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●本編●
92.【使用人とランコーントル[初]】Le cas.1:総料理長〜料理に懸ける飽く無き情熱は際限知らずの天井知らず?!〜 ①
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今現在、人気のない広々とした厨房に響く音は、主に次の3つだった。
トントントンッ♪
トントント~ン♫
トントントトントットントントンッ♬
「ンンンッ♪ ンンン~ッ♫ ンンンーンッンンンッ♬」
クーツクツ、クツクーツ、クツクツクツクツクツクツクツ。
寸分の狂いなく等間隔に食材を切断し終えた包丁がまな板を軽やかに掠めるリズミカルな音。
それに合わせて調子良く唄われる、要所要所にビブラートを効かせた鼻唄。
そして本来なら不規則に聞こえるはずの、煮えたつ鍋が発する煮沸音が、小節を割り振られ奏でられた音楽になって耳に届く。
この厨房に響き渡るそれら全ての音は、厨房の中心で愉しげに且つ忙しなく動き回る、たった一人の人物に何かしらの起因を持つ音だった。
「ン~~ンンッン~~~♪ ンンン~~~♬ ラリラララァ~~~ッとぉ!! どれどれ、もう良さそうかなぁ~~? どんなお味に仕上がったかなぁ~~??」
サッと手に持った味見用の小さなスプーンで煮えたつ鍋から適量のスープを掬い取り、流れるように滑らかな動作で口元へと運び終える、この間たったの2秒。
「…ン、……ンンッ、………ッンンンーーーーっ!!! トれビア~~~~ンッッッ!!! からのセ・トレボンッッッ!!! 最終的にわ素晴らし~~~いッッッ!!!」
口に含んだ液体を舌の上でいいだけ転がした後、彼の中で温められ盛大に膨れ上がっていた感情を一気に爆発させ、自画自賛のままにその美味さを手放しで褒め称え始めた。
それを遠くから、遠い目をしながら眺めるのは、3歳幼女と、その幼女の侍女兼乳母な中年(には中々にして見えない)女性の、厨房の出入り口で棒立ちしている2人組だった。
――え~~~っとぉ…? そもそもの話ぃ、私は何のために此処に来たのだったかしら……??――
眼の前で繰り広げられる非日常的過ぎる光景に、半ば現実逃避の意味合いを多くして、此処に来ようと思い立った経緯を思い起こす。
あれは…そう、アルヴェインお兄様の天使な紳士っぷりが遺憾無く発揮された結果、私に齎された恩恵たる幸福だったと知った、食堂での胸熱な一幕がきっかけだった。
幸福な瞬間を悠長にも思い出そうとした私の思考を乱したのは、コック服を纏った中年男性が上げた、これまた期待感に満ち満ちたるんるんした調子の、そうとは思えない堂々とした独り言だった。
「ふんふんふぅ~~~ん♪ さてさてぇ~味の染み具合はどんなかなぁ~~? ………んんっ!! コレもコレとて、セ・テクセロ~~~ンっっ!!!」
じゅるり…。
思わず涎が垂れそうになってしまい、既のところで唇を引き結んで外部に垂れるのを阻止し、貴族の令嬢にはあるまじき振る舞いと知りつつ1思いに啜り上げる。
間髪入れず、数歩下がった位置にいる侍女から咎めるにしては鋭すぎる視線が突き刺すように寄越された。
――ヤバっ?! 視線で殺られそうなくらい、めっちゃ睨まれてるぅ~~っ!! でもだって、涎を垂れ流したまま放置してる公爵令嬢よりかはマシな判断でしょう!? だからここはさっきのが私の英断だと信じて、赦してはくれまいか??――
私と侍女の間で行われた、ある種の緊張感を孕んだ無言でのやり取りを知る由もない厨房の中の人は、変わらぬ調子で至極愉しそうに、今度は食材に話しかけまくっている真っ最中だった。
「あぁっ、良いね良いねぇ~っ!! 最っ高だよぉ~~~っ!! こんなにも美味しく漬かってくれてありがとぉっ!! キミ達のお陰で今夜も究極に美味しい一皿を公爵家のご家族皆々様に食して頂けるよぉ~~~っっっ!!!」
――うわぁ~おぉ…。 めちゃくちゃナチュラルに食材に話しかけまくっていらっしゃる?! これは、この世界での常識的光景なのかしら…??――
植物に話しかけると成長が促進される、という話は前世で耳にしたことがあるけれど、食材に話しかけると美味しさが増す、という話は…、とんと聞いた試しがない。
「ありがとう~♪ どうもありがとう~~っ!!」と感謝の言葉を尚も盛んに宣いながら、物言わぬ食材へと尽きぬ思いの丈を語りかけ続けるコック服を身に纏った中年男性。
――うん、何と言うか…、控えめに言ってもヤバさしか無いっ……!!――
頬擦りできるものなら、頬が擦り切れるまで擦り付け続けていそうなぐらい、感無量感満載の感謝の仕方だった。
「ねぇメリッサ? あの方は……、何方様でいらっしゃるのかしら?? 勿論、この厨房にいらっしゃるのだから、料理人なのだろうとは、わかっているつもりなのだけれど、ねぇ?!」
――今私が知りたいのは職業云々だけの話ではないって、この真意はしっかりバッチリ伝わっているわよね?! だって、あんな不審者丸出しな人物が何処の誰かって、聞かずにいられないのですものっ!! こんなの濃いキャラ、見なかったことになんて出来るわけ無いですから!!――
感情に任せて勢いよく振り返りすぎないよう、細心の注意を払って、斜め後ろに控える沈着冷静な侍女に切実さを声に滲ませて問いかける。
けれど私が彼女に投げて寄越した厚(熱でも可)い信頼は、躊躇いなく見事に撃ち落とされてしまった。
「ライリエルお嬢様、僭越ながら訂正させていただきます。 残念ながら彼方は料理人ではございません。」
職業云々はこの際どーでもよかったけれど、内容をよくよく吟味してみると、結構引っかかりを感じる内容である、と思い直す結果となった。
