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●本編●

22.悪役令嬢のバッド・エンド【弐−①】

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 帰り着いた屋敷の玄関で、突然の予期せぬ来訪者に困惑したのは、出迎えたメイド達と家令のオズワルドだけですまなかった。

流石のお母様も、美しいお顔に浮かべるのはいつもの微笑み…ではいられなかった。
あんなに、眉間に皺の寄ったお顔を、これまでに見たことがない。
それにあの、赤い瞳。
相当怒りを覚えているようだ。
詳しいことはお母様は語り聞かせてくださらないが、感情が昂ぶると、瞳が赤く煌めくのは、お母様の血筋によく見られる事だそうだ。
お父様も、常にない愛妻の険しい表情と、怒りを如実に表す赤い瞳にオロオロと狼狽えている。

「コーネリアス、昨日の今日で、聖女様がいらっしゃるなんて…説明不足にも程があるわ。 何の準備も出来ていないのに…。」

「アヴィ、すまなかったねぇ。 昨日は浮き足立ってしまってねぇ~、伝えそびれていたことに気が付かなかった! 私がオズワルドにでも1言申し付けておけば」

「コーネリアス。 屋敷の采配は公爵夫人わたくしの仕事だわ! オズワルドであっても、私に無断で部屋の手配なんて出来ないのよ。 コーネリアス、お願いよ。 いつもの貴方に戻って…?」

「アヴィ…? 何を言ってるんだぃ~? 私はいつも通りさ、何もおかしな事は無いだろう?? どうしてそんな顔をするんだぃ~、アヴィ。 何が君を、苦しめているんだぃ?」

お母様がこんなに厳しい口調でお父様には詰め寄るなんて、前代未聞の事態だった。
お母様を蔑ろにするような発言にも驚いてしまったが、その後のお母様の悲痛な思いを滲ませた訴えが、心に迫った。

妻の顔を歪ませている原因が自分であることが、余程衝撃的だったのか。
お父様のエメラルドの瞳が揺らめき、僅かに光が差した。

けれどそれはほんの一瞬で、何かを取り戻す前に、その光は色を濃くしたエメラルドに呑み込まれて、消えた。

お母様にもそれが解ったようだ。
夫の瞳の中に、感情の揺らぎの残滓を探すが、沈黙した深い翠玉の瞳は、ただ鈍く覗き込むお母様のお顔を映すのみとなった。

あれは、正気を取り戻そうとしていたのだろうか…?
やはり、今のお父様は何かしらの魔法の影響下にあるのだ…!
普通の世間一般に知られた魔法ではなく、特殊なものであるに違いない!!
明日は真っ直ぐ屋敷に戻らず、王国立魔導図書宮へ寄ろう、そこで手掛かりを探すのだ、絶対に、見つけてみせるっ!!!


 決意も新たに、明日の行動予定を頭の中で組み立てる。
学園でも手掛かりか、それに繋がる情報がないか、休み時間に図書館に出向いて調べてみなければ。

お父様とお母様のやり取りに気を取られ、自分の考えにも没頭していた。
結果、存在を忘れられていた聖女は、沈黙を破るように満を持して動き出した。

「フォコンペレーラ公爵夫人、申し訳ありませんっ! 私もすごく、戸惑っているんです、今でも。 こんな急に、新しい家族だなんて、受け入れられないって、わかってます…。 でもお願いします! あの家には、もう帰りたくないんです!! あんな酷い両親が、兄がいる家になんて……っ、もう二度と帰りたくないんですぅ~~っ!! ですから、どうかこのお屋敷に、居させてください…っ!! どんなお部屋でも構いませんので、あの家にだけは、返さないで下さい、お願いしますっ!!!」

挨拶の礼法も無視して、自分の“可哀想な身の上話”を匂わせて聞き手の同情を誘うつもりか。
途中からポロポロと涙を流し、迫真の演技で泣き落とそうとする。
なぜこんなにも、白々しく嘘くさくしか見えないのだろう?
それとも、そう感じているのは私だけなのだろうか…?

