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第四章 第二節

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それは孤独に耐える肉

命の響きも惜しくなく

夢も現実の一部だから

土から離れることはできない

新しい神話を紡いでやる


 私はやっていない。私は完全に無実だ。

 そんな規模の畑は、全て燃やすのに3日かかるほどだ。この数字は人が多いほど縮まる、つまりこの嫌疑はおかしいと言えた。

 レテルシー第23区。そこには私の、あの生肉のような家族が住んでいる。私はあそこから離れて、25区まで来た。北上していくのだ。辿り着くために、生肉達には忌まわしい戸籍を消しておいてと頼んでおいた。成されていない……家族の名の下に、私を食い物にしていったのだ。



「カイケの民に邪な思想を吹き込んだ挙句、次は生きる行為すらさせないか!」
 私を批判する声たちが襲いかかる。私は……何もやっていない。それどころか、今にも死にそうなこの体で、どこに行こうと言うものか?神の声も無いままに、せめて伯母のように在れば良かったのに。
「私のアイニュールを返せ、この売女が!」
「この美しい私の顔に傷がついたらどうするつもりなの? 嫉妬してるの? 醜いエルミセナ!」
「お前は才能に嫉妬して、呪ったんだろ?顔だけでなく性根も腐っているんだな!」
「この獣は俺の左腕も取って行ったんだ、それで何をしたんだ!」
「ゆるさない、ころせ」
「全部お前のせいだって認めろよ! そしたら最も酷い刑罰で罰してやるよ!」
「そう! 全部お前のせい! 幸せを憎んで、肉を憎んで、どうして土に立っていられるの!? 消えろ! 底にも還るな!」



 私は……無関係だ。私は、本当に、何もやっていない。私は、これは、一人に負担を押し付けて、それで、自分の責任を放棄して、いる冤罪だと、わかっている、なのに、耳に聞こえる範囲だけで人を批判して、それでお前は土に立っている、それだけは許せなくて、手も足も出なくて、痛みと共に私は、私は……



 これまで私は、人の埋まった畑で育つ、ぺぺリーという穀物に対して警告し続けていた。ぺぺリー自体にはそこまで害はない、そして実りに罪はない。けれども、人が埋められる理由というのが、出典も無いままに広がる「人身御供」であった。確かに、ここカイケの天は安定して暖かく、ぺぺリーを育てるには最適だと思う。けれども、人間なんて埋めたら、後が怖いじゃないか。せめて埋めるにしても人糞で充分だろう、糞垂らしのための場所も必要なくなる。
 そして、出典すらない人身御供の話を、生殖のために信じ込んでいる彼ら民衆の頭を爆破したかった。勿論これは暗喩だ。出典がない、ただの出任せという根拠は、伯母の足が集めたカイケ群地の神話だ。ぺぺリーを食べる者、その中でも土に立って実りを食べる者の崇める神、スルムフェルに関する記述は、たった二章だけだったのだ!
 その二章のどちらにも、人身御供の記述はなかった。書かれているのはただ、土の発生と、波のことだけ。スルムフェルはその中に実り、狩猟、飢饉、幸運などの側面を持つ多重人格の神であるが、それらに対する供物と言うのも、ただ、人間が、土の上で生きていると言う結果、それだけで良かったのだ。
 あの日見た夢は、きっとスルムフェルだ。様子もきっと、今のように、食べたくもない死体を喉に通されて、吐こうにも吐けない、実りのために押さえつけられる、悲しい神様。
 それはおかしい現実だと、それを正したいと、思って私は家を出て、戸籍も消せと頼んだのに、あまり外に出ないからか、こんなところで、そして今死を迎え……



