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●本編●

78.寝物語に上せるは。

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 コンコン。

「失礼、します…。 お待たせしてしまって、ごめんなさいお母様。」

寝支度と探しものを済ませて、やっと再び訪れることができた公爵夫人の寝室。
侍女のメリッサがわたくしの手伝いのためにお母様の私室から離れている間は就寝前の体調チェックも兼ねて、看護師アンフィルミエルが代りにお母様に付き添っているそうだ。

だからだろうか、寝室に繋がる扉は開かれており、中からは微かな話し声が漏れ聞こえてくる。
開ききった扉を軽くノックしてからヒョコリと顔を出し、中にいるお母様に向けておずおずと言葉少なに声をかける。
扉が全開なので重要な内容を話しているのではないと推察されるが、会話の邪魔をしてしまってはいけないと少なからず気を遣った為だった。

声をかけられたお母様はと云うと、気分を害した様子もなく、いつものように穏やかに、プラス心底嬉しそうに微笑んで私を歓迎してくださった。

「いらっしゃい、ライラちゃん。 もうこんな時間になっていたのね…! 全然気付かなかったわ、それもこれも、ローレンス夫人の聞かせてくれる話のどれもが面白かったお陰ね。 遅い時間まで付き合ってくれて、どうもありがとう。」

「い~え~~、奥様、滅相もございません。 年寄りのとりとめもない長話に、いつもいつも笑顔で付き合って頂けて、こちらが有難いってものですよぉ!」

公爵夫人からの謝意を受けて、雑談を交わしていた相手の看護師アンフィルミエルは、口角を感じよく上げた人好きのする笑顔を浮かべ、カラカラと気さくに笑ってこたえた。
ローレンス夫人と呼ばれた年配の女性はそれからすぐに、座ったままの状態ではあったが体ごと私を振り返り、しっかりと丁寧に会釈してくれた。

 ーー!! ちゃんと無視せずに挨拶してくれた…!! やっぱり普通はこうよねぇ? あのマダム何某が例外中の例外だっただけよね、あーやだやだっ、早く忘れましょーーっと! これ以上思い出しても一文の得にもならないものね!! あんな人と会った記憶なんて、エンガチョ物だわ!!!ーー

心の中で両手の人差し指を繋ぎ、それを第三者に切り離して貰う場面を想像して、少なからず結ばれてしまったあのいけ好かない婦人との縁をスッパリと断ち切りたいと強く願った。

私に挨拶してからのローレンス夫人の行動は早く、雑談の時間は終わりと判断した途端、寝台横に設えられた椅子からどっこいしょ、と自分自身に向けて掛け声をかけてから立ち上がり、お母様を振り返って「それでは奥様、失礼いたします。」と言って頭を下げたあと、椅子の脇に置かれたテーブルの上にある自分の持ち物をテキパキと拾い上げて腕に抱えるとこちらに向かってスタスタと歩き出した。

見かけは50絡みくらいの中肉中背の女性で、初動はともかく、現在のハキハキと歩く動きからは職務に対する熱意と自信が伺えて、仕事が出来る女性なのだろうな、と勝手に納得してしまえる謎の説得力が醸し出されている。

長く伸ばした樺茶かばちゃ色の髪を前髪ごと後頭部の高い位置でキュッと結んで、スッキリと纏まったポニーテールが背の中程まで緩くカーブを描いて垂れている。
年相応に少し垂れた頬が可愛らしく見える顔の輪郭や、その顔に浮かべる明るい表情もはっきりと見えて、梔子くちなし色の瞳が鋭さを感じさせ、キリッとした目元が与える少しキツめの印象を対象的に振りまかれる柔和な表情がマイルドにリカバーしている。

それらが全て絶対的な安心感へと昇華されて、『この人に任せれば大丈夫』と自然と思わせる、そんなオーラが半端なく滲み出ていてその風貌を頼り甲斐のあるベテラン感で彩っている。

ほどなく寝室の扉付近、つまりはそこに立ち尽くす私たちのそばまでたどり着き、私の後ろに気配を消して佇むサイボーグ侍女に目線を定めてニコッと微笑みかけた。

「ありがとうございました、マダム・ローレンス。 このように遅い時間まで居ていただき、感謝致します。 別室でお待ちくださったご夫君にも同様に、謝意をお伝え願います。」