今エントランスに居る人物に視線をめぐらす。

お父様は頼りにならない。
もう既に術中にはまっている為、聖女の涙につられて涙ぐんでいる。
ここまでくると、呆れるよりも気持ちの悪さが先にくる。
あのお父様が、家族以外の人物に心を砕くなど…天変地異の前触れだろうか…?
そうとしか思えない程に、奇妙な現象だった。
でもそれも、魔法によるものであれば話は別だ。
ここまで強烈に、元の人格を無視して聖女に傾倒させ引き付ける魔法。
必ずその理を暴いて、お父様を解放して見せる…!

お母様は厳しい表情で赤い瞳のまま聖女を見据えている。
その表情からも分かる通り、聖女になど欠片も感化された様子はない。
泣き落としなど、通じるはずもなかった。
あの赤い瞳は感情を表すだけではないらしい。
その他にも、不可思議な能力を与えてくれるらしいのだ。
今のお母様は、きっとその不可思議な能力で守られているのだろう。

視線を聖女に戻すと、ポロポロと涙を流しているのは相変わらずだが、手に覆い隠された口元が僅かに歪んでいた。
悔しさを表したような歪み。
お母様が、望み通りの反応を返さなかったのが予想外だったのだろうか。

この場に残っているメイド達や家令のオズワルドは、最初とは打って変わって、今や哀れな聖女様に同情したかのように、気遣わし気な視線を向けている。

やはり、この聖女が根源なのだ。
この異常な事態の、諸悪の根源。

強い敵愾心が沸き起こる。
それにつられたように、黒い靄がどこからともなく立ち籠めて、色を濃くして群がってくる。
その異様な現象にこの時初めて気が付く。

ゆらゆらと私の身体の周りに纏わり付き、消えていく。
私の身体の内に、溶けていくように、吸い込まれていくように。
驚き慄いて、1歩、後退る。

その姿を、聖女に横目でつぶさに観察されていた。
その瞳の底の見えない昏さに、原始的な恐怖が沸き起こる。

聖女自身も、何者かに魅入られた者であるかのように、暗い瞳の色をしている。
ロードクロサイトの美しく煌めいていた瞳は、今は濃い薔薇色に染まっている。
底なしの昏さを宿して。

聖女が根源、でもその背後に、まだ何かある。
何者かの介在した痕跡が、目の前の聖女の瞳に刻まれているように思える。
感情の無い虚ろな瞳を見つめ返して、再び、震えがおこる。

覗き込んだ瞳の昏さの深淵が見えなくて。
このまま覗き込んでいたら、引摺り込まれてしまいそう。
二度とは戻れない深淵を越えた先まで。

単純なものではない。
この異常事態の背後で、真実糸を引いている存在は人の手に余る、大き過ぎる存在に思えてしまう。

目を逸らすこともできずに居ると、後ろから扉の開く音がする。
邪魔が入ったとばかりに呪縛が解かれ、視線がほどけた。
自由になったことで、音のした方へ視線を向ける。
そこには我が家の長男、アルヴェインお兄様が扉を開けた状態で立ち尽くしている。

「こんなところで、何をしているんだ…? …ルシフェーラ…、アンジェロンか、ここで何を…?」

お兄様はそれだけ言うとある一点を見つめて黙り込む。
屋敷に入って聖女の存在に気付いてからずっと……、家族の誰にも挨拶すること無く、聖女を見続けていた。
それだけで、お兄様も聖女の虜になっていることが嫌でもわかった。

「アルヴェイン先生…、実は国王陛下のお計らいでフォコンペレーラ公爵様に後見人になっていただけることになりまして…、本日からお世話になれると……。 私早とちりしてしまって……。」

先程の虚ろな目は、もう鳴りを潜めていた。
潤んだ瞳で、お兄様に媚びを売るようにあからさまな態度で擦り寄る。

「そう、だったのか…、だが…何もこんな、ホールで立ち話も無いだろう? 母上、応接室に通しても?」

困惑をまだ多く残しながらも、聖女を立ったままにしていることが気になるらしい。
お母様に伺いを立て、勿論エスコートする気でいる。

「……そうね、そうして頂戴。 その間に、メリンダに一階の客室を整えるよう伝えて。 私は…今日はもう、部屋に下がるわ。 後をお願いね…オズワルド。」

力なくお兄様に答えて、疲れたように額に手を当てて深い溜め息をこぼした。
手を差し出すお父様を断って、部屋に下がろうとする。
お父様は、断られたことに受けた衝撃を隠しきれていないが、これは仕方がないと思う。

