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第四章 第二節

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百の掠手から逃げて、もう一度腹を聴く。



「お主……お主は、もしや同族か?」
 明らかに老いぼれた男の老人が立っていた。



 誰だ?
「もう、名前も捨てた世捨て人だ。そんな自己紹介より……
お主は、なんとも美しい」

 美しくなんてない。この老人は、私の声を聞いたわけでもない。私の魂が見えているわけでもない。そして、この「魂が見える」と言う感情が、表現が、また私にセレラーシュを思い起こさせた。私が殺した、私を好いてくれる人。私が殺した、私を欲した人。私が殺した……
 刻み込むとは、この現象だったのだろう。

「名は、まだあるのか?」
 私は……私の名前はセキラ。今はこの通り、誰とも知らない幼子の体に入っている。私がどのような姿でも、声でも、温度でも、……私は……私だ。私は、私のままであり続けている……?

「相当、疲れているようじゃないか?少しくらいなら、飲み物もある。熱はわからないかもしれないが……こんな老人に付き合ってくれないか?」
 疲れてなどいない。確かに、シュルディンガの時から、今まで、休息は取っていなかった。けれど魂の熱があるから、私は……いや、そんな、疲労はない。こんなに痩せた体を動かすには造作もないからだ。私は疲れてなんかいない。
「短期間で乗り移り過ぎるとそうなるぞ。
性格の違う他人を演じて、今までとは違う環境に移る、どちらかだけでも相当な負担なのに、どちらも背負っては疲弊どころじゃないだろう? お主は休むべきだ、セキラ」
 私の名前を言い終わるのと同時に、この軽い体を持ち上げて、どこかへ運んでいった。新鮮な風。そして、セレラーシュを苦しめた兄への復讐の刃が、鈍りかけた。

 質素な、とても質素な家だった。服もあまりなく、食器や調理器具、家具の類もそこまでなく、まるで宿泊施設のような様相をしていた。いや、過去に、宿泊施設だった。
 老人は粉末状になったぺぺリーの袋を取り出して、先程から鍋で温めていた動物の乳に一振りいれて、渦巻きをかき混ぜて、私の前に置かれた。鈍く木材の音が鳴っていた。
 優しくふわふわとした匂いがする。確か、クレイフェンだった時、寝る前に良く飲んだ飲料だ。時間はそこまで経っていないだろう、けれど私には……長すぎた。
 舌の上に乳が乗っているのだが、やはり味がない。セレラーシュ……忘れようとしても、彼女の名前を思い出し続ける。乳は血から作られるという知識があったせいか。本来はとても美味で、誰でも飲めるような、暖かい味なのに、どうしても私には、過去を思い出させる音叉にしか思えなかった。

「落ち着いたか? その様子だと……」
 ああ、全く落ち着いていないらしい。本当は、全てに対して悪く思った方がいいんだ、ラヴァッセの業績も、エレイディナの経営方針も、シュルディンガの役割も。けれど、個人的な関わりがあったと言うだけで、セレラーシュの最期だけを気に病み続けるのは違う……と思っている、私がそこに座っていた。老人は軽く私の肩に触れ、温厚に、拍子よく私を慰めるように、手を動かしている。
 話そうか、でも怖いな、ああ、
 また「私を殺して」と言われるのなら、もう誰とも会いたくない、誰とも話したくない、誰も殺したくない。二度と離したくない。この手から、まだ血の匂いがしている。ずっとセレラーシュの、あの、血の、鉄らしくぬめりける鮮やかな匂いが、鮮烈な湯気が、頭から離れない……

「殺すも何も……もう死んでいるから、これ以上に死ぬわけがない。だから同族だと表現したんだ、セキラよ」
 つまり、私と同じように、別々の体を動かして、そうして生きてきた……先生。一体幾つの人間と出会っただろうか、一体幾つの人間と話しただろうか、けれどなぜ、同族はこの老人以外にいなかったのか!
 私は疑問を投げかけた。もう、これ以上抱え込むには限界だ。