「え…料理人ではないの!? でも、きちんとし過ぎなくらいしっかりとコック服を着用されていらっしゃるのに…??」
「ライリエルお嬢様、早合点が過ぎます、話は最後までお聞きください。 彼方は一介の料理人ではなく、総料理長であり、この厨房の最高責任者でもあらせれます。」
「まぁ、そうだったの~、あの方がこの厨房の最高責任者兼総料理長でいらっしゃるのねぇ~~!」
――なるほど成る程ぉ、総料理長かぁ~…………って、はいぃ~~~~~?!?! いやいやいや? いやいやいやっ!! だって、えぇっ?? シェフ、……え、シェフぅ~?!――
一旦考えることを中断して、くるぅ~~りと恐る恐るゆっくりと振り返って、厨房の中でメニアックぶりを遺憾無く発揮しまくっている中年男性をもう一度よく観察してみる。
――うん、代わり映え無く、ヤバさしか無い!!――
彼が晒している様相は、間違いなくなにかしらの狂気に塗れていて、素直に権威ある地位に就く人物であるとは納得できかった。
――だってだって、シェフってもっとこぉー…、おじいちゃんっていうかぁ、年配の方で、威厳溢れる感じとかが、無いと…駄目、じゃぁ……無いのかと、勝手なイメージを持っていたのですが……、こういうのは全くの先入観、ってやつよね? はい、大人しく猛省します。――
勝手な妄想で造り上げた“総料理長”の人物像を現実に押し付けるのは間違っている、それだけはきっちりと反省しておかなければならない、と本気で思った。
けれど、ここで1つだけ、どーーーしても言わせて頂きたい事柄がたった1つだけ確実にある。
――でもどう見たって、あそこに居る人物は只のオタクの範疇を超越した、狂人じゃないですか!? 何に対してそこまで興味の矛先を極めてしわしまわれたのかは…凡人たる私には全く理解できないけれど、とにかくある方向に滅茶苦茶振り切れていらっしゃる熱狂ぶりだということは理解できる!! そんな狂気に塗れた人物が、総料理長だって言われて、『はいはい、そーですかぁ~!』って素直に納得できないってことだけは、絶対誰かには共感してもらえると信じて疑いたくないのですけどぉっ?!――
疑問に思っても仕方がない事だけは、誰かに理解してもらいたいと切に願ってやまない。
――だって考えても見て欲しい、自分が働く職場に、こんなマニアックな上司が居たら………、あら、面白そうかも? はじめましてなマニアックぶりが、悪い方向にインパクトが強すぎただけで、冷静になって考えてみると、……うん、そんなに悪くない?! 寧ろ、とっても面白そうっ!!――
一周回って戻ってきた思考は、何処で帰路の道順を間違えたのか、180°方向を変えて帰還を果たしてしまった。
――も、ホント、マジヤバない?! うちの使用人ってば、一人一人のキャラが濃ゆ過ぎて、記憶に残る印象深さがいっちいちエグ過ぎるのですが!? 個性的すぎて、もぉ…なんか面白い!! 食中り起こしそうなくらいお腹いっぱい腹いっぱい気分なのに、常に新鮮な驚きで塗り替えられていってしまって、次なる人物への期待値の上昇がノンストップ待ったナシなんですけど!?! 飽きの来ないエンタメ最強かっ?!?――
うんざりなんてするはずもなく、もう純粋なワクワク感が半端ない。
次はどんな濃いキャラが登場して、私の中の先入観をどんな個性でぶっ壊してくださるのか、あらぬ方向への期待が高まり過ぎて、楽しみになり過ぎてしまって、どうにも辛抱堪らなくなってきてしまった。
『テンション上がってキターーーーッ!!』状態に突入してしまった私の、ちょっと暴走しかかった思考を現実に引き戻したのは、どんな時でも変わらない、沈着冷静なサイボーグ侍女がもたらす、それって何処情報??と尽きせぬ疑問が付き纏う使用人一口メモだった
「王都でも最高峰に名を連ねるレストランにて副料理長をされていた折、旦那様が奥様のために心神耗弱状態の彼方をかどわか…、いぇ、勧誘され、公爵家のカントリーハウスの厨房へと職場を移される運びとなられたのだそうでございます。」
「今拐かすって言いかけていたわよね? 弱ったところに付け込んだみたいな…、騙し討みたいな勧誘で元の職場から引き抜いてしまって、本当に大丈夫だったの?」
――本当に大丈夫? 訴えられない?? 違法行為じゃないって、ちゃんと証明できるの???――
ゆらゆらと瞳を泳がせてしまいながら、心許無げに侍女の眼鏡の奥を探り見る。
言葉にはできなかった私の不安を、このサトリな侍女は今度こそ正確無比に見抜いて、安心させる(本人にその意図は恐らく無い)ようにきっぱりと、いつもの調子で淡々と宣ってくれた。
「ライリエルお嬢様が何をお考えであるか、敢えて言及はいたしませんが、そのような心配は無用である、とだけここでは申し上げさせて頂きます。 勧誘なさったのは旦那様ですが、諸々の手続きを処理されたのは他でもないあのサミュエル様ですので、手抜かりなど無く必要な手続は全て完了している、と考えてまず間違いないかと存じます。」
「 !? 」
――ホントどこからどこまでが筒抜ける範囲に指定されてるの?! …でも、サミュエルが対処してくれたのなら、何だかとっても安心できる。 不思議な説得力を伴った言葉、魔法の言葉だわ!!――
お父様が頼りないとか、そういった考えは一切持ち合わせていないけれど、サミュエルがきちんと対処してくれた、と聞くと不思議なくらい安心できて、『もう大丈夫なんだ』と云う思いが、私の胸にストンとストレートに落ちた。
職務に関する手腕はまず間違いなく信頼して大丈夫、というお父様からのお墨付きなのだし、こうやって安心してしまうのは、至極当たり前な反応である、と考えても問題なさそうだった。