微笑むローレンス夫人に対しても、サイボーグな侍女のメリッサはいつも通りの無表情を崩さず、静かに一礼してから感謝の意を伝えた。

「はいはい、どーもねぇ。 でもねぇメリッサちゃん、“マダム”はよしとくれよねぇ! あたしはどこぞのお貴族様みたいなやんごとなき御夫人とは違っうのさ! しがないいち看護師アンフィルミエルなだけなんだからねぇ~!! それじゃぁね、あたしはこれでお暇するわね。 ライリエルお嬢様、おやすみなさいませ。」

 ーーえ、メリッサ…“ちゃん”?! 聞き慣れ無さすぎて、言葉の響きが新鮮そのものだわ!! 慣れてしまえばメリッサの無愛想さも可愛らしさしか感じ無いけど、付き合いの長い人物でもこんな風に呼べるのは、恐らくこの年代の方ぐらいのものよね…、それか心の機微とか気にもしないチャラ付いた人物くらいのものでしょうね。 でもそんな人物、使用人として雇い入れられる可能性はどー考えてもゼロよね、今のところ。ーー

なんて考えが頭の中を超速で駆け抜けたのは、時間にしてほんの一瞬だった。
今度は距離が近いからか、ちゃんした就寝前の挨拶の言葉を、目を見て言ってくれた。
こんな些細なことが嬉しく感じてしまうのは、あの御婦人の態度が極悪だったお陰と言えば、相違ないけれど、曲がり間違っても感謝したいとは思わない。

「えぇ、お休みなさい、えーと、ローレンス…夫人?」

お母様が呼ばっていた呼び方を真似て、ちょっとまごついてしまいながら挨拶を返す。

「あっはっはっは、お気遣いなく、ローレンスで良うございますよ! 奥様にも何度もお願いしてるんですがねぇ~? 聞き入れてくださらなくって! あたしは“夫人”なんて柄ではございませんし、ましてこんなばばには過ぎた呼び方ですからねぇ!! それでは奥様、ご無礼致しますねぇ。」

パタパタと上下に手を振って、自分に対して敬称を使う必要はないとカラカラと笑って拒否する。
拒否されたのに、全然不快感を感じない。
これもこの方が無意識に振りまく気さくな雰囲気と、言葉の響かせ方や表情の出し方による効果なのだろう。
大口を開けて笑うさまがとても良く似合っていて、明るい表情が素敵な女性だなぁ、と好感度が一気に100くらいプラスになった。
お母様には聞き届けていただけなかったようだけど、本人がそう望むのなら次回からは名前のみで呼びかけようと素直に受け入れることにした。

最後にお母様に対して退室の言葉を声を張って言ってから、退室するローレンスのために扉を開けようと動き出そうとした侍女を軽く上げた手で制して、トットコトットコと独特の足音を立ててまっすぐに私室を横切って扉へと向い、ちゃっちゃとその扉を開けて部屋を出ていってしまった。
その一部始終を余すことなく、なんとなくその場の流れにつられて見送ってしまった。


 今日一日で見事なまでにタイプの全く違う、各々が個々の個性をしっかり確立した使用人に幾人も遭遇することとなったなぁ…、としみじみとした思いを噛み締めてから、お母様へと視線を戻す。
これからあの寝台でお母様と就寝する、そう考えたら途端に、今まで忘れていた変てこな緊張感が舞い戻ってきてしまった。

所在なげにそわそわと身体を揺らして、落ち着き無く自分の辺り周辺にチラチラと無意味に視線を彷徨わせだした私の不審過ぎる態度で、緊張していると見抜いたお母様がふふっとおかしそうに笑って、殊更優しく安心させるように朗らかな声音で自分の方へと誘うお言葉をかけてくださった。

「まぁ、ライラちゃんったら、緊張しているの? わたくしは本当に、全然待たされたなんて感じてないわ、だからそんなに畏まらなくても大丈夫よ、どうぞいらっしゃいな。 今日は私のお願いを聞き届けてくれてありがとう、ライラちゃん♡」

いつにもまして肩のみならず全身に余計な力の入った愛娘に向けて、言葉のみでは遠慮してしまうだろうと考えてか、掛布を捲って寝台へと招き入れる仕草をとる。

「えぇと…はい、ごめんなさい…。 何だか、ドキドキしてしまって、自分でも良くわからないくらい、凄く緊張してしまってて! あ…こんな変なこと言って、ごめんなさい。 す、直ぐに、行そちらにきます…ね!」