「はい、奥様。 お任せ下さい。 誰か、奥様に…。」

「私が一緒に行くわ。 お母様、私にお掴まりになって?」

「ライラちゃん…ありがとう。 聖女様、満足なおもてなしができず、申し訳ございません。 誠に勝手ながら気分が優れないため、本日はこれにて失礼しますわね。」

形ばかりのお詫びの言葉を残して、振り返ること無く部屋へと向かう。
階段を登り2階へたどり着いたところで、視線を感じてそちらを横目に見る。

目を向けた先には招かれざる聖女様が居た。
再びあの目をして、私を見つめてくる。
昏さを全面に押し出した、虚ろな瞳が私を無感情に追いかけてくる。
その視線を振り切るように、お母様を伴って通路の奥へと急ぐ。
早くあの目から逃れたかった。
一刻も早く、あの視線が届かない場所へ、逃げ果せたかった。


 直ぐにお母様の部屋へと辿り着けた。
寝室にはまだ行かないと言われた為、ソファまで付き添って座るところまで手を貸した。
役目も終わり退室しようとすると、緩く伸ばされた手が腕に触れる。

「ライラちゃん、もうちょっといて頂戴? 今はまだ…一人にはなりたくないの、お願い。」

クンツァイトの瞳が心許なく揺れている。
触れている手も、平時より冷たく感じる。

「お母様……、私も本当は、まだ一人にはなりたくありませんでした。 是非、ご一緒させて下さい。」

その手を温めたくて両手で包むように握り、お母様の隣に座る。

「ありがとう。 そうだわ、ここに夕食の用意をさせましょうか、その方が時間を気にしなくて済むものね。」

花が綻ぶように微笑む。
少女のような可憐な笑顔に、つられて微笑み返す。
メイドにその旨を伝え、程無く、ソファの前に用意された机の上に、手軽につまめる食事が並べられた。

準備を終えたメイドが静かに部屋から退室すると、母娘2人水入らずで束の間の平和な時間を過ごした。
取り留めもなく他愛のない話しをする。

今は現実に目を背けていたい。
お父様も、お兄様も、使用人の一部も、聖女に傾倒している。
過ごす時間の長さは関係ないらしい。
何が切っ掛けかは不明だが、少しでも気にかけたら、引きずり込まれていそうだ。
お母様と話す間も、結局は聖女に関する事を考えてしまう。

このまま、一緒に眠りたいくらいに、お母様から離れ難くなった。
子供に戻ったかのような、幼い願望に、恥ずかしさが先に来て結局言えなかった。
そろそろ寝支度をしなければならない。
後ろ髪引かれながら、お母様の部屋を後にする。
部屋を出るときに見た、私を見送るお母様の優しい眼差しを、忘れられない。

これが最後になると知っていれば、恥も外聞もかなぐり捨てて、お母様の側を離れることなどしなかっただろう。
私を慈しんでくれる、無償の愛を向けてくれる、優しいお母様を守れたなら、私は自身の矜持など捨てられたのに…。
何度思い出しても悔やまれる。

あの時、それが出来なかった自分を、この日を思い出して何度も…何度でも……死ぬほど後悔する。

翌日の朝はいつも通りのお母様が見送ってくださったのに。
昨日急遽決めた予定をこなすため、王国立魔導図書宮に立ち寄って予定していたよりも時間を取られてしまい、帰宅が遅くなった。

帰ったときには、お母様も変わってしまっていた。
そしてエリファスお兄様と弟のメルヴィン、使用人達までもが完全に聖女の虜となってしまっていた。

愕然としてしまって、立っているのがやっとな私の目の前で、私の家族が聖女を持て囃す。
あんな言葉、お母様の口から聞きたくなかった。

「ルシフェーラちゃんが、本当に私の娘だったら良かったのに…。 もっと早くに気付いてあげられていたら…、ごめんなさいね。 これからは私達を本当の家族と思って、甘えて頂戴ね? お義母様と言ってもらえて、嬉しいわ。」

その日の夕食は、喉を通らなかった。
けれどそんな私に、家族は声もかけず、気付いてすらいなかったかもしれない。
聖女様に構うのに忙しくて、私など視界の端にも入っていなかったことだろう。

