ~~た断れないヤツぶっこまれた感じ、デスヨネェ……? …ま、いーーですけどね、でもお嬢様が期待してるような、特別なもんじゃなかったっすよ?? 大した展開もなく、ふつーーに終わった話だったはずですけど、まぁ思い出せる範囲でいいなら…語ってみんことも無いかなぁ~~、だって暇だし。」
口の端を歪めつつ、断れないと早々に判断した筆頭医師の男が諦めるのは本当に早かった。
少女の要望に答えて、暇つぶしがてら酔狂な昔語りをしてみるのも一興か、と安易に考えて、当時の状況を思い出しながらとつとつと語りだす。
==今から遡ること、10年前==
広い会場内を有無を言わさず父親に引っ張り回され、強制的な挨拶回りを終えて、やっとこさ出来た一分の隙を逃さず、じりじりと距離を開いていき、脱兎のごとく逃げ出した先で、顔を土色にして力なく座り込む1人の少女を目にしてしまった。
周囲をそれとなく見回して確認しても、連れ添って来たと思しき付添人はおらず、エスコートしてきた相手のパルトゥネールすらも見当たらない。
つまり、状況は最悪。
――参ったなぁ~…、まぁ~~たこの状況で見かけちまう俺って、運なさすぎじゃね?! 何なんだよ、この遭遇率!! 俺に何の試練がかされてるっつーー話なのよぉっ!?――
既視感に溢れる場面に遭遇し、苦い記憶が呼び起こされた青年は、途端に顔面をくっしゃくしゃに歪めて、内心で辟易する。
けれど、どんなに苦く重苦しい過去が胸に迫っても、それを理由に目の前の少女を見捨てるという選択肢は、此の青年の考えの中には一生涯、登場しえない選択肢だった。
体に染み付いた癖である、頭を掻き毟る動作を控えめにしてから、意を決して少女が腰掛ける長椅子へと近寄って行く。
絶妙な距離感を保って声をかけ、相手が不快感を示していないことを確認してから、隣に腰掛けて良いか許可をとって、適当な距離を保って腰を下ろす。
そこからは相手の反応を見つつ、必要と思われる問診事項を相手の答えた内容にそって変化させて尋ねていき、一通りの質問を終えたところに、今までは挨拶回りで不在だったらしい少女のパルトゥネールが帰ってきた。
『あぁ、こちらに気づいて来てくれたみたい。 私はこちらに居るわ、コーネリアス。』
少女が口にした人物の名前を理解した途端、体中に流れているはずの血液が、一気に消失してしまったかのような心地になって震えが止まらなくなる。
――マジ、で…? 俺、悪夢見てるわけじゃねーーよなぁ?? 何かやぁ~~な予感がしてたっちゃ、そーーなんだけど、まさか女性嫌いで有名なフォコンペレーラ公爵の、急に決まったって噂に名高い奥方様予定の貴婦人だとは思ってなかったんすけどぅぉおーーーーっ!!?――
声にならない叫びを上げて、生気を一気に擦り減らした青年は、何とか空気に溶けて消えられないか試行錯誤して、迫りくる現実から逃れられぬ我が身を嘆き、現実逃避しかかっていた。
『アヴィ、長く1人で待たせてしまってすまなかった。 さて、どこの家門の子息か知らないが、私の妻となる女性に、一体何の目的で近づいたのかなぁ…? 事と次第によってはその首がどうなるか、勿論私を目の前にした今となっては、十二分に理解していると思うが、どうだろうかねぇ? 一応、君の行動理由を釈明する余地は与えてやろう。』
それをさせなかったのは他でもなく、威圧感を浴びせるように放出する、不機嫌絶頂な若き公爵家当主だった。
青年の真正面に立ちはだかり、目を逸らすことは許さない、と眼光鋭い視線で訴えかけてくるのだから、しがないなりたてほやほやぁ~~なひよっ子医師にはどうやっても、その牽制を躱す術を持ち合わせているはずはなかった。
躱せないのなら、受けて立つのみ。
腹を決めたひよっ子医師は、腐っても医師。
医師として対峙するのであれば、誰が相手でも一切怯むことはしない、と晴れて医師となれたその日に決めた理念にそって、震える体を意思の力で抑えて、物怖じせずに公爵その人の目をしっかりと見返す。
『…そいつはどーーも、んじゃ目溢しついでに、場所だけ変えさせてくんねーーっすかね? 公爵家の控室ってありますよね、勿論俺は場所わかんねーーんで、先導してもらっていいっすか??』
その問いには答えず、婚約者の頭の天辺から靴の先までを何往復かして確認し、手袋越しでも少し冷たく感じる華奢な手を掬い上げて、その手の甲に唇を押し当てる。
『…何もされていないだろうね、アヴィ? 育ちの悪そうな男だが、大丈夫だったかい??』
『ふふ、大丈夫よコーネリアス。 私だって少しは自衛出来るのだから、信じてちょうだい。 それに彼はとっても良い人よ。』
『……君がそう言うのなら、信じるよ。 けれどこれだけは譲れないよ、アヴィ。 どこの馬の骨とも知れないこの男に対して、油断しないし警戒も怠らない、話をする間は絶対に断行するからねぇ~!』
失礼な物言いに怒るでもなく、端から信用されるはずもないと割り切って考え、一応自己紹介代わりの出自に関する文言を、奏上だけはしておこうと口にする。
『あ~~、言い忘れてましたけど、俺これでも伯爵家の次男坊なんすわ。 んなわけで、出自が怪しくなければ疚しくもないつもりですし、嫁探しとか今後もする気ねぇーーしって感じなんすけど。 まぁ、そちらさんにゃぁ~どーでも良くって、知っとく必要もない情報っすよねぇ~っと。 んで、どっち行きゃいーーっすか?』
『…取り敢えず、そこの階段を登って2階へ。』
『2階かぁ~! さっすが公爵家、待遇からして違うんすねぇーー。』
白い目で見られようとお構い無しで、指示された通りここから程近い位置にある階段へと躊躇なく足を向ける。
臆面もなく自然体でのみ接してくる奇妙な青年の背を見つめながら、独り言のような感想を漏らしたのは、若き公爵家当主だった。