あわあわとしどろもどろに言葉を返しながら、後ろに控える侍女をその場に残して、小走りに母親の待つ寝台へと駆け出す。
少女が今いる寝室の扉付近から母親の待つ寝台までの距離は、掛布を捲った箇所、むき出しになって外気に触れたシーツを冷え切らせれてしまえるくらいには時間がかかる距離なのだった。
幼女には遠いと感じてしまうこの公爵家の広すぎる間の取り様は、ちょっとどうにか改善してほしい難所の1つだった。
小走りした甲斐あってか、何とかむき出しのシーツが冷え切る前に目的地の寝台へと辿り着けた。

「えぇっと、あの、お、お邪魔します…!」

一言断ってから、よじ登って寝台に上がり、掛布の捲くられた部分から小さな身体を滑り込ませて、お母様の体温で温められた寝具の中へと潜り込む。

「ふふっ、謝らなくて良いのよ? 実は私もね、凄くドキドキしているの。 ライラちゃんと一緒に寝られるのが嬉くて、お願いしたあとからずぅっと、凄く楽しみにしていたの。 やっと夢が叶うのだわ…、と思ったら、感慨深くって、きっとそのせいでこんなにドキドキしてしまったのだわ。」

内緒話を打ち明けるように、声を潜めてこしょこしょっと私の耳に寄せられた口元が言葉を吹き込む。
ウキウキと楽しげに話すお母様は、成人して十年が経過しているとは信じ難い、どこからどう見ても可憐な少女そのものにしか見えなかった。

 ーー天使の微笑みに妖精の如き可憐さのコンビネーションが炸裂している…、こんなのもうっ、どー考えたっって、お母様しか勝たん!! 尊いっ、好きっっ、大っっっ好きですぅ~~~っ♡♡♡ーー

お母様の振りまく陽の感情に彩られた明るい表情に超至近距離から照らされて、塵も残さず焼き尽くされてしまいそうになりながらも、オタク魂を燃え上がらせてこれに必死に抵抗し、やっとのことで原型をとどめ懸命に持ちこたえてみせる。
それもこれも、この瞬間の煌めくお母様の姿形を心のアルバムに収めることに執念を燃やした結果だった。

そんな雑念に率先して囚われていたために、お母様の紡いだ言葉の意味をすぐに理解することができず、かなり遅れてから疑問に思った箇所をそっくりそのまま繰り返して問いかけた。

「『やっと夢が叶う』…、ですか? お母様は、私と一緒に寝るのが、夢…だったのですか?」

「そうなのよ、でも出来ればライラちゃんだけじゃなくて、アルくんとエリーくんとも、一緒に寝てみたいのよ? 自分の子供と一緒に眠れるなんて、母親の特権そのものでしょう? でも中々叶える機会に恵まれなくて、今日この日まで叶わなかったの。 だからとっても嬉しいわ♡」

 ーーお兄様ーずと眠りたいなんて、そんなの激しく同意しかない!! わかるっ、わかってしまいますともその気持ちぃーーーっ!! 私も美少年の寝顔を余すことなく『見たい、触れたい、触りたい』、いやいやこの場合はお触りは厳禁よね、現行犯でガッチャンコされてしまう未来しか視えないもの、絶対無しだわ。 貴重な寝顔を拝せるまたとない機会を自らの愚行で不意にするなんて、許されざる大罪行為だもの、自重しないと駄目、何としてでも滾る欲望を調伏せしめないとボーナスタイムがパーになって精神こころが瀕死の重傷を負ってしまうわ!!!ーー

胸に抱く理由は違えど、お母様もお兄様ーずと眠りたいと思っていただなんて、初耳な耳寄り情報だ。
同じ願望を持つ人物がこんなにも身近にいただなんて、灯台もと暗しもいいところだ。

お母様と一緒に頼み込めたなら、きっとお父様もイチコロできて難なく許可をもぎ取れるはずだ。
と云うか、もういっそのこと皆で雑魚寝すれば良いと思う。
だってどの部屋もスペースは有り余っているはずなのだから身体が痛くならない対策さえしっかりしてやれば問題なく手の届く、実現可能な夢だろう。