――お父様が信頼しているから私もサミュエルを手放しで信頼しているのだけど、それって私が能天気で人の言葉を鵜呑みにする信じ込みやすい性格、ってことには…ならないと思いたいのだけど、大丈夫よね? 危機感が欠落してるとかって事に直結したりしない、わよね??――
自分がどうしてここまでサミュエルを信じ込んでしまったかと云えば、昨日のはじめましての挨拶の際、口にした理由で概ね正解ではあるのだけれど、昨日の夕食後から今朝にかけての出来事を経た今となっては、決してそれだけが理由ではなくなっている。
特に、出立前に交わしたあのやり取りが、私の中でサミュエルは信頼に足る人物である、と確証を得た切っ掛けであり大きな意味合いを持った出来事であったように思える。
「そんなことよりもお嬢様、いつまで出入り口付近で立ち往生なさっているおつもりなのですか? このままでは拉致もあきません、もたもたなさらず、はきはきと行動なさいませ!」
「!! そ、そうよねっ!? 私ったら、あんまり見事な(マニアック過ぎる)振る舞いに、見慣れていなさ過ぎて、動揺しすぎてしまったわよね?! 貴女だって忙しい仕事の合間だというのに、時間を取らせてしまってごめんなさい、メリッサ!! 直ぐにお礼を言って来るから、もうちょっと待っていてね!!」
侍女からせっつかれたことで、脳内で繰り広げられかけていた終わりなき回想モード開始作業が中断され、ハッとして直ぐ様我に返った。
ポーカーフェイスを常備したサイボーグ侍女が浮かべる表情に、若干の呆れが感じられるのは…残念ながら私の気の所為ではない、と悲しいことにここでは100%の確信が持ててしまった。
取り急ぎ己の失態を振り返って詫び、用件をすぐに済ますことを約束して、有言実行を果たすために侍女が何かお小言を言い出す前に、そそくさっと厨房へ逃げ込んだ。
足を踏み出した一歩目、その靴底が厨房の床に触れるか触れないか、というタイミングで。
――――ッバン!!
「おいっ、おやじぃー、どーせまだここに居るんだろーーーっ!! いつまで食材とじゃれてるつもりだよぉ?! 早くしねぇーーと、おやじの分の昼メシぃ、おれたちで全部食っちまうからなぁーーーーっ!?」
遠慮のないけたたましい音をたてて、目の前の壁面にある扉が勢いよく内側に向かって開かれた。
その扉の後ろから姿を表したのは、私よりも頭3つ分くらい背の高い、洗いざらして白くそんでしまった半袖のシャツと、少しだけ青味の残る短パンを着用した、年の頃は…アルヴェインお兄様と同じくらいか?と思しき、デンッと仁王立ちしたエネルギッシュな少年だった。
余談だが、食堂の真下、地下一階にあるこの厨房には出入り口が2箇所ある。
そのうちの1方が、今私が入ってきた出入り口、このカントリーハウスの正面から見て東側にある方の出入り口だった。
そこは1階にある食堂の正規の出入り口からではなく、衝立に隠された使用人用通路に繋がる出入り口から出て、直ぐ左に曲がった先にある階段を降りて来ると辿り着ける厨房への出入り口だった。
そして他方は、こちらの出入り口から見てちょうど正面、つまりは厨房の北側にあり、あちらは地上からの搬入口に近い出入り口となっていて、早朝か夕方の搬出入時にしか開かれることのない出入り口だった。
勿論、そんな事情など露とも知らない少女は、その扉が開くこと自体稀なのだ、との認識など持ち合わせているはずもなく、ただただ瞠目しつつも事の成り行きを見守る他なかったわけだが、相対した少年の方はそうでは済ませられなかった。
「って、うわぁっはぁっ?! 誰だよ、お前っ!? どっから、つーーか、誰のキョカもらって入ったんだよ!!! フホーシンニューで騎士のおっさん共につき出されたくなかったら、今直ぐおとなしく出てけよなぁっ!!!」
見慣れた厨房に見慣れない少女が侵入していると直ぐに気が付いた少年は、過剰すぎる驚嘆した反応を見せてから、気を取り直してビシッと勢いよく指さししつつ、彼にとっては最大級となる警告の文言を、高い声を必死に低めて宣ってきた。
――なんかデジャブ。 言葉と意味が上手く結びついてない感じの喋り方が、今朝方出会った騎士のお一方にすんごくデジャブるぅ~、www――
「?! おまっ!? 何笑ってんだよぉっ!! 馬鹿にしてんのかよっ、んななりでっ、おれより全然ちっせーくせに、ケンカ売ろうってーのかよぉっ?!!」
くすり、と思わず漏れてしまった忍び笑いで緩んだ口元を、目ざとくもしっかりと目撃してしまった彼の少年は、途端にその顔面に朱を走らせて激高して吠えるように乱暴な言葉をぶつけてきた。
「えっ?! 違いますっ!! そんなつもりはなくって、喧嘩なんて売るつもりは毛頭ありませんからっ!! 落ち着いてください、落ち着いて、ね!? なにはともあれ、まずは話し合いを!! 拳を伴わない、一般的で平和的な話し合いのみで、この食い違ってしまった見解の相違を解決に導きましょう?!?」
「何言ってんのか、わっかんねぇーーーよっ!!! やっぱおれのこと馬鹿にしてんだろっ?!! いーよ、買ってやるよ、そのケンカ!!! マジ泣かす、ぜってーーに泣かすっ!!!」
慌てて沈静化をはかるために投げかけた言の葉は、彼の少年には全く響かず、寧ろ煽り立てる材料になってしまった。
つまりは逆効果、火に油をぶっかけてしまっただけに終わった。
「ひぇっ?! な、なんでぇ~~っ!? はいっ、降参!! 見ての通り、私に闘争の意志は欠片もありませんからぁっ、お願いですから、冷静に、怒らずに、私の話に耳を傾けてくださいぃ~~~っ!!」
ビシリッ!!と天高く垂直に、指の先までピンっと伸ばした手がよく見えるよう、これでもかと両腕を天井に突き立てるようにして振り上げた。