ただ目の前で繰り広げられる現実を、どこか他人事のように思えてしまいながら。
ぼんやりと考えるのは1つだけ、独りに成ってしまった。
その事実が心に重く伸し掛かって、沈み込んでしまいそうだった。

弱音なんて吐いていられない!
私一人きりでも、今できることをしなければ。
もうこれ以上、後悔しないように。

この時も、以前より激しくなった水流に翻弄され、流されていようとも、まだ溺れずに済んでいた。
水面から顔を必死に上げ、酸素を取り込もうと努力していられた。

足場の崩壊は止まらない。
浸蝕は進み続けている。
そのことを嫌でも実感させられる日々は、まだほんの序盤。
始まったばかりだったのだから。


 最低最悪を更新する日々。
昨日よりも今日、今日より明日、日を追うごとに状況は悪くなる一方で…。

新学期開始5日目。
我が家の中心は、聖女様になっていた。
最早どちらが居候かわからない。
私が今までいた場所に、聖女様が取って代わり、我が物顔で居座っている。

学園でもそう。
王太子殿下の寵愛は、日を追うごとに深くなる。
王太子殿下の護衛騎士兼側近の、聖女への振る舞いは日を追うごとに未来の王太子妃への振る舞いに。
そして周囲の目は、それをもう当然のように受け入れきっている。
正式な婚約者の、私の存在など初めからなかったかのように。

それでも、私は顔を俯けてはいられない。
希望を捨てるわけにはいかなかった。
手掛かりを掴まなくては…!
何でもいいからこの最悪な状況を脱する、糸口を見つけなくては!!

休み時間の度、近くない距離を往復する。
図書館は学園の中央に位置しており、私の学年の棟は北東に位置する。
それを短い休み時間をすべて費やし、足繁く通う。

そんな生活を1週間ほど続けた頃、女子生徒数人に行く手を塞がれた後に囲われ、不躾に声をかけられる。
面識もない相手、しかしリボンの色から下級生の集団であることはわかった。

「あら、ごめん遊ばせ? 道を遮ってしまって。 ですが一度この目で見ておきたかったものですから。 この国、いえ、この世界の希望である聖女様を陰湿で悪質な手口で虐める性悪の顔を、近くでつぶさに確かめたかったのですわ!」

「な……んですって……?!」

私が聖女あの娘を虐めている、ですって…!?
馬鹿馬鹿しいっ!!
虐めを受けているのは寧ろ……!!!

喉の手前まで、言葉が出かかる。
しかし、その言葉は紡ぎ出せるはずもない内容であった。

聖女様が我が家へ居据わってから、2、3日後だったか。
学園での私の身の回りが、芳しくなくなった。
図書館へ向かってから教室に戻ると、何故か決まって教室にいる生徒全員から白い目を向けられるようになった。
蔑むような、侮蔑や嫌悪の交じった目で一斉に見られ、すぐに逸らされる、その間は誰もが口を噤んでいるのだ。

そこからは、持ち物に細工をされたり、捨てられたり、隠されたり。
教室は安全な場所ではなくなっていた。
そうと解ってからは席を離れる際は、必ず結界を張るようにしていた。
その甲斐あって、持ち物への被害は最初の頃以来出ていない。

しかし事実とはいえ、自分から『虐めを受けている』などとは、口が裂けても、言えなかった。
公爵家の令嬢として、そんな不名誉で恥辱でしかない醜聞を、自分の口からぶちまけるなど、出来はしなかった。

肯定は、死んでもしない。
否定は、したくても出来ない。

この件に、何かしら言葉を返せば、それが何倍にもなって自分に不利なものとなって返ってくるのは目に見えている。

今現在の私は、孤立無援。
婚約者の王太子殿下など、論外で。
お父様も、お母様も、お兄様達も、弟も、使用人達ですら今では聖女の味方。

直接的に何かされるわけではないのが、現状でのせめてもの救いとなっている。
籠絡された者を当てにしていては、足を絡め取られ、引っ張られ、引き摺られてしまう。

言い返したいのを、理性を総動員して押し止め、何とか堪える。
表情を消し、無言のままその場を去る。
これが悪手であったのは、翌日知ることとなる。
だがそれも、この時に起こるか、後日起こるかの些細な違いであった。