『……此方のあからさまな言動と態度にも動じないとは、只愚鈍で鈍感な馬鹿者なのか、はたまたそう見えるよう取り繕っているのか。 どちらにしても調子の狂う、なんとも言い難い一風変わった男だなぁ…。』
『ふふふ、対人用のコーネリアスのことを怖がらないなんて、凄いわよね。』
このおっとりした年下の婚約者は、偶にこうやってコーネリアスを良く見過ぎた発言をする。
それに居心地が悪くなってしまうのは、後ろめたいと思う感情がコーネリアス自身に多分にあるからに他ならない。
彼女の目に映っているという、彼女の口から語られる自分像は、きっと色眼鏡に写った虚像であって、本来の在るが儘のコーネリアスではないと思えてならなかった。
だから良い機会だと観念し、腹を括ってから、それとなく真実を告白する事に決める。
『ぁ~…、う~~ん…、前々から言おうと思っていたのだがねぇ、アヴィ? 私は君の前以外では、これが地の態度なんだよぉ~?? わざとそうしているわけでなく、私が本からこういう人間なんだ。 君にとったら残念でしか無いだろうけれど、私は元来、酷薄な人間なんだ。 先程も1人での挨拶回りを断行したのだって、君の体調を慮って、というのを建前にした、私の化けの皮が剥がれた姿を君の目に晒したくなかったからなんだ。 呆れただろう? 私は、君が関わると、途端に臆病者で卑怯者に成り下がってしまう。 今、君の目に映る私は世界一格好悪いだろうね…。』
話を黙って聞いていたアヴィゲイルは、いつも通りの微笑みを浮かべたまま、何でも無いことのようにコーネリアスの言葉を片っ端から否定していった。
『残念だなんて思わないわ。 それに呆れたりもしないし、臆病者とも卑怯者とも思わない、世界一格好悪いだなんて思うはずもないわ。 安心して、コーネリアス。 本当の貴方がどんなであっても、私にとって世界一格好良い愛する旦那様であることは変わったりしない。 今の私にはどんな貴方だって問題なく愛せる自信しかないのよ。 だから信じて、貴方を愛していると云う私のことを、私のこの言葉だけは、ずっと信じていて?』
『階段登り終わったんすけど、次どっち行けば良いっすかぁーー?!』
結婚を目前に控えた婚約者同士の、ここから際限知らずにヒートアップし続けそうな、防音の結界に守られたやり取りの内容を、知る由もなく。
空気を読まず、果敢にも声をかけてきたお邪魔虫な青年に阻まれ、イチャコラを開始し損ねた若き公爵家当主からの、八つ当たりによるところが大きい、理不尽な風当たりの強さが一層厳しさを増したのは、ここだけの話。
○ーーーー○
『さぁて、わざわざ場所を変えさせてまで話したい内容とは、一体どんな内容なのかねぇ~? 下らない言い訳めいた内容だったらどうなるか…、わかっているよねぇ~~??」
『正直な話、未だに判断しかねてんすよねぇー…。 あ~…、うぁあ~~っ、~~~っあぁ!! ………っはぁーーーーーーっ!! うっし、決めた、言う!!』
『一人で勝手に五月蝿い男だねぇ~、鬱陶しい事この上ないのだが? 何を決めたか知らないが、さっさと話してくれ給えよ。 早々に処遇を決めてすっきりしたいのは此方も同じなのだからねぇ~?』
薄っすらと殺気が滲み始めた視線で冷ややかに貫かれ、それでも一旦覚悟を決めたこの男は怯えて震え上がることはしなかった。
『怖っ、一々脅さんでくださいよ…、決心が鈍るじゃねぇーーっすか!! んじゃ単刀直入に言わせてもらいます、未来の奥方様たる現ご婚約者様は現在、妊娠されてます。』
言葉だけで恐怖を示したあと、強く放った言葉の勢いを借りてそのものズバリ、場所を変えて話すことを提案した要因となった事実を明らかにする。
『『 …。 』』
正面に座す公爵とその婚約者からの反応がないことは意に介さず、終始己が伝えるべきことだけを淡々と語り聞かせていく事に集中し続けた。
『詳しく検査してみないと何とも言えませんけど、多分1ヶ月弱くらいっすかね? でもちょっと貧血気味てるし悪心もあるみたいなんで、そこんとこちゃんと注意してあげてください。 取り敢えずそちらさんの主治医と相談して、今後の対処は決めてってくださいや。 部外者の俺が言って信じ難いでしょうが、俺はこれでも産科医志望の医師っす。 ひよっ子だろうとなんだろうと、自分の見立てはまず間違いありませんのでそこだけは信用して、ちゃんと対処してくださいね?』
念押すように覗き込んだ公爵の顔面は、見たことがないほど面白い感じに崩れていた。
『は? にん…しん……、………え?? えぇえっ?! にんしんって、あの妊娠!? いつの…、いやまさか、あの時のあれでぇっ?? いや、でも…、そんなまさか……っ?!?』
『うふふ、落ち着いてコーネリアス。 全然自覚がないのだけれど…そうみたいなの。 さっき少しだけ問診していただいて、私の最近の体調不良を全部言い当てられてしまったの、凄いわよね…! それでやっと、私も納得できて、そうなのだわって、思えてきたのよ。』
はにかみながらも花が綻んだように微笑い、可憐な顔をほんのりと上気させて、喜色満面で言葉を続ける。
『嬉しいわ、こんなに早く授かれるなんて……、本当に嬉しい…! 2人には感謝しなくてはね、間違っても怒ったりしては駄目よ、コーネリアス? 2人は私の言葉通りにしてくれただけなのだから、ね?』
『いや、しかしだねぇ~、アヴィ?! あれはどう考えても、嫌がらせの意味も多分に含まれた憂さ晴らしならぬ報復行為であったと言わざるを得ない所業だよぉ~~!?』
後ちょっとでも、詳しい事情がこの場で語られたなら、自分は腹を切らねばならぬ事態になりかねない。
身近に迫った危機的状況に、この場にこれ以上留まるは危険と判断して、腰を下ろしていたソファーから飛び上がるようにして勢いよく立ち上がる。