言葉だけでは此の少年に訴えが届かないと判断して、降参の意志を行動でも如実に表しながら、相手の出方をまんじりともせずに窺う。
これだけやっても、少年がぐるぐる回して慣らした肩が、今現在も継続して持ち上げている腕が下がらないようなら、少女に選択できる道はたった1つ、戦略的撤退を断行する他に残されていない。
視線を動かさないでもわかってしまう。
東側の出入り口手前から一歩も動かず、事の成り行きを傍観する姿勢を崩さない侍女からの援護をここで期待する事は、全くの野暮というものだった。
自分に対して絶対の庇護を表明してくれる大人が不在な今、自分の身は最低限自分で守れるのだ、という姿勢を痩せ我慢してでも見せないと、今後やっていかれない…気がする。
「ん~此の声は~~…ヤニスか? さっきから、何を1人でそんなに騒いでいるんだ?? この厨房は私達料理人にとっての聖域であるからして、不用意に声を荒らげたり、ドタバタ走り回ったりしては駄目だと、あれほど常日頃から口酸っぱく注意して言ってあったというのに、困った奴だなぁ~~、お前は全くぅ~~~っ!! ………って、あれぇ???」
それまでずっと、自分が作り出したゾーンに入って周囲の音をシャットダウンしていた総料理長は、ここに来てやっと厨房で起こっている異変に気が付いたらしく、呑気にもマイペースにゆぅ~~っくりと振り返り、固まる。
どうやら彼は、厨房に迷い込んだと思しき身形の良い少女が正確に誰であるのか、はっきりと理解しているようだった。
「ひぇーーーーーーぇえっ!!? なっ、何故此処にいらっしゃるのでぇっ?! あ、いえ、いえいえいえっ!! 決していらしては駄目とかっ?! そんなつもりの言葉では毛頭なかったのですがぁっ!? …っはぁあっ、も、もしやもしやでございますが、こ、ここここっこの、雑用係崩れな愚息がとんだご無礼をぉっ?!!」
諸手を挙げて1回、その場でビョンっと思いの外高く跳び上がり、吃りながらも少女と息子を交互に見遣って思い至った現在の状況を正確に分析して確認の言葉を紡ぎ、少女の沈黙を肯定の意である、と見做してからの彼の取った行動は神業的早業だった。
それは正に、スライディングを決めるかの如く、なキレのある鮮やかな動きだった。
キレイに清掃された厨房の床の上を、こちらまではまだ結構な距離がある位置から既に、滑り込むことを想定した低姿勢のまま駆け寄り、少女の手前1mほどの距離から正面の位置までは、正座した状態でズッサァーーーーっと滑り込んで来たのには、流石に驚いたのか少女の体はビクリと跳ねて結構動揺した様子を見せた。
「どうかどうかっ、平にご容赦くださいませぇーーーーっっ!!! このとぉーーーーりでございますからぁっっっ!!! 何卒っ、卑しきこの愚民どもにぃっ、御慈悲を賜りたく存じますぅっ、ライリエルお嬢様ぁーーーーっ!!!」
床の上に正座したまま、自身の心臓位置にあるコック服をくっしゃくしゃにシワが寄るまで両手で鷲掴み、少女の目を見て慈悲を請いながら謝罪の言葉を捲し立てるように言い募る。
この姿勢はフォスラプスィ王国における、最大級の謝罪の意志を表明する所作だった。
「もぉ結構ですから!! 即刻地べたに座り込むのをやめて、両手を心臓の位置から外して下さいなぁっ!? 私、全然、まぁっっっっっったく、此の件で貴方がたに何かしらの処罰を与える気など、微塵も、塵芥ほども、抱いてございませんからぁっっっ!!!」
――ノー・モア・プリーーーーズッ!! 大袈裟ですからっ!! いっちいち、大袈裟が過ぎますからねっ!? 言葉も、声の大きさも、謝り方だって、過剰なまでの大袈裟っぷりですからぁっ!!!――
少女も必死に言い返し、何とか男が今取っている姿勢を解かせて立ち上がるように、と願いながら自分の考えを正直に包み隠さず口にする。
「え…? ライリエルって、あの?! オーボー・ワガママ・かんしゃく持ちって良くない三拍子がそろったおじょーさま、ってウワサの、この屋敷のおじょーさまのライリエルなのかよぉっ?!?」
「「「 …。 」」」
声変わり前の少年特有の高い声が、悪びれなく口遊んだセリフに、大人2人と幼女1匹が固まり、それに遅れること数瞬後に、この場の空気がピシリと張り詰め、ピタリと立ちどころに静止した。
しん、と静まり返った厨房に、各々の息遣いだけが聞こえる時間を数瞬経てから。
「…………、はぁ?」
溜めに溜めた私の声は、この静寂の中では本来の声量よりも大きく、語尾の上昇が強調されて聞こえた。
「「 ひぃぇえぇーーーーーっっっ?! おっ、お助けぇ~~~~っっっ!!!」」
短い音節の中に含まれた、詰問するかのような厳しい響きを敏感に察知して、総料理長な父親と雑用係の息子は息ぴったりに同じセリフを口にして、それぞれが立っている場所でまったく同じ格好で怯えたように震え上がった反応を返してきた。
声のトーンが通常の音域から2~3段階下がってしまったことは、素直に認める。
そのせいで、普段の声のトーンでは気にならないそこはかとない不機嫌具合が、いや増して顕著に聞き取れる声音になってしまったことも、ここでは甘んじて認めようと思う。
更に云えば、声が低まったのにつられて、表情も冷たく凝り、どう見ても激怒しているとしか見受けられない様に変容してしまったことも、弁明の余地無しな
けれど、『良くない三拍子が揃ったお嬢様』というフレーズを聞いてしまった以上、決して聞き流すわけにも、認めるわけにも、捨て置くことすらできそうにない。
どんなに疑いようのない明確な理由や根拠があったとしても、絶対自分から進んで肯定なんてできない部分が、あの少年が口にしたセリフの中に確実に存在していた。
