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第一章

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かつて繋いだ手も、今や土の下に眠っている
私は見送ることしかできない
底には見てはならない、封じられたものが埋まっている
底から離れることはできない
今日でさえ、血に生かされている


「あっちの方にフェウバが沢山生ってるから、今日は必要な分だけ貰いに行こう」

 若い女の芳香が走る、彼女の名はパームシャ。手にはしとどに鉄の液が満ちて、今さっき、死んだ動物を解体して、食料の作り置きをしていたところだ。作り置きとはいっても、背に背負った籠に入るように、大きさを調節して、アルの葉で匂いが漏れないように覆う程度で、血の匂いでおびき寄せられる者もいるからこそ、自身を守るために知識として伝授してきた。
 今日は統合されたキェーンの体とフェウバ。
 先程解体したキェーンの鳴き声のけたたましさと、響かなくなった命によって相対的に演出される何も無さに身を置いて、時々休みながらも、甘酸っぱい匂いを頼りにして、パームシャはフェウバの群生地に向かっていた。



 かつて繋いだ手たち、かつて声を交わした口たちは、もはや土の下に残るのみであった。

 誰もがその利益を犠牲と知らずに生きていた。パームシャは一度激怒した。しかし怒りはそのうち収まった。

 来年は、私かもしれない。

 その恐怖が、パームシャを抑えた、もしくは動けなくした。声は出なかった。

 孤独の上で、今残っているのは自分を除いて二人だけ。他の繋がった人々は、いつから伝わったかわからない風習によって、土に埋められてしまった。最初にその様子を聞いたのは、パームシャが今よりも幼く、親の手を必死に握っていた頃だった。

 若くていい匂いの女性であった。少し腹が膨らんでいたのかもしれない。埋められていく最中に、何も音はなかった。ただ、土の重なる音と、死の匂いがあった。



 フェウバの実だけは、そんな土に育っていなかった。パームシャは土で育った植物を食べられず、受け付けられるのがフェウバの実だけなのであった。

 可憐で、純粋で、甘酸っぱいその味だけが、血によって生かされていないのだ。

 大丈夫、私は同胞の血を吸ってなんかない、と、自身を落ち着かせるために。



「クイリット、そっちは狩りどうだった?」

「残念なことに、キェーンの味の良くないのしかいなかった」

「生きるためには仕方ないよねェー……新鮮なの捌いといたよ」

「フェッツ(ありがとう)、パームシャ」

 実のところを言うと、私たちがこうして出会って、ひとときを共に過ごすという日は滅多になくて、常に人の声と、生じるぬくもりに飢えていた。どれだけ腹が満たされても、だ。というのも、ひとかたまりでいると、獲物が去って行ってしまうからだ。だから私達カイケの民は分散して、ひとりでに過ごすようになったのだと、母親が語っていた。

 出会ったらすぐに仲良くなって、同じ心境だから。少しだけでも同じ時間を共有するが、うたかたの夢になってしまう、けれども、ただ一緒にいたい、と思わせる。

「パームシャ!」

 クイリットとは違う、柔らかな声の塊が走って来た。その名はメレディサ。もうすぐ母になるらしく、腹の中で蠢く音がしている。少しの吐き気を感じながらも、私は何事もないように振る舞った。最も、勘のいいメレディサには、気づかれるであろうが。

「そっちはどうだったの?」

「近いらしくて、体が動かない……」

「今度気晴らしにシューステイク(海沿いの崖)にでも行かない?」

「いいね、じゃあ次にカンプが葉を広げたらね」



 簡素な、簡素な約束だった。

 要は気分転換に友達と出かけに行くだけの、狩猟と採取生活に音を加えるだけの、本当は楽しい行為であって、そうでなければならなかったのだ。

 どこかで、どこか遠くの方で、土が掘り返される。土は小高い山となって、積りに積もった歴史ごと破壊されて行く。太鼓、太鼓、笛笛笛と、祝うか呪うか、それとも両方かの意味合いを持った音たちが交互に飛びかかってくる。山に、昔に死した親の匂いがした。鉄の匂いが、頭の中で溢れている。私は逃げるかのように、この祝呪の中から、別れの言葉を紡いで、場を後にした。