『っっっっはぁーーーーーっ!! 緊張した、ホント無駄に、寿命が10年分くらい一気に縮んだし、体強張るくらいガッチガチに緊張した!! やぁーーー、開放感半端ねぇーーーっっ!! っっし、んじゃ言いたいことも言えたんで、俺このまま帰りますわ!! お邪魔しやしたぁーーーっっっ!!!』
伸び上がったり揺れ動いたりしながら、胸中に押し寄せる不安と焦燥を少しでも散らそうと、無駄な努力を無駄に披露することになった。
必要以上の大声で、ソレ以上一言たりとも。デリケート過ぎる公爵家の閨事情を耳にしないために、出せる限りの大声で以て宣言してから、風の如く控室から逃走する。
生きた心地がしないまま自分の屋敷に帰り着いた後も、この出来事は事ある毎に思い出された。
あの後、あの控室でどのような会話が繰り広げられたのかは一切知らない、知りたくもない。
けれど、第一子の出産が無事に終わり、嫡男が誕生したという知らせは、探ろうとせずとも自ずと耳にできたので、その時にやっと心から安心できた。
==時を戻して、現在==
コポコポ、コポポーー…。
何も言わず、淹れ直されたばかりの紅茶が適量注がれたカップが目の前にス…と差し出される。
話し終えたユーゴは、普段の彼とは結びつかない、穏やかな微笑みを口元に称えており、心安らかそうに見える。
しかし、差し出してきたその手の輪郭は、かなりブレブレしていて、全く平静でないことが窺い知れた。
「まぁ…、あれっすよね、何かしらの事情があったとは思うんすけど、今現在を見れば仲良しこよし~な、良いご家族じゃないっすか、この公爵家って!! そーゆーことにしときましょ、ね、ねぇっ!? 俺が聞いた話も、断片的過ぎましたしね!! 記憶違いかもしれませんし、でもホント、余計なとこ端折り忘れて喋りすぎたっつーー俺の凡ミスマジで消してぇーーーーっ!!!」
しどろもどろに目を泳がせまくりながら、フォローしようとしているのか、蒸し返そうとしているのか、どちらともつかない内容のセリフを口にして、自分の仕出かした盛大なやらかしを激しく後悔して叫びだす筆頭医師。
深い自己嫌悪に埋没して、その深度をザックザクと掘り下げていく様を見ているだけしか出来ない私。
話題を振った張本人でありながら、何も有効な対処法が浮かばない、自分の無力さを噛み締めるしか出来ない時間。
それが、意外な乱入者によって打ち破られるのは、もう少し時間が進んでから、時が経たねば訪れない出来事だった。
けれど、例に洩れず此の屋敷は地下でさえも、イメージしていた地下とは程遠いものだった。
“地下”という言葉の響きから連想するようなネガティブな要素は、この屋敷の地下には全く存在しないと云っていい。
例を挙げるとするなら、ジメジメ感も、薄暗さも、閉塞感も、小汚ささえ、皆無だった。
地上階と変わらぬ空調魔法が施された地下階は、快適そのものな温度に保たれており、足元からじわじわとせり上がってくるような冷えた空気は無く、真冬であると感じさせる隙間風さえ吹き込んでこない。
照明も金皇の光に似た柔らかな光量で満たされ、陰りを探す方が困難なほど、廊下から室内まで、あらゆる場所が照らし尽くされている。
地上階に比べれば天井までの距離はぐっと近づいて見えるけれど、それでも2mは優にある、寧ろこれくらいが丁度よいと感じるくらいの高さだ。
そして汚れなんてものは勿論見当たらない。
天井も壁も床も、経年によって色味は濃くなり、年季を感じさせる味わい深いものに変色していそうだが、シミやカビ、埃の蓄積された痕跡といったものは一切見当たらない。
魔法によるものか、日頃の使用人たちの勤勉さの賜物か、その区別は残念ながら判断できないけれど、清潔清掃はきちんと守られている、と云う事実は素人目にも判りすぎるほどに如実に判断できた。
今現在、何とか在室を許されている救護室も同様で、白を基調にした室内は、どこもかしこもきっちりと整理整頓されおり、見える範囲すべての場所に清掃も行き届いていて、床の上にだって髪の毛一本すら落ちていそうになかった。
ぐずぐずと鼻を啜りつつ、本来であれば診察を受ける者が腰を下ろすことのない、座面がふっかふかの背もたれ+肘置き付きの、見るからにハイグレードな椅子に腰掛けながら、泣きすぎて腫れぼったい目を動かし、何気なさを装って室内へと目線をフラフラ泳がせてじっくり観察した結果、前述した好印象な感想を抱いた今日此の頃。
コト、スススーー………。
目の前にスライドされてきたのは、白地に淡いピンクの小花柄が愛らしい、ソーサーに載せられたティーカップだった。
そこにはホカホカと温かそうな湯気をたてる、淹れたての紅茶が適量注がれていた。
「さっきよか、落ち着きましたかね? ライリエルお嬢様。」
声のした方を見て、何とも言葉にし難い、遣る瀬無い気持ちが込み上げてくる。
――もっと近くに居てもらって構わないのだけど…? 何でそんなに座りづらそうな机の横に居るのかしら?? 私、目茶苦茶わかり易ぅーーーく距離置かれてるんですけど、どういう心境のあらわれなの???――
紅茶のカップを遠い位置から腕を伸ばして、診察の際に使う事務机に腹ばいで乗り上げて私の前まで届けてくれた姿に、普通に持ってきてくれたらいいのに、と思わずにいられなかった。
声の主たる筆頭医師Drユーゴは、今現在この救護室に居る唯一の医師だった。
先程まで在室していた看護師長ローレンス・ラノワは、偶々忘れ物を取りに来ていただけだったようで、私が泣き止むのを待たず、カラカラとした笑い声を残してサッサカ退室した後だった。
宅の可愛いメリッサは、と云えば、もっとずっと前に此の場から姿を消している。
私を室内に送り出す前に、『今回も長引くのだろうから、用件が終わるまでの間はせめて、自分の職務を遂行する時間にあてたい。 なので、終わったら“呼び鈴”で知らせて欲しい』と、願望を隠すこと無く全面に押し出した訴えを聞かされ、頷く他にあの時の私に選べる選択肢は、全く用意されてはいなかった。