これにより、例に洩れずだだっ広いこの厨房内の室温が、記録に残る劇的な急降下を観測してしまったことだけは、誠に遺憾な出来事だった。
トントントンッ♪
トントント~ン♫
トントントトントットントントンッ♬
「ンンンッ♪ ンンン~ッ♫ ンンンーンッンンンッ♬」
クーツクツ、クツクーツ、クツクツクツクツクツクツクツ。
寸分の狂いなく等間隔に食材を切断し終えた包丁がまな板を軽やかに掠めるリズミカルな音。
それに合わせて調子良く唄われる、要所要所にビブラートを効かせた鼻唄。
そして本来なら不規則に聞こえるはずの、煮えたつ鍋が発する煮沸音が、小節を割り振られ奏でられた音楽になって耳に届く。
この厨房に響き渡るそれら全ての音は、厨房の中心で愉しげに且つ忙しなく動き回る、たった一人の人物に何かしらの起因を持つ音だった。
「ン~~ンンッン~~~♪ ンンン~~~♬ ラリラララァ~~~ッとぉ!! どれどれ、もう良さそうかなぁ~~? どんなお味に仕上がったかなぁ~~??」
サッと手に持った味見用の小さなスプーンで煮えたつ鍋から適量のスープを掬い取り、流れるように滑らかな動作で口元へと運び終える、この間たったの2秒。
「…ン、……ンンッ、………ッンンンーーーーっ!!! トれビア~~~~ンッッッ!!! からのセ・トレボンッッッ!!! 最終的にわ素晴らし~~~いッッッ!!!」
口に含んだ液体を舌の上でいいだけ転がした後、彼の中で温められ盛大に膨れ上がっていた感情を一気に爆発させ、自画自賛のままにその美味さを手放しで褒め称え始めた。
それを遠くから、遠い目をしながら眺めるのは、3歳幼女と、その幼女の侍女兼乳母な中年(には中々にして見えない)女性の、厨房の出入り口で棒立ちしている2人組だった。
――え~~~っとぉ…? そもそもの話ぃ、私は何のために此処に来たのだったかしら……??――
眼の前で繰り広げられる非日常的過ぎる光景に、半ば現実逃避の意味合いを多くして、此処に来ようと思い立った経緯を思い起こす。
あれは…そう、アルヴェインお兄様の天使な紳士っぷりが遺憾無く発揮された結果、私に齎された恩恵たる幸福だったと知った、食堂での胸熱な一幕がきっかけだった。
幸福な瞬間を悠長にも思い出そうとした私の思考を乱したのは、コック服を纏った中年男性が上げた、これまた期待感に満ち満ちたるんるんした調子の、そうとは思えない堂々とした独り言だった。
「ふんふんふぅ~~~ん♪ さてさてぇ~味の染み具合はどんなかなぁ~~? ………んんっ!! コレもコレとて、セ・テクセロ~~~ンっっ!!!」
じゅるり…。
思わず涎が垂れそうになってしまい、既のところで唇を引き結んで外部に垂れるのを阻止し、貴族の令嬢にはあるまじき振る舞いと知りつつ1思いに啜り上げる。
間髪入れず、数歩下がった位置にいる侍女から咎めるにしては鋭すぎる視線が突き刺すように寄越された。
――ヤバっ?! 視線で殺られそうなくらい、めっちゃ睨まれてるぅ~~っ!! でもだって、涎を垂れ流したまま放置してる公爵令嬢よりかはマシな判断でしょう!? だからここはさっきのが私の英断だと信じて、赦してはくれまいか??――
私と侍女の間で行われた、ある種の緊張感を孕んだ無言でのやり取りを知る由もない厨房の中の人は、変わらぬ調子で至極愉しそうに、今度は食材に話しかけまくっている真っ最中だった。
「あぁっ、良いね良いねぇ~っ!! 最っ高だよぉ~~~っ!! こんなにも美味しく漬かってくれてありがとぉっ!! キミ達のお陰で今夜も究極に美味しい一皿を公爵家のご家族皆々様に食して頂けるよぉ~~~っっっ!!!」
――うわぁ~おぉ…。 めちゃくちゃナチュラルに食材に話しかけまくっていらっしゃる?! これは、この世界での常識的光景なのかしら…??――
植物に話しかけると成長が促進される、という話は前世で耳にしたことがあるけれど、食材に話しかけると美味しさが増す、という話は…、とんと聞いた試しがない。
「ありがとう~♪ どうもありがとう~~っ!!」と感謝の言葉を尚も盛んに宣いながら、物言わぬ食材へと尽きぬ思いの丈を語りかけ続けるコック服を身に纏った中年男性。
――うん、何と言うか…、控えめに言ってもヤバさしか無いっ……!!――
頬擦りできるものなら、頬が擦り切れるまで擦り付け続けていそうなぐらい、感無量感満載の感謝の仕方だった。
「ねぇメリッサ? あの方は……、何方様でいらっしゃるのかしら?? 勿論、この厨房にいらっしゃるのだから、料理人なのだろうとは、わかっているつもりなのだけれど、ねぇ?!」
――今私が知りたいのは職業云々だけの話ではないって、この真意はしっかりバッチリ伝わっているわよね?! だって、あんな不審者丸出しな人物が何処の誰かって、聞かずにいられないのですものっ!! こんなの濃いキャラ、見なかったことになんて出来るわけ無いですから!!――
感情に任せて勢いよく振り返りすぎないよう、細心の注意を払って、斜め後ろに控える沈着冷静な侍女に切実さを声に滲ませて問いかける。
けれど私が彼女に投げて寄越した厚(熱でも可)い信頼は、躊躇いなく見事に撃ち落とされてしまった。
「ライリエルお嬢様、僭越ながら訂正させていただきます。 残念ながら彼方は料理人ではございません。」
職業云々はこの際どーでもよかったけれど、内容をよくよく吟味してみると、結構引っかかりを感じる内容である、と思い直す結果となった。
「え…料理人ではないの!? でも、きちんとし過ぎなくらいしっかりとコック服を着用されていらっしゃるのに…??」
「ライリエルお嬢様、早合点が過ぎます、話は最後までお聞きください。 彼方は一介の料理人ではなく、総料理長であり、この厨房の最高責任者でもあらせれます。」