ここまでの結論に至るまで、現実世界ではものの1分も経過していない。
なんだかこの部屋に来てからずっと、頭の移転速度がいや増しているように感じる。
煽り立てられたオタク魂が為させた御技なのか、事の真偽は不明だが、取り敢えず結論が出たことで、今まで耽っていた取り留めもない物思いに一先ずの終止符を打つ。

それからはお母様の仰った残りの言葉にも理解を急がせて、お母様が長年抱いてきた夢を叶える為に必要不可欠な存在となれたことが、ただただ誇らしく、そして素直に嬉しいと感じた。

「……そんなに、楽しみにしてくださってたなんて、全然知らなくて…。 わ、私もっ! 大好きな、お、お母様と寝られて、お願いしてもらえて……とっても、嬉しいです!! でも嬉しいのと同じくらい、緊張もしてしまってて、それはやっぱりお母様に嫌われたくないからで!! つまりは、えぇーっと、その…、ね…寝相が悪かったら、ごめんなさいっ!!!」

頼ってもらえたことも嬉しかったと伝える。
たどたどしい言葉遣いにはなってしまったけれど、これが私の偽りなき本心だった。
最後の寝相の下りも、結構な真剣さで気にしている。
イビキとか、ホジショニングの変動とか、寝ている間にどんな行動を取っているかなんて、夢の国へと旅立ってしまっているのだから本人だろうと知る由もない事、預かり知らない未知の実態なのだからしょうがない。

 ーー取り敢えず事前に謝っておけば、最悪なにかあっても悪意ありとは見做されない……はず、よね?ーー

緊張からのものとは違う、嫌な類のドキドキ感に身を浸しながら母親からの返答を待つ。

「うふふ、ライラちゃんったら、そんなことを気にしていたのね。 どんなに寝相が悪くても、そのことを理由にライラちゃんを嫌いになることなんてありえないわ、絶対にね。 だから安心して寝てちょうだいね? 私と一緒だったせいでライラちゃんが寝不足になってしまったら、その方が悲しいわ。 だからもし、どうしても寝れそうになかったら、私に構わず自分の部屋に戻って寝てくれて大丈夫よ。 無理してまで一緒に寝ようとしなくて良いの、遠慮しては駄目よ、約束してちょうだいね、ライラちゃん?」

私が危惧していた懸念事項をあっさりきっぱり否定して下さる。
その上で、私が1人でないと眠れない質であった場合の逃げ道をもちゃんと言葉にして示して下さるお母様の配慮に俄然嬉しくなる。

「はい、お母様、…ありがとうございます! 緊張はまだしますけど、でも嫌な感じはしなくなったので、多分平気です!! このまま朝までお母様と一緒に寝たいんです、ホントのホントに!! ちゃんとお約束します、無理なんかしてませんし、我慢もしてませんけど、お母様に安心して頂けるなら、何回だってお約束しますからね!!」

「ふふっ、約束してくれてありがとう、ライラちゃん♡ 私も未だにドキドキしてしまっているから、本当はこんな偉そうなことは言えない立場なのだけれど…今の状況に慣れていけるように、一緒に頑張りましょうね。」

お母様の柔らかい手が私の頭を優しく撫ぜて下さる、たったそれだけの単純な事で一気に眠気が押し寄せてきてしまうのだから、お母様の手には何かしらの不可思議な力が宿っているのでは?と思わずに居られなかった。

こくこくと頷いてお母様の提案に同意を示してから、込み上げてきた欠伸を何とか噛み殺して、自室にて寝支度をちゃきちゃきっとされている間ずっと考えていた、私の胸に秘めた密かな大望を打ち明ける為、言葉を発する機会を慎重に伺う。

何の脈絡もなく話を切り出すと、自分が望む結果へと上手く誘導できる気がしない、だから取っ掛かりとなる紙束アイテムをちゃぁーーんと持参したのだ。

 ーーあらら……? ちゃんと持参した、そのはずなのに、肝心の紙束は…今何処??ーー

そういえばこの部屋に来る前から手には何も持っていなかった、ような?
もっと言えば、自室を出る際も、私の手の平には何もなくて、空っぽ且つガラ空き状態だった…ような??