今回改善された点をあげるならば、ちゃんと事前に説明してからこの場を辞したことだろうか。
「はい、もう大分落ち着きました。 驚かせてしまってごめんなさい…、もう、大丈夫です、………多分。」
早速、淹れていただいた紅茶を頂こうとカップを持ち上げ、ゆらゆらと揺れ動く湯気を吐息で数度乱し、口をつけてコクリと飲み下す。
優しい甘みが口の中広がり、ほわっと解けるようにリラックスして、温かさと共に全身に染み渡った。
「や、多分じゃ困るんですけど?! それにですねぇ、驚いたっつーーより、心底困ったって方が正しい感じですし…ね?? 何でかなぁホント、寿命が縮む思いばっかっすよ、昨日からずぅ~~っと!!」
「うぅ…、こんなに泣くつもりはなかったのですけど、どうにもこうにも…止まらなくって、ゴメンナサイ。」
――自分の感情なのに、全然歯止め効かないし、制御もできないしで、ホント、困る!!――
「謝らんでくださいよ、後が怖いんで! ホント俺の生存が危ぶまれていく一方なんで、これ以上は謝罪せんでください!! はい、此の話はこれにて終了!! んでもってこのまま解散できれば尚良いんですけどねぇ…。」
チラリ、と期待に満ち満ちた視線を向けられていると嫌でも感じたが、そこは素直に頷けるはずもなく。
「駄目ですよ!? 解散はできません、まだ何も始まってないので、絶対ダメです!!」
――あいや待たれいユーゴ氏!? チャンスを下されっ!! お願いだから私の話を聞いてくださいなぁ~~~っ!!――
「ハハッ、デスヨネ、知ってた(泣)!! んじゃ改めて本題聞いてきますけど、本日お嬢様がお出であそばされたご用件は、一体何でございましょーかねぇ~~?」
泣き笑いを浮かべた口元しか見えないが、恐らく前髪に隠された目は、発せられた言葉の震え具合から察するに、ウルウルに潤んで涙をたたえていることだろう。
嫌々渋々ででも、追い返さず(多分追い返せないだけだろうけど…)に話を聞こうとしてくださるDrユーゴに、感謝しかない。
居住まいを正し、喉の調子を整える為に咳払いを数回して、早口になり過ぎないよう注意して話を切り出す。
「単刀直入にお伺いします! お母様が飲まされていたあの栄養剤の成分は、どれくらいの間体内に蓄積されたままになるのでしょうか? それと昨日のように、突然倒れたり、それ以上の…命に関わるような…危険性はまだ残っているのでしょうか?!」
私の質問しそうな内容を予め予想していたのだろう。
別段驚いた風もなく、かしかしと緩めに後ろ頭を掻きながら、慎重に選んだ言葉でやんわりと断ろうとされた。
「やぁ~~っぱ、気になっちゃいますよねぇ…、奥様のこと。 でもですねぇ、それについては――」
「お願いですから、子供だからと言葉を誤魔化したり偽ったりしないで、有りの儘でお答えいただけませんか!? 私、ちゃんと理解できます、専門用語でなければ、大抵の言葉の意味はきちんと理解できると自負してます!!」
身を乗り出して言い募る。
『子供には教えられない』的な言葉が飛び出すその前に、先回りして相手が口にしそうなセリフを奪って否定し、それを相手の言葉に被せることで、それ以上この断り文句が継げないように、文の途中だろうとお構いなしにゴリ押してぶった斬る。
「…確かに、お嬢様は3歳児らしからぬ理解力をお持ちだと、俺も間違いなくそぉー思ってますよ? だから、偽らずにって部分だけ、ここだけは全力で否定させてもらいます。 俺は患者本人にも患者の家族にだって、言葉を偽ったことは一度もねぇーーっすから。 言えんかったり、言わんかったりするこたぁーーあっても、偽ったことだきゃねぇーーっすから! そこだけはしっかり訂正させてもらいますよ!!」
がしがしっ、と先程よりも強めに頭皮に爪を立てながら、本人的には譲れない箇所らしい言葉を力一杯に意気込んで訂正する。
「それに、さっきだって断ろうとしたわけでもなかったんすよ? 『ご家族がお揃いの時に説明します』って、言おうとしてただけなんすけどねぇ??」
「そうなの…ですか……? えぇと、でも、それは…この場では教えてくださらない、と…いうこと、でしょうか??」
目に見えてしゅんと肩を落とし、おずおずと尋ねる私に、Drは意外な言葉で返してきた。
「…まぁ、旦那様から言って駄目とは言われてませんし、奥様からも別段止められてませんからねぇーー…。 答えられる範囲で良ければ、先にお嬢様にだけでも、お答えしましょうかねぇ~~? ま、現時点で言えることは殆ど無いっちゃーーないんすけど。」
少しだけ頭の中で考える素振りを見せた後、首を擦りながら、答えたれる範囲でなら、との条件付きで教えてもらえる話の流れに切り替わった。
ぱっと表情を明るくした私を一瞥して、どこからどこまで説明するか、瞬時に決め終えたDrは昨日話した内容に触れながら説明を開始した。
「昨日も少し言ったと思いますけど、欠乏気味の人間が適量飲んでるだけなら命に関わるようなものにはならないんすけどね? 今回は過剰も過剰、短期決戦で殺す気満々なやつだったんで、ちぃーーっと、正常値に戻すには時間がかかりそーっすわ。 しゃーないんすけど、ホント摂取量が半端なかったんで! 今の段階じゃ、自然に消費されるか体外に出でくのをのを待つ以外、選べる手立てがねぇーーんすわ。」
わしゃわしゃっと髪をかき混ぜてから、手立てが少ない理由を話し始める。
「今回過剰配合された成分のナヴィタル1ってのが、そもそも厄介な代物で、少量摂取するだけで事足りるように成分を濃縮して、諸々の効果が出るのが早まるよう品種改良されたものだったんすよねぇ~~…。 でも、昨日あの後採血して調べた感じだと、どぉ~~も従来のから手が加えられてそぉーーなんすよねぇ、これが。」