「まぁ、そうだったの~、あの方がこの厨房の最高責任者兼総料理長でいらっしゃるのねぇ~~!」
――なるほど成る程ぉ、総料理長かぁ~…………って、はいぃ~~~~~?!?! いやいやいや? いやいやいやっ!! だって、えぇっ?? シェフ、……え、シェフぅ~?!――
一旦考えることを中断して、くるぅ~~りと恐る恐るゆっくりと振り返って、厨房の中でメニアックぶりを遺憾無く発揮しまくっている中年男性をもう一度よく観察してみる。
――うん、代わり映え無く、ヤバさしか無い!!――
彼が晒している様相は、間違いなくなにかしらの狂気に塗れていて、素直に権威ある地位に就く人物であるとは納得できかった。
――だってだって、シェフってもっとこぉー…、おじいちゃんっていうかぁ、年配の方で、威厳溢れる感じとかが、無いと…駄目、じゃぁ……無いのかと、勝手なイメージを持っていたのですが……、こういうのは全くの先入観、ってやつよね? はい、大人しく猛省します。――
勝手な妄想で造り上げた“総料理長”の人物像を現実に押し付けるのは間違っている、それだけはきっちりと反省しておかなければならない、と本気で思った。
けれど、ここで1つだけ、どーーーしても言わせて頂きたい事柄がたった1つだけ確実にある。
――でもどう見たって、あそこに居る人物は只のオタクの範疇を超越した、狂人じゃないですか!? 何に対してそこまで興味の矛先を極めてしわしまわれたのかは…凡人たる私には全く理解できないけれど、とにかくある方向に滅茶苦茶振り切れていらっしゃる熱狂ぶりだということは理解できる!! そんな狂気に塗れた人物が、総料理長だって言われて、『はいはい、そーですかぁ~!』って素直に納得できないってことだけは、絶対誰かには共感してもらえると信じて疑いたくないのですけどぉっ?!――
疑問に思っても仕方がない事だけは、誰かに理解してもらいたいと切に願ってやまない。
――だって考えても見て欲しい、自分が働く職場に、こんなマニアックな上司が居たら………、あら、面白そうかも? はじめましてなマニアックぶりが、悪い方向にインパクトが強すぎただけで、冷静になって考えてみると、……うん、そんなに悪くない?! 寧ろ、とっても面白そうっ!!――
一周回って戻ってきた思考は、何処で帰路の道順を間違えたのか、180°方向を変えて帰還を果たしてしまった。
――も、ホント、マジヤバない?! うちの使用人ってば、一人一人のキャラが濃ゆ過ぎて、記憶に残る印象深さがいっちいちエグ過ぎるのですが!? 個性的すぎて、もぉ…なんか面白い!! 食中り起こしそうなくらいお腹いっぱい腹いっぱい気分なのに、常に新鮮な驚きで塗り替えられていってしまって、次なる人物への期待値の上昇がノンストップ待ったナシなんですけど!?! 飽きの来ないエンタメ最強かっ?!?――
うんざりなんてするはずもなく、もう純粋なワクワク感が半端ない。
次はどんな濃いキャラが登場して、私の中の先入観をどんな個性でぶっ壊してくださるのか、あらぬ方向への期待が高まり過ぎて、楽しみになり過ぎてしまって、どうにも辛抱堪らなくなってきてしまった。
『テンション上がってキターーーーッ!!』状態に突入してしまった私の、ちょっと暴走しかかった思考を現実に引き戻したのは、どんな時でも変わらない、沈着冷静なサイボーグ侍女がもたらす、それって何処情報??と尽きせぬ疑問が付き纏う使用人一口メモだった
「王都でも最高峰に名を連ねるレストランにて副料理長をされていた折、旦那様が奥様のために心神耗弱状態の彼方をかどわか…、いぇ、勧誘され、公爵家のカントリーハウスの厨房へと職場を移される運びとなられたのだそうでございます。」
「今拐かすって言いかけていたわよね? 弱ったところに付け込んだみたいな…、騙し討みたいな勧誘で元の職場から引き抜いてしまって、本当に大丈夫だったの?」
――本当に大丈夫? 訴えられない?? 違法行為じゃないって、ちゃんと証明できるの???――
ゆらゆらと瞳を泳がせてしまいながら、心許無げに侍女の眼鏡の奥を探り見る。
言葉にはできなかった私の不安を、このサトリな侍女は今度こそ正確無比に見抜いて、安心させる(本人にその意図は恐らく無い)ようにきっぱりと、いつもの調子で淡々と宣ってくれた。
「ライリエルお嬢様が何をお考えであるか、敢えて言及はいたしませんが、そのような心配は無用である、とだけここでは申し上げさせて頂きます。 勧誘なさったのは旦那様ですが、諸々の手続きを処理されたのは他でもないあのサミュエル様ですので、手抜かりなど無く必要な手続は全て完了している、と考えてまず間違いないかと存じます。」
「 !? 」
――ホントどこからどこまでが筒抜ける範囲に指定されてるの?! …でも、サミュエルが対処してくれたのなら、何だかとっても安心できる。 不思議な説得力を伴った言葉、魔法の言葉だわ!!――
お父様が頼りないとか、そういった考えは一切持ち合わせていないけれど、サミュエルがきちんと対処してくれた、と聞くと不思議なくらい安心できて、『もう大丈夫なんだ』と云う思いが、私の胸にストンとストレートに落ちた。
職務に関する手腕はまず間違いなく信頼して大丈夫、というお父様からのお墨付きなのだし、こうやって安心してしまうのは、至極当たり前な反応である、と考えても問題なさそうだった。
――お父様が信頼しているから私もサミュエルを手放しで信頼しているのだけど、それって私が能天気で人の言葉を鵜呑みにする信じ込みやすい性格、ってことには…ならないと思いたいのだけど、大丈夫よね? 危機感が欠落してるとかって事に直結したりしない、わよね??――