あれれぇ~~?と小首を傾げて紙束の所在を思い起こしていると、母娘の会話を愉しんでいた私たちを尻目に、普段と変わらずちゃきちゃきっと行動して、就寝に向けて寝室の準備を整え終えた有能な侍女が、思い出したように私へ平坦な声で話しかけてきた。

「ライリエルお嬢様、こちらの紙束はこの棚の上に置いておけば宜しいでしょうか?」

「!? メリッサに預けていたのだったわね、私ったら何処へやってしまったかと、今必死になって思い出そうとしていたところだったの! 棚の上でなく私にちょうだい? お母様、寝るのはまだ少しだけ待っていただいても大丈夫ですか?」

こちらの探し求めていたそのものズバリなキーアイテム、丁度良くその存在を知らしめてくれたメリッサに心の中で絶大な賛辞を送る。
訳も分からず持たされていた紙束は侍女の手によって無造作に棚の上に置かれようとしていたが、すかさず手渡すように要求して、しっかりと小さな手に受け取りながらお母様を振り返り、ちょっとだけ、と前置いて夜更かしをしても大丈夫かの許可を求める。

「えぇ、大丈夫よ、私は構わないわ。 昼間少し寝たようなものだから、まだそんなに眠気もこないの。 …それより、その紙はなぁに? なにか書いてあるようだけど……、あら? もしかして、そこに書いてあるのは今この国で使われている文字かしら?」

「えへへ、そうなんです! 文字を読めるような勉強がしたいと言った私のために、メイヴィスお姉様がこうやって、見やすく丁寧に、一覧にして紙に書いてくださったんです!! こっちは色々な意味のある言葉とか、月の名前とか、凄く沢山書いていただけたので、全部じゃなくても一度目を通しておきたくって!!!」

不思議そうに私の手に握られた紙束を見たお母様が、その紙面に書かれた文字に気が付き率直に問いかけてこられた。
隠し立てするつもりは毛頭なかったので、じゃじゃーーんっと見せびらかすつもりで、掛布の上に一枚一枚の書かれた内容が見やすいように無造作に並べて置いていく。
説明しているうちに、メイヴィスお姉様の功績が自分のことのように誇らしく思えてきて、次第に興奮してしまった結果、発せられる声の強さが増してしまった、失敗失敗☆

 ーーでもこうやって改めて見てみると、6歳児が書いたにしては、凄くまとまりのあるキレイな文字ではなかろうか? こんな複雑な曲線、今の私にはミミズがのたくったとしか思えない、にょろにょろよぼよぼした線にしかできないもの! お姉様の見る者のための配慮が感じられる、とっても読みやすくてお手本にしやすい文字だわ…!!ーー

今この場に持ってきた紙に書かれた文字はお姉様が書いたものが殆どだ。
お姉様が書いた文字の横や空いたスペースに書かれた無駄に筆圧が強くかかったと思しき濃い色味の文字になりきれなかった様々な線の集合体は、言わずもがな、私の書き記したもので相違ない。

 ーーうん、時間が経ってから見ると、自分で書いたはずなのに、何を書いたものだったのか全く解読できない、酷いなんて言葉では生易しい表現に思えてしまう、凄惨な出来栄えだわ…。 私、こんなんでちゃんとこの国の文字を書けるようになるのかしら……?ーー

ある種の狂気さえ感じさせる文字もどきが点在しているおかげで、メイヴィスお姉様の文字の綺麗さがより顕著になり引き立てられている、と考えれば肯定的に捉えられなくもない私の作品たち。
1枚だけびっしりと、筆圧の濃さを抜きにしても誰が書いたものなのか一目瞭然な酷すぎる紙が混ざり込んでいるのは、偶発的な事故などではなく勿論意図して持ってきたからに他ならない。

その1枚に目を留めて、不思議そうに眺めるお母様の横顔を横目にチラ見して、その反応の種類を窺う。

 ーー今現在のお母様のこのお顔は…何が書いてあるのかわからない、だけではなさそうな表情、に見えなくもない…かしら? 特にこれと言って、何か解読できたような雰囲気は感じられない…わよね?ーー

あの1枚には前世でわたしがもっぱら使用していた日本語が無作為に混入して書かれている、つまりひらがな・カタカナ・漢字がそこかしこに散りばめられているのだ。

やっぱりメイヴィスお姉様と似たような反応しか返ってこなさそうだ、そう思いながらも念には念を、と一応問いかけてみることにする。

「そちらの1枚は全部私が書いたものになってます! 我ながらいろいろ沢山書けたなぁって、ちょっと頑張った1枚なんですよ? ここら辺なんかはありそうな文字を考えて書いたのですけど、どこかの国の言葉に似ていたりしますか? メリッサも見てちょうだい、何かこれはって思うような事はあったりしない?」