今お母様の体の中に蓄積されている栄養剤の成分が、Drユーゴの推察通り品種改良された未知なる性質のものであったとしたら、従来の成分通りと見誤ったままで対処していたら、それこそお母様の命が危なかったことだろう。
従来型であれば問題なかった成分が、新型では問題を起こす要因になりかねない。
何が無害で、何が有害と成り得るのか、それが全くわからない状態で1つでも対処を誤れば、結果は最悪の方向へと簡単に突き進んでいってしまう。
許容量を遥かに上回る、完全なオーバードーズ状態なお母様には、もう一滴分の追加も許す余地は残されていない。
「なんで、手元に残った錠剤の成分を詳しく調べてからしか、奥様の症状に合った有効な手立ては考えていかれないっすね。 でもってそれを調べる人員は最小限に留めてぇーーんで、ここのお抱え薬剤師がひとりでやってるっつーーね。」
成分の調査結果が出るまでの間、医師として出来ることは限られてくる。
慎重に慎重を重ねて、お母様のその日の体調に合わせてその都度見直しながら、手探りで対処していくしか道が無い。
それもこれも、全てはあの国策が原因であると言いたくなってしょうが無いのを堪え、魔法は除いた方法で対処していく他にない現状が憎らしい。
もし万が一、与えたら駄目なモノ、蓄積されたナヴィタル1との相性最悪な物質が身近な食物に僅かでも含まれていたら、お母様は今度こそショック症状を起し、お腹の中の赤ちゃん共々命を落としてしまいかねないのだそうだ。
「それを待つ間に精密検査とか繰り返して、って本当ならやりたいとこなんですけどね。 今の奥様にそれはできねーってのが、また厳しいんっすよねぇ~~、正直な話ぃ~~…。」
臨月のお母様に検査漬けの日々なんて、そんな身体的負担はかけさせられない。
「まぁーーーね、何とかしますけど! 蓄積されたナヴィタル1が悪い方向に効果を発揮しないよう対処して、徐々にでも確実に薄まってくように、そう促すための手は尽くしていきますけどね!? 即効性のある対処法は今無いんで、気長に時間をかけてやってくしかないです、って話ですね。」
「そう…ですか、……じゃぁ、突然倒れたりってことは、もう起こらないんですよね? 時間をかけて薄めていけば、後遺症もなく、完治できるんですよね?!」
「んーー、それも何とも言えませんね。 激しく動き回ったりしない限りは大丈夫だと思いますけど。 あとわ…後遺症云々ですけどね、残念ながら安易に確約はできねーーっす、そこはホント申し訳ないんすけど、俺は『絶対に完治してみせます』とは口が裂けても言えません。 でも、全力を尽くすことはお約束します。 俺に出来ることは全部、全力でやりきりますから。 そこだけは、信じてくださってて良いんで、宜しく頼んます。」
「……わかりました、話してくださってありがとうございます。 お母様のこと、どうぞ宜しくお願い致します、Drユーゴ…様?」
「“様”は一生つけんでください、滅茶苦茶いらねーーすわっ!!」
尊敬の念を込めて追加してみた敬称は、筆頭医師の肝を冷やしただけで終わり、期待したような好感度アップに繋がりそうな効果は得られなかった。
小難しい話をすると、甘いものが欲しくなるのは異世界だろうと変わらない、人間の摂理のようだった。
私のような人間には特に、顕著にその症状が顕現しているように感じるのは……恐らく気のせいであると信じたい。
救護室に詰める医師たちが各々持ち込んでいた菓子類から見繕って、お茶請けに出された菓子を遠慮なく頬張りながら、昨日もう1つ気になっていた事柄を話題に上らせる。
きっと、この和んだ空気を壊す類の内容にはならないだろう、そう安易に考えて話題に選んでしまった自分を、後々に後悔して責め詰ることになろうとは、此の時の私は知る由もなかった。
「そういえば、昨日ユーゴ先生も驚かれてましたけど、お父様とお母様と、この屋敷に勤める以前に面識があったのですか?」
「あーー、やっぱそこも気になっちゃいます? あん時も不思議そうにしてましたもんね~、お嬢様。」
私がちまちまと食べているのと同じ菓子を、一口で平らげた御仁との距離は、ちょっと縮まっていた。
現に、物理的距離は正常値に引き下げられ、問診を受ける患者と問診する医師、的な距離にまで劇的な回復を見せていた。
「あ、親愛の証に、気軽にライラと呼んでくださって構いませんよ?」
だから調子に乗ってポロリと、近い距離に居る筆頭医師には爆弾にしかならないセリフを安易に投下してしまった。
「俺に死ねって仰るんで?! 無理、ムリムリムリムリぜっっっっってぇーーーに、呼びませんからね!! 一生お嬢様ってだけ呼ばせてくださいお願いしますぅっ!!!」
その結果私にもたらされたものは、全身全霊をかけた、渾身の拒絶。
ふわっふわと上昇気流に乗っかり浮かび上がっていた気分は、墜落せざるを得なかった。
「……寂しいですが、はい、………わかりました。 現状維持で、いいです、我慢します、はい。」
「うわぁ~~…、これ、どっちも地獄しか待ち受けてねぇやつじゃね? こんな2択ってある?? 受け入れたら殺されそうだし、断っても殺されそうって、俺の人生詰みじゃん、もう既に。 何つーー罠に嵌められちまったのよ俺。」
はぁ~~~~…、とそのまま魂までもが抜けていきそうな、長ったらしい溜息を吐いて、事務机に上体をだらん…とうつ伏せて頭を抱え出したユーゴ先生に、沈み切る前にと慌てて声をかける。
「何の罠にも嵌めておりませんから! お気を確かに、そんなに目に見えて落ち込まないでください、ユーゴ先生!!」
「ハハッ、勿論冗談っすよ、笑えない類のジョーーダンっすけど! えっと、何でしたっけ? あ、そーそぉ~、旦那様たちとの出会い、でしたっけね??」
引き攣った笑い声を立てながら、雑に話題転換を画策・実行した筆頭医師の行動に、それ以上何も言うまい、と心情を察して飲み込み、意気込んで話し出そうとする先生の回想話を聞く流れにそのまま乗っかることにした。