自分がどうしてここまでサミュエルを信じ込んでしまったかと云えば、昨日のはじめましての挨拶の際、口にした理由で概ね正解ではあるのだけれど、昨日の夕食後から今朝にかけての出来事を経た今となっては、決してそれだけが理由ではなくなっている。
特に、出立前に交わしたあのやり取りが、私の中でサミュエルは信頼に足る人物である、と確証を得た切っ掛けであり大きな意味合いを持った出来事であったように思える。
「そんなことよりもお嬢様、いつまで出入り口付近で立ち往生なさっているおつもりなのですか? このままでは拉致もあきません、もたもたなさらず、はきはきと行動なさいませ!」
「!! そ、そうよねっ!? 私ったら、あんまり見事な(マニアック過ぎる)振る舞いに、見慣れていなさ過ぎて、動揺しすぎてしまったわよね?! 貴女だって忙しい仕事の合間だというのに、時間を取らせてしまってごめんなさい、メリッサ!! 直ぐにお礼を言って来るから、もうちょっと待っていてね!!」
侍女からせっつかれたことで、脳内で繰り広げられかけていた終わりなき回想モード開始作業が中断され、ハッとして直ぐ様我に返った。
ポーカーフェイスを常備したサイボーグ侍女が浮かべる表情に、若干の呆れが感じられるのは…残念ながら私の気の所為ではない、と悲しいことにここでは100%の確信が持ててしまった。
取り急ぎ己の失態を振り返って詫び、用件をすぐに済ますことを約束して、有言実行を果たすために侍女が何かお小言を言い出す前に、そそくさっと厨房へ逃げ込んだ。
足を踏み出した一歩目、その靴底が厨房の床に触れるか触れないか、というタイミングで。
――――ッバン!!
「おいっ、おやじぃー、どーせまだここに居るんだろーーーっ!! いつまで食材とじゃれてるつもりだよぉ?! 早くしねぇーーと、おやじの分の昼メシぃ、おれたちで全部食っちまうからなぁーーーーっ!?」
遠慮のないけたたましい音をたてて、目の前の壁面にある扉が勢いよく内側に向かって開かれた。
その扉の後ろから姿を表したのは、私よりも頭3つ分くらい背の高い、洗いざらして白くそんでしまった半袖のシャツと、少しだけ青味の残る短パンを着用した、年の頃は…アルヴェインお兄様と同じくらいか?と思しき、デンッと仁王立ちしたエネルギッシュな少年だった。
余談だが、食堂の真下、地下一階にあるこの厨房には出入り口が2箇所ある。
そのうちの1方が、今私が入ってきた出入り口、このカントリーハウスの正面から見て東側にある方の出入り口だった。
そこは1階にある食堂の正規の出入り口からではなく、衝立に隠された使用人用通路に繋がる出入り口から出て、直ぐ左に曲がった先にある階段を降りて来ると辿り着ける厨房への出入り口だった。
そして他方は、こちらの出入り口から見てちょうど正面、つまりは厨房の北側にあり、あちらは地上からの搬入口に近い出入り口となっていて、早朝か夕方の搬出入時にしか開かれることのない出入り口だった。
勿論、そんな事情など露とも知らない少女は、その扉が開くこと自体稀なのだ、との認識など持ち合わせているはずもなく、ただただ瞠目しつつも事の成り行きを見守る他なかったわけだが、相対した少年の方はそうでは済ませられなかった。
「って、うわぁっはぁっ?! 誰だよ、お前っ!? どっから、つーーか、誰のキョカもらって入ったんだよ!!! フホーシンニューで騎士のおっさん共につき出されたくなかったら、今直ぐおとなしく出てけよなぁっ!!!」
見慣れた厨房に見慣れない少女が侵入していると直ぐに気が付いた少年は、過剰すぎる驚嘆した反応を見せてから、気を取り直してビシッと勢いよく指さししつつ、彼にとっては最大級となる警告の文言を、高い声を必死に低めて宣ってきた。
――なんかデジャブ。 言葉と意味が上手く結びついてない感じの喋り方が、今朝方出会った騎士のお一方にすんごくデジャブるぅ~、www――
「?! おまっ!? 何笑ってんだよぉっ!! 馬鹿にしてんのかよっ、んななりでっ、おれより全然ちっせーくせに、ケンカ売ろうってーのかよぉっ?!!」
くすり、と思わず漏れてしまった忍び笑いで緩んだ口元を、目ざとくもしっかりと目撃してしまった彼の少年は、途端にその顔面に朱を走らせて激高して吠えるように乱暴な言葉をぶつけてきた。
「えっ?! 違いますっ!! そんなつもりはなくって、喧嘩なんて売るつもりは毛頭ありませんからっ!! 落ち着いてください、落ち着いて、ね!? なにはともあれ、まずは話し合いを!! 拳を伴わない、一般的で平和的な話し合いのみで、この食い違ってしまった見解の相違を解決に導きましょう?!?」
「何言ってんのか、わっかんねぇーーーよっ!!! やっぱおれのこと馬鹿にしてんだろっ?!! いーよ、買ってやるよ、そのケンカ!!! マジ泣かす、ぜってーーに泣かすっ!!!」
慌てて沈静化をはかるために投げかけた言の葉は、彼の少年には全く響かず、寧ろ煽り立てる材料になってしまった。
つまりは逆効果、火に油をぶっかけてしまっただけに終わった。
「ひぇっ?! な、なんでぇ~~っ!? はいっ、降参!! 見ての通り、私に闘争の意志は欠片もありませんからぁっ、お願いですから、冷静に、怒らずに、私の話に耳を傾けてくださいぃ~~~っ!!」
ビシリッ!!と天高く垂直に、指の先までピンっと伸ばした手がよく見えるよう、これでもかと両腕を天井に突き立てるようにして振り上げた。
言葉だけでは此の少年に訴えが届かないと判断して、降参の意志を行動でも如実に表しながら、相手の出方をまんじりともせずに窺う。