無礼な言葉は、一瞬で忘れ去るに限る。

心を偽ってでも、解決策の糸口を見つけることに専念する。
目的の内容を記す該当しそうな書物はあらかた目を通し終えた。
絶対的に冊数が少なすぎるためだ。
後残すは“禁書”とされる、今は神代の頃の話として語られるだけの、実在するかどうかも怪しい、眉唾ものの魔導の理を記した書物のみか。
少し見方を変えるためにも、建国記なども参照したほうが良いかもしれない。

しかし建国記以外、そのどれもが禁書であるため、一般の書棚に見かける事は当然でき無い。
この王立学園の図書館にも、僅かだが禁書は保管されているらしい。
そもそもの話、閲覧するには特別な許可が必要となる為、現段階ではこの目で見るこはかなわない。

禁書のことは王国立魔導図書宮に行ったときに考えよう。
今は建国に関する書物を見繕うことを目的に図書館へとはしたなくならない速度の早足で向かう。

図書館の正面玄関に辿り着いたときには、軽く息が乱れていた。
乱れた呼吸を落ち着けてから、玄関扉を押し開く。

キィィイイ……。

少し錆びついた音を響かせて、扉が開く。
中はシン…、と静まり返っていて、人の気配がしない。
短い休み時間に利用する者は殆ど居ないのだから、当たり前といえばそれまでだが。

古書特有の匂いに満たされた空間が、薄暗い光に霞みながら書棚の輪郭を浮かびあがらせる。
横長の四角い建物は、地下一階、地上三階という造りになっている。
階段は正面玄関から入ってすぐの目の前、建物の中心部に造りつけられている。
その階段の横に、図書館の簡易的な見取り図がある。
そちらに近づきながら、目的の書物がある棚の場所を一階から順に見て確認する。

すぐに目的の棚の場所が判明した。
幸いにも、一階にある分類だったが、少し奥まっているので、足音を立てないように注意しながら再び早足で向かう。

時間短縮も兼ねて最短距離で目的地を目指す。
宗教に関する書架が収められた書棚の横を通り抜けようとして、人がいるのに気づき、足を止める。
そこには、薄暗い光の中でも少ない光をまばゆく反射する、バターブロンドの長い髪を無造作に背に流し、立ちながらでも熱心に書を読み耽る青年がいた。
横顔でもわかる、その青年の人ならざる者の美貌に、魅入られたように動けなくなった。

立ち竦む私に気づき、顔を上げた青年の面差しが、王太子殿下と一瞬重なる。
しかし、瞳の色が違ったことで、直ぐに別人であると、他人の空似であると認識できた。
王太子殿下は、朝の光のようなイエローダイヤモンドなのに対し、この青年は、澄んだ青空のようなブルーダイヤモンドの瞳だったのだ。

顔がこちらを向いた際に、身体もこちら側に半歩分動き、見える範囲が広がった。
身にまとう衣装で彼が何者か、その職業は知ることが出来た。
汚れのない純白の祭服スータンをその身にまとい、胸元には《一なる神モノ・テオス》を表す正円の中央下部を三回右に捻った銀製の象徴が細い鎖に通され、下げられている。
メガロス=モノ・テオス教の聖職者であることは瞭然だった。

言葉もなくしばし見つめ合う。
お互いがお互いを不思議そうに眺めるばかりだったが、その呪縛から先に脱したのは、ライリエルだった。

時間がない。
早く書棚を確認して、目星だけでも付けなければ。
時間は有限、有効に無駄なく活用しなくては。

この通路を通るのは諦めて、迂回するため踵を返そうとした時、青年から声をかけられる。

「何か、お探しなのですか? レディ。 ……ラピスラズリの瞳…、とてもお美しいですね。 星が明らめる夜空のような、神秘的な輝き。 貴女に、とても良くお似合いだ。」

振り向いた私の瞳を見て、褒めちぎられる。
流れるように紡がれた過度な賛辞に面食らう。

「お褒めくださり、ありがとう存じます、司祭パストゥール様。」

「あぁ、これは失礼いたしました。 わたくしはフィンレイ・フォワ・エリファレット、偉大なるメダロス一なる神モノ・テオス》に仕えるしがない一僕いちしもべで御座います。」