「大体は、お主と同じ通り……ただ、この世捨て人の老人の身では、最早誰も気に留めまい。要約すれば、社会生活のために、隠し通しているだけだ」
 自分の正体を意気揚々と自信ありげに語る者は10割が詐欺師である。クレイフェンだったころに教わった言葉が頭をよぎって、そして帰った。
 ともかく。私は同族と出会えた奇跡に悶えるべきなのだ。そして、同族だからこそ話せる過去・経験を話すべきなのだ。例えば……そうだ。

「何でもいい。何も聞かなかったと、無駄にしておくから、何でも話していい」

 この刃が愛欲に鈍ってしまう前に、もう一度あの憎悪を呼び起こさなければならない。だから、遠い日の、近くにある私の根源を、話していった。




 私は、シュペルという最貧困の中の子供の空想だった。
 雨風凌ぐ家もなく、寒い時は寄り添って、暑い時は涼しさを求めて動いて、耳に聞こえるほどの血液もなかった。けれど、いつだって暖かかった。
 シュペルの父親が、たまにイテルフ札を見つけて、すぐさま拾ってから、市場に行って、たった一つばかりのフェウバをこさえては、ただシュペル一人に食べさせていた。最初はシュペルも、自分だけがと思って遠慮していた。けれど、あまりにも父親が、真剣そうな声で願うから、シュペルは罪悪感を抱きつつも、常に飢えている子供だから、一口で平らげてしまうのであった。
 この都市の中で、草や虫を探すにも一苦労な中で、家族は土くれですらご馳走として食べていた。最早、富裕層のような食事なんて、消化できなかった。この私でさえ、今までの人生の中で、クレイフェンの頃に食べたバイシューへや、キェーンの唐揚げや、フェウバの野菜盛りよりも、シュルディンガの奥さんの作る料理よりも、セレラーシュの菓子よりも、そして彼女の血液よりも……家族で探して食べた土くれが一番美味しかった。土だけが、私たちの味方だった。

 シュペルの父親が、柄の悪い大人共に蹴り殺された。シュペルを守ろうとして、細い足で立ち上がって、けれどすぐに崩れて、腹のあたりを蹴られ……腹も背中も変わりないような状況であったところを、肋骨を折られて、中にある、意味を成さない内臓どもが最期を奏でて、そして、消えていった。
 脆かった、あまりにも脆かった。それでもシュペルは逃げた。シュペルの母親と一緒に、まだ歩けるシュペルが、母親を抱えるように。

 シュペルの母親は、当たり前のように血の出ない股間と一緒に、いつもシュペルのために食事を探してくれていた。勿論、シュペルも精一杯になって探した。互いが手に入れた成果を味わった。時にどちらかが実らなかったら、どちらかが差し出す運命だった。けれど、シュペルが手に入れた食事を、母親は拒絶して、シュペルが食べた方がいいと、押し付けるのであった。もう、息も絶え絶えだった。
 そんなに遠くない。シュペルの母親が倒れた。もう起き上がらなかった。息もできなかった。ただ、道の中に、骨そのものがあった。内臓の熱もどこかへ過ぎ去っていった。虫の一匹も湧かないほどに、母は骨になっていた。

 あの時食べたフェウバが忘れられなくて、シュペルはついに禁忌を犯した。
「市場のフェウバを盗むこと」。
 これまでシュペルの家族が、意地でもやらなかった行為。
 死ぬ前に一回だけでも、あの果実が食べたかった。その思いが私にも伝わったから、あの時は何も咎めはしなかった。とうに限界なのを知っているから、最早意志通りに生きて、死ぬしかなかったからだ。
 何回かは成功して、シュペルは鮮烈な実を大事に大事に食べていた。私はそんなシュペルから、満足感や幸福感よりも、何よりも罪悪感があると、これが悪い行いだと気づいていた。
「できるなら、盗みなんてしたくない。もっといい行いでお金を手に入れて、そのお金でフェウバを食べたい」と。
 シュペルの儚い願いは、ついぞ叶わなかった。その結末を見えていて尚、私は応援していた。

 禁忌を犯して幾日かが経って、シュペルは刑罰を受けるようになった。最初の何回かは耐えれた。引き裂くような痛みも、私がいたからと、受け入れるように愛した。シュペルはもう、何かあるなら、それが人間という生命に不快でも構わない、とさえ思っていたかのようだった。
 私と笑いあっていれば、シュペルは何でもなかったように振る舞えた。