 冷えた中、洞穴。私はエウラの小さな実を歯ですり潰しながら食べた。甘い味、匂い。逃げようとした、頭の中で響き渡る笛と太鼓の音から。私はメレディサと違って勘が悪いから、当たらない、絶対に当たらないはずで、そして私自身も、それを望んでいた。口の中で弾ける甘みが、小気味よく弾ける食感が、私に忘却を与えてくれる結果を願った。



 音のない微睡みの中に、連なった高さのある道があった。そこを一直線に上がって行くと、海のさざ波を超えて、どこか別の、知らない場所に私はいた。音も、匂いも、私の預かり知らない場所であった。音のある微睡みへと移行した際に、広がる水の落ちる音が、私を元の冷たい洞穴に呼び戻した。



 カンプが葉を広げて、少ない明かりをできるだけ多く取り込もうとしている。葉が広がったのを私は目だけで確認し、時間が来たのだと、約束したあの場所へ向かう。



 昨日に感じたあの違和感は忘却に追いやられてはいなかった。確かに、なってしまっていたことを、理解してしまったのだ!

 約束した場所には、クイリットだけが来ていた。真面目なメレディサの人柄だから、集まるのに遅れるとは思えない。そして、集まるのに遅れるとしたら、単に寝すぎたのか、忘却をしたのか、あるいは……



 推測していてもらちがあかない。私たちは探さなければならないのだ。せっかく出会えた、二度とないただ一人の友人を! ただ、問題があるとすれば、クイリットも私も、彼女の定住地を知らないという無知さだ。

 普段誰と過ごしているのか。私たちの他に、別の誰かと過ごしているのだろうか?もしいるとしたら?

 クイリットは思いつくだけ、彼女の遺した言葉たちの中から耳に入れて来た。耳から口へと通るその声には、私が聞いた記憶もない、私が同伴しなかった時の、彼女の動きも入っていた。私もそのようにした。ふたりだけ、だけれども、互いが互いを知っているから、信用できた。信用するしかなかった。

 これまで、土に埋められたのは、いずれも若い女性であった。男性はそこから外れている。もしも、メレディサの他の女性の友人たちが、存命していないのであれば、もしも、彼女の腹に宿ったそれの父が、いたのならば……



 私は、彼女がよく話していた男を思い浮かべた。海沿いに住んでいて、いつも怪しげな行為をしているらしく、あたりにはカンプの一本も生えていない。しかも土地をよく知っていて、どの辺りにフェウバが群生していて、どの辺りのエウラが一番実をつけたのか、彼に聞けばなんでもわかる、と言っていた。

 何故、海沿いの彼と、陸のメレディサが出会えたのか、それはカイケの民自体が、惹かれあって、別れて行く生物だったのだから。

 クイリットは彼の存在を、そして彼の住んでいる場所を知らないと言う。

 だから私が案内するしかなかった。



 道中、妙に鉄の匂いのする土を知った。そこには一つだけ、何か木の板のようなものが立っていた。材質はアルの木で確定した。この丈夫さで、カイケには中々水が落ちてこないので、軟くなりやすい木材を使っても問題はないのだが、それでもこの丈夫な木を使っていた。何のために……?

 クイリットは更に、この木の板に何か木目とは違う模様が刻まれていると言った。私たちは、それが何だかわからなかった。



「スエッヘ、シュルストラヴィクンメレディッサ!スエッヘ!」

 ダウの民の言葉だ。私たちの存在を聞かれてしまったようだ!

 逃げようとした。言葉の意味はわからなかった。だが、私は勘付いてしまった。

 シュルストラヴィクとは、波の子を意味しており、そこから発展して土に埋められた人間のことも指している。勘が当たった。当たってしまった!

 メレディサは、子供を排することもできず、新しい命となるはずだったものを抱いたまま、埋められてしまったのだ!

 私は激怒した。しかしこの感情を発露する術は、戦う以外ないのだが、私には戦うことができなかった。そこにいるのは、土地の違うはあれども同じ同胞であったのだから。



 感情は奥底に眠り、私たちはメレディサの腹の子の親と思われる男性の居るであろう場所にいた。辺りには波が岩に当たる音が舞うのみで、キェーンのけたたましさも、昨日裂いた彼らの肉の暖かさも遠く恋しく思うほどに、何もなかった。

 しばらく待つ間、私は道で摘んだフェウバをクイリットと分け合った。その時だけは、今ここにいないメレディサを忘れる行為ができそうだった。だが忘れてはならないのだと、誰かが残さなければ、誰がその存在を残すのだと。結局、頭からは離れはしなかった。