「あれは偶々、うちの親父が招待された夜会に、偶々家にいたっつー理由だけで問答無用で引っ張って連れてかれたのが事の始まりなんすけどね。 同じ伯爵家のトリュフォーって家門なんすけど、そこの嫡男がいよいよ爵位を継いだってんで開かれた夜会で、やたらに参加者の多い大規模で面倒な夜会だったって、会場についた瞬間から印象深かったっすわ、俺ン中で。」
つらつらと紡がれた言葉たちを理解して、理解が追いつかない顕著な部分である、出だしから数行の所で見事に引っかかり、躓いてしまった。
「同じ伯爵家!? え、ユーゴ先生のご実家って、まさか?!」
――確かに、ローレンス看護師長が『ユーゴ君はイイトコのお坊ちゃんだから』って仰っていたけれど、伯爵家のご子息?! 嘘でしょ、見えないっ!! 悪口じゃなくて、ホントにハイソな家柄の出って部分が結びつかないんですけどぉーーっ!!!――
「んあれ、言ってませんでしたっけ? 俺の親父、いい年してまだ現役の伯爵家の当主なんすよ。 ドラクロワって言って、王城でもそこそこの地位の外交官やってるらしいんすけど、俺全然興味なくて。 毎回実家帰るたんびに仕事内容教えられるんですけど、全然記憶に残らんくって、俺には向かねー職業なんだな、って毎度実感してるってゆーーね(笑)」
――王城勤め…つまりキャリア官僚ってことジャナイ?! え、メッチャ良いとこのお坊ちゃんじですやんっ!? ……何で、ウチで筆頭医師なんてしてるんだろう、此のお方。――
「てっきり、その……貴族ではないと、勝手に思ってしまっておりました……ゴメンナサイ!!」
ウロウロと視線を彷徨わせて、最後の方はしょぼんと項垂れて、殊勝に謝ることしか出来なかった。
「だから謝罪せんでくださいよぉっ!? 良いっすから、ホント、自分でもこれが伯爵家の子息だって言われたら疑わしいって思いますからね、ハハッ!! 俺だって好き好んで伯爵家の次男坊に生まれたわけじゃねーーっすわっ!!」
身に覚えがありすぎるのか、過去何十回も言われただろうセリフを思い出してしまったようで、ささくれだった心情に塗れたヒステリックに裏返った声で、遣る瀬無い心情を乗せてギャンギャンっと吠えた。
その一回で気が晴れたのか、はたっと自分を取り戻すと、何でこんな話になったんだったか?と冷静に思い返して、言葉にして発してみて、ようやっと発端となるエピソードの尻尾を鷲掴んだ。
「あれぇ…、何でこんな話になったんだったか? あー、夜会! その夜会で偶然、体調のわるっそーーな奥様に遭遇しちゃったんすよね~…、んで、勿論見なかったふりなんてできなかった当時の俺は、命知らずにも声をかけちまったんすよぉ~~…。 あのフォコンペレーラ公爵の奥方様って気づかずに、一生気づかないまんまでいたかったなぁ~~ってあん時は死ぬほど後悔しましたけど!!」
「良ければ、その夜会で両親とどんな出会い方をされたのか、詳しく伺いたいのですが……可能でしょうか?!」
ハハハ!と笑って誤魔化し、良い感じに話を切り上げようとする筆頭医師の退路を塞ぐべく、期待に満ち満ちた、キラキラと輝くようなつぶらな瞳を意識して向け、渾身のお願い攻撃を仕掛けてみる。
「ハハハ…ハ、詳しく、デスカ。 まぁ~~た断れないヤツぶっこまれた感じ、デスヨネェ……? …ま、いーーですけどね、でもお嬢様が期待してるような、特別なもんじゃなかったっすよ?? 大した展開もなく、ふつーーに終わった話だったはずですけど、まぁ思い出せる範囲でいいなら…語ってみんことも無いかなぁ~~、だって暇だし。」
口の端を歪めつつ、断れないと早々に判断した筆頭医師の男が諦めるのは本当に早かった。
少女の要望に答えて、暇つぶしがてら酔狂な昔語りをしてみるのも一興か、と安易に考えて、当時の状況を思い出しながらとつとつと語りだす。
==今から遡ること、10年前==
広い会場内を有無を言わさず父親に引っ張り回され、強制的な挨拶回りを終えて、やっとこさ出来た一分の隙を逃さず、じりじりと距離を開いていき、脱兎のごとく逃げ出した先で、顔を土色にして力なく座り込む1人の少女を目にしてしまった。
周囲をそれとなく見回して確認しても、連れ添って来たと思しき付添人はおらず、エスコートしてきた相手のパルトゥネールすらも見当たらない。
つまり、状況は最悪。
――参ったなぁ~…、まぁ~~たこの状況で見かけちまう俺って、運なさすぎじゃね?! 何なんだよ、この遭遇率!! 俺に何の試練がかされてるっつーー話なのよぉっ!?――
既視感に溢れる場面に遭遇し、苦い記憶が呼び起こされた青年は、途端に顔面をくっしゃくしゃに歪めて、内心で辟易する。
けれど、どんなに苦く重苦しい過去が胸に迫っても、それを理由に目の前の少女を見捨てるという選択肢は、此の青年の考えの中には一生涯、登場しえない選択肢だった。
体に染み付いた癖である、頭を掻き毟る動作を控えめにしてから、意を決して少女が腰掛ける長椅子へと近寄って行く。
絶妙な距離感を保って声をかけ、相手が不快感を示していないことを確認してから、隣に腰掛けて良いか許可をとって、適当な距離を保って腰を下ろす。
そこからは相手の反応を見つつ、必要と思われる問診事項を相手の答えた内容にそって変化させて尋ねていき、一通りの質問を終えたところに、今までは挨拶回りで不在だったらしい少女のパルトゥネールが帰ってきた。
『あぁ、こちらに気づいて来てくれたみたい。 私はこちらに居るわ、コーネリアス。』
少女が口にした人物の名前を理解した途端、体中に流れているはずの血液が、一気に消失してしまったかのような心地になって震えが止まらなくなる。