「刑罰はどうする? こっちには死体たちの肢体も残っているよ。聞いただけで死ぬような、正に呪いのような刑罰にしようか?」
「聞いただけで死ぬなら苦しまないだろ。これまで受けてきた仕打ちなら、死んでも苦しみ続けるぐらいじゃないとな」
「磔にでもして、聞きたくなくても聞けるようにしてやろうや。そうすればダウの地のお偉いさんは、俺らのこと褒めて遣わす。カイケ中を引きずり回して、それでも死なんかったら心臓にひびを入れよう」
「それじゃとどめだ、もっと酷く……例えば、一周したら体に一切り。二周したら……って具合にな」
「あいつどうせ未通だろ? あんな顔で男をたぶらかしてたら逆に怖いわ、そっちの方が余程刑罰だ」
「一番酷い刑罰考えたやつに食料おごるわ」



 どうして。私はそこまでされないと、底にすら行けないの? それはただの鬱憤晴らしにしかならないのに、だけれども、私が私で無くなるのが、この肉を離れる時なら、それでもいいかもしれないと一瞬、思った。
 磔にされ、手と足に釘を打たれて血が流れると、民衆は喜んだ。あんな悪魔にも血が流れるなら、殺せないはずがないと喜んでいた。そのまま私は、カイケの全てを巡りながら、磔のまま揺らされる痛みと仲良くなって、交わる時には冷たくなっていた。

 目を覚ますと、あれ……?



 どうして、生きている……?



 手も足も無事だ、辺りには何もなく、先程まで打たれていた磔の木すら無かった。花も美しく匂い、ここが話に言う、底なのだろうかと思った。遥か遠くで、川の流れる音。その向こうに私の生肉。もう帰れない。
 海も遠く、波の声すら聞こえない辺境で、土にだけ立っている。なるほど、これは不安だった。何かに縋りたくもなるような、暖かさと冷たさ。



「あなたも来たんだ」

 誰か女性の声。私に似た丸い輪郭。誰?と疑問を投げる。



「ラクシュト。ラクシュト=マギートレン=サティシュエ。ライエって呼んで」

 私が追いかけていた、信頼していたあの神話の正体。この人の子宮から生まれたかったと思わせるような人物。神話の編纂者……

 次に思った疑問を投げる。ここは何処?



「インケリアの喉元。スルムフェルの心臓に近いところ。今まで、私しかいなかった」



 ああ、インケリアという名前が出たならば、ここは底だ。底の中でもかなり上の所で、スルムフェルに最も近い場所。状況から察するに、私は死んだのか。それとも、死ぬ間際の、夢であるのか。どちらでもいい、だけれど、あんなところで死ぬなんて、もう少しまっとうなところで死にたかった。例えるならば、スルムフェルの祠だとか、テルサマギアの胸の中。きっと、この、鼻の前のライエ伯母も、同じように思っていたはずだ。けれども、彼女は現世に何かを残したのに、私は何もまだ残せていない。どうしてこんなところにいる? 私が堕ちるべきはインケリアの爪先だとかの低く低い場所であるべきではないか?

「エルミセナ。あなたは今から、ここで成すから」



 私は、ここにいて、いいのか?花を温めるものが、私たちにも伝わって、気を触れさせたか? 不自然なほどに自然は落ち着いて、私の背中をさすっている。いつの間にか私は泣き崩れて、柔らかな花の香りに甘えてしまっていた。

 伯母様の編纂した神話を広めようとして失敗した。なぜ広めようと思ったのかは、言ったら嘘になるかもしれないが、正しい神話の形であると、私の脊髄が告げたからであった。誰に言われるでもなかった。それだけは知っていた。父や母のような、後世に自分の愛したことを功績として書き綴りたがる化け物とは違う、子宮のような包み方で私を暖めてくれた。恩返しがしたかったけど、もし私が広めようとしたことが、「私である」という理由だけで否定されてしまうなら、それだけは許せなかった。許したくもなかった。
 ライエ伯母様に、家族のことを聞いた。口にするにも忌まわしいあの生肉のことを。