名前を聞き、彼の人が枢機卿の位にある家柄であることに気付く。
“フォワ”が付くのは枢機卿の位にある者とその家族が、その職位に在位中だけ名乗れるものなのだ。

「大変失礼いたしました。 枢機卿キャルディナル猊下のご子息様でいらしたのですね。 私はライリエル・デ・フォコンペレーラと申します。 ご無礼をお許しくださいませ。」

「あぁ、畏まらず、普段通りにお話下さい。 枢機卿は父、であり、私はただの子息ですから。」

ふわりと柔らかく笑む顔は、女性的ではないのに儚く美しい。
ともすれば見惚れてしまいそうになりながら、質問をされていたことを思い出す。

「申し訳御座いませんが、それはできかねます。 私はお察しの通り、探したい書物がございますので、これにて失礼させて頂きます。」

「良ければお手伝い致しますよ。 在学中に、ここの書物はずべて読みましたから。 移動もされておりませんし、闇雲に探されるより、早いかと。 如何でしょう?」

「それは…、願ってもないお申し出でございます。 ですが、司祭パストゥール様のお時間を取らせるわけには……。」

「お気になさらず。 隣人をたすけるのも私の職務の1つですから。 難しいことでも御座いませんし。 何をお探しでしょう?」

「ありがとう存じます。 ではお言葉に甘えさせて頂きます。 建国に関する書物で、古い伝記を探しております。 なるべく古いものが良いのです。」

「あぁ、だからこちらを通ろうとなさったのですね。 申し訳ございません、私が立ち読みなどしていたばかりに。 路を塞いでおりましたね。 どうぞこちらへ…、ご案内いたします。」

私がこの通路に来た理由に思い至り律儀に謝って下さった後、迷いなく歩き出した青年の背を数歩遅れて追う。
歩く度に揺れる、腰元まであるバターブロンドの艷やかな長髪を眺めながら思う。

柔らかな仕種、上品な立居振舞、これ程物腰の柔らかい男性は、初めて見たな…と。
体つきはしっかり男性のものなのに、これ程たおやかに見えてしまうなんて…、不思議な体験をしてしまった心地だった。

 直ぐに目的の書棚へと辿り着いた。
そしてその書棚に収められた書物の中から数冊の本を抜き出し、手渡して下さる。

「おそらく…このあたりなら。 ご希望の内容に添えると思います。」

「……ありがとう、存じます。 覚えておいでなのは、書物の位置と、並びに内容も、なのですか…? 素晴らしい記憶力をお持ちなのですね…。 助かりました、これで、後は王国立魔導図書宮での書架探しに専念できます。 ご助力感謝申し上げます、司祭パストゥール様。」

学園内の図書館すべての本を読破したに留まらず、内容まで記憶しているなど…素晴らしいどころの話ではないが、大袈裟に騒ぐのも失礼にあたるだろうと控えめに感嘆してみせた。

「レディは勉強熱心でいらっしゃるのですね。 王国立魔導図書宮にまで…、本当は、何をお調べになりたいのですか…?」

ニコリと表情では微笑んでいるが、瞳は違った。
探るようにこちらを注視している。

「…それは申せません。 貴方様には、お伝えするには憚られる事でございますので。」

「“禁書”でも、ご覧になりたいのでしょうか…? 私に憚る内容など、限られておりますから。 何かツテをお持ちなのですか?」

「私はその質問に…お答えできる言葉を持っておりませんわ。」

「ふふっ、そうですか。 詮索をしすぎてしまいましたね、失礼いたしました。 お詫びと言ってはなんですが…良ければ図書宮でもご案内させて頂けませんか? お邪魔はいたしませんので。」

「私などに、お気を遣い過ぎかと。 せっかくのお申し出でございますが、辞退致します。 ご助力には感謝しております。 それでは私はそろそろ戻りませんと。 失礼致します。」

度重なる協力の申し出をキッパリと断る。
聖職者が嘘などつかないとは思うが、初対面の人物にこれ以上頼るのは危険だと判断した。

「お気になさらず。 そうですか、ではいたし方ありませんね…。 一なる神のご加護があらんことを、レディ。」

静かに掛けられた声に、答える暇はなかった。
艶然と微笑む青年に背を向けて、教室へと駆け戻る。
その瞳に浮かんだ、悪戯を思い付いた少年のような煌めきに気付かぬまま、少女は図書館の扉を開け放ち、一心不乱に教室を目指して帰路を急いで駆けていった。
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