 カンプの葉が最も広がる時間に、集めたフェウバも底を尽きた。私たちは口が寂しくなったので、クイリットと世間話でもと決め込もうとした。少しでも楽しくなろうと、この静寂を打ち払おうと、私たちは話すのだが、メレディサの声が聞こえない時間は一瞬たりともなかった。今はもういないのに、メレディサが側にいるのだと、いて欲しいと思ってしまう。口を閉ざしても、彼女の死は心に不協和音として響いていった。



 足音。誰かがやってくる。私とクイリットは身構えた。それは単独であった。ダウの民ではないようだ。私たちは安心したが、口を開くならば、何と答えようか二人で相談した。



「サスティート(こんにちは)、何を求めて来た?」



 これは男性だ。私は彼の名前を知っている。

 ティセルマ=マギートレン=セキュラ。海沿いに住む奇術師。海の生物を食べ、海によって生かされる、陸の住人。未知を既知にする者。彼の下には、何かを求めて訪れる者が少なくない。

 私たちが求めているのは、メレディサの安否、たったそれだけであった。

「サスティーラ、ティセルマ。私たちはあなたと関わりの深い女性の友人でした」



「メレディッサ=シュラーク=トレーケンなら、カンプの葉のように閉じた」



 閉じた。その言葉から推測するに、前にカンプの葉が閉じた時(カンプの葉は冷える時間になると自身の中の水が氷にならないようにと葉を閉ざす習性があり、原始レッテンスパイン人の文化において、カンプの葉は丁度昼と夜を告げる時計として存在していた)、同時にメレディサは土の中に埋められたようだ。丁度その時と言えば、邂逅の約束をして別れたときであった。私は悔いた。

 あの時別れていなかったならば、メレディサは埋められることはなかったはずだ。

 丁度、この男性も、同じことを考えていたらしく、私たちと話す時、エウラの枝で地面を叩いていた。



「どうして聞くのか。次はお前達の番になる」



 知っていることだった。そして、最も聞きたくない言葉だった。

 もしもメレディサと同じ場所に埋めてもらえるなら、私は進んで自分の身を大地に委ねるだろう。しかし、埋めるのは一つの場所に一人だけとあった。理由はわからない。

 クイリットと私は、どのようにこの呪縛から抜け出そうか考えていた。そして相談した。



「やっぱ脱走しかなくない?」

「でもダウの民に発覚されたら一族全員埋められるんでしょ、無理くない?」

「パームシャ、その指摘は私には毒」



 糸口を触れようにも、どこに糸があるのか、そしてもしあるとしたら、環状になって切れ目もわからない状態なので、何も計ることはできなかった。画も立たずに崩れ落ちた。

 ティセルマが口を開ける。私たちは途端に静かになってから、彼の言葉を待った。



「逃げるなら、誰にも証拠を残すな。自分の生きていた証さえ、彼らの前に差し出されてはならない」



 一回聞くに難解であった。クイリットは聞くに理解したらしく、私に対してこっそりと教えてくれた。曰く、骨の一つも、逃げようとした証拠も残してはならないのだと。逃げるのならば、存在しなかったようにならなければ、と。

 声に形はないのだし、あったとしても石のようにそのままあるという訳でもない。聞かれでもしなければ、もしくはこの男がダウの民に対して私たちを売らなければ、おそらくは無事だ。このままでいるのならば。

 しかし、聞き捨てならない言葉を、私たちは耳にしてしまった。暴虐な理論だった。



「できないのであれば、土になるのが癪であれば、いっそ自分で胎を裂いて横たわってしまえ」



 彼は、逃げられないのであれば自死を選んだほうがいいと言ったのだった。そこに比喩や暗喩の一欠片も無く、本当に暴言を吐いたのだ! 普段の彼はこんな言葉は吐かないが、そういうところはある。彼が口にするのは、表現で包まれているが、殆どが本心であるからだ。紛れもなくこれは、呪いと感じた。



 私たちはその場から逃げ出した。自分たちの罪から逃げ出した。逃げることから逃げようとしたが、この間聞いた、カイケの地ではない場所の海の音に囚われた。行かなければならない、そして生きなければならない。



 計画として、私たちは海に逃げる選択をした。そのためには、何らかの浮けるような機構で乗り越えなければならない。できるならばカイケの地ではない場所で一緒に死にたいし、もしできなくても一緒がいい。