 それから解放されて、少しずつ、頭が回らなくなっているシュペルに、私は
「また盗みに行こう、今度は成功する」と呼びかけた。
 ここで呼びかけずとも、死ぬのはわかっていた。だから、最期くらい甘酸っぱい味をしっかり、味わっていて欲しかった。

 なのに、味わったのが苦しみの味だったなんて。誰よりも救われてほしい子供が、どうしてこんな仕打ちを受けなければならないのか。
 私はそれから、シュペルから分離してから。クレイフェンとして生きてから、アヤとして生きてから、シュルディンガとして生きてから、そしてここまで来ても尚、原理はやっと掴めたのに、理由だけはどうしても、知ることができなかった。
 どうしてシュペルが苦しまなければならなかったのか。貧困に、雨風に、暴力に、差別に、飢餓に、規則に、そして自分の罪悪感に。
 そのくせ当のお偉い様方は何に苦しむ感情もなく、何に喜ぶ感情もない。まるで、ありふれた喜びの中で、まるで、ありふれた苦しみを娯楽にするように。

 そして、一つ思い出す事実があった。
 別に、私は……今の富裕層を貧困に陥れて、シュペルの気持ちをわかってもらいたいわけじゃない。それでは結局私もシュペルも無駄死にだし、結局社会も流転するだけだから。
 私は……ただ、もう二度とシュペルの苦しみを生みたくない。シュペルのような、生まれたという、祝福でさえ呪うような子供をこの世から消し去りたい。折角生まれてきたのだから、自分の意志を実行して欲しい。

 富裕層への個人的な復讐ではいけないのだ、もっとこう、この社会構造を形成させた、人間の本能のような、脳神経に刃を向けるぐらいでないと、私の意志は実現できない。
 本当に、セレラーシュの言うように、彼女の兄を殺すだけでいいならば、あまりにも楽すぎる。あまりにもできた話すぎるのだ。だから、最終的には、人間全体に意識の改革を起こす必要があって……

 いや、そのために有用なのだ。
 ラヴァッセ、エレイディナ、シュルディンガ、そしてガレム。
 彼らに向けた刃は無駄になんかなるはずがない。だって、それを聞いて少しでも救われたような気持ちになる人がいたなら、私の存在意義が果たされるのだから。





 話している間、老人は質問もなく、ただ私の存在を受け入れるだけ受け入れて、何も言わなかった。セレラーシュは質問を私にする時もあったが、今は老人のようなやり方の方が気が楽だった。
 それもそのはずだ。


「ところで、セキラ」
 開かれないと思っていた、老人の口が開けられて、中から思いがけない言葉が飛び出した。


「お主は、知らないようだが……思想警察につけられているようだ」
 思想警察?
「社会の変革をもたらしてしまうような人間に対して、尋問のために駆り出される哀れな公務員どもだよ。……なに、世を捨てた老人が、お主を捕まえるはずがあるまい」

 恐ろしさよりも嬉しさが優った。
 だって、私の理想を思想であると証明したも同然だったから。その割に私の体は立ち竦んだままだ。嬉しいはずなのに、どうにも体が指令を聞かない。
 さらに老人はこう言うのだ。

「セキラや……しばらくここで暮らすが良い、お主のおかげで、これ以上罪を重ねずとも、社会は流転するはずだ……だから、もういいんだ、ゆっくり休んで……」
 それで、本当に、社会の変革は成り立つだろうか、もっと消さなければならない人間がいるのではないか。老人は私を気遣っているように思えるが、実際のところはどうなのだろうか。

 いいや、どうしても、どうしてもでもガレムは殺さなければならない。思い出した。
 彼の先祖が、シュペルの先祖たちを、今に陥れた過去を。清貧に暮らしてきた先祖が、なぜ、あのような仕打ちを、受けなければならなかったのか。証人はもう誰一人としてこの世にいない。
 はっきり言ってしまえば、私にとっては(もしくは、あちらにとっても)匂いも知らない人間だが、私がただ一人いて、その復讐を果たすだけ。
 セレラーシュの願いなんて今はもうどうでもよかった。私は私であるだけなんだ。
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