――マジ、で…? 俺、悪夢見てるわけじゃねーーよなぁ?? 何かやぁ~~な予感がしてたっちゃ、そーーなんだけど、まさか女性嫌いで有名なフォコンペレーラ公爵の、急に決まったって噂に名高い奥方様予定の貴婦人だとは思ってなかったんすけどぅぉおーーーーっ!!?――
声にならない叫びを上げて、生気を一気に擦り減らした青年は、何とか空気に溶けて消えられないか試行錯誤して、迫りくる現実から逃れられぬ我が身を嘆き、現実逃避しかかっていた。
『アヴィ、長く1人で待たせてしまってすまなかった。 さて、どこの家門の子息か知らないが、私の妻となる女性に、一体何の目的で近づいたのかなぁ…? 事と次第によってはその首がどうなるか、勿論私を目の前にした今となっては、十二分に理解していると思うが、どうだろうかねぇ? 一応、君の行動理由を釈明する余地は与えてやろう。』
それをさせなかったのは他でもなく、威圧感を浴びせるように放出する、不機嫌絶頂な若き公爵家当主だった。
青年の真正面に立ちはだかり、目を逸らすことは許さない、と眼光鋭い視線で訴えかけてくるのだから、しがないなりたてほやほやぁ~~なひよっ子医師にはどうやっても、その牽制を躱す術を持ち合わせているはずはなかった。
躱せないのなら、受けて立つのみ。
腹を決めたひよっ子医師は、腐っても医師。
医師として対峙するのであれば、誰が相手でも一切怯むことはしない、と晴れて医師となれたその日に決めた理念にそって、震える体を意思の力で抑えて、物怖じせずに公爵その人の目をしっかりと見返す。
『…そいつはどーーも、んじゃ目溢しついでに、場所だけ変えさせてくんねーーっすかね? 公爵家の控室ってありますよね、勿論俺は場所わかんねーーんで、先導してもらっていいっすか??』
その問いには答えず、婚約者の頭の天辺から靴の先までを何往復かして確認し、手袋越しでも少し冷たく感じる華奢な手を掬い上げて、その手の甲に唇を押し当てる。
『…何もされていないだろうね、アヴィ? 育ちの悪そうな男だが、大丈夫だったかい??』
『ふふ、大丈夫よコーネリアス。 私だって少しは自衛出来るのだから、信じてちょうだい。 それに彼はとっても良い人よ。』
『……君がそう言うのなら、信じるよ。 けれどこれだけは譲れないよ、アヴィ。 どこの馬の骨とも知れないこの男に対して、油断しないし警戒も怠らない、話をする間は絶対に断行するからねぇ~!』
失礼な物言いに怒るでもなく、端から信用されるはずもないと割り切って考え、一応自己紹介代わりの出自に関する文言を、奏上だけはしておこうと口にする。
『あ~~、言い忘れてましたけど、俺これでも伯爵家の次男坊なんすわ。 んなわけで、出自が怪しくなければ疚しくもないつもりですし、嫁探しとか今後もする気ねぇーーしって感じなんすけど。 まぁ、そちらさんにゃぁ~どーでも良くって、知っとく必要もない情報っすよねぇ~っと。 んで、どっち行きゃいーーっすか?』
『…取り敢えず、そこの階段を登って2階へ。』
『2階かぁ~! さっすが公爵家、待遇からして違うんすねぇーー。』
白い目で見られようとお構い無しで、指示された通りここから程近い位置にある階段へと躊躇なく足を向ける。
臆面もなく自然体でのみ接してくる奇妙な青年の背を見つめながら、独り言のような感想を漏らしたのは、若き公爵家当主だった。
『……此方のあからさまな言動と態度にも動じないとは、只愚鈍で鈍感な馬鹿者なのか、はたまたそう見えるよう取り繕っているのか。 どちらにしても調子の狂う、なんとも言い難い一風変わった男だなぁ…。』
『ふふふ、対人用のコーネリアスのことを怖がらないなんて、凄いわよね。』
このおっとりした年下の婚約者は、偶にこうやってコーネリアスを良く見過ぎた発言をする。
それに居心地が悪くなってしまうのは、後ろめたいと思う感情がコーネリアス自身に多分にあるからに他ならない。
彼女の目に映っているという、彼女の口から語られる自分像は、きっと色眼鏡に写った虚像であって、本来の在るが儘のコーネリアスではないと思えてならなかった。
だから良い機会だと観念し、腹を括ってから、それとなく真実を告白する事に決める。
『ぁ~…、う~~ん…、前々から言おうと思っていたのだがねぇ、アヴィ? 私は君の前以外では、これが地の態度なんだよぉ~?? わざとそうしているわけでなく、私が本からこういう人間なんだ。 君にとったら残念でしか無いだろうけれど、私は元来、酷薄な人間なんだ。 先程も1人での挨拶回りを断行したのだって、君の体調を慮って、というのを建前にした、私の化けの皮が剥がれた姿を君の目に晒したくなかったからなんだ。 呆れただろう? 私は、君が関わると、途端に臆病者で卑怯者に成り下がってしまう。 今、君の目に映る私は世界一格好悪いだろうね…。』
話を黙って聞いていたアヴィゲイルは、いつも通りの微笑みを浮かべたまま、何でも無いことのようにコーネリアスの言葉を片っ端から否定していった。
『残念だなんて思わないわ。 それに呆れたりもしないし、臆病者とも卑怯者とも思わない、世界一格好悪いだなんて思うはずもないわ。 安心して、コーネリアス。 本当の貴方がどんなであっても、私にとって世界一格好良い愛する旦那様であることは変わったりしない。 今の私にはどんな貴方だって問題なく愛せる自信しかないのよ。 だから信じて、貴方を愛していると云う私のことを、私のこの言葉だけは、ずっと信じていて?』
『階段登り終わったんすけど、次どっち行けば良いっすかぁーー?!』
結婚を目前に控えた婚約者同士の、ここから際限知らずにヒートアップし続けそうな、防音の結界に守られたやり取りの内容を、知る由もなく。
空気を読まず、果敢にも声をかけてきたお邪魔虫な青年に阻まれ、イチャコラを開始し損ねた若き公爵家当主からの、八つ当たりによるところが大きい、理不尽な風当たりの強さが一層厳しさを増したのは、ここだけの話。