 主観と客観の間で揺れていた。籠の夢を聞き、それを私たちは形成する行為に決めた。



 木がどれだけ必要なのか。二人で乗るならば、アルの木で換算して6本ほどで事足りる。しかしアルの木は同時に道を指す生活道具であって、気軽に採っていい代物ではない。もしも伐採するのであれば、それこそ許可がいる。その他、エウラを使う代案も耳に入れたが、あれは水に触れると私たちに害のある液体を形成し始めるので、鼻が拒絶した。



 結局それしかなかったのだ。



 聞くに、アルの木を切り出して野放しにしてある場所があると言う。向かってみても、やはり何もいない。まさに野放しというようで、気軽に採れない木材に、私たちが反応しないわけがなかった。多少の罪悪感は嗅がなかった、とした。そんな詳細よりも生き延びる未来を、この大地から逃げる未来を優先した。

 アルの木は長く太いので、私たちが二人掛かりでようやく1本を運ぶことができた。隠すために自分の洞穴の中に入れるのだが、運び出すためにはカンプの葉が開閉するのを1回と、とても時間がかかる。さらに、私たちだって無限に動ける訳ではない。キェーンを狩って食べられるようにしたり、フェウバ集めに奔走したりしていて、思ったよりも長くかかった。繰り返す、合計12回の開閉。私たちは遂に外行きの籠を手に入れた。



 海へ漕ぎ出す前に、私たちはありったけの食材を集める行為をした。貯蓄の効くフェウバを中心に集めていた。

 最近、やけにうるさい。ダウの民が地を練り歩いている音が聞こえる。頻繁に聞こえてくる。何が起こるのか気が気でない。

 しかし、この地を離れてしまえば後はどうでもいい。生きる現実を優先して、何もなかったかのように振る舞った。



 旅立つ時、クイリットがあまりにも不安がっていた。



「本当に大丈夫なの、パームシャ? もし私たち、嗅がれていたら、ただじゃ済まないかも」

「匂いは後には残らないから心配しなくても」



 大丈夫だよ、早く行こう、と言いかけたその時であった。

 ダウの民に包囲されたようだった。世界が狭くなったように思った。彼らが何を言っているのかわからなかった。その中で、一人の女性が私たちに近づいて、彼らの言葉ではない、私たちにもわかるように答えた。



「カイケの群北部、セラストリア第62区貯蔵場の材木を盗んだ件で、連行する。異議は認めない」



 冷酷だった。そして反論も許されなかった。私たちをどうして特定できたのか、私たちの行動を誰が予測できたのか、情報を提供したのは誰か、乱れた音のままだった。全てが錯綜し、交差して、混乱していた。ティセルマは私たちを売ったのか? あの頑固な野郎が何で動くのか? 金か? メレディサの埋められた畑か?

 教えられはしなかったから、どんどんと悪い方向へ、他人を疑う方向へ進んでしまった。



 盗んだのは事実だったから、それに対して私たちは否定できなかった。全ての容疑を認めて、私たちは土の上に立っている。



 片方の、視界が遮られて、更に片方の足は、走るために必要な筋肉を削ぎ落とされ、ただの錘と化していた。私、パームシャは意識が自身の体から遠くなっていって、どこか別の場所にいて、本当はそこにいるのだと思う。聞くところに、私も生贄となって、土になって、誰かに食べられる定めになるようだ。

 そうだ、クイリットはどこだ。もしいるのなら、少し自由の効く足で合図をしてほしい、と念じるが、自分の片足からする音だけで、他には何も聞こえなかった。

 私は折り重なっていく。その中に亡き母もいたのかもしれない、たくさんの骨の音があって、土の匂いに見せかけた血。私は忘却に追いやられるのだろうか、そして、誰か、私を覚えていてくれるかな、クイリットも、どこか別の所でこうなっているのかな。



 息ができない。重くて、潰されそうになる。このまま死を待つだけになった。最早体は体の機能を成していない。

 ああ、いずれこうなる運命だったのか。全てを受け入れて、私は私を閉ざした。遅れて、呼吸、体から発せられる響きが失われていく。



かつて繋いだ手も、今や土の下に眠っている

私は土の下で夢を見ていた

今まで積もった歴史でさえ、封じられている

底から離れることはできない

人は皆、誰かの血で生きている
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