「そうねぇ…、残念だけど、私の知る限りではこんな形の文字を使っている国はなかったと思うわ。 私が知らないだけかもしれないけれど、もしどうしても気になるようだったら図書室に行ってみると良いかもしれないわね。 確か世界各国で使われている文字について書かれた書物が置いてあったはずだから、一度探してみると本を探す練習にもなるし、勉強にも役立って良いはずよ。」

「図書室にそんな本があるのですか!? ありがとうございます、明日時間があれば早速行ってみて、探してこようと思います!!」

 ーー図書室そんなナイスな本があるなんて、とっても耳寄りな情報がもらえてしまったわ! さすがお母様、私の欲しい情報を心得ていらっしゃる♡ーー

嬉しくなってニコニコ笑顔でお母様へとお礼を言う、そんな私の笑顔に、可憐に微笑んで下さるお母様のお顔がたいへんに麗しくて眼福の一言しか出てこない。

気分で高揚して、鼻歌を歌ってしまいそうなほど浮かれている私を嘲笑うかのように、地に撃ち落とすのはいつもこの侍女だなと思わずには居られない辛辣な言葉を浴びせられることとなる。

「ライリエルお嬢様、僭越ながら申し上げますと、私にはどれが文字に当たり、どれがそうでないのか皆目見当がつかず判断致しかねます。 できればもう少し文字を書く練習をなさってから、必要があれば再度お見せ願えませんでしょうか?」

「メリッサの意地悪ぅ~っ!! そんな、はっきり言わなくても、良いのではなくって?! わ、私だって、好き好んで読みにくい文字を書き連ねたかったわけじゃないのにぃ~~っ(泣)」

心の汗が目から溢れて迸る、それを慣れた手付きで何処からともなく取り出したふっかふかのタオルで受け止められ、顔面を覆われた。
油断しきっていた私の精神こころは、急所に情け容赦無く打ち込まれた言葉の弾丸で瀕死の重傷、一命をとりとめたのがもはや奇跡としか言いようのない死に体を晒すこととなった。


 泣いたせいで目蓋が凄く重い。
座った状態から、今は寝台に横たわって掛布を肩までしっかりと被って寝る準備万端な状態だった。
先程まで目元をタオルで覆っていたが、やっとのことで心の発汗が止まり、お役御免となったタオルはずっしりと重量を増していたが、発汗の原因となった心なきサイボーグ侍女が気にもとめずサクッと回して、部屋を辞すついでに部屋の明かりを落として退室して行った。

瞬きをする間隔が長くなり、うとうととしながらそう云えば言い忘れていたなぁ…、とぼんやり考えて、思いついたままを覚束ない舌使いで言葉にして吐き出す。

「あ、そういえば、全然…大した事ではない、の、ですが……、今日サミュエルに許可を貰ったので、明日の朝出発する前に…例の子豚さんに会うことになって、ます…。 騎士の方たちにも、会えるはずなので……、ちょっと、愉しみ………でふ……。」

言葉の区切りが不自然になり、どれだけ瞬きを繰り返しても滲む視界は回復せず、段々と目蓋が降りてきて、世界は優しい暗さの闇に覆い尽くされてしまった。

「えぇ? ライラちゃん、アンジェロン子爵令息に会うつもりなの? どうして…? 何でそんな必要が? …ライラちゃん? あらあら、眠ってしまったのね…、可愛い寝顔。 やっぱり、どことなくコーネリアスの面影もあるわねぇ…、父娘だもの、当たり前よね。」

聞き返すも時すでに遅し。
最後にとっておきの爆弾発言を投下して、その本人はと云えば、スースーと安らかな寝息を立てて、幸せそうな寝顔で夢の世界へと旅立ってしまった。
残された母親は、様々な感情に彩られた複雑な表情をしながらも、最愛である夫の面影をどことなく受け継いだ愛娘の可愛らしい寝顔を見て、どこか諦めたように嘆息してから横になり、静かに目を瞑る。
そうして暫くの間、全く寝付ける気がしないまま、それでも閉じた目を再び開ける気にはならなかった。
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