「功績になる、だとか、気にした日がないわけでもない。でも、功績だけを求めていたら、私は民衆と同じになってしまう。
ミエシーは……あなたのお父さんは、あなたが無事に育ってくれれば、充分だったと思うよ。お母さんのことは知らないけど、きっと同じ気持ちだよ」

 そう言って、ライエ伯母様は私のことを抱きしめた。いつだって家族の愛を否定してきたのに、どうしてもこの柔らかさは、否定できなかった。寧ろ、否定しようとすればするほど、暖かさは更に増して、抱きしめられているという現実を殊更に強調させた。ここは底なのに、どこか神の国のような、幸福を感じてしまった。怖かった、けれども否定なんてできなかった。やっと、家を見つけた。

「ところで、エルミセナ。あなたが成すべき行為っていうのはね、



スルムフェルの心臓を、動かしてほしいの」

 あなたは動かせないのか。

「ここに来て、まだ一度もカンプは動いてないでしょ。だから、エルミセナはまだ動かせるの」

 この底では、死んでから時間がたたないうちは自由だが、時間を重ねるうちに魂がその場に留まって、風景の一部にもなってしまうらしい。それからは、また地表に戻って、命として顕現する、というのは知っている。私が生まれたのはライエ伯母様が亡くなった時と同じで、それは丁度17年前だった。17年もすれば、骨もいつしか土地の一部になる頃合いだ。溶け込んでしまったら、あとは次の目覚めを待つだけ、と、今は読めない神話を思い出していた。実際に赴くと、やはり何かが違うのだ。
 今のうちに、と、ライエ伯母様は口笛を演奏した。音色を追えと言わんばかりに。確かに私は歩けた。今では心臓の音も拘束しないから、生きていた時よりも軽く動けた。音色に一直線に走ると、私もその一部になったようで楽しかった。楽しんでいる場合ではないが、感情は覆せなかった。
 心臓を動かす、それはどのようにすればいいかよくわからなかった。聞いておいた方が良かったかな、と一瞬思った。けれども、私は私のやれる範囲の行為をやるのみだ。

 私はスルムフェルの止まった心臓を抱きしめた。



───



「エルミー、どうして止められなかったかな」
「やっと実った一人娘だったのに……」
「スラー……僕たちは人間を育てちゃいけない人間なのかな」
「結局、名前も願掛けにならなかった」


 エルミセナが帰ってくると信じていた彼ら夫婦は、聞いた真実に対して深く詫びていた。戸籍を消せとまで言う、自分を死んだことにしろとまで言う愛娘のことは到底信じられなかったから、戸籍を消しにいくことはしなかった。それ以前に、引きこもりがちのエルミセナは、すぐにでも帰ってくるだろうと思っていたのに、死ぬまで帰ってこなかったとは。これで安心して暮らせると言う、エルミセナを殺した民衆たちが憎くて、故災者がここまで集まる現世に産み落とした日を後悔するまでに、深く詫びていた。

「『エルミセナ』は、スルムフェルの内包している、実りの神、春を描く神の名前。実りを殺すって、あいつら本当に何も響かなかったんだね」

 後悔は憤怒へと変わり、いつしか反乱へと変わろうとする。その時。
 外から、普段聞こえない音がした。



 雨だ。

 ただ単に雨というだけなら、彼ら夫婦も驚くようなことはなかっただろう。そして水不足というわけでもなかった。寧ろ川なら沢山ある。その中から水を引っ張って、畑のペペリーに与えていた。スライヴァがここに嫁いで、もとい、ミエシェスが生まれたころから、聞こえるほどの雨は降っていなかった。
 外に出ると、思ったよりも勢いの激しい雨だった。けれども、植物たちはなぜか喜んでいるように聞こえた。人間を埋めた土よりも、遥かに柔らかく笑っていた。
 その水の中には、きっとエルミセナの意志が入っているのだ。



それは土に還る魂

自身の名誉も惜しくなく

春の雨が命を生やす

土から離れることはできない

立場の屹立が終焉する
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