○ーーーー○
『さぁて、わざわざ場所を変えさせてまで話したい内容とは、一体どんな内容なのかねぇ~? 下らない言い訳めいた内容だったらどうなるか…、わかっているよねぇ~~??」
『正直な話、未だに判断しかねてんすよねぇー…。 あ~…、うぁあ~~っ、~~~っあぁ!! ………っはぁーーーーーーっ!! うっし、決めた、言う!!』
『一人で勝手に五月蝿い男だねぇ~、鬱陶しい事この上ないのだが? 何を決めたか知らないが、さっさと話してくれ給えよ。 早々に処遇を決めてすっきりしたいのは此方も同じなのだからねぇ~?』
薄っすらと殺気が滲み始めた視線で冷ややかに貫かれ、それでも一旦覚悟を決めたこの男は怯えて震え上がることはしなかった。
『怖っ、一々脅さんでくださいよ…、決心が鈍るじゃねぇーーっすか!! んじゃ単刀直入に言わせてもらいます、未来の奥方様たる現ご婚約者様は現在、妊娠されてます。』
言葉だけで恐怖を示したあと、強く放った言葉の勢いを借りてそのものズバリ、場所を変えて話すことを提案した要因となった事実を明らかにする。
『『 …。 』』
正面に座す公爵とその婚約者からの反応がないことは意に介さず、終始己が伝えるべきことだけを淡々と語り聞かせていく事に集中し続けた。
『詳しく検査してみないと何とも言えませんけど、多分1ヶ月弱くらいっすかね? でもちょっと貧血気味てるし悪心もあるみたいなんで、そこんとこちゃんと注意してあげてください。 取り敢えずそちらさんの主治医と相談して、今後の対処は決めてってくださいや。 部外者の俺が言って信じ難いでしょうが、俺はこれでも産科医志望の医師っす。 ひよっ子だろうとなんだろうと、自分の見立てはまず間違いありませんのでそこだけは信用して、ちゃんと対処してくださいね?』
念押すように覗き込んだ公爵の顔面は、見たことがないほど面白い感じに崩れていた。
『は? にん…しん……、………え?? えぇえっ?! にんしんって、あの妊娠!? いつの…、いやまさか、あの時のあれでぇっ?? いや、でも…、そんなまさか……っ?!?』
『うふふ、落ち着いてコーネリアス。 全然自覚がないのだけれど…そうみたいなの。 さっき少しだけ問診していただいて、私の最近の体調不良を全部言い当てられてしまったの、凄いわよね…! それでやっと、私も納得できて、そうなのだわって、思えてきたのよ。』
はにかみながらも花が綻んだように微笑い、可憐な顔をほんのりと上気させて、喜色満面で言葉を続ける。
『嬉しいわ、こんなに早く授かれるなんて……、本当に嬉しい…! 2人には感謝しなくてはね、間違っても怒ったりしては駄目よ、コーネリアス? 2人は私の言葉通りにしてくれただけなのだから、ね?』
『いや、しかしだねぇ~、アヴィ?! あれはどう考えても、嫌がらせの意味も多分に含まれた憂さ晴らしならぬ報復行為であったと言わざるを得ない所業だよぉ~~!?』
後ちょっとでも、詳しい事情がこの場で語られたなら、自分は腹を切らねばならぬ事態になりかねない。
身近に迫った危機的状況に、この場にこれ以上留まるは危険と判断して、腰を下ろしていたソファーから飛び上がるようにして勢いよく立ち上がる。
『っっっっはぁーーーーーっ!! 緊張した、ホント無駄に、寿命が10年分くらい一気に縮んだし、体強張るくらいガッチガチに緊張した!! やぁーーー、開放感半端ねぇーーーっっ!! っっし、んじゃ言いたいことも言えたんで、俺このまま帰りますわ!! お邪魔しやしたぁーーーっっっ!!!』
伸び上がったり揺れ動いたりしながら、胸中に押し寄せる不安と焦燥を少しでも散らそうと、無駄な努力を無駄に披露することになった。
必要以上の大声で、ソレ以上一言たりとも。デリケート過ぎる公爵家の閨事情を耳にしないために、出せる限りの大声で以て宣言してから、風の如く控室から逃走する。
生きた心地がしないまま自分の屋敷に帰り着いた後も、この出来事は事ある毎に思い出された。
あの後、あの控室でどのような会話が繰り広げられたのかは一切知らない、知りたくもない。
けれど、第一子の出産が無事に終わり、嫡男が誕生したという知らせは、探ろうとせずとも自ずと耳にできたので、その時にやっと心から安心できた。
==時を戻して、現在==
コポコポ、コポポーー…。
何も言わず、淹れ直されたばかりの紅茶が適量注がれたカップが目の前にス…と差し出される。
話し終えたユーゴは、普段の彼とは結びつかない、穏やかな微笑みを口元に称えており、心安らかそうに見える。
しかし、差し出してきたその手の輪郭は、かなりブレブレしていて、全く平静でないことが窺い知れた。
「まぁ…、あれっすよね、何かしらの事情があったとは思うんすけど、今現在を見れば仲良しこよし~な、良いご家族じゃないっすか、この公爵家って!! そーゆーことにしときましょ、ね、ねぇっ!? 俺が聞いた話も、断片的過ぎましたしね!! 記憶違いかもしれませんし、でもホント、余計なとこ端折り忘れて喋りすぎたっつーー俺の凡ミスマジで消してぇーーーーっ!!!」
しどろもどろに目を泳がせまくりながら、フォローしようとしているのか、蒸し返そうとしているのか、どちらともつかない内容のセリフを口にして、自分の仕出かした盛大なやらかしを激しく後悔して叫びだす筆頭医師。
深い自己嫌悪に埋没して、その深度をザックザクと掘り下げていく様を見ているだけしか出来ない私。
話題を振った張本人でありながら、何も有効な対処法が浮かばない、自分の無力さを噛み締めるしか出来ない時間。
それが、意外な乱入者によって打ち破られるのは、もう少し時間が進んでから、時が経たねば訪れない出来事だった。
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