これだけやっても、少年がぐるぐる回して慣らした肩が、今現在も継続して持ち上げている腕が下がらないようなら、少女に選択できる道はたった1つ、戦略的撤退を断行する他に残されていない。
視線を動かさないでもわかってしまう。
東側の出入り口手前から一歩も動かず、事の成り行きを傍観する姿勢を崩さない侍女からの援護をここで期待する事は、全くの野暮というものだった。
自分に対して絶対の庇護を表明してくれる大人が不在な今、自分の身は最低限自分で守れるのだ、という姿勢を痩せ我慢してでも見せないと、今後やっていかれない…気がする。
「ん~此の声は~~…ヤニスか? さっきから、何を1人でそんなに騒いでいるんだ?? この厨房は私達料理人にとっての聖域であるからして、不用意に声を荒らげたり、ドタバタ走り回ったりしては駄目だと、あれほど常日頃から口酸っぱく注意して言ってあったというのに、困った奴だなぁ~~、お前は全くぅ~~~っ!! ………って、あれぇ???」
それまでずっと、自分が作り出したゾーンに入って周囲の音をシャットダウンしていた総料理長は、ここに来てやっと厨房で起こっている異変に気が付いたらしく、呑気にもマイペースにゆぅ~~っくりと振り返り、固まる。
どうやら彼は、厨房に迷い込んだと思しき身形の良い少女が正確に誰であるのか、はっきりと理解しているようだった。
「ひぇーーーーーーぇえっ!!? なっ、何故此処にいらっしゃるのでぇっ?! あ、いえ、いえいえいえっ!! 決していらしては駄目とかっ?! そんなつもりの言葉では毛頭なかったのですがぁっ!? …っはぁあっ、も、もしやもしやでございますが、こ、ここここっこの、雑用係崩れな愚息がとんだご無礼をぉっ?!!」
諸手を挙げて1回、その場でビョンっと思いの外高く跳び上がり、吃りながらも少女と息子を交互に見遣って思い至った現在の状況を正確に分析して確認の言葉を紡ぎ、少女の沈黙を肯定の意である、と見做してからの彼の取った行動は神業的早業だった。
それは正に、スライディングを決めるかの如く、なキレのある鮮やかな動きだった。
キレイに清掃された厨房の床の上を、こちらまではまだ結構な距離がある位置から既に、滑り込むことを想定した低姿勢のまま駆け寄り、少女の手前1mほどの距離から正面の位置までは、正座した状態でズッサァーーーーっと滑り込んで来たのには、流石に驚いたのか少女の体はビクリと跳ねて結構動揺した様子を見せた。
「どうかどうかっ、平にご容赦くださいませぇーーーーっっ!!! このとぉーーーーりでございますからぁっっっ!!! 何卒っ、卑しきこの愚民どもにぃっ、御慈悲を賜りたく存じますぅっ、ライリエルお嬢様ぁーーーーっ!!!」
床の上に正座したまま、自身の心臓位置にあるコック服をくっしゃくしゃにシワが寄るまで両手で鷲掴み、少女の目を見て慈悲を請いながら謝罪の言葉を捲し立てるように言い募る。
この姿勢はフォスラプスィ王国における、最大級の謝罪の意志を表明する所作だった。
「もぉ結構ですから!! 即刻地べたに座り込むのをやめて、両手を心臓の位置から外して下さいなぁっ!? 私、全然、まぁっっっっっったく、此の件で貴方がたに何かしらの処罰を与える気など、微塵も、塵芥ほども、抱いてございませんからぁっっっ!!!」
――ノー・モア・プリーーーーズッ!! 大袈裟ですからっ!! いっちいち、大袈裟が過ぎますからねっ!? 言葉も、声の大きさも、謝り方だって、過剰なまでの大袈裟っぷりですからぁっ!!!――
少女も必死に言い返し、何とか男が今取っている姿勢を解かせて立ち上がるように、と願いながら自分の考えを正直に包み隠さず口にする。
「え…? ライリエルって、あの?! オーボー・ワガママ・かんしゃく持ちって良くない三拍子がそろったおじょーさま、ってウワサの、この屋敷のおじょーさまのライリエルなのかよぉっ?!?」
「「「 …。 」」」
声変わり前の少年特有の高い声が、悪びれなく口遊んだセリフに、大人2人と幼女1匹が固まり、それに遅れること数瞬後に、この場の空気がピシリと張り詰め、ピタリと立ちどころに静止した。
しん、と静まり返った厨房に、各々の息遣いだけが聞こえる時間を数瞬経てから。
「…………、はぁ?」
溜めに溜めた私の声は、この静寂の中では本来の声量よりも大きく、語尾の上昇が強調されて聞こえた。
「「 ひぃぇえぇーーーーーっっっ?! おっ、お助けぇ~~~~っっっ!!!」」
短い音節の中に含まれた、詰問するかのような厳しい響きを敏感に察知して、総料理長な父親と雑用係の息子は息ぴったりに同じセリフを口にして、それぞれが立っている場所でまったく同じ格好で怯えたように震え上がった反応を返してきた。
声のトーンが通常の音域から2~3段階下がってしまったことは、素直に認める。
そのせいで、普段の声のトーンでは気にならないそこはかとない不機嫌具合が、いや増して顕著に聞き取れる声音になってしまったことも、ここでは甘んじて認めようと思う。
更に云えば、声が低まったのにつられて、表情も冷たく凝り、どう見ても激怒しているとしか見受けられない様に変容してしまったことも、弁明の余地無しな
けれど、『良くない三拍子が揃ったお嬢様』というフレーズを聞いてしまった以上、決して聞き流すわけにも、認めるわけにも、捨て置くことすらできそうにない。
どんなに疑いようのない明確な理由や根拠があったとしても、絶対自分から進んで肯定なんてできない部分が、あの少年が口にしたセリフの中に確実に存在していた。
これにより、例に洩れずだだっ広いこの厨房内の室温が、記録に残る劇的な急降下を観測してしまったことだけは、誠に遺憾な出来事だった。
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